捨てたのはあなたです。今さら取り戻せません

めめめ

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名を呼ぶ距離

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帝都に夜が落ちる。

宮殿の高楼から見下ろす街は、灯りの海だった。
整然と、揺らぐことなく、静かに息づいている。

「帝都はお好きか」

隣に立つカイゼルが、低く問う。

セラフィーナは視線を遠くへ向けたまま答える。

「秩序があります。安心いたします」

「王国にはなかったか」

問いは淡々としている。

責める色はない。

「……あちらは、常に綱渡りでございました」

言葉は柔らかいが、事実だ。

カイゼルはわずかに息を吐く。

「貴女が綱を支えていたのだろう」

否定はしない。

できない。

しばしの沈黙。

風がドレスの裾を揺らす。

そのとき。

「セラフィーナ」

名を呼ばれる。

公の場ではなく、
命令でもなく。

ただ、呼ぶために。

彼女はゆっくりと振り向く。

「陛下」

「陛下は不要だ」

一瞬、時間が止まる。

「ここには、他に誰もいない」

銀の瞳がまっすぐ向けられる。

「カイゼルと呼べ」

それは強制ではない。

だが拒否も許さぬ静かな圧。

「……それは、僭越にございます」

「立場は私が決める」

距離が半歩、縮まる。

触れてはいない。

だが、近い。

「私は、貴女を臣下として扱っていない」

低く、確かな声。

「対等な才を持つ者として見ている」

胸の奥がわずかに揺れる。

王国で、一度も与えられなかった言葉。

対等。

「セラフィーナ」

もう一度。

今度は、少し柔らかい。

「帝国に来たことを、後悔していないか」

問いは静かだが、ほんの僅かに個人的だ。

彼女は目を伏せる。

「……後悔はございません」

「ならば」

風が止む。

「私の隣に立て」

言葉は短い。

だが重い。

玉座の横。
政務の席。
未来の景色。

すべてを含んだ“隣”。

彼女は息を整える。

「それは、職務としてでしょうか」

カイゼルの口元がわずかに緩む。

「今は、そうしておこう」

今は。

含みのある言い方。

その瞬間、彼の手が伸びる。

触れるのは、手首ではない。

ドレスの裾でもない。

ただ、風で乱れた髪を指先で整える。

一瞬。

それだけ。

「……冷える」

声音は平静だが、行為は違う。

保護でも支配でもない。

自然な距離。

セラフィーナの呼吸がわずかに乱れる。

「カイゼル、陛下……」

思わず混ざる呼称。

彼は低く笑う。

「どちらでも構わぬ。だが」

銀の瞳が柔らぐ。

「名で呼ばれる方が、好ましい」

夜景が揺れる。

帝国の灯りは、揺るがない。

そして。

王国では、王子が焦燥に駆られていた。

取り戻せると信じていた存在が、
今や皇帝の“隣”に立ち始めているとは知らずに。
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