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後日譚:在るの練習
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雨の午後は、刃を布にしまうのに向いている。
石は濡れ、廊下は静か。詰所の呼び鈴は鳴らない。輪番の帳面にしるしを付けて、私は殿下の書斎の扉を軽く二度叩いた。
「どうぞ」
扉を閉める音は小さく。火は低く、紙は静かに明るい。
机の端には、同じ色・同じ幅・同じ硬さのしおり。私が張り替えた結び目は、もう古い手触りで、今日の頁を正しく挟んでいる。
「殿下。雨脚が強まります。回廊は人払いの札」
「うん。――こっち来て」
呼ばれて近づく。礼儀の距離ぎりぎり。胸甲の縁に、音を鳴らさず指を置く。『在る』。
殿下は紙の端を指でひとつ叩いた。影の楽器。返事は十分に届く。
「書きものは?」
「半分。……半分は偉業、って誰かが言う」
「殿下の誰かは、誉め上手です」
椅子の背が広い。殿下は少し身をずらし、空いた背凭れを指で叩く。意味は簡単だ。
――後ろへ。覆え。
私は胸甲を外さないまま、外套だけを外し、殿下の背から肩へと軽く掛けた。布の重さを半分に分け合う。熱は二人で早く温まる。
「髪、濡れてる」
「巡回の戻りで少し」
殿下は布を取り、私の前髪を持ち上げて、くすりと笑った。
撫でるのではなく、確かめる触れ方。位置の確認。昔から、殿下はここが上手い。
私は息を短く整え、指先でしおりの結び目を示す。
「ほどけません」
「ほどけない」
「――だから、今日は砂糖を少し増やしても、橋は落ちません」
殿下が椅子から振り向く。目が、十八から二十へ積まれた数のぶん深くなった目が、私の言葉に笑った。
砂糖を増やす練習は、影の内側でするのがよい。甘すぎれば、塩をひとつまみ戻せばいい。
「練習、する?」
「在るの、ですか」
「うん。……ナハトは、命じるのが上手い。今日は、命じられたい」
危ない言い回しだ。けれど、ここは影であり、紙の札が守っている。
私は背後から殿下の肩越しに身を寄せ、声を低く短く落とす。
「殿下。三から逆に」
殿下が頷く。喉で柔らかく数える。
「三」
私は殿下の指先――いつも紙をなで、石を数えた指――にキスを置いた。最初は、筆先を一度だけ触れるみたいに。
「二」
殿下の肩が、小さく笑う。
「一」
今度は、指の第二関節。短く、静かに。殿下が椅子にもたれ、後頭部が私の胸当てに触れる。鎧越しの拍が重なって、やがて揃う。
「……在る」
殿下が言う。合図の名を声で呼ぶ。
私は『在る』の返事として、胸甲の縁に指を置いた。音は鳴らさない。鳴らさないほうが、届くときがある。
「もう一回」
「承りました。――ただし、今度はこちらから」
私は殿下の手をそっと解き、書卓の上へ置く。掌を上に。
礼儀の距離の中で許された古式。
私の唇は、殿下の右手の甲へ。
忠誠の形で、恋の温度を。
砂糖は控えめに。毛布の温度で足りる。
殿下の指が、私の外套の裾をきゅっと掴む。子供の頃の癖の名残。私はそこにだけ、わずかに砂糖を足した。
「お兄ちゃん騎士」
影の中だけの名。ずるい名。言われると、鎧の下の私がいちばん喜ぶ。
私は笑いを喉で飲み、仕事の声で返す。
「影では、殿下の」
殿下が椅子に座ったまま、少しだけ体をねじって私の頬に額を寄せた。
額と頬。鎧と布。温度は違うのに、拍が同じ方向へ落ちる。
私は外套の裾を持ち上げ、二人の肩にふわりと掛け直した。
走らないで追いつく。近づきすぎないで、甘える。影の正しい使い方。
「ナハト」
「はい」
「今日の巡回、なにかあった?」
「猫が塀から落ちかけました。助けたのは私ではなく、塀の向こうの老職人です」
殿下は声を立てずに笑う。「数字のいい話」
「ええ。猫は足を四本とも正しく使っていました」
「じゃあ、ご褒美」
言って、殿下は私の胸当てに指二本ぶんの空気を置き、それから頬へ、短いキスをひとつ。
砂糖は一粒。
私は礼儀の縁を確かめ、殿下の耳の後ろ――髪が一番やわらかいところ――に、同じ長さの返礼を置く。
扉が、遠慮深く二度叩かれた。
「ルークです。甘い匂いがしますが、ここは砂糖控えめでよろしいですか」
殿下が外套の中で肩を震わせる。私は咳払いを一つだけして、仕事の距離に半歩戻る。
「入れ」
扉が少し開いて、赤毛がのぞく。
「殿下、夕餉は一刻後。――おふたりとも、塩の顔でお願いしますね」
「わかってる」
「承知」
扉が閉まる。殿下と私の間に、ひと呼吸ぶんの沈黙。
外套の下で、殿下が指を動かす。三。二。――一、の代わりに、私の名前。
「ナハト」
呼ばれるほうが、呼ぶよりも、甘い。
私は答えの代わりに、しおりの革紐の端を指で示した。
同じ色。同じ幅。同じ硬さ。
結び目は、ほどけない。
「殿下。書きものを」
「うん。――隣に居て」
「在ります」
私は殿下の背後に立つ。肩に外套。鎧の拍。殿下の息。
紙の上の行が増えるたび、殿下の指がしおりに触れ、私の胸の下の拍が、それに合わせて静かになる。
砂糖は控えめに。塩は正しく。
影は、走らないために使う。温めるために使う。
――そして、在るために。
最後の句点が置かれた。殿下は筆を置き、紙の端をひとつ叩く。影の楽器。
私は胸甲の縁に、音を鳴らさず指を置く。
『在る』
殿下が振り向き、額を寄せて、小さな声。
「好きだ」
短い。強い。砂糖をひとつ。
私は同じだけ返す。
「私も、殿下が好きです」
外は雨。中は毛布の温度。
結び目はほどけず、頁は次へ行く準備をしている。
夕餉の合図まで、もう少し。
――それまで、在るの練習を続ける。
三。二。
一。
そして、笑う。
石は濡れ、廊下は静か。詰所の呼び鈴は鳴らない。輪番の帳面にしるしを付けて、私は殿下の書斎の扉を軽く二度叩いた。
「どうぞ」
扉を閉める音は小さく。火は低く、紙は静かに明るい。
机の端には、同じ色・同じ幅・同じ硬さのしおり。私が張り替えた結び目は、もう古い手触りで、今日の頁を正しく挟んでいる。
「殿下。雨脚が強まります。回廊は人払いの札」
「うん。――こっち来て」
呼ばれて近づく。礼儀の距離ぎりぎり。胸甲の縁に、音を鳴らさず指を置く。『在る』。
殿下は紙の端を指でひとつ叩いた。影の楽器。返事は十分に届く。
「書きものは?」
「半分。……半分は偉業、って誰かが言う」
「殿下の誰かは、誉め上手です」
椅子の背が広い。殿下は少し身をずらし、空いた背凭れを指で叩く。意味は簡単だ。
――後ろへ。覆え。
私は胸甲を外さないまま、外套だけを外し、殿下の背から肩へと軽く掛けた。布の重さを半分に分け合う。熱は二人で早く温まる。
「髪、濡れてる」
「巡回の戻りで少し」
殿下は布を取り、私の前髪を持ち上げて、くすりと笑った。
撫でるのではなく、確かめる触れ方。位置の確認。昔から、殿下はここが上手い。
私は息を短く整え、指先でしおりの結び目を示す。
「ほどけません」
「ほどけない」
「――だから、今日は砂糖を少し増やしても、橋は落ちません」
殿下が椅子から振り向く。目が、十八から二十へ積まれた数のぶん深くなった目が、私の言葉に笑った。
砂糖を増やす練習は、影の内側でするのがよい。甘すぎれば、塩をひとつまみ戻せばいい。
「練習、する?」
「在るの、ですか」
「うん。……ナハトは、命じるのが上手い。今日は、命じられたい」
危ない言い回しだ。けれど、ここは影であり、紙の札が守っている。
私は背後から殿下の肩越しに身を寄せ、声を低く短く落とす。
「殿下。三から逆に」
殿下が頷く。喉で柔らかく数える。
「三」
私は殿下の指先――いつも紙をなで、石を数えた指――にキスを置いた。最初は、筆先を一度だけ触れるみたいに。
「二」
殿下の肩が、小さく笑う。
「一」
今度は、指の第二関節。短く、静かに。殿下が椅子にもたれ、後頭部が私の胸当てに触れる。鎧越しの拍が重なって、やがて揃う。
「……在る」
殿下が言う。合図の名を声で呼ぶ。
私は『在る』の返事として、胸甲の縁に指を置いた。音は鳴らさない。鳴らさないほうが、届くときがある。
「もう一回」
「承りました。――ただし、今度はこちらから」
私は殿下の手をそっと解き、書卓の上へ置く。掌を上に。
礼儀の距離の中で許された古式。
私の唇は、殿下の右手の甲へ。
忠誠の形で、恋の温度を。
砂糖は控えめに。毛布の温度で足りる。
殿下の指が、私の外套の裾をきゅっと掴む。子供の頃の癖の名残。私はそこにだけ、わずかに砂糖を足した。
「お兄ちゃん騎士」
影の中だけの名。ずるい名。言われると、鎧の下の私がいちばん喜ぶ。
私は笑いを喉で飲み、仕事の声で返す。
「影では、殿下の」
殿下が椅子に座ったまま、少しだけ体をねじって私の頬に額を寄せた。
額と頬。鎧と布。温度は違うのに、拍が同じ方向へ落ちる。
私は外套の裾を持ち上げ、二人の肩にふわりと掛け直した。
走らないで追いつく。近づきすぎないで、甘える。影の正しい使い方。
「ナハト」
「はい」
「今日の巡回、なにかあった?」
「猫が塀から落ちかけました。助けたのは私ではなく、塀の向こうの老職人です」
殿下は声を立てずに笑う。「数字のいい話」
「ええ。猫は足を四本とも正しく使っていました」
「じゃあ、ご褒美」
言って、殿下は私の胸当てに指二本ぶんの空気を置き、それから頬へ、短いキスをひとつ。
砂糖は一粒。
私は礼儀の縁を確かめ、殿下の耳の後ろ――髪が一番やわらかいところ――に、同じ長さの返礼を置く。
扉が、遠慮深く二度叩かれた。
「ルークです。甘い匂いがしますが、ここは砂糖控えめでよろしいですか」
殿下が外套の中で肩を震わせる。私は咳払いを一つだけして、仕事の距離に半歩戻る。
「入れ」
扉が少し開いて、赤毛がのぞく。
「殿下、夕餉は一刻後。――おふたりとも、塩の顔でお願いしますね」
「わかってる」
「承知」
扉が閉まる。殿下と私の間に、ひと呼吸ぶんの沈黙。
外套の下で、殿下が指を動かす。三。二。――一、の代わりに、私の名前。
「ナハト」
呼ばれるほうが、呼ぶよりも、甘い。
私は答えの代わりに、しおりの革紐の端を指で示した。
同じ色。同じ幅。同じ硬さ。
結び目は、ほどけない。
「殿下。書きものを」
「うん。――隣に居て」
「在ります」
私は殿下の背後に立つ。肩に外套。鎧の拍。殿下の息。
紙の上の行が増えるたび、殿下の指がしおりに触れ、私の胸の下の拍が、それに合わせて静かになる。
砂糖は控えめに。塩は正しく。
影は、走らないために使う。温めるために使う。
――そして、在るために。
最後の句点が置かれた。殿下は筆を置き、紙の端をひとつ叩く。影の楽器。
私は胸甲の縁に、音を鳴らさず指を置く。
『在る』
殿下が振り向き、額を寄せて、小さな声。
「好きだ」
短い。強い。砂糖をひとつ。
私は同じだけ返す。
「私も、殿下が好きです」
外は雨。中は毛布の温度。
結び目はほどけず、頁は次へ行く準備をしている。
夕餉の合図まで、もう少し。
――それまで、在るの練習を続ける。
三。二。
一。
そして、笑う。
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詩のようなお話で素敵でした
一点だけ、王が主人公の事を「殿下」と呼ぶのがどうなのかなーと気になっています
コメントありがとうございます!
確かに王様が殿下呼びはおかしいですね……呼称統一のために殿下にしてましたが息子呼びに修正しときます!
やっとここまで来た!って感じ。
主人公王子様、めちゃかっこいいです。
なんか、自分も何カ年計画とかで、やりたい事はブレずに頑張ろうと思いましたw
ハピエンまで楽しみに読みます!
コメントありがとうございます!
かっこいいと言って頂けて嬉しいです!
終わりは一気に幸せまで持っていくので待っていていただけると嬉しいです!
侯爵令嬢程度がワイの推しCPの邪魔をするんじゃない!と思うほどには感情移入しちゃってます(ฅωฅ`)照♡
コメントありがとうございます!
ま、まぁ令嬢側もお仕事なんでね!
本当は恋に生きている王子の方が珍しいんですが、この子はちゃんと理論立てて戦うので最後まで見守っていただけると嬉しいです!