ちっちゃな婚約者に婚約破棄されたので気が触れた振りをして近衛騎士に告白してみた

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第11話:距離を置く理由

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巡見の朝は、鍛えた剣みたいに冷たく澄んでいた。荷車の車輪が石畳をこすり、馬の吐息が白い。地図は筒に収め、手帳は胸袋。しおりの革紐の端を指で押さえて、約束の手触りを確かめる。胸の前で、とん――は、しない。城の外では、合図は数を減らす。礼儀の鞘を厚くする。

護衛の主はルーク。ナハトは先行と殿の交互。距離の出入りが、いつもより規則正しい。規則正しいぶん、近さの乱れは許されない。わかっている。わかっているのに、喉の奥に名のない熱が残る。

「殿下、渡し場は東に移っています」

先行から戻ったナハトが、簡潔に報告する。手袋の縫い目は直っていた。視線は俺を過ぎて、隊列全体を見る。仕事の目。好きだ。好きで、ちょっと痛い。

川は雨の名残で幅を増していた。流れは速いが、浅いところが続く。渡し守が声を張る。馬の鼻面を叩く音。人の足が水に入ると、秋の冷たさが膝に刺さる。数字は嘘をつかない。深さの目安。歩幅の刻み。俺は口の中で数える。二、三、四――

岸に上がる直前、下流で子供が石から足を滑らせた。浅瀬だけど、流れは速い。母親の叫びが風を裂く。俺の足は先に動いた。肩で水を割り、子供の腕をつかむ。重さは軽い。数字で言えば十五と半の教本よりも軽い。空気が肺を焼く前に、岸の手が伸び、子供は引き上げられる。母親の声が涙に変わる。礼を受ける。王子として短く。砂糖を足しすぎない。――その背に、低い声。

「殿下」

振り向く前に、胸の拍が半歩遅れる。わかる。叱責の気配。正しいやつ。

「今のは、任務外の動きです」

「浅瀬。距離、二歩。時間、三呼吸」

「数字を並べれば正しく見える」

ナハトは一歩、近づいて、すぐに止まる。礼儀の距離。川風が鉄と革の匂いを薄くする。

「ですが、殿下が一歩動けば、護衛は十歩動く。隊は百歩乱れる」

言葉は刃だ。切っ先は鈍くない。痛い。でも、必要な痛み。体は嘘をつかない。俺は頷く。

「……すまない」

「謝罪は要りません。次に活かせば、それは判断になります」

仕事の言葉。受け取って鞘に入れる。けれど、胸の奥の名のない熱は、別の形で燻る。俺は水滴を払って、隊に戻る。ルークが目だけで「良いことしたけど、あとで怒られる」って顔をした。怒られた。正しく。

―――

昼過ぎ、穀倉の町。石粉の匂いと粉の匂いが混ざる。製粉所の石臼は大きな腹でゆっくり回り、粉の霧が光を白くする。俺は数字を拾う。挽き率、湿度、保管の日数。目録の記帳が乱れている場所に指先で印。文官がうなずく。体は嘘をつかない。紙はときどき嘘をつく。だから現場を見る。

粉の白い廊下で、地元の家令が柔らかな声を出した。

「殿下、今宵は小さな宴を。侯爵家のご令嬢も巡見の地まで来ておりまして」

砂糖が多い声。舌が痺れる。俺は笑って、砂糖を減らした返事を置く。

「お心遣いに感謝しますが、今夜は記録の整理を。巡見の目的を果たしてから、改めて」

「殿下はお勤め熱心でいらっしゃる」

扇の影みたいな言葉。丸いのに、少し刺さる。隊に戻ると、先頭の黒髪がわずかに揺れて、何も言わない。言わないのに、心が少し落ち着く。風が粉の匂いを攫っていく。

―――

夕刻、野営地。焚き火の輪。火は、人の顔から砂糖を掬って、塩だけ残す。いい火だ。俺は記録をまとめ、文官と短くやりとりしてから、立つ。影の帯を探す。焚き火の後ろに、細い影が立っている。そこに、彼がいる。

「殿下」

「影」

「影です」

胸の前で、とん――の代わりに、剣帯の金具を、かすかに一度。影のときは、音を減らす。彼も胸甲の縁を指で軽く叩く。金は鳴らさない。見えない合図。届く。

沈黙が一つ。焚き火の音が遠くで小さく割れる。星はまだ出ない。

「殿下」

「なに」

「距離を置かせてください」

喉が、ごくりと鳴った。それは水でも砂糖でもなく、熱の音だ。

「いま、置いてる」

「さらに」

「どれくらい」

「殿下が、殿下の感情を、礼儀の鞘に預けられるくらい」

言葉は静かで、深い。意味は重いのに、声は軽い。彼は続ける。

「城の外では、人の目が増えます。善意も悪意も、同じ数だけ。殿下の一歩は、国の形を変えます。私の一歩も」

「……俺が、乱してる?」

「乱れているのは、風です。殿下は歩いている」

「風に、引っ張られてる?」

「だから、重石が要る」

「重石」

「距離です」

遠くで薪が弾けた。火の粉がひとつ、風に溶けた。影は揺れない。俺は呼吸を三から逆に数える。三、二、一。鞘に入れる。熱は消えない。けれど、形を変える。

「合図は?」

「最小限に」

「胸の、とんは?」

「緊急時のみ」

「金具、二度は?」

「――禁止。いまは、殿下の心を走らせないことが最優先です」

胸の内側が、きゅっとなる。十一の夜に似ている。でも違う。あの時は、血の赤い匂いで胸が鳴った。今夜は、見えない火で胸が鳴る。

「影は、殿下の、って言ってくれた」

「影は殿下のものです。だからこそ、影に甘えないでください」

甘えない。甘いのを減らす。砂糖を控える。味は薄くなるはずなのに、喉は熱い。名のない味は、減らない。

「理由は、俺のため?」

「殿下のため。そして、殿下の隣に立つ私のため」

「隣……?」

「いつか、光の真ん中で殿下が選ぶときのために、今、影を正しくします」

言葉が、結び目になって落ちる。強い結び。革紐の端が、指の腹に痛いくらいに馴染む。痛いのは、役に立つ。

「――わかった」

喉が熱い。唇が乾く。数字は嘘をつかない。三、二、一。俺は自分に命じる。

「距離を、置く」

「ありがとうございます」

「ただし」

「はい」

「俺は、踏み出すことをやめない」

「殿下の歩幅は、止められません」

「じゃあ、歩幅を計る。紙に。数字で」

「それなら、私は何度でも答えます」

「距離が、いつか、ゼロになるように」

ナハトは一瞬だけ目を伏せ、すぐに顔を上げた。焚き火の赤が瞳に小さく宿る。

「ゼロは、光の真ん中にしかありません」

「そこへ、連れていく」

俺の声は小さい。けれど、約束は小さくても重い。影の土間に、石を置くみたいに、確かな重さが残る。

「――今夜は、これで」

「うん」

影は薄くなる。焚き火の輪に戻る前、俺は自分の胸にそっと手を当てる。とんは打たない。骨の奥で、静かに拍が響く。生きている。熱い。礼儀の鞘の中で温もる刃。

―――

翌朝の空は、薄い金属の色だった。堤の点検。石の継ぎ目に苔。水位の刻み。刻みの間隔。数字は正直だ。俺は手帳を開き、筆で短く書く。

『距離:三十歩。
合図:緊急のみ。
目的:光の真ん中。』

歩く。隊の真ん中。歩幅は均等。肩は落とし、顎は引く。王子の歩き。胸の中の熱は、右のポケットで小さく鳴る手帳に移す。熱は燃料だ。書けば燃える先が変わる。

昼、土手の下で農民が鍬を止めて頭を下げた。俺は頭を下げ返す。砂糖を足さない礼。横でルークがぼそりと笑う。

「殿下、昨日より大人に見える」

「昨日は子供に見えた?」

「恋の顔は、誰でもちょっと子供になる」

足が半歩、止まりかける。止めない。歩幅は均等。ルークは前を見たまま、続ける。

「距離を置くのも、大人の仕事ですよ」

「知ってる」

「じゃあ、よし」

軽い声。火にくべる細い枝。音だけして、すぐに熱に変わる。

―――

巡見は続いた。倉の鍵穴の渋さ。石橋の継ぎ目の欠け。風向きと風除け林の位置。耳に入る噂は、砂みたいに靴底に溜まり、歩けば落ちる。落ちないのは、胸の中の名のない熱だけ。けれど、それも鞘に入って形を変える。数字になる。言葉になる。記録になる。

影の約束は、細く、強くなった。合図は最小限。胸は打たない。金具は鳴らさない。ときどき、遠い場所で、黒髪が風にゆれ、銀の胸甲が光を返す。目は合わない。合わないことが、合図になる。礼儀の距離。守るための空白。そこに、俺は自分の足跡を埋めていく。

―――

巡見から戻った夜、王宮の窓は秋の星をひとつずつ拾っていた。書斎。革紐のしおり。今日の空欄に、長兄に見せても良い数字を並べ、その下に小さく、誰にも見せない行をひとつ。

『距離は、道具。』

さらに、小さく。

『我慢ではなく、準備。』

そして、最後に、今夜だけの約束を。

『次に合図を打つときは、光の真ん中へ入る合図にする。』

胸の前で、とん――は、しない。代わりに、筆先で紙の端をそっと叩く。紙が小さく鳴る。影の楽器。俺は唇だけで名前を呼ぶ。

――ナハト。

五歳の頃は甘く、十一の頃は祈りで、十五の今は、選ぶ音。選んで、置く。置いて、歩く。王子だから。欲張りだから。叶えるために。

距離を置く。置いたぶん、踏み込む場所を正確に測る。光の真ん中までの歩数を、間違えないように。
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