石榴(ざくろ)の月~愛され求められ奪われて~

めぐみ

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石榴の月㉞

石榴の月~愛され求められ奪われて~

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 その前をゆっくりと通り過ぎようとしたその時、向こうから歩いてくる人影を認めた。最初は、しかとは判じ得なかったその人が次第に近付いてくるにつれ、奥底から懐かしさと愛おしさが込み上げてきた。
 お民が走り出したのと、源治が走り出したのは、ほぼ時を同じくしていた。
 どちらともなく走り出した二人は、もつれ合うようにして抱き合った。
「これは夢なの?」
 源治の腕に包まれ、大好きな男の匂いを胸一杯に吸い込みながら、お民は夢見心地で訊いた。
「夢なんかじゃあるものさ」
 源治がお民の髪に顔を埋(うず)めて、くぐもった声で呟く。
 しばらくそうやって寄り添っていた後、お民は顔を上げて源治と見つめ合った。眩しげにお民を見下ろし、源治が屈託ない笑みを見せる。
「差配さんから、お前が今朝、無事お役目を終えて帰ってくるって聞いてさ。長屋でじっと待ってても、何か落ち着かねえんで、こうして矢も楯もたまらず飛び出してきちまったってわけだよ」
 源治の気持ちは嬉しかった。何より、この男も自分を待っていてくれたのだと思えば、泣きたいくらい嬉しい。
 だが、その反面、源治の言う〝お役目を終えて〟という言葉が気がかりだった。
「私のしたことは一体、何だったのかしら」
 我知らずの中にポツリとひと言呟きが落ちた。
 源治がお民の身体に視線を向けて、一瞬、ひどく辛そうな表情を作った。それをすぐに消して、お民の頬に手を触れてくる。
「お前は皆を救ってくれたじゃねえか。お前のお陰で、徳平店は今もちゃんと残ってるぜ。お前は、お前にできるだけのことをやったんだ。それで十分じゃないのか。いや、十分すぎるほどのことをお前はやったんだよ」
「―うん」
 濡れた頬を手のひらで拭って、お民は頷く。
 源治には口が裂けても言えないことだけれど、お民が気にしているのは何も徳平店や皆のことばかりではない。
 いつでも、どんなときでも、自分に与えられた場所で、そのときの精一杯の力を尽くす。それが信条のお民をもってしても、石澤嘉門に対しては何の力になることもできなかった。
 卑怯な手段を使ってお民を手に入れ、お民の身体を欲しいままにした男だったけれど、お民は、けしてその不幸や破滅を願ったわけではない。
 かといって、源治の言うとおり、これから先、お民のできることは何もない。嘉門をついにお民は愛せなかった。あの淋しい眼をした男に、結局、お民は何の力にもなれなかったし、何をすることもできなかった。もし、仮に、あのままお民があの男の傍に居続けたとしても、嘉門の孤独を癒やすことはできないのだ。
 お民には誰より惚れている良人がいる。お民の居場所は、この男の、源治の傍より他にないのだと、お民は今回のことで厭というほど思い知らされた。自分にとってこの男がこれほどまでに必要な存在なのだとは自分ですら考えてみたこともなかった。
 源治と離れている間中、お民はまるで自分の身体と心をどこか他の場所に―徳平店に置いてきたかのような心許ない気持ちだった。
「終わったことをくよくよ考えるのは止しな。俺たちには明日がある。これからは後ろは振り返らずに前だけ見て歩いてゆこう。たとえ、何があっても、お前はお前だ。俺は、そのままの今のお前が好きなんだ」
 お民はその言葉に小さく哀しい微笑みを洩らして、もう一度溢れ出した涙を拭ってから源治と共に歩き始める。
 歩き始めてすぐ、和泉橋が見えてきた。懐かしい場所、見慣れた風景。橋のほとりに植わった桜の樹が茂った葉を紅く色づかせている。その眼にも鮮やかな色を感慨を込めて見つめていると、源治の声が耳を打った。
「子どものことは聞いたよ。色々と辛い想いをしたな」
 深い声音に、お民は愕いて瞳を上げる。
 ふいに湧いてきた新しい涙に狼狽して、お民は源治の胸に顔を押し当てた。
 優しい手が不器用に髪を撫でてくれる。
「今度こそ、俺の子を生んでくれ。これからは子どもを山ほど作って、皆で賑やかに暮らそうぜ、なっ」
 お民を見た源治がふっと頬を緩める。
「だから、もう泣くな」
 男の言葉が深く響いた。
 不安はある。嘉門に慰まれたお民を源治が昔のように女房として受け容れてくれるのか。
 嘉門との夜に馴染んだお民の身体が以前のように源治を受け容れられるのか。
 感情と欲望、―心と身体はたとえ口でどのようなきれいごとを言ったとしても、全く別のものであり、けして互いにつり合っているわけではない。その残酷な矛盾を、お民は厭というほど知っている。
 心や愛がなくても、膚を合わせることはできるし、身体だけなら、愛してもいない男の巧みな愛撫に馴らされてゆくこともある。そして、その果てに悦びさえあることも。
 昔どおりの二人に戻れるという絶対的な自信はなかった。
 それでも、この男とずっと一緒にいたい。
 その一心で石澤の屋敷での苛酷な日々にも耐えたのだ。だから、どんな試練だって乗り越えてみせる。
 源治がお民の身体に手を回す。抱き潰して殺すつもりなのではないかと疑いたくなるような強さで抱きしめられたが、お民は抵抗もせず、自分も源治の背中に両手を回した。
                                  (第二話へ続く)

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