ちっちゃな婚約者に婚約破棄されたので気が触れた振りをして近衛騎士に告白してみた

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第10話:初めての恋心

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巡見の地図は、大きすぎて机から少しはみ出した。穀倉地帯の川筋、土手の高さ、倉の位置。文官が書いた細い字が、秋の光でうっすら銀に光る。俺は定規で線を押さえ、指で距離を追う。数字は嘘をつかない。だから落ち着ける。――はずだった。

「殿下、ここは浅瀬が増えています。春の融雪で川が広がった。渡しを移すべきかと」

ナハトが手袋を外し、地図の縁をそっと押さえた。骨ばった指。薄い傷。弓の弦でできた古い段。指先が、紙の上を静かに移動する。それだけのことなのに、喉が、一瞬だけ、乾く。

「渡しを移すなら、堤の補修も同時に。労働力の配分……」

言いながら、視線が勝手に指を追う。紙と皮膚が擦れる、ほんの小さな音。十一のときは気づかなかった音だ。十五の耳は、変なものを拾う。拾った音に、体が先に答える。胸が、薄く熱い。数字のほうが冷たい。

「殿下?」

「……あ、ああ」

わずかに空白。砂糖を入れすぎたみたいな甘さが、舌に残る。違う。これは砂糖じゃない。塩でもない。名のない味。喉の奥が、知らない形で鳴く。

「ここからここまでは、護衛の交代を増やしましょう。夜は冷える。人は冷えると、判断を早く誤る」

低い声。仕事の声。俺は頷き、定規をずらす。線が少し曲がった。曲がるはずのないところで、曲がった。手元を見直す。笑いそうになる。笑わない。十五は笑う場所を選べる。

「……ナハト」

「はい」

「地図の上の距離は詰められるのに、人の距離は、むずかしい」

「礼儀という堤があります」

「越水、しない?」

「させません」

即答。胸の太鼓が、一度だけ強く鳴る。合図を探して、剣帯の金具に触れそうになり、やめる。影じゃない。仕事の光。鞘の中で、刃を撫でるだけにしておく。

文官が戻ってきて、地図は丸められ、封をされる。革紐で二度結ぶ。ほどけにくい結び目。革の匂い。胸の奥に、もっと古い革紐の手触りがよみがえる。指が覚えている。指が先に覚えてしまう。体は嘘をつかない。

―――

午後の稽古は短めだった。巡見の準備で時間が削れる。砂は乾いて軽く、靴がよく鳴る。グスタフが短く言う。

「今日は確認だけ。五合」

ルークが相手。赤毛が陽に燃える。笑っているが、目は笑わない。仕事の目。二合、三合――四合目で、ふいに風が吹いた。砂が舞い、視界が白くなる。一瞬、相手を見失う。その刹那、背後から気配。

「肩で見ろ」

低い声が背骨を走る。体が先に動き、半身で空白を作る。ルークの刃が空を切り、砂が音を飲み込む。五合目、刃を引く。呼吸は乱れない。乱れないのに、胸の奥だけ、別の拍を打っている。

「ほら、殿下。近くに『風』がいれば、ちゃんと見える」

ルークがからかう。風、という言い方が好きだ。けれど、今日の風は、砂糖にも塩にも似ていない。もっと熱い。手のひらで掴めない。名のない熱。

―――

日が傾く。影が伸びる。影の帯。胸の前で、とん。遅れて、とん。影の約束。呼吸が落ち着く。いつものはずの影が、今日は少し、狭い。

「殿下」

「影」

「影です」

沈黙がひとつ。影は、言葉を減らしても崩れない。だから、言葉を減らす。代わりに、合図をひとつ。剣帯の金具を、かすかに二度。とん、とん。心が走り出しそう、という印。ナハトは胸甲を、ほんの一度。とん。立て、という返事。立つ。足の裏が砂を掴む。体は嘘をつかない。けれど――

「ナハト」

「はい」

「俺、きょう……変だ」

「どこが?」

「喉。目。手。……数字が、遅い」

「数字が遅い?」

「うん。頭が、いつもより、あとから来る」

言って、自分でも笑いそうになる。笑わない。影の中では、笑いは長持ちする。ここで無駄遣いしない。

「殿下」

「なに」

「それは、心が先に歩いているということです」

「心が、先?」

「体より先に」

いつもと逆。いつもは体が先に答えた。今日、先に歩いているのは、心のほう。名前がない。まだ呼べない。呼んだら、戻れない気がする。けれど、戻る必要があるだろうか、とも思う。

「……歩幅、合う?」

「合わせられます」

即答。低い声が、喉の乾きを少しだけ潤す。砂糖ではなく、水。水は味がないから、嘘をつかない。胸の拍が、ほんの少しだけ落ち着く。

「明日、巡見の初日だ」

「危険は少ない道程を選びました」

「俺の護衛、主はルーク」

「はい」

「影は?」

「影は、いつも殿下の」

「うん」

それだけ。影の中の会話は短い。短いのに、長い。一言ずつが、結び目に変わる。ほどけにくい結び目。

―――

夜。書斎。地図の複本。手帳。革紐。窓の外に、薄い月。三日月。欠けた光は、余白。余白があるから、書ける。

ペンを持つ。今日の空欄に、三行のつもりで座る。けれど、手が止まる。言葉の順番が決まらない。砂糖を入れすぎないように気を付けるあまり、塩も忘れる。味のない行が、一行。消す。二行。消す。消しゴムの粉が、紙の端に小さく積もる。

胸の前で、とん。返事は来ない。巡回の時間。いい。合図は、自分に向けても効く。骨が、音を受け止める。十一のときより深いところで鳴って、静かに広がる。

俺は、目を閉じる。今日の地図。指先。擦れる音。喉の乾き。風。入り身。支え。三、二、一。戻れ。礼儀。――それでも消えない、名のない熱。

「……これが、恋、か」

声に出してみた。小さく。ひとりだけが聞く声で。言ってしまえば、戻れない気がした。けれど、言った瞬間、喉の形が落ち着いた。味のない水が、ようやく胸まで下りてくる。

恋。こい。短い音。砂糖より短い。塩より短い。短いのに、長い。ひらがなにすると、柔らかい。漢字にすると、深い。俺の中で、両方が並ぶ。並んで、ほどけない結び目になる。

「恋は、距離を乱す」

長兄の教えが喉を通る。「乱れたまま整えるのが、成熟だ」――以前、別の話のときに言われた言葉。今、やっと意味がわかる。

乱れた。今日、乱れた。けれど、戻れた。三、二、一。呼吸で。合図で。礼儀で。乱れたまま、整えられるなら、恐れなくていい。恐れなくていいなら、進める。

ペンを取る。手帳の余白に、はっきり書く。

『恋だ。』

その下に、小さく続ける。

『乱れたまま、整える。礼儀の鞘で。』

さらに、もう一行。

『光の真ん中で言う。砂糖は控えめに。塩をひとつまみ。』

窓の外で、風が庭木を撫でる。薄い月が雲の間で瞬く。胸の前で、とん。自分で返す、とん。十五の骨が、静かに響く。

「ナハト」

口の形だけで言う。五歳の頃は、あまく舐めるみたいに。十一の頃は、祈るみたいに。十五のいまは、選ぶみたいに。選んで、置く。乱れた心を、鞘に入れて、温める。

――明日、歩く。川筋を見て、堤を測って、数字を拾って、パン屋で粉の匂いを嗅いで。王子としての目で。
そして、ときどき、影に合図を送る。胸の前で、とん。金具を、ひそかに。とん。返ってくる。とん。

恋は、距離を乱す。けれど、俺はもう、距離を詰める術を知っている。稽古で習った通り、目では遅く、肩で見て、足で近づき、呼吸で戻る。礼儀の鞘に収める。そうやって、乱れたまま整えて、光の真ん中へ持っていく。

布団は甘い罠。今日は、甘さの奥に熱がある。眠りは数字に弱い。三百数えずとも、二十で落ちた。落ちる直前、胸の中で、短い言葉がもう一度、やさしく結び目を作る。

――恋だ。
だから、まっすぐに。
だから、俺はお前が好きだ。
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