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石榴の月 第二話㉛
石榴の月~愛され求められ奪われて~
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【伍】
お民は茫漠とした視線を泳がせた。午前は、こうして何をするでもなく家の前に座ていることが多い。ゆるりと視線を動かすと小さいけれど、それなりに手入れされた庭見渡せる。
もっとも、家の前には特に生け垣や区切になるようなものもなく、どこまでが庭や判ったものではないが。お民が〝庭〟だとっているのは、家の前に聳え立つ枇杷の樹とそれに並ぶ橘の樹が見える辺りまでだ。
見ようによっては、この大きさの違う二の樹は仲睦まじく寄り添い合って立っていように見えなくもない。この二本の樹を見度に、お民は良いなと思うのだった。
自分と源治もこんな風にずっとずっと寄添って生きてゆけたなら良かった。でも、民はもう源治の側には戻れない。
お民は丸い腹部を愛おしげに撫でた。腹壁を胎内の赤児が元気に蹴っている。その動がお民にも伝わってきて、お民は知らず笑んでいた。着物を着ていれば、まださほに目立ちはしないけれど、お民の腹も大分らんできた。
風呂に入る時、裸になれば、湯を弾く白すべらかで豊満な身体は、そこだけ丸くならかに膨らんでいる。腹の赤児が健やかに長している証だ。それもそのはずで、腹のは直に六月(むつき)めに入る。
この家に住むようになって、はやふた月経とうとしている。江戸から離れた近在のの村は、鄙びた貧しい農村であった。大人ら子どもまで合わせても総勢五十人にも満ない。小さな村とひと口に言っても、かなの広範囲に渡って人家が点在しており、おの住むこの家は、村外れともいえる場所につんと一軒だけ離れて建っていた。
江戸を発ち、東へ主街道を進み、二つめ宿場町に至る手前に枝道がある。その枝道横にそれると、更に少し歩いた先に二股にかれた小道が見えてくる。その左側の道をっすぐ突き進んだ先に、螢ヶ池村はあった。 右へ進めば、ほどなく山に分け入る山道繋がる。
左の小道を歩いてゆくと、最初に見えてるのが満々と水を湛える池、通称螢ヶ池だ。 夏と秋には薄紅色の睡蓮が池の面を埋めくし、江戸からはるばる蓮見に訪れる風流客もいるとか。夏にはまた螢が群舞する名としても知られ、螢見物に来る旅人がひききらない。この時季には普段は閑として人も少ない村が、いっときだけ賑わうのだ。 その螢ヶ池の汀にひっそりと佇む御堂、堂は真言宗の開祖弘法大師空海を祀っていという。人ひとりがやっと横になれるほど広さの御堂の奥には木彫りの大師像が安置れているが、いつ頃に作られたものかは定ではない。
この一帯は螢の名所にちなんでか、昔か螢ヶ原と呼ばれていた。
村を抱くように背後に聳える山の頂には小さな尼寺があり、そこに一人で暮らす老が時折、山を降りてきて、御堂で読経など捧げている。普段は村の年寄りが花を供えり、掃除をしたりして小さなお堂を守ってた。大人一人くらいが寝泊まりできる広さあって、時には旅人がここを一夜の宿とすこともあった。
お民自身、江戸からはるばる旅をしてきて最初に泊まったのがこの御堂であった。
嘉門の子を身籠もっていると [螢ヶ池村全図]いう事実が決定的なものとなった時、お民はもう源治の側にはいられないと思った。源治を愛しているからこそ、大切にしているからこそ、その優しさに甘えてばかりはいられないと考えたのだ。源治はまだ二十三だ。 お民より二つも若い。
無理に他の男の子を宿した女と連れ添わとも、これからまだまだ若くてきれいで、立ての良い娘を妻に迎えることができるだう。何も源治までもがみすみす、お民の背った宿命(さだめ)の犠牲になることはないのだ。
そう考えた時、お民は源治を一日も早く放してあげたいと思った。源治にはずっと配ばかりかけてきて、何も女房らしいことできなかった。せめて最後に、自分が源治してやれることは、黙っていなくなることらいのものだったのだ。
源治と別れるのは身を切られるように辛ったが、自分が身を退くことが男の幸せだいうのなら、淋しさも辛さも我慢できるとった。
こんなことをしたお民を、源治は許しはないだろう。あまつさえ、お民は嘉門の子身籠もっている。たとえ、妊娠がお民の望だ結果ではないとしても、源治にしてみれば女房が他の男の種を宿したということは〝切り〟に他ならない。
それでも、忘れられるよりは、よほど良と思う。源治の想い出や記憶からお民とい存在が消えてなくなるよりは、憎まれていも良いから、ずっと憶えていて欲しい。そ考えるのは、お民の我が儘というものだろか。
螢ヶ池村を終の棲家に選ぶ気になったは、いつだったか、ふとこの村の名を耳にたことがあったからだ。初夏と初秋には薄色の睡蓮が水面を飾り、夏には螢が流星群ように群れをなして夜空を焦がす。秋には茜色に染まった夕空を背景に、水面を幾多赤蜻蛉が群れ飛ぶという小さな、小さな村。 そんな村でひっそりと源治との想い出をに余生を生きられたなら、子どもを育てなら誰の眼を気にすることもなく日々を送れらと願い、身重の身で江戸からここまで旅してきたのだ。
お民は茫漠とした視線を泳がせた。午前は、こうして何をするでもなく家の前に座ていることが多い。ゆるりと視線を動かすと小さいけれど、それなりに手入れされた庭見渡せる。
もっとも、家の前には特に生け垣や区切になるようなものもなく、どこまでが庭や判ったものではないが。お民が〝庭〟だとっているのは、家の前に聳え立つ枇杷の樹とそれに並ぶ橘の樹が見える辺りまでだ。
見ようによっては、この大きさの違う二の樹は仲睦まじく寄り添い合って立っていように見えなくもない。この二本の樹を見度に、お民は良いなと思うのだった。
自分と源治もこんな風にずっとずっと寄添って生きてゆけたなら良かった。でも、民はもう源治の側には戻れない。
お民は丸い腹部を愛おしげに撫でた。腹壁を胎内の赤児が元気に蹴っている。その動がお民にも伝わってきて、お民は知らず笑んでいた。着物を着ていれば、まださほに目立ちはしないけれど、お民の腹も大分らんできた。
風呂に入る時、裸になれば、湯を弾く白すべらかで豊満な身体は、そこだけ丸くならかに膨らんでいる。腹の赤児が健やかに長している証だ。それもそのはずで、腹のは直に六月(むつき)めに入る。
この家に住むようになって、はやふた月経とうとしている。江戸から離れた近在のの村は、鄙びた貧しい農村であった。大人ら子どもまで合わせても総勢五十人にも満ない。小さな村とひと口に言っても、かなの広範囲に渡って人家が点在しており、おの住むこの家は、村外れともいえる場所につんと一軒だけ離れて建っていた。
江戸を発ち、東へ主街道を進み、二つめ宿場町に至る手前に枝道がある。その枝道横にそれると、更に少し歩いた先に二股にかれた小道が見えてくる。その左側の道をっすぐ突き進んだ先に、螢ヶ池村はあった。 右へ進めば、ほどなく山に分け入る山道繋がる。
左の小道を歩いてゆくと、最初に見えてるのが満々と水を湛える池、通称螢ヶ池だ。 夏と秋には薄紅色の睡蓮が池の面を埋めくし、江戸からはるばる蓮見に訪れる風流客もいるとか。夏にはまた螢が群舞する名としても知られ、螢見物に来る旅人がひききらない。この時季には普段は閑として人も少ない村が、いっときだけ賑わうのだ。 その螢ヶ池の汀にひっそりと佇む御堂、堂は真言宗の開祖弘法大師空海を祀っていという。人ひとりがやっと横になれるほど広さの御堂の奥には木彫りの大師像が安置れているが、いつ頃に作られたものかは定ではない。
この一帯は螢の名所にちなんでか、昔か螢ヶ原と呼ばれていた。
村を抱くように背後に聳える山の頂には小さな尼寺があり、そこに一人で暮らす老が時折、山を降りてきて、御堂で読経など捧げている。普段は村の年寄りが花を供えり、掃除をしたりして小さなお堂を守ってた。大人一人くらいが寝泊まりできる広さあって、時には旅人がここを一夜の宿とすこともあった。
お民自身、江戸からはるばる旅をしてきて最初に泊まったのがこの御堂であった。
嘉門の子を身籠もっていると [螢ヶ池村全図]いう事実が決定的なものとなった時、お民はもう源治の側にはいられないと思った。源治を愛しているからこそ、大切にしているからこそ、その優しさに甘えてばかりはいられないと考えたのだ。源治はまだ二十三だ。 お民より二つも若い。
無理に他の男の子を宿した女と連れ添わとも、これからまだまだ若くてきれいで、立ての良い娘を妻に迎えることができるだう。何も源治までもがみすみす、お民の背った宿命(さだめ)の犠牲になることはないのだ。
そう考えた時、お民は源治を一日も早く放してあげたいと思った。源治にはずっと配ばかりかけてきて、何も女房らしいことできなかった。せめて最後に、自分が源治してやれることは、黙っていなくなることらいのものだったのだ。
源治と別れるのは身を切られるように辛ったが、自分が身を退くことが男の幸せだいうのなら、淋しさも辛さも我慢できるとった。
こんなことをしたお民を、源治は許しはないだろう。あまつさえ、お民は嘉門の子身籠もっている。たとえ、妊娠がお民の望だ結果ではないとしても、源治にしてみれば女房が他の男の種を宿したということは〝切り〟に他ならない。
それでも、忘れられるよりは、よほど良と思う。源治の想い出や記憶からお民とい存在が消えてなくなるよりは、憎まれていも良いから、ずっと憶えていて欲しい。そ考えるのは、お民の我が儘というものだろか。
螢ヶ池村を終の棲家に選ぶ気になったは、いつだったか、ふとこの村の名を耳にたことがあったからだ。初夏と初秋には薄色の睡蓮が水面を飾り、夏には螢が流星群ように群れをなして夜空を焦がす。秋には茜色に染まった夕空を背景に、水面を幾多赤蜻蛉が群れ飛ぶという小さな、小さな村。 そんな村でひっそりと源治との想い出をに余生を生きられたなら、子どもを育てなら誰の眼を気にすることもなく日々を送れらと願い、身重の身で江戸からここまで旅してきたのだ。
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