梅の実と恋の花

鏡野ゆう

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本編

第二話 おでんどうですか

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 次の日、お隣に診療所の先生が引っ越してきたらしいと話をしたら、当然のことながら、皆から質問攻めにされる羽目に。だけど私だって、まさか噂の先生がお隣さんだったとは思わなかったし、その時に挨拶した程度だから、根掘り葉掘り聞かれても困ってしまう。

 色々と聞きたがっている女史達には申し訳ないけれど、顔を合わせる機会はそう無いのでは?というのが私の予想。

 そして予想した通り、久遠くどう先生とは、顔を合わせる機会は無かった。たまに、ベランダに面した窓を開ける音とか、玄関ドアを開け閉めする音で存在を思い出す程度で、普段は、お隣さんのことなんて頭からすっかり抜け落ちていた。そんな私が次に先生と顔を合わせたのは、土曜日の駅前の本屋さん。私が、出るのを楽しみにしていたコミックの新刊を手にレジに行くと、先生の姿があった。

「あ、こんにちは」

 先生に気がついて挨拶をすると、あちらはいぶかしげに首をかしげる。これはきっと、私の顔を覚えてないんだなと思って、お隣の天森あまもりですって名乗ったら、やっと思い出してくれたみたいで、申し訳なさそうに笑って、気がつかなくてすみませんと頭を下げてきた。

「分厚い本ですね」

 お店の人が、カウンターから出してきた本を見て思わず呟いてしまう。表紙も立派な感じだし、足の上に落ちたら、さぞかし痛いだろうなって感じの重量感。

「こっちの診療所では、いろんな患者さんがいるでしょう? きちんと調べないと、うかつなことは言えないし」
「つまり、これってお医者さんの、カンペみたいなものなんですか?」

 先生は苦笑いしながら頭をかいた。

「間違ってはいないけど、せめて参考書って言ってもらいたいかなあ……」
「なるほど。お医者さんになっても必要なんですね、カン、じゃなくて参考書」
「日々精進が、恩師の口癖だったもので」

 お医者さんも大変だなと思う。考えてみれば、聞いたことのないような病気が、毎年のように現れるし、新しい治療法やお薬が認可されたって話もよく聞くものね。表紙に、今年度版と印字されている分厚い本を眺めながら、なるほどと納得した。

「そちらはなにを?」
「医学書みたいな、難しい本を買っている先生に見せるのは、恥ずかしいですけど……」

 私が持っているコミックを持ち上げると、意外なことに先生は「ああ、それね」と言ってうなづいた。

「うちの妹も、それ集めてるよ。以前から描いている人のファンらしくて」
「そうなんですか? あ、でも先生の妹さんだったら、きっと学生さんでしょ?」

 先生が何歳か知らないけど、妹さんが高校生とか中学生という可能性もあるわけで。そうなると、少し恥ずかしいかもしれない。

「学生には違いないけど、大学生だから、天森さんと大して違わないのでは?」

 それを聞いてホッとした。

 短大を卒業して、市役所勤めをするようになって三年だから、私の方が年上でもそんなに変わらない。良かった、いい年した大人が、まだ漫画を買っているなんて思われなくて。レジの横にあった雑誌とコミックのお会計をしてもらって、お店の外に出ると、先にお店を出たはずの先生が立っていた。

「あれ、先生どうしたんですか?」
「ほら、雪が降ってきたし、天森さん傘持ってなかったよなあと思って、待ってました。車、裏のコインパーキングに止めてあるので、一緒にどうかなって。こっちには車か自転車で?」

 空を見上げたら、フワフワした雪が落ち始めていた。今夜から雪だとは言っていたけど、夕方から降るなんて聞いてないよ……。

「自転車で。駅の駐輪場に止めてあるから、置いていっても大丈夫だとは思うんですけど」
「鍵とチェーンはちゃんと?」
「それはしっかり」
「だったら大丈夫かな。なら、僕の車で帰りましょうか、寒いし」

 そう言うと、先生は私の手をとって、本屋さんの裏にあるコインパーキングへと歩き始める。あまりにも自然に手を握られたので、最初は何も考えずに歩いていたんだけど、途中で、男の人に手を握られているっていう事実に気がついて、慌てて手を引き抜いた。先生も私の慌てた様子に我に返ったみたいで、バツの悪そうな顔をした。

「あ、ごめん。ついクセで」
「く、クセ?」
「職場で、子供達やお年寄りの、手をひいて歩くのが普通だったからついね。ごめん」
「そっちのクセね……」

 びっくりした、女の人と手をつなぐのが、クセになっているのかと思った。

「もしかして、普段から、女性と手をつないで歩いていると思われた?」
「……えっとまあ、そんなところです」
「それで都落ちって、いったい、どんな怪しげな人物だと思われているんだろう、俺」

 先生は笑いながら、ポケットからキーを取り出した。

 そこに止まっているのはピカピカの新車。たしか、ここ最近のCМでアイドル歌手が新発売~!!とか言ってたやつだ。やっぱりお医者さんになるぐらいの人だから、お金持ってるんだなあ、たとえ都落ちだったとしても。と、変なところで感心してしまう。

「季節はずれの赴任だったからですよ。権力争いに負けてこっちに飛ばされたとか、失恋で逃避行だとか、色々と想像されてるみたいですよ。診療所で、お爺ちゃんお婆ちゃんに、なにか言われませんでした?」

 助手席にありがたく座らせてもらって、ドアを閉めてから先生に尋ねる。

「そう言えば、人生七転び八起きとか、災い転じて福となすとか言われているけど、そういうことだったのか」

 参ったなあと、笑いながら車をスタートさせた。良かった、思っていたよりずっと安全運転だ。地元っ子の竹田さんなんて、交通量が少ない時間なんて結構なスピードを出すから、乗せてもらっていても冷や冷やしっぱなしで落ち着かない。その点、先生の運転は安心できるスピードだった。

「あ、そうだ。先生、今夜のご飯は、どうするつもりでいますか?」
「夕飯? 特になにも考えてなくて、家にあるもので適当にすますか、近くの居酒屋さんに行こうかなと」
「うちに来ませんか? 車に乗せてもらったお礼に、御馳走しますよ? ただのおでんですけど」

 一瞬だけ、先生の顔が警戒したように見えた。本当に一瞬だったから、見間違いかなと思ったぐらい。もしかして下心があるとか思われた? まさか私に襲われるとか思ってる? でも、それを心配するなら私のほうだよね?

「あの、別に無理にというわけじゃなくて。大きな土鍋にたくさん作ってあるから、一度おでんの用意をすると、お弁当に入れても、なかなか減らないぐらい続いちゃうんですよ。だからお礼も兼ねて、少し助けてほしいかなって……」
「天森さん」
「はい?」

 赤信号で止まった時に、先生がちょっと怖い顔でこっちを見た。

「いくらここが昔ながらの治安の良い地域だからって、危機感が無さすぎだよ? 俺が地元の人間じゃなくて、しかも男だってこと忘れている?」
「先生はどう見ても男ですよ、女には見えません」
「いや、そうじゃなくて……」
「もちろん、地元の人じゃないことも、わかってますよ。まあ、さすがに都落ちだとは思ってませんけど」
「だからそうじゃなくて……」
「あ、ほら、青になりました」

 私の指摘に、先生は溜め息をつきながら、車をスタートさせた。

「夕飯一回分の、食費が浮くって考えれば良いじゃないですか、毎日毎日外食なんてしてたら、物価が安いこのへんでも、エンゲル係数は馬鹿になりませんし。あ、大丈夫ですよ、私、先生のこと襲ったりしませんから!」

 力説すると、先生はさらに溜め息を一つついて、やれやれと呟いた。

「わかりました……御馳走になります」
「はい、遠慮なくお越しください」

 そして、本当に変な魂胆なんてないんですからね?と念を押す。私の言葉に、先生はマンションに到着するまで「はいはい」と、半分気の抜けたようなあいづちを打つばかりだった。マンションにつく頃には、雪が本格的に降ってきて、駐車場から足早にエントランスへ向かう。そして並んで階段を上がっていくと、先生の家の前に、女の人が立っていた。年は私と同じぐらいの今どきな感じの子で、暖かそうなコートを着ているのに、鼻の頭がちょっと赤くなっている。

「あれ……?」
「お兄ちゃん!! またスマホの電源が入ってない!!」

 先生が何か言おうとするより前にその人が怒った顔をして自分のスマホを突き出した。発信履歴にはズラッと「お兄ちゃん」が並んでいる。

「急患がでたらどうするの?! 職務怠慢だよ!!」
「ごめん」
「凍えちゃうよ、早く入れて!!」

 そう言ったところで、私の存在に気がついたらしく、こちらに視線を向けた。そして、先生の顔と交互に見詰めながら、不思議そうな顔をする。

「もしかして、早々にカノジョできた? 私、お邪魔虫だった?」
「え、いや、こちらはお隣さんで、本屋で会ったから一緒に車で帰ってきただけで」

 先生の答えに、あからさまにガッカリした顔をする。

「カノジョじゃないの? ダメじゃん!!」
「まだ出会って間なしなのに、ダメじゃんもなにもないだろ」
「なに言ってるの、奈緒ちゃんとこなんて、出会って一ヶ月で結婚したじゃない。もたもたしていたら告白するタイミングを見失って、パパみたいに十年も我慢することになっちゃうよ! 何事も迅速が大事! 果報は、寝てたら通りすぎちゃうんだからね!」
「……」

 ビシッとスマホを突きつけられて、黙り込んでしまう先生。見ているぶんには楽しそうな兄と妹の会話だけど、立ち話するには少しばかり寒い天気。お二人さん、そろそろ暖かいお部屋に入りませんか?

「あの、寒いですから中に入りませんか? えっと……」
「結花です、重光しげみつ結花ゆいか! この、影のうっすい人の妹です!!」

 その時、どうしてお兄さんと妹さんで、苗字が違うのかなと疑問に思ったんだけれど、それよりも寒くて一秒でも早く中に入りたかったから、その疑問は一時棚上げ状態にすることにした。

「じゃあ結花さん、おでんがあるんですけど、ご一緒にいかがですか?」
「食べますー!!」

 嬉しそうにうなづく彼女の横で、先生はやれやれと肩をガックリ落とした。
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