ちっちゃな婚約者に婚約破棄されたので気が触れた振りをして近衛騎士に告白してみた

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第19話:同じ結び目

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朝、紙はまだ冷たかった。
窓を細く開けると、春の手前の匂いが一筋だけ入ってくる。
机の上に、古いしおり。端がやせて、角がやわらかい。何年分もの頁に挟まれて、革は沈黙の癖を覚えている。

扉が二度、軽く叩かれた。
「どうぞ」
入ってきたのはナハトだった。輪番はまだ固い。なのに、許された細い帯の中で、彼は仕事の手を持っていた。
薄い革。色は、今のしおりと同じ。幅も、同じ。蜜蝋の小さな塊。目打ち。細い糸。針。
武器ではない。けれど、俺には剣より鋭い。

「殿下。張り替えを」
「頼む」
「古い結び目を、残しますか」
「残す。――同じ位置に、同じ形で」

彼は頷き、手袋を外す。指先は、剣を握るために固い。けれど、革を扱うときは、驚くほど柔らかい。
しおりを本から抜く瞬間、革が小さく鳴いた。紙の隙間から、何年分かの息が出る。
俺は無意識に胸の前で、とん――を打ちそうになり、指先で紙の端を一度だけ叩いた。影の楽器。今日の合図は、これで足りる。

「同じ色。同じ幅。同じ硬さ」
彼は別の革を手の中で温め、蜜蝋を薄く引く。
「端は、ほんの少しだけ斜めに落とします。頁を傷めないように」
「うん」
指が、革の端をなぞる。目打ちで穴を開ける音は小さい。針が通るとき、糸が空気を切る音も小さい。
小さい音ばかりで、胸の中は静かだった。静かで、温かい。

「殿下」
「なに」
「この結び目は、子供の頃の殿下が巻いた癖が残っています」
「下手だった?」
「ほどけにくい巻き方です。理由が先にあった」
笑いそうになる。笑わない。砂糖を足さない。
「ほどけないために、俺は結ぶ」
「結び直すのではありません。同じ場所に、同じ結び目を置き直すだけです」

彼は古い革の端を、そっと指で押し、そこへ新しい革を連れてくる。
指先が、一瞬だけ俺の指に触れそうになって、触れない。影の中でも、距離は距離の形を守る。
「……できた」
「うん」

新しいのに、新しくない。
頁の端に添わせると、手触りが昔のままで胸の奥に落ちた。
しおりは、頁を閉じても約束を忘れないためにある。忘れない場所を、指が覚えている。

「ありがとう」
「承りました」

彼は道具を片づける。蜜蝋の匂いが薄く残る。春の前の朝に似た匂い。
輪番の時刻が呼ぶ前に、彼は胸甲の縁に、金を鳴らさない指をひとつ置き、礼をした。
『在る』
名前のない合図。古い、やさしいやつ。

―――

午前、俺は近衛隊長宛の文を仕上げた。
『殿下の側に立つ者の選定は、隊の功に基づき、当面は輪番の中で透明に。個の名は殿下からは呼ばない。呼ぶのは隊長であること』
砂糖はない。塩だけ。
最後に一行。
『殿下は隊を私物化しない。殿下は隊に守られ、隊の名誉を守る』
筆の先で紙の端を一度叩き、封蝋を押す。音は小さい。影の楽器。

昼、宰相代理が来た。
「侯爵家より書状。――『矢』の件は家として無関係、との主張」
「記録と照合する。女中の供述は、個の責任に留める。金の流れは、外で追う」
「殿下の言葉は、剣の角度だ」
「剣は刃を出さない。――石を置く」
彼は小さく頷いて退いた。言葉は丸いが、仕事は角を知っている。

午後、稽古は短く。立って受ける。崩さない。
俺は数字だけを積んだ。入り身十。受け十五。相対五。
汗は塩。砂糖はいらない。

稽古のあと、ルークが横に来た。
「殿下、しおり、新しいのに新しくない顔してる」
「同じ結び目だ」
「そういう顔だ。――それと、南の紙束、店の主が口を割りかけた。金を持ち込んだのは『連絡役の連絡役』」
「線は細いほど、石で押さえる」
「押さえる」
彼は軽く笑って、すぐに真面目な目に戻る。仕事の目。
「殿下の走らない追いかけ、見物だ」
「見てろ」
「見てる」

―――

夕刻。影は少し長くなり、回廊と柱のあいだに、ほんの短い帯ができる。
そこへ、彼が来る。許された歩幅。礼儀の距離。

「殿下」
「影」
「影です」

胸の前で、とん――は、しない。今日は紙が鳴っている。
代わりに、しおりの端を指で一度だけなぞり、彼に見せた。
同じ色。同じ幅。同じ硬さ。
彼は目だけで笑い、すぐに真面目な目に戻す。仕事の目。

「殿下、明日、遠乗りの列の配置が変わります。輪番に従い、私は外側」
「知ってる」
「外側は、風が強い」
「内側は、噂が強い」
「どちらも、剣の仕事です」

沈黙。
影の中で、春の風が紙の匂いを連れてくる。
彼は低く、しかし迷いなく言った。

「殿下。成冠の日の言葉を、私は――『剣』の耳で聞き、『人』の胸で受けました」
喉の奥が温かくなる。
「返事は、光の真ん中で、とあなたは言った」
「言った」
「私は、剣としてその場を守ります。――人として、その場まで歩きます」
「一緒に」
「一緒に」

影が揺れる。
礼儀の距離は、変わらない。
けれど、距離の向こう側に、同じ足音がある。
走らない。止まらない。歩幅は、合う。

「ナハト」
「はい」
「しおりは張り替えた。――次は、橋の真ん中だ」
「橋は、石の数だけ強くなる」
「石は、運ぶ手の数だけ早くなる」
彼は胸甲の縁に、金を鳴らさず指を落とす。
『在る』
名前のない合図。
それだけで、十分。

―――

夜。書斎。火は小さく、紙は静かに明るい。
新しいしおりは、もう古い手触りでそこにいる。
今日の空欄に、三行。

『結び目を、同じ場所に置き直した。
隊を私物化しない文を出した。
石は言葉で運ばない。手で運ぶ。』

小さく足す。

『走らないで追いつく。――歩幅は、もう知っている。』

さらに、未来の印をひとつ。

『橋の真ん中で、二人で立つ。』

胸の前で、とん――は、やっぱり打たない。
代わりに、紙の端をひとつ。影の楽器。
骨の内側で、音が静かに落ち着く。十八の音。
唇だけで、名前を呼ぶ。

――ナハト。

五歳の頃は甘く、十一の夜は祈りで、十五の冬は選ぶ音。
十八の今は、整える音。
選んで、置いた。置いて、歩く。王子だから。欲張りだから。叶えるために。

俺はお前が好きだ。
手放さない、と言った。
だから、結び目はほどかない。
同じ場所に挟み直して、次の頁へ行く。
砂糖は控えめに。塩をひとつまみ。
――光の真ん中まで、あと何歩。
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