ちっちゃな婚約者に婚約破棄されたので気が触れた振りをして近衛騎士に告白してみた

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第8話:噂と焦り

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秋が来ると、王宮の石は声をひそめる。風は乾いて、紙の匂いを遠くまで運ぶ。噂は紙よりも速く、軽い。

「第三王子、縁談」

最初に聞いたのは、食堂の隅の銀の器越し。塩の粒みたいな声。次は回廊の羽根扇の影。最後には、父上の執務室の扉の前で、文官が言葉を揃えて言った。

「友好国より、侯爵家のご令嬢。穀倉地帯との同盟強化を――」

言葉は正しい。国の話だ。王子は王子として聞く。砂糖を入れすぎない耳で。

「返答は急がずともよい。数ヶ月、視察を兼ねて判断せよ」

父上の声は、冬に備える倉の木のように落ち着いていた。長兄は「賢明だ」と頷いた。俺も頷く。頷くけれど、胸の中で、糸が一度だけきゅっと鳴った。痛いほうではなく、ほどけないほう。けれど、焦りという火は、その糸の端で小さく灯る。

―――

昼の訓練場。砂は乾いて、靴裏で細かく鳴く。グスタフの声は短く重い。今日も間合い。鈍刀。呼吸。数字は裏切らない。

二合、三合、四合――ふと、視界の端で黒い影が遅れた。ナハト。いつもは動かない眉が、言葉にしない皺を一つだけ持っている。俺は踏み込みを止めずに、胸の前で金具を、かすかに。とんの代わりの金の音。返ってくる。胸甲の端が、ひそかに鳴る。大丈夫、という返事。けれど、その半拍の遅れが、俺の中の太鼓の拍と合っていない。焦りは、音のずれから始まる。

「――止め」

刃を引く。息は整っているのに、喉が乾く。ルークが水袋を差し出す。

「聞いた? 例の話」

「聞いた」

「殿下のこととなると、城は早い。パン焼き場の酵母より」

軽い冗談。いつもは砂糖の欠片みたいに溶けるけれど、今日は舌の上で転がらない。

「ナハトは?」

「任務中は噂を口にしません」

ルークがわざとらしく肩をすくめた。遠くで、ナハトがこちらを見ないで空の具合を見ている。雲は薄い。雨は来ない。なのに、胸の内側だけ湿っていく。

―――

午後、王妃のサロン。色とりどりの羽根とレース。甘い香水。社交の砂糖は、入れ方を間違えると舌が麻痺する。俺は杯を持って、笑い、頷く。王子の礼儀。すると、扇が一枚、こちらに傾いた。

「殿下、あの侯爵家のご令嬢、楽器がお得意でして。秋の音楽会でご披露なさるとか」

「楽しみです」

「殿下も、お相手になってくださったら素敵」

「式次第です」

会話の刃は丸い。けれど、刺す場所をよく知っている。俺は砂糖を減らした返事を置いて、早めに退出を願った。言葉に熱をつけすぎると、焦げる。

回廊に出ると、空気は冷たかった。石の匂い。金具がひとつ、遠くで鳴る。胸の前で、とん。返って、とん。影の細い帯へ。午後の影は、夏より短いが、まだある。

「殿下」

「影」

「影です」

立ったナハトは、いつも通りに見えた。いつも通り、という形は、訓練された剣の鞘だ。けれど、手袋の縫い目が解けかけている。握りしめた回数。焦りの数。

「噂を聞いた」

「任務中です」

「影」

「影です」

短い沈黙。秋の空気が胸の中にゆっくり入る。出ていく。言葉を測る。砂糖は控えめに。塩をひとつまみ。

「俺は、急がない。父上の言った通り、時間をかける」

「賢明です」

「けど、こわいのは、時間じゃなくて、噂が形になる速さ」

「噂は風です。形は石です」

「石にされる前に、俺が選ぶ」

「何を」

「王子としての答え。――それから、俺としての答え」

ナハトの目が、光を受けて深くなる。その深さに、十一の夜と同じ海の色を見つける。俺は続ける。焦りに火を足しすぎないように、息を細く長く。

「俺は、王国のために結び目を作れる。けど、心の結び目は、ほどかない」

「……承りました」

「焦りが刃になる。だから、鞘に入れる。合図を増やしたい」

「増やす?」

「人前で、俺が剣帯の金具を二度、指で弾いたら――」

俺は実演する。金属が、ひそかに、ちいさく、二度。目立たない。けれど、俺たちには聞こえる。

「その時は、俺の心が走り出しそう、って意味」

「私は一度だけ、胸甲を叩きます。『立って』という意味で」

「立つ」

「殿下は立てます」

断言の声は、焦りの火に水を差す。煙が薄くなる。俺は頷き、縫い目のほつれた手袋に目を落とす。

「それ、直して」

「はい」

「焦りは、手袋を破る」

「殿下の比喩は、相変わらず砂糖控えめで、効きます」

わずかに笑い合った。影はもう短い。日が傾く。礼儀の距離に戻る前に、もう一つだけ。

「――ナハト」

「はい」

「俺は、音楽会で歌わない」

「賢明です」

「剣の歌なら、歌える」

「それは、いつでも」

砂の上で靴が小さく鳴る。戻る足音。合図が増えたぶん、焦りは鞘に収まっていく。

―――

夕刻、長兄の書斎。紙の匂い。窓の外に早い鳥。俺は立って言う。

「縁談の返答に一年の猶予を。巡見をしたい。穀倉地帯の堤と倉の実地を見て、話を聞き、数字を持ち帰る。数字は嘘をつかない」

長兄は唇の端で笑い、すぐ真顔に戻った。

「理由が立つ。父上は頷くだろう。だが、弟よ。噂は一年も待たない」

「噂には噂の餌がいる。餌を出さない」

「どうやって」

「人前で、砂糖を足しすぎない。見せるべき勤めを見せる。剣。文。巡見。夜更けの窓辺で歌わず、朝に歩く」

「よし。――それから、弟よ」

「なに」

「焦りを、人にうつすな。熱は手紙にも、目にも、声にも出る」

「鞘に入れる」

「入れたまま温められるか」

「温める」

長兄は短く笑い、机の引き出しから新しい手帳を出した。革の表紙。端に細い空欄用の罫線。俺は受け取って、しおりの革紐を挟む場所を指で探る。ぴたりと合う。約束の手触り。

―――

音楽会の日は、雲ひとつない空だった。庭に張られた白い天幕。金糸の椅子。笑い声。侯爵家の令嬢は、噂通り、弦を弾いた。指が美しく、音は澄んでいた。俺は拍手をした。王子の礼儀。砂糖をひとつまみ。

休憩のとき、貴族たちが輪を作る。視線が飛ぶ。扇の影。何本もの糸が、俺に向けて投げられる。絡まらないように、歩幅を正しく。胸の前で、金具を、二度。かすかに。すぐに、遠くで金属がひとつ返る。立て、と言う音。立つ。焦りが鞘に入る。歩く。笑う。頷く。砂糖を増やさない。

庭の端では、近衛が控える。彼らは影。影の仕事。ナハトは視線を寄越さない。寄越さないことが、合図より雄弁なときがある。礼儀の距離。なのに、胸は静かだ。拍に合っている。俺は自分でも少し驚いて、少し嬉しかった。

終わり際、ひとりの貴婦人が白いハンカチを差し出した。

「殿下、夏の名残の汗を」

「ありがとうございます」

受け取って、ポケットにしまう。使わない。夜、洗って恩を返す。父上の言う『借りの管理』。王子の仕事。

退出のとき、庭の端で一瞬だけ影が重なった。俺はポケットから白を出し、指で端をつまんで見せる。ナハトが、ほんのわずかに眉を上げ、次の瞬間、胸甲の縁を軽く叩いた。金のひそかな音。

『返すべきものは、返す』

『受け取ったものは、見失わない』

言葉にしなくても、意味は届く。砂糖の欠片が、舌の上でようやく溶けた。

―――

夜。書斎。新しい手帳の最初の頁に、三行。

『噂は風。焦りは火。合図は水。』

その下に、小さく付け足す。

『俺は石を選ぶ。石で橋を作る。』

巡見の計画を箇条書きにする。穀倉と堤、防風林、倉の鍵、税の配分、パン屋の小麦の挽き率。数字。数字。数字。体は嘘をつかない。数字も嘘をつかない。俺は、焦りに数字を与える。食べさせる。飢えさせない。焦りは、空腹だと暴れる。

胸の前で、とん。遠くで、とん。返ってくる。夜の回廊のどこか。合図の音が、自分の骨に深く落ちる。十五の骨。もう子供じゃない音。

「ナハト」

声に出さず、口だけで言う。名前の形は、昔よりも細く、固い。扱える刃の形。

いつか、光の真ん中で言うとき、焦りは鞘の中で温まって、刃ではなく、言葉になる。砂糖は控えめで、塩は正しく、火は見えないところで燃え続ける。

――おやすみ。影の約束。
おやすみ、俺の近衛騎士。明日、数字を連れて歩く。あなたの前で、堂々と。
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