名もなき朝の唄〈湖畔のフレンチレストランで〉

市來茉莉(茉莉恵)

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【後日談2】トロワ・メートル

32.全部、あげる

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 自宅に帰ってから、自分が確認できなかった動画のコメントを閲覧してみた。
 ダイニングにパソコンを置いて、いつものテーブルで確認。蒼はキッチンでいそいそとなにかを準備している。いつもの夜だった。

 ああ、やっぱりと葉子は苦笑いをこぼす。

*ダラシーノ、喜びすぎ!! 画面揺れてる! 目がおかしくなるだろ。おちつけ!!
*ちょっと、嬉しいのわかるけれど。こっちが酔うから、もう飛ぶのやめて
*しかも、うるせえ……。ハコちゃん大好きなのわかるけど、はしゃぎすぎ……
*こんなにハコちゃん大好きだったんだな、コイツ

 なんてコメントが集中していて、葉子はやっぱり笑っていた。

*ハコちゃんさ、シェフの娘じゃん。味覚が鋭いのかも。いや考えすぎか。フレンチレストランで働いていたら、いろいろ舌が覚えていくだけかもしれんけど
*唄も上手くなったけど、もしや、こっちの才能が?
*北星さんがさ、大好きなものを手放さないで、でも仕事で生きていけるような生き方をハコちゃんに遺したわけでしょ。こういうこと見抜いていたんじゃないのかな……。なんか、ハコちゃんのテイスティングを見て、北星さんの気持ちが妙に重なっちゃって、今夜はちょっとしんみり

 そんなコメントや会話も目についた。

「あー、俺がカメラを持って飛びまくっていたところのコメントを見て、笑ってるだろ」

 今日も帰宅をして、ダイニングで『ドリンクタイム』。
 今夜は、きちんとしたワイングラスに赤ワインがシンプルに入れられていた。
 蒼が出してきた白いお皿には、クラッカーにクリームチーズとプラムがのせてある『おつまみ』。ほんとうに、こういうものをパパッと作ることに手慣れている。

 パソコンを見ていた葉子も、一度離れて、パソコンがない席へと移る。

「テイスティングしたのに、おうちでもワイン?」
「感覚が残っているうちに覚えておこうね。これはチリのワイン」
「南米の、チリだね。うちのレストランでもいくつか仕入れているよね。味はしっかりしているっていう感想」
「いま日本では人気なんだよ。安価でうまいものが増えている」
「関税がないんだよね」

「そう、EPA(経済連携協定)で、日本とチリの間で輸出入するものの税金をなくす協定だね。それで、ヨーロッパのワインに比べて安価になっている。人件費がかかっていないという理由もあるね。さらに、チリは葡萄を栽培するのに適した土地柄だったことで天候に左右されにくい、害虫がいない、などなど。ワインにとってよい条件がそろっていることで、毎年安定した品質で生産ができる。そして、数種のブレンドではなく、一種類のみの葡萄で醸造されるので、味がわかりやすいというのもある」

 そんな特長を持つチリワインは、80年代から日本に輸入はされていたが、ここ近年でかなりの知名度を得ているらしい。コストパフォーマンスの面でも注目され、日本ではいま輸入いちばんのワイン国になっているという。

 蒼も、コストパフォーマンス最高ということで、いろいろ飲み比べをしてきたということだった。

「そんなことを思いながら、味わってみよう」
「うん」

 一口味わって、葉子は。

「もしかして、メルロー?」
「正解。甲斐さんのテストでは、ブレンドがされているワインが多いから、どちらの味が強く出ているかわからなかっただろう」

 葉子がどうして間違ったのか。それを教えたくて、1種類の葡萄だけをつかっているのが特長であるチリワインを出してきてくれたということらしい。

 自宅でもお勉強、仕事の話で疲れないかと思われるかもしれない。
 でも葉子には、蒼のさりげない応援だと思えて嬉しかった。

 そんな蒼も、かっこよくグラスを揺らして、香りの確認をしている。

「甲斐さんも言っていただろう。ロマネコンティとかドン・ペリニヨンにモエ・エ・シャンドンなどよく耳にする銘柄、シャトー・ムートン、シャトー・マルゴーやシャトー・ディケムといった有名シャトーなど。ついでに、日本で何故か飲まれるワインの新酒、ボージョレヌーボーも入れておくか。世界でも、日本で有名だから。それだけで評価はせず、すべてのワインを平等に見て、味を覚えるんだ。それがソムリエだ」

 そんなプロの横顔を見せている時の蒼は、とてつもなく色気を醸し出す。葉子は密かに、そんな彼をうっとり見つめていた。

「コメント欄も盛り上がっていたな。ハコちゃん、頑張れって。正解したら一緒に喜んで、不正解になったらがっかりしてね。そんな連帯感があるから、俺もちょーっと、はしゃいじゃったわけ。あ、いつもどおりの騒々しさだったか、てへへっ」

 あーあ、かっこよかったのに。ダラシーノになっちゃったと、葉子は小さなため息をつく。
 それでも、かっこいい蒼が、だらっとしちゃうからダラシーノなのかなあと。彼がそんな肩の力が抜けちゃうハンドルネームをつけた気持ちも、最近はわかるような気にもなっていた。

 蒼と一緒にクラッカーをかじりながら目線が合う。
 蒼からにっこり笑ってくれるので、葉子も思わず微笑み返していた。

「やっぱりふたりで飲むのはいいね。俺もさ、好きでこの世界に入って、この業界で勉強してきたことは、みーんな面白くて、楽しくて、大好きなことばかりだった。自宅でちょっとしたつまみを研究するのも、こうしてアルコールを勉強でコレクションしていくのも楽しかったよ」
「そうでなければ、メートル・ドテルにはなかなかなれなかったんでしょう。私は、蒼君の探求心とか勉強熱心なところ、うんと尊敬しているよ。この家に一緒に住むようになって、ほんとうに仕事一筋だったんだなって思ったもん」
「その一筋で終わると思っていたよ。実は、葉子に出会うちょっと前まで、もう一生独身でいいやと思っていたからさ」

 そんな彼の今までの心根を初めて聞いたので、葉子は味わっていたワイングラスをテーブルに置いてしまう。

「どうして……、こんな手間のかかる未熟な私と……? ほんとうはもっと素敵な女性とつきあっていたんでしょう」
「んー、過去の話は奥さんにはしたくないけれど。彼女たちのことは悪くは言いたくない。この前も伝えたけれど、結婚を望む女性には応えられない時期だったんだよ。見たらわかるだろ。ポルシェに、それなりのマンションに、仕事のために投資する時間と金。自分のこだわりに使う金。政則パパのいうとおりだよ。かっこつけてたんだよ。かっこつけたかったんだ」

 また。急に四十男の影を醸し出したので、葉子はドキリとする。

 いつも明るい彼が寂しそうな遠い目をした。在りし日に別れた女性に申し訳なく思っているのだろうか。だからとて、葉子は嫌な思いはない。そこは蒼だけの大事な思い出で日々だったのだから。彼女たちも素敵な人であれば、蒼だっていい男だったということなのだから。
 まあ、その時。自分はまだ未成年で中学生だの高校生だっただろうから、ほんとうに首などつっこめやしない彼の過去だ。


「でも、それでいまの蒼君があるわけじゃない。なんか、蒼君がその気になっているタイミングに出会えて良かったなとか思っちゃったりしてる」
「それもこの前、言ったよな。葉子とは、結婚のタイミングでもあって……。秀星さんの死もあってショックを受けた後に人生観が変わったというか。そこに、葉子がすんなり入ってきたんだ」

 そう聞くと、どうあっても秀星の死があって蒼と出会えたような気がして、ちょっと心が苦しくなる。秀星が生きていても出会っていたと思いたいし、出会ってなければ秀星と家族のように……。いや、もうやめよう。葉子も赤ワインのグラスを呷った。

「でなければ、ポルシェも売っていないし、トカイ・エッセンツィアも探さない。家にあるコレクションの酒を、こうして、奥さんと一緒に楽しもうとか思わず、たった一人で飲んで終わっていただろうしね。そんな意味でも、いま、俺はしあわせなわけ。頑張る奥さんも、唄が素敵な奥さんも、好きな仕事で夫妻で一緒に邁進しているのも、俺の生き甲斐」

 そこまで言ってくれるなんてと、葉子は頬に一気に熱を感じた。ワインのせいではない熱だと自分でもわかる。

「このまえ、唄っている時に誓っていたよ。秀星さんがつれてきてくれた人だから、私、全力で蒼君を愛する、大事にするって。シュガーベイビーラブで、秀星さんが言っているように聞こえる歌詞があるの。誰かを愛したら、よそ見をせずに愛するんだよって、聞こえた」

 今度は、蒼が目を見開いた状態で硬直していた。彼もそっとテーブルにワイングラスを置いた。

「あの唄、声量がいるよな。すごくパワフルに唄っていた。コメント欄みた? ハコちゃん最近、唄もギターも上手くなっていてもったいないって」
「そりゃあ、いちおう専門学校だけど音楽学校卒だし、三年間唄ってきたし、ギターだってもう二年は弾いてきたんだよ。慣れだよ」
「あれ、俺を想ってくれていたんだ」
「うん……。秀星さんとの会話だけど……」

 そこはちょっと申し訳なく思うが、嘘は言えなかった。東屋で唄っていたら秀星なしだったなんて嘘は、蒼には見抜かれる。

「いや、その先輩に、俺を全力で愛すると言ってくれたんだ」
「うん、そう……だ、よ」

 そうだよ――と微笑みを見せようとしたら。
 すぐ隣にいる蒼が、また四十男の枯れた表情で、葉子を見つめていた。
 葉子もドキリとする。こんな時の蒼は、本当に渋い大人の男になるのだ。でも憂いある大人の男。

「葉子、俺も。一生、葉子だけだ。俺が持っているもの、全部あげるよ。俺がいままで集めてきたものも、なにもかも全部だ」

 隣の椅子に座っている蒼が、葉子の口元まで身をかがめて、くちびるを近づけてきた。
 葉子もそっと微笑みを見せて、キスをされる前に伝える。

「私も、あなたを全力で愛すよ――」
「最近、猛烈に。子供、ほしいんだ」

 え? そう思った瞬間にはもう……くちびるを塞がれていた。

 でも。まだまだ。余裕ないね。深いキスからやっと開放された時に、蒼がふとそう呟いて、おどけた笑みを見せていた。
 北国で暮らすためにポルシェを手放したり。コレクションのワインを開けてくれたり。結婚記念日のために希少なワインを探してくれたり。葉子のためになる時間もやさしく取り込んでくれたり。そんな蒼が願うなら、葉子だって……。でも、いまは、まだ……。

 やっぱり赤ワインのキスは、ちょっと渋めと感じてしまった。
 
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