ちっちゃな婚約者に婚約破棄されたので気が触れた振りをして近衛騎士に告白してみた

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第9話:剣の稽古で距離を詰める

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朝の砂は、夜の露を少しだけ飲んで、靴裏でやわらかく鳴った。秋の光は薄く、剣の鈍い刃に白い縁を置く。グスタフが短く言う。

「今日は入り身と崩し。間合いを半身で詰めろ。見本は――近衛、出ろ」

黒髪が陽を吸う。銀の胸甲が陽を返す。ナハトが前に出る。演武用の鈍刀を受け取り、礼。礼を返す。二人の影が砂に重なる。ほとんど同じ長さ。ほとんど、が好きだ。全部じゃないから、まだ伸びられる。

「殿下、合」

一拍。踏み込み。足、膝、腰、顎、肩、刃。空気が薄く鳴る。小さな音でも俺には聞こえる。好き。刃が触れる前、ナハトは半歩、斜めに消えた。視界の端で肩が傾き、胸の前に空白が生まれる。そこへ、入られる。

「――近い」

思わず声が漏れる。腕を取られ、力が地面に落とされる。痛くはない。痛くないのに、心臓のあたりがきゅっと鳴る。金具を触れない距離。代わりに、喉で息を数える。二、三。数字は嘘をつかない。すぐ、体が立ち直る場所を教える。

「止め」

グスタフの声。離れる。礼。砂がふわりと戻る。ナハトの目が一瞬だけ笑って、すぐ何も映さない仕事の目に戻る。距離は戻った。戻ったけれど、体のどこかに、さっきの空白の形が残る。そこへ、もう一度、入る練習。

三合目、四合目。今度は俺が半身で胸を隠し、肩で線を薄くする。刃先だけでは届かない距離。届かないから、足を連れていく。砂が小さく跳ねて、視界の端で黒髪が揺れる。入れる。――入れた、と思った瞬間、手首を軽く返されて、重さが抜ける。落ちる場所を、先に掴まれる。

「力は、ここで抜く」

低い声が耳の近くで言った。気づけば、距離がほとんどない。礼儀の距離は、教練の鞘に収まって、形を変える。許された近さ。剣のための近さ。鼻先に鉄と革と汗の匂い。十一の時に嗅いだ匂いより、濃い。大人の匂い。喉が、無意味に鳴る。

「近すぎると、見えなくなる」

「見ながら、近づけ」

「そう」

短い言葉が、刃より早く来て、刃より深く残る。体は嘘をつかない。心も、いまは嘘をつかせない。俺は一度だけ瞬きをして、視線を落とさず、重心を落とす。足が砂を覚える。膝が、腰を呼ぶ。腰が、肩を呼ぶ。肩が、手を呼ぶ。手が、刃を呼ぶ。

「――止め」

刃を引く。呼吸は荒くないのに、胸の内側だけ熱い。ルークが水袋を掲げて笑う。

「殿下、近すぎて鼻先をぶつけるかと思った」

「ぶつけない」

「ぶつけてもいいけど、今は武器が違う」

「ルーク」

グスタフの咳払い一つで、余計な砂糖は消える。稽古は続く。数字が増える。入り身二十。崩し二十。相対十。体は嘘をつかない。足裏の皮が少し切れ、指の豆がひとつ裂けた。痛い。けど、嫌じゃない。

―――

休憩。柵の影が細く伸びる。影に入ると、熱がゆっくり落ちる。そこへ、手袋を片方外したナハト。

「殿下」

「影」

「影です。手を」

差し出された掌に、自分の掌を置く。包帯。油の匂い。十一の夜と同じ動作なのに、重さが違う。手の骨が太くなった分だけ、触れ合う面積が増えた。増えたぶんだけ、熱が移る。

「ここに力が集まる癖がある」

親指の付け根を軽く押される。びく、と体の別の場所が反応した。痛みではない。知らない筋が、名前を呼ばれたみたいに動く。

「力は、ここでほどく」

手首の小さな骨を、指先がなぞる。そこから肩に向けて、薄い道が引かれる。言葉ではなく、触れ方の地図。地図の線上に、息を落とす。二、三。数字は嘘をつかない。呼吸が体を通って、足裏へ落ちる。

「……できる」

「できます」

「近い」

「教練です」

「わかってる」

言葉を測る。砂糖は控えめに。塩をひとつまみ。喉で、合図の代わりに、低く数える。二、三。ナハトの眼差しが、ほんのわずかにやわらいで、すぐ仕事に戻る。

「もう一度。今度は私が入る。殿下は肩で見ろ」

「肩で?」

「目では遅い」

言葉が面白く、笑いそうになる。笑わない。十五は笑う場所を選べる。影の中でだけ、口の端をほんの少し上げる。ナハトが胸甲の縁を、ごく微かに、指で叩いた。金の音。返事。俺は剣帯の金具を、ひそかに一度。立つ。焦りは鞘の中でぬるくなり、役に立つ熱だけ残す。

―――

後半。足場を一段上げ、砂が深い場所に移る。足首に効く。間合いが変わる。深い砂は、欲張りな足を許さない。半歩の価値が上がる。

ナハトが入る。肩で見る。目で追わず、肩で感じる。胸の前の空白ができる前に、薄く半身を切って、踏み替える。刃が触れ合わず、衣だけが擦れる。音は小さい。なのに、胸はうるさい。太鼓。太鼓。とん、と胸の前で――できない。代わりに、呼吸をひとつ、深く。

「今のだ」

短い褒め。砂糖を一粒。舌で転がす。甘い。続けて入る。今度は俺が。足裏の皮が少し滑り、重心が前に落ちすぎる。危ない、と思うより先に、手首を掴まれ、肩に支えが入る。胸がぶつからないぎりぎりのところで止まる。剣の外で、刃より鋭い近さ。

「――殿下」

低い声が、耳のすぐ近くで俺の名前を呼ぶ。名前が刃になる。刃なのに、切らない。切らない刀身の重みだけ、胸に落ちる。喉が鳴る。近い。近すぎる。近すぎるのに、礼儀の鞘に収まっている。教練の近さ。許された近さ。許されているから、余計に、ずるい。

「息を数えて」

言われる前から数えていた。でも、彼の声に従って、もう一度、数える。二、三。胸の太鼓が、剣の拍に合う。拍が合うと、焦りは刃にならず、言葉になる。言葉は、まだ言わない。数だけを置く。

「――離れる」

同時に、手が離れる。支えが消えると、体は自分で立つ。立てる。十五のからだは、十一よりも、ずっと、立つことを覚えた。

グスタフが短く頷いた。「よし」

ルークが遠くで親指を立てて、にやっと笑う。俺は睨んだふりをして、すぐに笑う。砂が乾いて、足が軽い。数字は増える。入り身三十。崩し三十。相対十五。

―――

夕刻。影が伸びる。稽古は終わり。汗が塩になる前に、水を飲む。影の帯へ。いつもの場所。胸の前で、とん。返って、とん。影の約束。

「殿下」

「なに」

「今日の『近さ』は、よく働きました」

「働いた」

「殿下は、自分で距離を詰められるようになった」

「詰める。詰められる。……詰めすぎない」

「それがいちばん難しい」

ふたりして、同じところで笑う。影の笑いは、光よりも長持ちする。砂糖を入れなくても、甘くなる。

「合図をひとつ増やしたい」

「また?」

「稽古のときだけの合図。俺が『近すぎる』と思ったら、呼吸を三から逆に数える」

「三、二、一」

「そう。ナハトは、その『一』のときに、指先でここを」

胸甲の縁、心臓の少し上。指二本で、軽く。金は鳴らさない。音は出さない。触れたかどうか、風のせいにできるくらいの一瞬。

「意味は?」

「戻れ。――礼儀へ」

「承りました」

影の中で、ほんの一度だけ、試す。三、二、一。触れたかどうか、風のせいにできるくらいの軽さ。なのに、体の奥まで届く。より速く、より静かに。鞘に戻るための合図。好き。よくできている。

「殿下」

「うん」

「殿下は、もう子供じゃない」

「知ってる」

「だから、私は、近づきすぎない」

喉の奥が、きゅっとなる。知っている。わかっている。礼儀の距離。守るための空白。だけど、俺は十五で、欲張りで、王子だ。

「じゃあ、稽古では、もっと近づいて」

「稽古では」

「影では?」

「影では、殿下の」

同じ返事。何度繰り返しても、ほどけない結び目。革紐の擦れた端を、指でそっと撫でる。しおりは今日も、頁を正しく区切ってくれる。明日の頁は、今日の続き。入り身の続き。距離の続き。

「ナハト」

「はい」

「俺は、近づくのが上手くなった。……いつか、言葉でも」

「その時は、教練ではなく、正式の場で」

「光の真ん中で」

「ええ」

影が薄くなる。日が落ちる。礼儀の距離が戻る。戻ったあとにも、結び目は残る。胸の前で、とん。返って、とん。骨の内側で音が深くなる。十五の音。もう子供じゃない音。

夜、書斎。しおりの革紐を頁に挟む。今日の空欄に、三行。

『近さは刃。礼儀は鞘。息は数。』

そして、小さく付け足す。

『言葉は、光で抜く。』

王子だから。欲張りだから。叶えるために。

――気が触れたふりなんて、もういらない。
光の真ん中で言う日のために、今日、距離を詰めた。
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