56 / 103
石榴の月 第二話㉒
石榴の月~愛され求められ奪われて~
しおりを挟む【四】
黄昏刻の空が茜色に染まっている。
見慣れた長屋が何故かとても懐かしい。った一日見なかっただけなのに、もう数日いや十日も見ていなかったような気がしてらない。西の端から茜色に染まった空が徐に菫色に変わってゆく。夕暮れの空を背景した徳平店は随分とこぢんまりとして見た。
見憶えのある我が家の前に佇むと、お民逡巡した。嘉門がお民を連れ込んだのは、明寺門前道沿いの出合茶屋の一つであった幸いにも、女将の機転と気遣いで嘉門が再訪れる前に、逃れることができたお民は一は随明寺に身を隠した。
どうしても、あのまま真っすぐに徳平店戻ることができなかったのだ。随明寺には大な境内に諸伽藍が点在しているが、そのの絵馬堂に身を潜めていた。絵馬堂はそののとおり、願い事を記した絵馬を奉納するめのこじんまりとした御堂だ。正面の両扉はそれこそ無数の絵馬が掛けられていて、種独特の雰囲気が漂っている。
随明寺の中でも奥まった場所にあり、しもこの界隈は昼間でも人気がないことから人眼を忍ぶ男女の逢い引きなどにもよく使れているという。
お民はその御堂の中に夕方近くまでいた。 だが、流石に陽が暮れてくると、このま夜を明かすわけにもゆかず、随明寺を出てた。この近くをうろうろしていて、また嘉に見つかっては元も子あったものではないそう考えている中に、気が付けば、懐かし我が家の前に立っていたのである。
長い春の陽も暮れ、周囲に薄い闇が漂いめた。空は菫色から、夜の色へとうつろおとしている。
長屋の家々にも次々に灯りが点り始める刻になった。ふっと、眼の前が明るくなりお民は眩しさに眼を細めた。
腰高障子越しに、長い影が映っている。るで影絵を見るかのように、黒い影がゆららと揺れていた。
懐かしさに、じんわりと涙が滲む。
その時、突如として向こうから腰高障子音を立てて開いた。
ひっそりと佇むお民を見て、源治が息をんだ。
「お前さん、私―」
呟くと、溢れた涙が雫となって、つうっ頬をつたった。
「お民」
源治の整った貌に愕きが走った。
良人の視線が自分の全身を慌ただしく辿のを見て、お民はうなだれた。
―一体、何があったんだ?
当然、その質問を予想していたのに、源は何も言わなかった。
ただ哀しげな眼で、お民を見つめていた。「私、また―」
言いかけたお民の身体がふわりと温かなに包み込まれる。
「もう、良い。何も言うな」
何かに耐えるような表情で、源治は長い間お民を抱きしめていた。
かすかな嗚咽が聞こえてくる。源治が男きに泣いているのだと判った。
源治が静かにお民の身体から手を放す。「どこか、怪我なんかはしてねえな?」
念を押すように問われ、お民は小さく頷く。
源治が改めて、お民をしげしげと見つめた。 抵抗して痛めつけられたため、首には焼のように男の指の痕がついている。
源治の手が伸び、お民の首筋にそっと触た。紅く鬱血した傷痕を、優しい指の感触撫でる。それだけで、お民は痛みも何もかも一瞬忘れられるような気がした。
源治は、しばらくその部分を撫でていたが結局、その紅い痕についても何も訊かなかた―。
お民は源治の視線に耐えきれず、そっとを背けた。無意識の中に胸許をかき合わせのは、やはり源治に嫌われたくないという持ちからだったろう。
お民は緋色の長襦袢一枚きりという姿でった。まるで、これから客を迎える遊女のうななりである。
加えて、ここ半月ほどの間に石澤嘉門が民の周囲に出現していたこと、お民が昨夜ら突然、ゆく方を絶っていたことを考え合せれば、お民の身に何が起こったかと想像るのは難しくはないはずであった。
お民が襲われた捨て子稲荷の前には、花くの岩次から貰った残り物の重箱が散らり、中身が無惨な状態となり果てていた。場の惨状だけでも、事態がただならぬことお民が強制的に連れ去られたことは明白だ。―この男(ひと)は、私の身に起こったことを全部っている。
お民は絶望的な予感に、眼の前が真っ暗なった。
「何があったか、訊かなくて良いの?」
訊かれたくない、話したくないと思いなら、ついそう言ってしまう。我ながら自虐な思考回路だと思わずにはいられなかった。
「何も言わなくて良い。―辛かったろう、い目に遭ったな。俺はまた、お前を守ってれなかった。許してくれ」
源治の言葉に、お民は泣きながら首を振った。
0
あなたにおすすめの小説
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末
松風勇水(松 勇)
歴史・時代
旧題:剣客居酒屋 草間の陰
第9回歴史・時代小説大賞「読めばお腹がすく江戸グルメ賞」受賞作。
本作は『剣客居酒屋 草間の陰』から『剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末』と改題いたしました。
2025年11月28書籍刊行。
なお、レンタル部分は修正した書籍と同様のものとなっておりますが、一部の描写が割愛されたため、後続の話とは繋がりが悪くなっております。ご了承ください。
酒と肴と剣と闇
江戸情緒を添えて
江戸は本所にある居酒屋『草間』。
美味い肴が食えるということで有名なこの店の主人は、絶世の色男にして、無双の剣客でもある。
自分のことをほとんど話さないこの男、冬吉には実は隠された壮絶な過去があった。
多くの江戸の人々と関わり、その舌を満足させながら、剣の腕でも人々を救う。
その慌し日々の中で、己の過去と江戸の闇に巣食う者たちとの浅からぬ因縁に気付いていく。
店の奉公人や常連客と共に江戸を救う、包丁人にして剣客、冬吉の物語。
【完結】ふたつ星、輝いて 〜あやし兄弟と町娘の江戸捕物抄〜
上杉
歴史・時代
■歴史小説大賞奨励賞受賞しました!■
おりんは江戸のとある武家屋敷で下女として働く14歳の少女。ある日、突然屋敷で母の急死を告げられ、自分が花街へ売られることを知った彼女はその場から逃げだした。
母は殺されたのかもしれない――そんな絶望のどん底にいたおりんに声をかけたのは、奉行所で同心として働く有島惣次郎だった。
今も刺客の手が迫る彼女を守るため、彼の屋敷で住み込みで働くことが決まる。そこで彼の兄――有島清之進とともに生活を始めるのだが、病弱という噂とはかけ離れた腕っぷしのよさに、おりんは驚きを隠せない。
そうしてともに生活しながら少しづつ心を開いていった――その矢先のことだった。
母の命を奪った犯人が発覚すると同時に、何故か兄清之進に凶刃が迫り――。
とある秘密を抱えた兄弟と町娘おりんの紡ぐ江戸捕物抄です!お楽しみください!
※フィクションです。
※周辺の歴史事件などは、史実を踏んでいます。
皆さまご評価頂きありがとうございました。大変嬉しいです!
今後も精進してまいります!
【時代小説】 黄昏夫婦
蔵屋
歴史・時代
江戸時代、東北地方の秋田藩は貧かった。
そんな中、真面目なひとりの武士がいた。同僚からは馬鹿にされていたが真面目な男であった。俸禄は低く貧しい。娘二人と実母との4人暮らし。
秋田藩での仕事は勘定方である。
仕事が終わると真っ直ぐ帰宅する。
ただひたすら日中は城中では勘定方の仕事をまじめにして、帰宅すれば論語を読んで知識を習得する。
そんな毎日であった。彼の名前は立花清左衛門。年齢は35歳。
娘は二人いて、一人はとめ15歳。もう一人は梅、8歳。
さて|黄昏《たそがれ》は、一日のうち日没直後、雲のない西の空に夕焼けの名残りの「赤さ」が残る時間帯のことを言う。「|黄昏時《たそがれどき)」。 「黄昏れる《たそがれる》」という動詞形もある。
「たそがれ」は、江戸時代になるまでは「たそかれ」といい、「たそかれどき」の略でよく知られていた。夕暮れの人の顔の識別がつかない暗さになると誰かれとなく、「そこにいるのは誰ですか」「誰そ彼(誰ですかあなたは)」とたずねる頃合いという意味で日常会話でよく使われた。
今回の私の小説のテーマはこの黄昏である。
この風習は広く日本で行われている。
「おはようさんです」「これからですか」「お晩でございます。いまお帰りですか」と尋ねられれば相手も答えざるを得ず、互いに誰であるかチェックすることでヨソ者を排除する意図があったとされている。
「たそかれ」という言葉は『万葉集』に
誰そ彼と われをな問ひそ 九月の 露に濡れつつ 君待つわれそ」
— 『万葉集』第10巻2240番
と登場するが、これは文字通り「誰ですかあなたは」という意味である。
「平安時代には『うつほ物語』に「たそかれどき」の用例が現れ、さらに『源氏物語』に
「寄りてこそ それかとも見め たそかれに ほのぼの見つる 夕顔の花」
— 『源氏物語』「夕顔」光源氏
と、現在のように「たそかれ」で時間帯を表す用例が現れる。
なおこの歌は、帖と登場人物の名「夕顔」の由来になった夕顔の歌への返歌である。
またこの言葉の比喩として、「最盛期は過ぎたが、多少は余力があり、滅亡するにはまだ早い状態」をという語句の用い方をする。
漢語「|黄昏《コウコン》」は日没後のまだ完全に暗くなっていない時刻を指す。「初昏」とも呼んでいた。十二時辰では「戌時」(午後7時から9時)に相当する。
「たそがれ」の動詞化の用法。日暮れの薄暗くなり始めるころを指して「空が黄昏れる」や、人生の盛りを過ぎ衰えるさまを表現して「黄昏た人」などのように使用されることがある。
この物語はフィクションです。登場人物、団体等実際に同じであっても一切関係ありません。
それでは、小説「黄昏夫婦」をお楽しみ下さい。
読者の皆様の何かにお役に立てれば幸いです。
作家 蔵屋日唱
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
仇討浪人と座頭梅一
克全
歴史・時代
「アルファポリス」「カクヨム」「ノベルバ」に同時投稿しています。
旗本の大道寺長十郎直賢は主君の仇を討つために、役目を辞して犯人につながる情報を集めていた。盗賊桜小僧こと梅一は、目が見えるのに盗みの技の為に盲人といして育てられたが、悪人が許せずに暗殺者との二足の草鞋を履いていた。そんな二人が出会う事で将軍家の陰謀が暴かれることになる。
無用庵隠居清左衛門
蔵屋
歴史・時代
前老中田沼意次から引き継いで老中となった松平定信は、厳しい倹約令として|寛政の改革《かんせいのかいかく》を実施した。
第8代将軍徳川吉宗によって実施された|享保の改革《きょうほうのかいかく》、|天保の改革《てんぽうのかいかく》と合わせて幕政改革の三大改革という。
松平定信は厳しい倹約令を実施したのだった。江戸幕府は町人たちを中心とした貨幣経済の発達に伴い|逼迫《ひっぱく》した幕府の財政で苦しんでいた。
幕府の財政再建を目的とした改革を実施する事は江戸幕府にとって緊急の課題であった。
この時期、各地方の諸藩に於いても藩政改革が行われていたのであった。
そんな中、徳川家直参旗本であった緒方清左衛門は、己の出世の事しか考えない同僚に嫌気がさしていた。
清左衛門は無欲の徳川家直参旗本であった。
俸禄も入らず、出世欲もなく、ただひたすら、女房の千歳と娘の弥生と、三人仲睦まじく暮らす平穏な日々であればよかったのである。
清左衛門は『あらゆる欲を捨て去り、何もこだわらぬ無の境地になって千歳と弥生の幸せだけを願い、最後は無欲で死にたい』と思っていたのだ。
ある日、清左衛門に理不尽な言いがかりが同僚立花右近からあったのだ。
清左衛門は右近の言いがかりを相手にせず、
無視したのであった。
そして、松平定信に対して、隠居願いを提出したのであった。
「おぬし、本当にそれで良いのだな」
「拙者、一向に構いません」
「分かった。好きにするがよい」
こうして、清左衛門は隠居生活に入ったのである。
罪悪と愛情
暦海
恋愛
地元の家電メーカー・天の香具山に勤務する20代後半の男性・古城真織は幼い頃に両親を亡くし、それ以降は父方の祖父母に預けられ日々を過ごしてきた。
だけど、祖父母は両親の残した遺産を目当てに真織を引き取ったに過ぎず、真織のことは最低限の衣食を与えるだけでそれ以外は基本的に放置。祖父母が自身を疎ましく思っていることを知っていた真織は、高校卒業と共に就職し祖父母の元を離れる。業務上などの必要なやり取り以外では基本的に人と関わらないので友人のような存在もいない真織だったが、どうしてかそんな彼に積極的に接する後輩が一人。その後輩とは、頗る優秀かつ息を呑むほどの美少女である降宮蒔乃で――
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる