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本編
第十六話 杏奈さん宅にて 1
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玄関に入ってドアを閉めたと同時に壁に押し付けられてキスをされた。カチャリと音がしたってことは手をのばして鍵を閉めたみたい。それってつまり邪魔者は誰も入れませんっていう意思表示で何を邪魔する者かっていうのは言うまでもなくて。佐伯さんは靴を脱ぐ時間も惜しいみたいな感じで、先に靴を脱いで上がるとブーツを脱ぐのに四苦八苦している私のことをそのまま抱き上げた。
「ブーツまだ脱げて……」
「後でちゃんと脱がせてあげるから」
そう言いながら奥の部屋へとそのままスタスタと私を抱いたまま歩いていく。あいにくと私が住んでいる部屋は単身者用で部屋が何処かって迷うことはない。そしてそこで使っているベッドはシングルで、佐伯さんちのベッドのように広くないしそんなに丈夫なものでもないから二人で使って大丈夫かな?なんて考えがちょっとだけよぎった。だってほら、じっとして寝るだけならともかく色々とあるわけで。
そのベッドに下ろされると佐伯さんは黙ったまま履いたまんまのブーツを脱がせてくれる。ただその場にポイッて放り投げられたのにはさすがに文句を言おうかなって思って口を開きかけたんだけど、相手のちょっと余裕の無い顔を見て言葉を吞み込むしかなかった。私が口を噤んだことに気が付いたのか佐伯さんは口元に少しだけ笑みを浮かべた。
「ごめん、余裕が無いの丸分かりだよな。杏奈さんの顔を見るまで自分がどれほど飢えているか分からなかったよ」
「控室のキスだけじゃおさまらなかったんですか?」
「ダメダメ、あれは火に油を注ぐようなものだったから。あそこで杏奈さんの服をはぎ取って押し倒さなかっただけでも褒めて欲しい」
こちらを見下ろしながら服を脱ぎ始めたので私も体を起こすとコートのボタンを外していく。そんな私の様子を見て片眉をあげる。
「俺にやらせてくれるつもりはないんだ?」
「だって今の佐伯さんの状態だとボタンが千切れ飛ぶかもしれないでしょ? お気に入りのコートがそんなことになったら困るし」
「それは言えてる」
だけど私の方が圧倒的に脱いだり取ったりしなきゃいけない物が多くて厚手のタイツを脱ぐ頃には佐伯さんに押し倒されてしまっていた。
「はい、俺の勝ち」
「競争なんてしてないのに」
「残りは俺の楽しみだから任せてくれると嬉しいな」
残りといっても後は下着だけ。佐伯さんにしてはちょっと乱暴な手つきで下着が取り払われるとお互いを隔てるものは何も無くなった。嬉しそうな顔をしながら私の手をとって掌にキスをすると、そこからは何て言うか狼さん赤頭巾ちゃんを食べちゃうつもり?みたいな状態。体のあちこちを吸われたり軽く咬まれたりするうちのうっとりとした気分になりはしたけど、やっぱりシャワーを浴びたかったかな……なんて思う現実的な部分の私がまだ残っていた。
「私としてはシャワーが先の方が嬉しいんだけどな」
「そんなことしたら俺、風呂場で大暴走すると思うけどそれでも良いなら浴びても良いよ、もちろん一緒に」
「お行儀の良い海の男だからお風呂ではそんなことしないって前に言ってなかった?」
「あの時はここまで飢えてなかったから。杏奈さんの希望通りにしてあげたいけど今日は無理」
そう言いながら足の間に腰を落ち着けて熱くて硬くなったものを押し付けてくる。そこはまだ触れられてもいないのに既に柔らかく濡れていて飢えていたのは佐伯さんだけじゃないってことに気がついた。
「駄目だな、うっかり忘れるところだ」
「?」
笑いながらベッドの下に手をのばして何やらごそごそと探し物をしている。下から探し出したものはカラフルな小さな箱。それをこちらにかざして見せてからニッコリと笑った。ああ、本当だ。佐伯さんと早く一つになりたくて私もすっかり避妊措置の必要性を忘れてた。
「もしかして杏奈さんも忘れてた?」
「……です」
「惜しかったな、そのまま抱いちゃえば良かった」
「え、それってどういう……っ」
体の中に先端が入り込む。
「こういう意味。何も隔たりが無い状態で杏奈さんのことを抱いて……奥の奥までいってそこで果てたいってこと」
その言葉の意味を分からせようとしているのかゆっくりと何も予防措置をしていない状態で入り込んでくる。性急な感じはないけれど久し振りに受け入れる佐伯さんはやっぱり大きくてちょっと辛い。奥に当たる感じがして彼の動きが止まるとそれまで詰めていた息をはいた。そして自分のことを見下ろしている佐伯さんの顔を見上げた。
「このまま続けても良い?」
「ダメです、やっぱり大人としては順番は、守らないと……」
「うん、だから残念だけどちゃんとしないとって思い出したわけ」
ゆっくりと出ていく硬い感触に体が震えた。離れて欲しくない、そのまま続けて欲しいって一瞬だけ思ったけどやっぱりダメだと思い直して佐伯さんの腰に回しかけた手を下ろす。
「今のだって危険性はあったよね、すまない」
ちょっと真剣な顔をして私のことを見下ろした。
「……今ので妊娠しちゃうようなら私達、結婚したら絶対に大家族かも」
「子供達だけで野球チームとか? それはそれで楽しそうだな」
「色々な意味で私の体力が持たないと思う……」
「じゃあ今から体力作りに励まないと」
箱の封を切って中身を取り出す。え? 体力作りに励むってそういうこと? 違うよね?
「まあ手始めに空腹で飢え死にしそうな俺に杏奈さんがついてこられるかってところからだよね。こういう長期不在は多々ある訳だし、そのたびに俺が杏奈さんのことを抱き潰しちゃったら大変だから」
「え、あの……」
「そんなことしたらそのたびに病欠になって市役所から文句が来たりして」
「マジ?」
ちなみに前の奥さんの時はどうだったんでしょうか?なんてのが気になって、準備をしてニッコリ笑って、じゃあ頑張ってみようか?なんて言い放った佐伯さんをちょっと押しとどめて尋ねてみる。興醒めしちゃうかもしないのは重々承知ではあったけどれ、やっぱりちょっと気になったから……っていうか、これってお互いに離れていながらどうやって様々なことを共有できるかっていうのと同じくらい大事なことじゃ?
私の問い掛けに佐伯さんはしばらく考え込んで“俺、今日まで自分は淡白な方だと思っていたんだよね”って笑ったんだけど、それってどういうことですか?
+++++
ちょっとした嵐が過ぎ去った後しばらく二人とも黙っていた。服は脱いだ時のままであちらこちらに散らかっているし布団も毛布も皺くちゃになっちゃって半分くらいずり落ちているし。寒いと思ったらまだ暖房もつけてなかったことに気が付いてベッドの横のテーブルの上に置いてあったリモコンに手を伸ばした。
「寒い?」
「佐伯さんは寒くないの?」
「杏奈さんを抱いているから平気かな」
何せ二人で寝ることなんて想定しないで買ったベッドだから大柄な佐伯さんにはちょっと窮屈かもしれない。私のことを半ば自分の上に乗せるような感じで寝そべっているし、身長差からして絶対に足がはみ出てしまっていると思う。まあ途中でベッドが壊れなかっただけでも褒めてあげたいかもしれない。
そして落ち着いたところで現実的な質問が浮かんできた。
「ところでいつこっちに? 私、寺脇さんの奥さんから行けるようなら帰港日にお迎えに行こうって誘われていたんですよ?」
「昨日の昼。寺脇の奥さんは杏奈さんに知らせようとしてくれていたんだ、俺が杏奈さんのことを驚かせたくて頼み込んだから黙ってくれただけで。杏奈さんが平日どこにいるかっていうのはメールで分かっていたからね」
「そうなの……」
「迎えに来たかった?」
振り返って佐伯さんの顔を見上げるとさっきとは打って変わって穏やかな顔をしてこちらを見下ろしている。
「だって他の家族の人はたくさん来てたんでしょ?」
「全員の家族が迎えに来られるわけじゃないよ。平日だし杏奈さんみたいに仕事をしている奥さんもいるからね」
「だけど自分の奥さんとか恋人が迎えに来てくれなかったら寂しくない?」
「確かに最初は気の毒がられていたけどね。だけど仕事をしていたら来られないのは当然だろ? 呉で寺脇がそうだったみたいに家族を置いて単身でこっちにきている奴だって大勢いるし」
「そう……だけど私は迎えに行きたかったな」
「平日なのに?」
「ここまで休日返上で働いているんだもの、たまには突然のズル休みだって許される筈、と思いたい」
「杏奈さん、公務員なのに何てことを」
そう言いながらも目が笑っているから本気でショックを受けている訳じゃないみたい。でも本当に迎えに行きたかったなあ……。
「じゃあ次の時は迎えに来てくれ。但しマツラー君で来るなんていうサプライズは無しで」
「幾らなんでもマツラー君を私用で連れて行くのは無理がありますよ、いくら私がそうしたくても。今度マツラー君があの港に行くのは今度の海の日のイベントだと思うし。佐伯さんはそれまではあの港にいれそう?」
「多分ね。ただ異動していなくても出港して港にいない可能性は大いにありかな」
「前みたいだと良いのにね」
「こればかりは分からないな……」
お互いの言葉が途絶えたところで私のお腹が盛大に鳴った。
「……雰囲気をぶち壊して申し訳ないんだけど、こっちの飢えはまだ満たされてないんですけど……」
「買い物もせずに真っ直ぐに帰ってきちゃったからね」
俺は満腹だけどおかわりいけるよ?って顔をする佐伯さん。だけど私はそっちの意味ではなく本当にお腹が空いたの、今すぐ何か食べないと倒れちゃうの。よくもまあこんな時間まで食べずにベッドで過ごせたものだと我ながら感心してしまった。
「どうする? 食べに出る? それともデリバリーでもする?」
「空腹も深刻だけど先ずはシャワー浴びたい」
「OK、先ずはシャワー、それから飯のことを考えよう」
「あ、そうだ。佐伯さん、着替え持ってきてないでしょ? うちの兄のが置いてあるんですけど入るかな」
「お兄さん?」
「はい。引っ越しの手伝いをしてくれた時に置いていったのを洗濯してしまってあるの。身長は兄の方が低いけどごっつい人だから問題ないと思うんだけど」
「サイズはともかく、良いの?」
「問題ないですよ、多分あっちも既に存在を忘れていると思うから」
「じゃあ遠慮なく」
押し入れに仕舞い込んである衣装ケースから兄貴が置いて行ったスエットの上下とトランクスを出した。
最初これが置いてあったのを見つけた時、なんでこんなものを置いていくのよって文句の電話をした。そしたら女の一人暮らしは物騒だから男物を干しておけば安心だろ?だって。ここ、単身者用のアパートなんですけどね!!って反撃したら彼氏が出入りしていると思われていたら安心じゃないかって呑気に笑っていたっけ。最初に洗濯をした日、兄貴のものを一緒に干したせいか、今のところ下着ドロにも遭ってないし、変な電話もかかってこない。もしかしたら兄貴のこれのお蔭?
「杏奈さん?」
「ああ、ごめんなさい。これなんですけど大丈夫そう?」
「お兄さんって消防士だっけ?」
「です。それらしいでしょ?」
たたんであるのを拡げればニューヨーク消防局のロゴマーク。
「トランクスは普通のですよ」
「んー、これ、普通かな」
絵柄を見て複雑な顔をする佐伯さん。
「普通ですよ。ただ鳥さんがちょっと燃えてますけど」
「まあ消防士らしい柄なのかな……」
「火難除けの為の絵柄なら河童とか龍にすれば良いのに、何で逆に燃えてる鳥さんなんだか未だに謎なんですけどね」
「楽しそうな人だね、杏奈さんのお兄さん」
「体育会系の筋肉馬鹿ですけど」
その時は考えもしなかったんだ、早々に兄貴と佐伯さんが顔を合わせることになるなんて。
「ブーツまだ脱げて……」
「後でちゃんと脱がせてあげるから」
そう言いながら奥の部屋へとそのままスタスタと私を抱いたまま歩いていく。あいにくと私が住んでいる部屋は単身者用で部屋が何処かって迷うことはない。そしてそこで使っているベッドはシングルで、佐伯さんちのベッドのように広くないしそんなに丈夫なものでもないから二人で使って大丈夫かな?なんて考えがちょっとだけよぎった。だってほら、じっとして寝るだけならともかく色々とあるわけで。
そのベッドに下ろされると佐伯さんは黙ったまま履いたまんまのブーツを脱がせてくれる。ただその場にポイッて放り投げられたのにはさすがに文句を言おうかなって思って口を開きかけたんだけど、相手のちょっと余裕の無い顔を見て言葉を吞み込むしかなかった。私が口を噤んだことに気が付いたのか佐伯さんは口元に少しだけ笑みを浮かべた。
「ごめん、余裕が無いの丸分かりだよな。杏奈さんの顔を見るまで自分がどれほど飢えているか分からなかったよ」
「控室のキスだけじゃおさまらなかったんですか?」
「ダメダメ、あれは火に油を注ぐようなものだったから。あそこで杏奈さんの服をはぎ取って押し倒さなかっただけでも褒めて欲しい」
こちらを見下ろしながら服を脱ぎ始めたので私も体を起こすとコートのボタンを外していく。そんな私の様子を見て片眉をあげる。
「俺にやらせてくれるつもりはないんだ?」
「だって今の佐伯さんの状態だとボタンが千切れ飛ぶかもしれないでしょ? お気に入りのコートがそんなことになったら困るし」
「それは言えてる」
だけど私の方が圧倒的に脱いだり取ったりしなきゃいけない物が多くて厚手のタイツを脱ぐ頃には佐伯さんに押し倒されてしまっていた。
「はい、俺の勝ち」
「競争なんてしてないのに」
「残りは俺の楽しみだから任せてくれると嬉しいな」
残りといっても後は下着だけ。佐伯さんにしてはちょっと乱暴な手つきで下着が取り払われるとお互いを隔てるものは何も無くなった。嬉しそうな顔をしながら私の手をとって掌にキスをすると、そこからは何て言うか狼さん赤頭巾ちゃんを食べちゃうつもり?みたいな状態。体のあちこちを吸われたり軽く咬まれたりするうちのうっとりとした気分になりはしたけど、やっぱりシャワーを浴びたかったかな……なんて思う現実的な部分の私がまだ残っていた。
「私としてはシャワーが先の方が嬉しいんだけどな」
「そんなことしたら俺、風呂場で大暴走すると思うけどそれでも良いなら浴びても良いよ、もちろん一緒に」
「お行儀の良い海の男だからお風呂ではそんなことしないって前に言ってなかった?」
「あの時はここまで飢えてなかったから。杏奈さんの希望通りにしてあげたいけど今日は無理」
そう言いながら足の間に腰を落ち着けて熱くて硬くなったものを押し付けてくる。そこはまだ触れられてもいないのに既に柔らかく濡れていて飢えていたのは佐伯さんだけじゃないってことに気がついた。
「駄目だな、うっかり忘れるところだ」
「?」
笑いながらベッドの下に手をのばして何やらごそごそと探し物をしている。下から探し出したものはカラフルな小さな箱。それをこちらにかざして見せてからニッコリと笑った。ああ、本当だ。佐伯さんと早く一つになりたくて私もすっかり避妊措置の必要性を忘れてた。
「もしかして杏奈さんも忘れてた?」
「……です」
「惜しかったな、そのまま抱いちゃえば良かった」
「え、それってどういう……っ」
体の中に先端が入り込む。
「こういう意味。何も隔たりが無い状態で杏奈さんのことを抱いて……奥の奥までいってそこで果てたいってこと」
その言葉の意味を分からせようとしているのかゆっくりと何も予防措置をしていない状態で入り込んでくる。性急な感じはないけれど久し振りに受け入れる佐伯さんはやっぱり大きくてちょっと辛い。奥に当たる感じがして彼の動きが止まるとそれまで詰めていた息をはいた。そして自分のことを見下ろしている佐伯さんの顔を見上げた。
「このまま続けても良い?」
「ダメです、やっぱり大人としては順番は、守らないと……」
「うん、だから残念だけどちゃんとしないとって思い出したわけ」
ゆっくりと出ていく硬い感触に体が震えた。離れて欲しくない、そのまま続けて欲しいって一瞬だけ思ったけどやっぱりダメだと思い直して佐伯さんの腰に回しかけた手を下ろす。
「今のだって危険性はあったよね、すまない」
ちょっと真剣な顔をして私のことを見下ろした。
「……今ので妊娠しちゃうようなら私達、結婚したら絶対に大家族かも」
「子供達だけで野球チームとか? それはそれで楽しそうだな」
「色々な意味で私の体力が持たないと思う……」
「じゃあ今から体力作りに励まないと」
箱の封を切って中身を取り出す。え? 体力作りに励むってそういうこと? 違うよね?
「まあ手始めに空腹で飢え死にしそうな俺に杏奈さんがついてこられるかってところからだよね。こういう長期不在は多々ある訳だし、そのたびに俺が杏奈さんのことを抱き潰しちゃったら大変だから」
「え、あの……」
「そんなことしたらそのたびに病欠になって市役所から文句が来たりして」
「マジ?」
ちなみに前の奥さんの時はどうだったんでしょうか?なんてのが気になって、準備をしてニッコリ笑って、じゃあ頑張ってみようか?なんて言い放った佐伯さんをちょっと押しとどめて尋ねてみる。興醒めしちゃうかもしないのは重々承知ではあったけどれ、やっぱりちょっと気になったから……っていうか、これってお互いに離れていながらどうやって様々なことを共有できるかっていうのと同じくらい大事なことじゃ?
私の問い掛けに佐伯さんはしばらく考え込んで“俺、今日まで自分は淡白な方だと思っていたんだよね”って笑ったんだけど、それってどういうことですか?
+++++
ちょっとした嵐が過ぎ去った後しばらく二人とも黙っていた。服は脱いだ時のままであちらこちらに散らかっているし布団も毛布も皺くちゃになっちゃって半分くらいずり落ちているし。寒いと思ったらまだ暖房もつけてなかったことに気が付いてベッドの横のテーブルの上に置いてあったリモコンに手を伸ばした。
「寒い?」
「佐伯さんは寒くないの?」
「杏奈さんを抱いているから平気かな」
何せ二人で寝ることなんて想定しないで買ったベッドだから大柄な佐伯さんにはちょっと窮屈かもしれない。私のことを半ば自分の上に乗せるような感じで寝そべっているし、身長差からして絶対に足がはみ出てしまっていると思う。まあ途中でベッドが壊れなかっただけでも褒めてあげたいかもしれない。
そして落ち着いたところで現実的な質問が浮かんできた。
「ところでいつこっちに? 私、寺脇さんの奥さんから行けるようなら帰港日にお迎えに行こうって誘われていたんですよ?」
「昨日の昼。寺脇の奥さんは杏奈さんに知らせようとしてくれていたんだ、俺が杏奈さんのことを驚かせたくて頼み込んだから黙ってくれただけで。杏奈さんが平日どこにいるかっていうのはメールで分かっていたからね」
「そうなの……」
「迎えに来たかった?」
振り返って佐伯さんの顔を見上げるとさっきとは打って変わって穏やかな顔をしてこちらを見下ろしている。
「だって他の家族の人はたくさん来てたんでしょ?」
「全員の家族が迎えに来られるわけじゃないよ。平日だし杏奈さんみたいに仕事をしている奥さんもいるからね」
「だけど自分の奥さんとか恋人が迎えに来てくれなかったら寂しくない?」
「確かに最初は気の毒がられていたけどね。だけど仕事をしていたら来られないのは当然だろ? 呉で寺脇がそうだったみたいに家族を置いて単身でこっちにきている奴だって大勢いるし」
「そう……だけど私は迎えに行きたかったな」
「平日なのに?」
「ここまで休日返上で働いているんだもの、たまには突然のズル休みだって許される筈、と思いたい」
「杏奈さん、公務員なのに何てことを」
そう言いながらも目が笑っているから本気でショックを受けている訳じゃないみたい。でも本当に迎えに行きたかったなあ……。
「じゃあ次の時は迎えに来てくれ。但しマツラー君で来るなんていうサプライズは無しで」
「幾らなんでもマツラー君を私用で連れて行くのは無理がありますよ、いくら私がそうしたくても。今度マツラー君があの港に行くのは今度の海の日のイベントだと思うし。佐伯さんはそれまではあの港にいれそう?」
「多分ね。ただ異動していなくても出港して港にいない可能性は大いにありかな」
「前みたいだと良いのにね」
「こればかりは分からないな……」
お互いの言葉が途絶えたところで私のお腹が盛大に鳴った。
「……雰囲気をぶち壊して申し訳ないんだけど、こっちの飢えはまだ満たされてないんですけど……」
「買い物もせずに真っ直ぐに帰ってきちゃったからね」
俺は満腹だけどおかわりいけるよ?って顔をする佐伯さん。だけど私はそっちの意味ではなく本当にお腹が空いたの、今すぐ何か食べないと倒れちゃうの。よくもまあこんな時間まで食べずにベッドで過ごせたものだと我ながら感心してしまった。
「どうする? 食べに出る? それともデリバリーでもする?」
「空腹も深刻だけど先ずはシャワー浴びたい」
「OK、先ずはシャワー、それから飯のことを考えよう」
「あ、そうだ。佐伯さん、着替え持ってきてないでしょ? うちの兄のが置いてあるんですけど入るかな」
「お兄さん?」
「はい。引っ越しの手伝いをしてくれた時に置いていったのを洗濯してしまってあるの。身長は兄の方が低いけどごっつい人だから問題ないと思うんだけど」
「サイズはともかく、良いの?」
「問題ないですよ、多分あっちも既に存在を忘れていると思うから」
「じゃあ遠慮なく」
押し入れに仕舞い込んである衣装ケースから兄貴が置いて行ったスエットの上下とトランクスを出した。
最初これが置いてあったのを見つけた時、なんでこんなものを置いていくのよって文句の電話をした。そしたら女の一人暮らしは物騒だから男物を干しておけば安心だろ?だって。ここ、単身者用のアパートなんですけどね!!って反撃したら彼氏が出入りしていると思われていたら安心じゃないかって呑気に笑っていたっけ。最初に洗濯をした日、兄貴のものを一緒に干したせいか、今のところ下着ドロにも遭ってないし、変な電話もかかってこない。もしかしたら兄貴のこれのお蔭?
「杏奈さん?」
「ああ、ごめんなさい。これなんですけど大丈夫そう?」
「お兄さんって消防士だっけ?」
「です。それらしいでしょ?」
たたんであるのを拡げればニューヨーク消防局のロゴマーク。
「トランクスは普通のですよ」
「んー、これ、普通かな」
絵柄を見て複雑な顔をする佐伯さん。
「普通ですよ。ただ鳥さんがちょっと燃えてますけど」
「まあ消防士らしい柄なのかな……」
「火難除けの為の絵柄なら河童とか龍にすれば良いのに、何で逆に燃えてる鳥さんなんだか未だに謎なんですけどね」
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**********
►Attention
※他サイトからの転載(2018/11に書き上げたものです)
※表紙は「かんたん表紙メーカー2」様で作りました。
※※この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。
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