僕の主治医さん

鏡野ゆう

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僕の主治医さん 第一部

第五話 置き土産と人質

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 今日で長かった入院生活も終わりだ。

 当初はどうなることかと思っていた、南米某国の政府開発援助の件も、予算面でつめなければならない細々としたことは残っているものの、なんとかやり遂げることができた。これも、病院に毎日通ってくれた同僚と上司、そして便宜をはかってくれた病院の理事長のお陰だ。そのことに関しては、毎日自分達を叱り飛ばしていた担当医の北川きたがわ先生としては、大いに異論ありなんだろうが。

 入院している間に増えた私物をカバンに押し込みながら、なんとなく名残惜しい気分になる。重病でなかったせいか、事務方仕事をやり終えてしまった後は少しばかり退屈で、早く退院して仕事に戻りたいとは思っていたが、いざ退院当日になると、顔見知りになった先生や看護師さん、それから患者さん達と別れるのはやはり寂しい。

「そういえば臼井うすいさん。うちの下田しもだがデートの約束を取りつけたとか言ってましたけど、本当ですか?」

 四日前から入院している、中村なかむらさんの点滴のチェックを終えた看護師さんに声をかける。これも北川先生から注意されたことだ。話しかけるのはかまわないが、患者さんのお薬や点滴のチェックをしている時は、ミスがあっては一大事だから遠慮してくださいと。臼井さんは、チェック表を元の場所に置いてからこちらを向いた。

「そうなんですよ、根負けしちゃって。あれからも毎日ここに来てたんですよ、下田さん。南山みなみさんのお見舞いはどうしたんですかって聞いたら、あいつより自分のことの方が大事だからって」

 薄情なお友達ですねと笑っている。

「人生の春なんですかねえ」
「そういう南山さんはどうなんですか? 春、来ないんですか?」
「え?」

 臼井さんとベッドに寝ている中村さんが、顔を見合わせて「ねえ」と言いながらニヤニヤしてこちらを見た。

「なんですか、そんな顔して」
「あれえ……私、南山さんは、北川先生に好意を持っているんだとばかり。ねえ、そうですよね、中村さん」
「僕もそう思いましたよ。だって先生が来た時の南山さんは、とても楽しそうだったし」
「いや、それは、南米での医療関係の援助に役立つ話をしてもらっていたからで……」

 こちらからの要望に、外務省の人が来なくなったと思ったら今度は私にですか?と呆れ果て、そういうのは厚労省の管轄ではないのかと言いながらも、北川先生は色々と話を聞いてくれていた。たまにベテランの東出ひがしで先生や西入にしいり先生もまじえての話は、畑違いの自分にとって、なかなか興味深いものだった。きっと、これからの活動に役立つのではないかと思っている。

「またまたー、そんなこと言っちゃって。南山さんがなにかアクションを起こすと思っていたから、先生をこの週末の合コンに誘うの遠慮していたのに。なーんだ、だったら今からでも誘おうかしら」
「ご、合コン?!」
「白衣萌えなお兄さんって、けっこういるんですよね~。それに北川先生、可愛いでしょ?」

 言うこと聞かない患者さんにはちょっぴり怖いですけどねと、臼井さんは付け足す。いやいや、ちょっとどころかかなり怖い。うちの連中に反論の余地を与えないお説教ぶりは、なかなかだった。こちらも負けじと、ピヨピヨさんなんて不思議なあだ名をつけて懐柔作戦を決行した成果か、さすがの北川先生も、途中から毒気を抜かれてしまっていたが。

「そう言えば今日は、北川先生の姿、見てませんね。南山さんが退院する日だと言うのに、来ないんでしょうか」

 中村さんが、不思議そうな顔をしながら、廊下の方に視線を向けた。

「北川先生は、朝から西入先生に呼ばれて手術室です。もうそろそろ終わる頃だと思うんですけど、長引いてるみたいですね」

 それを聞いてガッカリしている自分がいた。北川先生は研修医ということで、様々な手術や研修に行かなければならない。いくら初めて担当した患者が退院するからと言って、それを放り出してくるわけにはいかないのだ。そうわかっていても、やはり落胆してしまう。

「最後にきちんと挨拶をしておきたかったですが、手術室ならしかたないですよ。先生には、お世話になりましたと伝えておいてください」
「わかりました。必ず伝えますね。南山さんも仕事はほどほどにですよ? 今回みたいなことが二度とないようにしないと」
「もう盲腸にはなりませんよね」

 瓶づめにされた、自分の切除された患部のことを思い出す。あれはきちんと破棄されたのだろうか?

「仕事しすぎの過労で、運び込まれる可能性はあるんじゃないですか? 最近は、働き盛りのお父さんが、心筋梗塞で運び込まれることも多くなってますからね。だから定期健診はちゃんと受けてくださいね? 公務員さんだから、そういう点はきちんとしているでしょうけど」
「わかりました。短い間でしたけど、お世話になりました。中村さんもお大事に」

 そう言って病室を出ると、エレベーターに乗って一階におりた。

 外来の待合スペースのの長椅子には、たくさんの患者さんや付き添いの人が座っている。ここは大学附属病院で、ほとんどの患者さんは、他の病院から紹介状を書いてもらってやってくる人達だ。自分のように、紹介状がない状態で入院している人は珍しいんだとか。

 会計をすませ、思っていたよりも高かったことにショックを受けながら、玄関口へと歩いていく。出ようとしたところで、後ろから声をかけられた。振り返ると、青い術衣の上に白衣をはおった北川先生が、こちらに向かって走ってきた。

「間に合った~!」
「先生、今朝は手術室にいるって聞いてましたけど」
「西入先生のオペの見学だったんですよ。それが終わったので病室に行ったら、南山さんはもう一階におりたって聞いたので」
「良かったんですか?」
「はい。ちゃんと退院するのを見送らないと。南山さんは、私が初めて担当した患者さんですし」

 そう言ってニッコリと笑った北川先生は、臼井さんが言っていた通り、たしかに可愛かった。合コンなんかに行ったら、さぞかしもてるだろうな……。

「あの、南山さん?」
「はい?」
「いえ、急に顔をしかめたものだから。もしかして、傷口が痛むんですか?」
「傷口は大丈夫ですよ。まだ突っ張った感じはしますけど、そんなに痛くはありません」
「ベルトを絞めるのは、もう少し我慢してくださいね。えっと、今はサスペンダーでしたっけ?」

 縫合された傷口がズボンのベルトの位置にあたるので、しばらくは使うのを我慢してくれと言われていた。そしてそれを見舞いに来てくれた爺さんに話したら、サスペンダーをしろと言い出したのだ。ズボンにサスペンダーとか幼稚園児かよと嫌がったのだが、なにを言うのか昔は大人でもしておったわ!と、セピア色の写真を押しつけられて説教までされてしまった。余談ではあるが、北川先生いわく、爺さんと自分はよく似ているらしい。

「祖父が、イギリスに行っていた頃のワシを参考にしろと、うるさく言うものですから」
「南山さんのお爺様って、雰囲気が英国紳士みたいで素敵な方ですもんね。お爺様に似ている南山さんなら似合いますよ、きっと」
「あの、北川先生?」
「なんでしょう」

 ベッドで寝ていた頃は見上げることが多かったせいか、北川先生は背が高いに違いないと思っていた、だが実際にこうやって立って話をすると、自分より頭一つ分ぐらい低いことに気がついた。

「あの、なにか?」
「えっとですね、これで僕は退院するわけで、北川先生との患者と担当医という関係は切れてしまうんですが、もし先生さえ良ければ、もっと色々とお知り合いになりたいなあって思ってるんですよ」

 気がついたら、口からそんな言葉が飛び出していた。

「えっと、もっと生の医療現場の話を聞きたいってことですか?」
「それもありますけど、そうじゃなくて、男性と女性としてお付き合いできたらなあって」

 後にこの時のことを、青い術衣と白衣に惑わされたんだよと笑って彼女に話すことになるのだが、それはまだ先の話だ。


+++++


「男性と女性としてお付き合いでできたらなあって」

 いきなりの言葉にどう返事をしようかと迷っていると、南山さんの上着のポケットで、携帯電話にメールが着信したことを知らせる音が鳴った。退院と同時にメールが入ってくるなんて、人のことは言えないけど、役所というところはおちおち休んでもいられないところなのかと、あきれてしまった。

「もう仕事に戻るんですか?」
「さすがに今日は、このまま自宅に戻るつもりですけどね」

 メールをチェックした南山さんは、来週からの会議の予定のお知らせメールでしたと言って、上着のポケットに携帯電話を戻す。つまり今週いっぱいはゆっくりできるらしい。
 
「本当に忙しいんですね、南山さんの仕事って」
「それは北川先生だって同じじゃないですか。あ、そうだ。これ、僕の名刺です。ちょっと待ってくださいね、プライベートの携帯電話の番号を書いておきます」

 そう言いがら、財布から出した名刺の裏にボールペンで番号を書いている。

「北川先生の、携帯電話の番号を教えてもらえたら嬉しいんですけど、駄目ですか?」
「私のですか? 普段はほとんどロッカーの中にあるから、中々とることもできないんですけど……」
「それは僕も同じです。アドレスも書いておきましたから」

 名刺を渡される。裏には南山さんらしい几帳面きちょうめんな文字で、電話番号とメールアドレスが書かれていた。

「ちょっと待ってくださいね、なにか書くものがあれば良いんだけど……」

 メモ帳か付箋紙の持ち合わせがあれば良いのだけれど、白衣のポケットを探って出てきたのは、院内コンビニで夜食のクリームパンを買った時のレシートぐらいだった。これはちょっと悲しいかもしれない。

「こんなのしかないんですけど、良いですか?」
「読めれば良いですよ」
「だったら……」

 胸ポケットに差していつも持ち歩いているボールペンを出して、レシートの裏に電話番号とメールアドレスを書く。南山さんは、そのボールペンのお尻についているアヒルを興味深そうに見つめていた。

「可愛いですね、そのボールペン」
「え? ああ、そうでしょ、大学の時から使っている私のお気に入りです」

 レシートを差し出すと、南山さんはそれと一緒に、ボールペンまで取り上げてしまう。

「え、ちょっと」
「これ、次に会う時までお預かりしておきます。保険というか人質として」
「人質って……」
「お気に入りで大事にしているものなんだから、頑張って取り戻しにきてください。ああ、ボールペンが無いと困りますよね。じゃあ、僕のを代わりに渡しておきます。ではお世話になりました」

 南山さんは、自分が持っていたボールペンを、私の白衣のポケットに差し込んでからニッコリ笑って頭を下げ、こちらの返事を待たずにタクシーに乗り込んでいってしまった。

 そしてこの時には気がつかなかったんだけど、彼が私に手渡したボールペンは馬鹿馬鹿しいぐらいに高価なもので、しばらくの間は、失くしたり落としたりしたら大変だと、落ち着かない日々をすごすことになったのは言うまでもない。
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