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番外小話 2
信吾さん焦る
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「よっこらせっと」
洗濯物を干し終えて一休みすべくリビングのソファに座った。これ、寝心地も座り心地も良いんだけど、今の私では立つのがちょっと一大事になりそうな感じなんだよね。
座って一息入れてからお腹に手を当てる。大きくなってきたなあ……。お母さん方の実家に双子が多いって話を信吾さんにした時、まさか本当に自分の中に二人いるとは思ってなくて、病院でそれが分かった時はちょっとしたパニックになっちゃって思わず信吾さんの携帯に電話しちゃったんだ。
+
「奈緒か、どうした?」
「しししし信吾さんっ、どうしよう!」
電話の向こうで物凄い音がして急に静かになった。もしもしーって呼んでも全く応答がない。どうしたのかなって心配になってきた頃になって電話から安住さんの声が聞こえてきた。
「もしもし?」
「あ、安住さん? なんか話の途中で物凄い音がしたんですけど、信吾さんは?」
「三佐なら飛び出していきましたよ?」
「え?」
「てっきり奈緒さんに何かあったとばかり……御無事ですか? 今何処に?」
「え、あ、はい、今のところ。今は自宅にいます」
飛び出した?
「えっと……何処に行ったとか分かります?」
「多分そこで待っていたら良いと思います。携帯は俺が預かっておくと伝えておいて下さい。では」
+
こんなことがあったので、最近では電話する時はかけるまえにちゃんと話したいことをまとめてからすることにしている。だって下手に慌てた口調になったらまた信吾さんが飛び出してきちゃうものね。
普段はチェーン掛け忘れるとすぐに怒られちゃうんだけど、あの時はそんなことまったく気が回ってなかったみたいで、血相変えて飛び込んできた時はさすがの私もちょっと後ずさっちゃうぐらいの慌てぶりだった。もちろん、謝ったよ? 双子だって分かってちょっと動揺しちゃったのって。
「さて、と……」
時計を見てそろそろ出かける準備をしないとって立ち上がった。おちびちゃん達、育ってくれているのは嬉しいけどそろそろママは立つのが大変になってきてるんだぞ?とちょっと愚痴ってみたり。今日は信吾さんは本省で会議の日。たまには驚かせちゃおうと思って本省の前で待ち伏せをするのだ。一応、同行する予定の安住さんには連絡してあるから入れ違いになる事はない筈。
今日は久し振りに気合を入れてお洒落をする。だって本省の前で誰に会うか分からないし、森永の嫁って綺麗だなって言われれば信吾さんだって鼻が高いはずでしょ? この前、矢野さんの奥さんと一緒に買い物に言った時に買った服を着てみる。ふふーん、私だってこうやって見ればなかなかいけてるじゃん?
なんで急にそんなことをって? 妊娠五ヶ月でやっと安定期に入ったんで今のうちに信吾さんとデートしたいなって思ったってわけなのね。これからは子育てもあるし、なかなかそんな時間は持てなくなるだろうから。そんな訳でちょっと浮かれ気分でお出かけ。はいはい、分かってます。くれぐれも足元に注意、だよね。
でも、防衛省の周囲ってなーんにもなくて時間を潰すカフェとかもないんだよね。だから安住さんに会議が終わった時間に連絡して欲しいってお願いしてあったんだけど、まだ無いんだよなあ……。そろそろだと思ってフライングしたのまずかったかなあ。あ、ここのコンビニ、カフェが併設されてるのか、だったらここで待ってようっと。
通りに向かって座るカウンター席で抹茶ラテを飲んでいると、向かい側を歩いている制服の男女。あれ? なんとなく男の人の方が信吾さんに似てる。安住さん連絡まだー? そんなことを思いつつ、なんとなく気になったので信吾さんの携帯に電話してみる。出られない時は留守電に切り替わるから大丈夫だよね?
私の携帯が信吾さんを呼び出すと同時に、通りの向かい側を歩く男の人が立ち止りポケットに手をのばした。そして取り出した携帯を耳に当てる。
「はい」
あ、やっぱり信吾さんだったんだ。
「安住さんと一緒だと思ってたのになー」
「どうした、何かあったか?」
「ううん。たまにはさ、お仕事終わった後に外でご飯でも食べてデートしませんかー?って、お誘いしようと思ってたんだけど、なんだか忙しそうだからまた今度にする。あ、信吾さん、今日は晩御飯どうする? 食べてくる?」
道路の向こうでキョロキョロしているのが可笑しくてつい笑ってしまった。
「奈緒、いま何処にいる?」
「ねえ信吾さん落ち着いて。別に怒ってるわけじゃないんだからさ。んで、晩御飯はうちで食べる? それとも何処かで食べてくる?」
「いや、それは……」
「分かった、食べてくるってことだね。じゃあ気を付けて帰ってきてね。私もこのまま帰るから」
私が電話を切ったと同時に安住さんから電話がかかってきた。
「もしもーし」
「すみません、遅くなって。トイレに行ったら三佐が先に行ってしまって」
「いま連絡取りました。なんだか忙しそうなので今日のデートはキャンセルになっちゃいました。連絡してくれたのに御免なさい」
「え? いや、そんな筈はないと思うんだけどな……」
椅子からよっこらせと立ち上がると隣の椅子においていた鞄を肩にかける。
「デートはキャンセルで残念だけど防衛省の近所なんて初めて来たから来るまでの電車とか新鮮で楽しかったですよ。いい体験になりました」
実は来る時、行き先が逆方向のに乗っちゃってちょっと焦ったのは内緒。
「えっと、奈緒さん今どこに? 家まで送っていくよ? お腹大きいのにこんな所まで一人で来たんだからさ、帰りぐらい誰かと一緒でないと」
「大丈夫ですよ、もう安定期に入ってるし。途中でタクシー拾っても良いし」
「でも……あ、三佐から電話かかってきた。奈緒さん、できたら今の場所から動かないでくれるかな」
「えー……でも早く帰らないと。今日、近所のスーパーでお肉の特売なんで。せっかくだし買って帰るつもりだから……」
「ちょっと、お肉より俺の命の方が大事でしょ?」
ん? 何でお肉と安住さんの命が一緒くたに出てくるんだろ?
「んー……私にとってはお肉、かな?」
なんか訳の分からないことを叫んでいる安住さんの電話を切るとコンビニを出た。道路の向こうにいた二人の姿はいつの間にか消えていた。
「特売のお肉、残ってると良いんだけどなあ……」
もし売り切れてたら何にしようかなあ……。そんなことを考えながら地下鉄の駅の方へと歩いていく。そろそろ通勤ラッシュが始まりそうな感じでホームはサラリーマンの姿が多い。普段は車通勤でなかなかこういう風景って見ることがないから新鮮だな。
電車に乗るとそれまで座っていた大学生のお兄さんが私を見て席を譲ってくれた。
「すみません、ありがとうございます」
「いえいえ。うちの姉が今そんな感じで大変さはいつも聞かされているもので」
「へえ、そうなんですか。甥っ子ちゃんか姪っ子ちゃんが生まれてくるってことですね。おじちゃんって呼ばせるんですか?」
「まさか。絶対にお兄ちゃんって呼ばせます」
司君と同じようなこと言ってるのが面白い。そんなことを話していたらそのお兄さんの後ろで何やらザワザワして、何だろうと思っていたら人混みを掻き分けるようにして現れたのは安住さん。私の顔をみてほっとした様子。
「奈緒さん、いたー……」
「安住さん、どうしたんですか?」
こちらの質問に答えることなく携帯を取り出した。もしもし、電車の中で携帯は駄目なんですよ?
「こちら安住。ターゲット捕捉しました、次の駅で降ります」
そして何故か私の手を取って立たせた。
「すみませんがやっぱり俺も命が惜しいんで、今日の特売は諦めて下さい」
「えー……?」
「あの、大丈夫ですか?」
大学生のお兄さんが私を心配そうに見下ろす。
「ああ、はい。夫と同じ職場の方なので問題ないです」
「なら良いんですけど……」
「なんだ、俺が人さらいとでも?」
安住さんはお兄さんを一睨みすると私の腕をとって電車を降りた。
「席を譲ってくれた人に酷いですよ、安住さん」
「酷いのは奈緒さんの方です。俺の命より特売の肉の方が大事だなんて」
「でも普段はとっても高いお肉が半額なんですよ? それって大きいですよね?」
「俺の命よりも?」
「はい」
ガックリしている安住さん。だって本当に高いお肉が半額なんだよ? それも凄く美味しいの。だから信吾さんに食べてほしくて買おうと思ってるんだけどな……。
「あのう……それで作るビフカツサンド、美味しいんですよ? お肉屋さんの奥さん直伝」
「……トンカツじゃなくて?」
「牛さんです」
「……今度食わせてください、生きていたら……来たぁ……」
安住さんの視線の先には信吾さんの姿。心なしか怒ってる?
「……何で待ってなかった?」
「だって別に送ってもらうこともないもの、さすがに私だってここから家まで一人で戻れるよ」
来る時は間違ったけどさ。
「安住さんのことは怒らないであげてね? 信吾さんをびっくりさせちゃおうって言って黙ってるようにお願いしたのは私なんだから」
「だったらどうして俺を待ってなかったんだ」
「えー? だって自衛隊の人と話しながら歩いていたし、込み入ったお話があるなら民間人の私がいたら邪魔でしょ?」
「電話をした時は何処にいた?」
「正面のコンビニのカフェ」
その答えに信吾さんがガックリした。
「目の前にいたのに声をかけずに帰ったのか……」
「お店を出た時は信吾さんいなかったよ?」
「あれは戻って安住を捕まえに行ったんだ」
安住さんの方を見ると何故かどんよりした顔をしていてちょっと顔色悪い。
「……安住さん、どこか具合でも悪いんですか? 顔色、悪いですよ? 座った方が良いんじゃないかな?」
「……奈緒さんのせいです」
「私の?」
「奈緒さんが三佐をめちゃくちゃ焦らせたせいですよ」
「焦る必要なんてないじゃない。何か問題でも?」
「三佐、絶対に誤解されたとか言って大慌てですよ。もう勘弁して欲しい……」
椅子に座ると安住さんはグッタリしてしまった。
「あの……ビフカツサンド、御馳走しますね?」
「約束ですからね」
「はい」
そしてちょっと不穏な空気をまとっている信吾さんに目を向けた。
「で? なにが大慌てなの?」
「何がって……。奈緒、俺と電話している時、俺のこと見てたんだろ?」
「うん。見てたよ。なんかキョロキョロしてて信吾さん物凄く挙動不審だった」
「見てたなら、お前がデートキャンセルとか言って俺がどうして焦ったか分かるだろ」
「……分かんない、なんで? 仕事だから仕方ないじゃない? 私が突然来たのが悪かったんだし?」
信吾さんと安住さんが意味不明な宇宙語を話しながら構内の壁に頭を打ち付けている。もしもーし? そんなことしたら脳細胞が死んじゃいますよー?
「これが一緒にいたのを見て誤解したかと思ったんだよ!」
そう言って信吾さんの後ろにいた人を私の前に突き出してきた。こちらを見て気まずげにしている女の人。年は……私よりは上だよね、多分。
「ああ、さっき信吾さんと一緒にいた人。初めまして♪」
「呑気に挨拶してる場合じゃないし……」
安住さんの呟き。
「……ん?」
「だから、こいつと話しながら歩いているところを見たんだろ?」
「うん、見かけたよ。もしかして信吾さんかなって思って電話したら当たってた」
「だったら分かるだろ、俺が慌てた理由」
「三佐は、こいつと歩いているところを見た奈緒さんが、三佐が浮気していると誤解したんじゃないかってんで大騒ぎしたんですよ」
「……浮気してるの?」
「「してないっ」」
「だったら何も問題ないじゃない? ノープロブレムでしょ?」
「三佐、きっと俺達の心が煤けすぎてるんですよ。俺も奈緒さんみたいなピュアな心を取り戻したいです」
んー……褒められている気がしないのは気のせいじゃないよね。
「浮気を疑ってほしかったの?」
「違う」
「だったら問題ないよね?」
「……安住、そうなのか?」
「自分に聞かないでください」
「で、信吾さん」
「なんだ」
「こちらの人はどなた?」
妙な間があって盛大に溜め息をつかれてしまった。
「奈緒、聞きたいことがある」
「なあに?」
「俺のこと愛してるか?」
「当然でしょ? 信吾さんは?」
「愛してるよ」
「だよね。だったら浮気なんて疑う筈ないじゃない? 私のことを愛してる信吾さんが浮気するなんて有り得ないんだから」
「公共の場で惚気ないで下さい」
「惚気てなんかいませんー。本当のことなんだもの」
「ああ、そうですか、御馳走様です。俺、このバカ女をこいつの上司が迎えに来るまでここで見張ってます。お二人はとっとと帰って爆ぜるなりなんなりして下さい」
安住さんがシッシと私達を追い払うような仕草をしてみせた。普段なら上官に向かってそんなことしたら懲罰ものなのに今回は信吾さんも黙っている。
「帰るぞ奈緒。電車じゃなくてタクシー捕まえよう」
「……お買いもの?」
「晩飯、食って帰るんだろ?」
「えっと特売の……」
「それは来週まで我慢しろ」
そんな訳で、安住さんに約束したお肉屋さんの奥さん直伝のビフカツサンドは、二週間後、無事に安住さんのお腹におさまることになったのでした。
洗濯物を干し終えて一休みすべくリビングのソファに座った。これ、寝心地も座り心地も良いんだけど、今の私では立つのがちょっと一大事になりそうな感じなんだよね。
座って一息入れてからお腹に手を当てる。大きくなってきたなあ……。お母さん方の実家に双子が多いって話を信吾さんにした時、まさか本当に自分の中に二人いるとは思ってなくて、病院でそれが分かった時はちょっとしたパニックになっちゃって思わず信吾さんの携帯に電話しちゃったんだ。
+
「奈緒か、どうした?」
「しししし信吾さんっ、どうしよう!」
電話の向こうで物凄い音がして急に静かになった。もしもしーって呼んでも全く応答がない。どうしたのかなって心配になってきた頃になって電話から安住さんの声が聞こえてきた。
「もしもし?」
「あ、安住さん? なんか話の途中で物凄い音がしたんですけど、信吾さんは?」
「三佐なら飛び出していきましたよ?」
「え?」
「てっきり奈緒さんに何かあったとばかり……御無事ですか? 今何処に?」
「え、あ、はい、今のところ。今は自宅にいます」
飛び出した?
「えっと……何処に行ったとか分かります?」
「多分そこで待っていたら良いと思います。携帯は俺が預かっておくと伝えておいて下さい。では」
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こんなことがあったので、最近では電話する時はかけるまえにちゃんと話したいことをまとめてからすることにしている。だって下手に慌てた口調になったらまた信吾さんが飛び出してきちゃうものね。
普段はチェーン掛け忘れるとすぐに怒られちゃうんだけど、あの時はそんなことまったく気が回ってなかったみたいで、血相変えて飛び込んできた時はさすがの私もちょっと後ずさっちゃうぐらいの慌てぶりだった。もちろん、謝ったよ? 双子だって分かってちょっと動揺しちゃったのって。
「さて、と……」
時計を見てそろそろ出かける準備をしないとって立ち上がった。おちびちゃん達、育ってくれているのは嬉しいけどそろそろママは立つのが大変になってきてるんだぞ?とちょっと愚痴ってみたり。今日は信吾さんは本省で会議の日。たまには驚かせちゃおうと思って本省の前で待ち伏せをするのだ。一応、同行する予定の安住さんには連絡してあるから入れ違いになる事はない筈。
今日は久し振りに気合を入れてお洒落をする。だって本省の前で誰に会うか分からないし、森永の嫁って綺麗だなって言われれば信吾さんだって鼻が高いはずでしょ? この前、矢野さんの奥さんと一緒に買い物に言った時に買った服を着てみる。ふふーん、私だってこうやって見ればなかなかいけてるじゃん?
なんで急にそんなことをって? 妊娠五ヶ月でやっと安定期に入ったんで今のうちに信吾さんとデートしたいなって思ったってわけなのね。これからは子育てもあるし、なかなかそんな時間は持てなくなるだろうから。そんな訳でちょっと浮かれ気分でお出かけ。はいはい、分かってます。くれぐれも足元に注意、だよね。
でも、防衛省の周囲ってなーんにもなくて時間を潰すカフェとかもないんだよね。だから安住さんに会議が終わった時間に連絡して欲しいってお願いしてあったんだけど、まだ無いんだよなあ……。そろそろだと思ってフライングしたのまずかったかなあ。あ、ここのコンビニ、カフェが併設されてるのか、だったらここで待ってようっと。
通りに向かって座るカウンター席で抹茶ラテを飲んでいると、向かい側を歩いている制服の男女。あれ? なんとなく男の人の方が信吾さんに似てる。安住さん連絡まだー? そんなことを思いつつ、なんとなく気になったので信吾さんの携帯に電話してみる。出られない時は留守電に切り替わるから大丈夫だよね?
私の携帯が信吾さんを呼び出すと同時に、通りの向かい側を歩く男の人が立ち止りポケットに手をのばした。そして取り出した携帯を耳に当てる。
「はい」
あ、やっぱり信吾さんだったんだ。
「安住さんと一緒だと思ってたのになー」
「どうした、何かあったか?」
「ううん。たまにはさ、お仕事終わった後に外でご飯でも食べてデートしませんかー?って、お誘いしようと思ってたんだけど、なんだか忙しそうだからまた今度にする。あ、信吾さん、今日は晩御飯どうする? 食べてくる?」
道路の向こうでキョロキョロしているのが可笑しくてつい笑ってしまった。
「奈緒、いま何処にいる?」
「ねえ信吾さん落ち着いて。別に怒ってるわけじゃないんだからさ。んで、晩御飯はうちで食べる? それとも何処かで食べてくる?」
「いや、それは……」
「分かった、食べてくるってことだね。じゃあ気を付けて帰ってきてね。私もこのまま帰るから」
私が電話を切ったと同時に安住さんから電話がかかってきた。
「もしもーし」
「すみません、遅くなって。トイレに行ったら三佐が先に行ってしまって」
「いま連絡取りました。なんだか忙しそうなので今日のデートはキャンセルになっちゃいました。連絡してくれたのに御免なさい」
「え? いや、そんな筈はないと思うんだけどな……」
椅子からよっこらせと立ち上がると隣の椅子においていた鞄を肩にかける。
「デートはキャンセルで残念だけど防衛省の近所なんて初めて来たから来るまでの電車とか新鮮で楽しかったですよ。いい体験になりました」
実は来る時、行き先が逆方向のに乗っちゃってちょっと焦ったのは内緒。
「えっと、奈緒さん今どこに? 家まで送っていくよ? お腹大きいのにこんな所まで一人で来たんだからさ、帰りぐらい誰かと一緒でないと」
「大丈夫ですよ、もう安定期に入ってるし。途中でタクシー拾っても良いし」
「でも……あ、三佐から電話かかってきた。奈緒さん、できたら今の場所から動かないでくれるかな」
「えー……でも早く帰らないと。今日、近所のスーパーでお肉の特売なんで。せっかくだし買って帰るつもりだから……」
「ちょっと、お肉より俺の命の方が大事でしょ?」
ん? 何でお肉と安住さんの命が一緒くたに出てくるんだろ?
「んー……私にとってはお肉、かな?」
なんか訳の分からないことを叫んでいる安住さんの電話を切るとコンビニを出た。道路の向こうにいた二人の姿はいつの間にか消えていた。
「特売のお肉、残ってると良いんだけどなあ……」
もし売り切れてたら何にしようかなあ……。そんなことを考えながら地下鉄の駅の方へと歩いていく。そろそろ通勤ラッシュが始まりそうな感じでホームはサラリーマンの姿が多い。普段は車通勤でなかなかこういう風景って見ることがないから新鮮だな。
電車に乗るとそれまで座っていた大学生のお兄さんが私を見て席を譲ってくれた。
「すみません、ありがとうございます」
「いえいえ。うちの姉が今そんな感じで大変さはいつも聞かされているもので」
「へえ、そうなんですか。甥っ子ちゃんか姪っ子ちゃんが生まれてくるってことですね。おじちゃんって呼ばせるんですか?」
「まさか。絶対にお兄ちゃんって呼ばせます」
司君と同じようなこと言ってるのが面白い。そんなことを話していたらそのお兄さんの後ろで何やらザワザワして、何だろうと思っていたら人混みを掻き分けるようにして現れたのは安住さん。私の顔をみてほっとした様子。
「奈緒さん、いたー……」
「安住さん、どうしたんですか?」
こちらの質問に答えることなく携帯を取り出した。もしもし、電車の中で携帯は駄目なんですよ?
「こちら安住。ターゲット捕捉しました、次の駅で降ります」
そして何故か私の手を取って立たせた。
「すみませんがやっぱり俺も命が惜しいんで、今日の特売は諦めて下さい」
「えー……?」
「あの、大丈夫ですか?」
大学生のお兄さんが私を心配そうに見下ろす。
「ああ、はい。夫と同じ職場の方なので問題ないです」
「なら良いんですけど……」
「なんだ、俺が人さらいとでも?」
安住さんはお兄さんを一睨みすると私の腕をとって電車を降りた。
「席を譲ってくれた人に酷いですよ、安住さん」
「酷いのは奈緒さんの方です。俺の命より特売の肉の方が大事だなんて」
「でも普段はとっても高いお肉が半額なんですよ? それって大きいですよね?」
「俺の命よりも?」
「はい」
ガックリしている安住さん。だって本当に高いお肉が半額なんだよ? それも凄く美味しいの。だから信吾さんに食べてほしくて買おうと思ってるんだけどな……。
「あのう……それで作るビフカツサンド、美味しいんですよ? お肉屋さんの奥さん直伝」
「……トンカツじゃなくて?」
「牛さんです」
「……今度食わせてください、生きていたら……来たぁ……」
安住さんの視線の先には信吾さんの姿。心なしか怒ってる?
「……何で待ってなかった?」
「だって別に送ってもらうこともないもの、さすがに私だってここから家まで一人で戻れるよ」
来る時は間違ったけどさ。
「安住さんのことは怒らないであげてね? 信吾さんをびっくりさせちゃおうって言って黙ってるようにお願いしたのは私なんだから」
「だったらどうして俺を待ってなかったんだ」
「えー? だって自衛隊の人と話しながら歩いていたし、込み入ったお話があるなら民間人の私がいたら邪魔でしょ?」
「電話をした時は何処にいた?」
「正面のコンビニのカフェ」
その答えに信吾さんがガックリした。
「目の前にいたのに声をかけずに帰ったのか……」
「お店を出た時は信吾さんいなかったよ?」
「あれは戻って安住を捕まえに行ったんだ」
安住さんの方を見ると何故かどんよりした顔をしていてちょっと顔色悪い。
「……安住さん、どこか具合でも悪いんですか? 顔色、悪いですよ? 座った方が良いんじゃないかな?」
「……奈緒さんのせいです」
「私の?」
「奈緒さんが三佐をめちゃくちゃ焦らせたせいですよ」
「焦る必要なんてないじゃない。何か問題でも?」
「三佐、絶対に誤解されたとか言って大慌てですよ。もう勘弁して欲しい……」
椅子に座ると安住さんはグッタリしてしまった。
「あの……ビフカツサンド、御馳走しますね?」
「約束ですからね」
「はい」
そしてちょっと不穏な空気をまとっている信吾さんに目を向けた。
「で? なにが大慌てなの?」
「何がって……。奈緒、俺と電話している時、俺のこと見てたんだろ?」
「うん。見てたよ。なんかキョロキョロしてて信吾さん物凄く挙動不審だった」
「見てたなら、お前がデートキャンセルとか言って俺がどうして焦ったか分かるだろ」
「……分かんない、なんで? 仕事だから仕方ないじゃない? 私が突然来たのが悪かったんだし?」
信吾さんと安住さんが意味不明な宇宙語を話しながら構内の壁に頭を打ち付けている。もしもーし? そんなことしたら脳細胞が死んじゃいますよー?
「これが一緒にいたのを見て誤解したかと思ったんだよ!」
そう言って信吾さんの後ろにいた人を私の前に突き出してきた。こちらを見て気まずげにしている女の人。年は……私よりは上だよね、多分。
「ああ、さっき信吾さんと一緒にいた人。初めまして♪」
「呑気に挨拶してる場合じゃないし……」
安住さんの呟き。
「……ん?」
「だから、こいつと話しながら歩いているところを見たんだろ?」
「うん、見かけたよ。もしかして信吾さんかなって思って電話したら当たってた」
「だったら分かるだろ、俺が慌てた理由」
「三佐は、こいつと歩いているところを見た奈緒さんが、三佐が浮気していると誤解したんじゃないかってんで大騒ぎしたんですよ」
「……浮気してるの?」
「「してないっ」」
「だったら何も問題ないじゃない? ノープロブレムでしょ?」
「三佐、きっと俺達の心が煤けすぎてるんですよ。俺も奈緒さんみたいなピュアな心を取り戻したいです」
んー……褒められている気がしないのは気のせいじゃないよね。
「浮気を疑ってほしかったの?」
「違う」
「だったら問題ないよね?」
「……安住、そうなのか?」
「自分に聞かないでください」
「で、信吾さん」
「なんだ」
「こちらの人はどなた?」
妙な間があって盛大に溜め息をつかれてしまった。
「奈緒、聞きたいことがある」
「なあに?」
「俺のこと愛してるか?」
「当然でしょ? 信吾さんは?」
「愛してるよ」
「だよね。だったら浮気なんて疑う筈ないじゃない? 私のことを愛してる信吾さんが浮気するなんて有り得ないんだから」
「公共の場で惚気ないで下さい」
「惚気てなんかいませんー。本当のことなんだもの」
「ああ、そうですか、御馳走様です。俺、このバカ女をこいつの上司が迎えに来るまでここで見張ってます。お二人はとっとと帰って爆ぜるなりなんなりして下さい」
安住さんがシッシと私達を追い払うような仕草をしてみせた。普段なら上官に向かってそんなことしたら懲罰ものなのに今回は信吾さんも黙っている。
「帰るぞ奈緒。電車じゃなくてタクシー捕まえよう」
「……お買いもの?」
「晩飯、食って帰るんだろ?」
「えっと特売の……」
「それは来週まで我慢しろ」
そんな訳で、安住さんに約束したお肉屋さんの奥さん直伝のビフカツサンドは、二週間後、無事に安住さんのお腹におさまることになったのでした。
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