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柘榴の月 第三話㉖
石榴の月~愛され求められ奪われて~
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【四】
源治が徳平店で無力感に打ちひしがれていた頃―、お民は石澤家の屋敷にいた。
門前で名乗り、訪(おとな)いを告げると、お民はすぐに屋敷内へと通された。
案内されたのは奥向きの一角、この部屋には見憶えがある。半年前、龍之助が寝かされていた場所、龍之助の最期の瞬間を見届けた座敷だ。忘れようとしても、忘れられるものではない。
顔を見たこともない侍女に導かれてここに来てから、いかほど経ったのか。
少なくとも半刻は待たされただろう。
眼前の襖には四季折々の花々が大胆に描かれている。春は桜、夏は菖蒲、秋は菊、冬は椿。
名のある絵師が描いたであろうそれを無意識の中にぼんやりと眼で追っていく。そんなことを繰り返した挙げ句、ようよう何度目かにその襖が音もなく開いた。
お民は両手をついて、平伏する。
嘉門は床の間を背にして胡座をかいた。お民との距離は知れている。嘉門は脇息を引き寄せ、片手で頬杖をついた上に顎を乗せた。
お民の瞳の奥にある真意を確かめるように、じいっとこちらを無表情に見つめてくる。
心なしか、嘉門の顔色がどす黒く染まっているように見えるのは、この部屋が暗いせいだろうか。
「さても珍しき客人が参ったものよ」
嘉門の声にはこの事態を面白がっているような響きがある。
「一体、今更何用があって、そなたがわざわざ俺を訪ねてきたというのだ?」
沈黙を守り通すお民に焦れたように、嘉門が唐突に口を開いた。
「そのことは、あなたさまがいちばんよくご存じなのではございませぬか」
敢えて〝殿〟ではなく〝あなたさま〟と呼ぶ。
わずかな間があった。
嘉門の声にかすかに苛立ちが混じる。
「俺はそう気が長い方ではない。もって回った物言いは大嫌いなのだ。用件があるというのなら、疾く申せ」
お民は嘉門を見据える瞳にぐっと力を込めた。
「あくまでもあなたさまがご存じないと仰せならば、私の方から申し上げます。我が子松之助をこちらでお預かり頂いていると知り、お返し頂くために急ぎ、こうしてまかり越しました」
「―松之助とな。龍之助の弟か」
嘉門の貌には、意外なことを聞いたとでも言いたげな軽い愕きがあった。
「双子の残った片割れか。龍之助は不憫なことをした。残った弟は健やかに育っておるか」
嘉門の声にも表情にも含むところは何もないと言って良かった。
やはり、祥月院の差し金だろうか。
とは思うものの、仮にも嘉門にとっては実の母親だ。息子の前で母親の罪を暴き立てるようなことを言っても良いものかと逡巡する。
お民が声もなく見つめていると、嘉門の顔色が変わった。
「まさか、松之助がいなくなったのか?」
嘉門がハッとした表情で立ち上がり、小さく呟いた。
「―あの女狐め」
〝女狐〟というのが誰を指すのか―、お民にはすぐに判った。お民に辛く当たった母をたしなめながらも、お民の前では母を弁護しようとしていた嘉門、その嘉門がそこまで悪し様に母を詰るのはよほどの腹立ちであろうと察せられる。
「そうなのだな、松之助が何者かにまた連れ去られたのだな」
念を押すように問いかけられ、お民は無言で首肯した。
嘉門はしばらく痛みに耐えるような表情で眼を閉じていた。
ややあって早口に言う。
「このことは俺が対処する。松之助は必ずやそなたの許につつがなく返すと約束するゆえ、そなたは先に帰―」
嘉門が突如、口ごもった。
お民の方を窺うように見つめ、また、眼を瞑る。今度は先刻よりはやや長い沈黙があった。
しばらくして眼を開いた嘉門の眼が一瞬、揺れた。その瞳の中を様々な感情がよぎってゆく。
迷い、懊悩、もどかしさ、切なさ。
嘉門がそのように己れの心の奥底を見せるのは極めて珍しいことだった。
が。嘉門は一瞬だけ素顔を晒すと、すぐにまたいつもの酷薄さを滲ませる微笑で心を覆った。
「では、一つ取引をしようではないか」
「―取引?」
固唾を呑んで見守っていたお民は、虚を突かれた。
嘉門は今、松之助は必ず無事に返してくれると言ったのではなかったか?
その後に言おうとしていた科白は、ついに聞けずじまいになったけれど、嘉門は確かにこの件については自分が善処すると言ったはずだ。
なのに、取引をするとは、どういうことなのか。
お民は戸惑いながらも、小さく頷いた。
「一晩だけ、そなたが俺のものになるというのなら、この話は考えてやっても良い」
「それはつまり、松之助を返して下さる代わりに、私にまたあなたの想い者になれということでございますか」
お民の唇が戦慄く。
「なに、たったの一夜だけだ。想い者になるとは、ちと大仰すぎるだろう」
事もなげに言い放つ男を、お民は涙の滲んだ眼で睨んだ。
「あなたさまは、どこまで卑劣なお方なのでしょう。このようなときにさえ、我が子の身柄と引き替えにしてまでご自分の望みを遂げようとなさるのですか」
「―こたびの事、誰が裏で糸を引いておるか、そなたは既に気付いておるのであろう? その者の名を俺に告げぬは、そなたの優しさからだと俺は判っている。だが、お民。俺は自分の望むものを手に入れるためなら、手段を選ぼうとはせぬ―そんな女の息子なのだ」
源治が徳平店で無力感に打ちひしがれていた頃―、お民は石澤家の屋敷にいた。
門前で名乗り、訪(おとな)いを告げると、お民はすぐに屋敷内へと通された。
案内されたのは奥向きの一角、この部屋には見憶えがある。半年前、龍之助が寝かされていた場所、龍之助の最期の瞬間を見届けた座敷だ。忘れようとしても、忘れられるものではない。
顔を見たこともない侍女に導かれてここに来てから、いかほど経ったのか。
少なくとも半刻は待たされただろう。
眼前の襖には四季折々の花々が大胆に描かれている。春は桜、夏は菖蒲、秋は菊、冬は椿。
名のある絵師が描いたであろうそれを無意識の中にぼんやりと眼で追っていく。そんなことを繰り返した挙げ句、ようよう何度目かにその襖が音もなく開いた。
お民は両手をついて、平伏する。
嘉門は床の間を背にして胡座をかいた。お民との距離は知れている。嘉門は脇息を引き寄せ、片手で頬杖をついた上に顎を乗せた。
お民の瞳の奥にある真意を確かめるように、じいっとこちらを無表情に見つめてくる。
心なしか、嘉門の顔色がどす黒く染まっているように見えるのは、この部屋が暗いせいだろうか。
「さても珍しき客人が参ったものよ」
嘉門の声にはこの事態を面白がっているような響きがある。
「一体、今更何用があって、そなたがわざわざ俺を訪ねてきたというのだ?」
沈黙を守り通すお民に焦れたように、嘉門が唐突に口を開いた。
「そのことは、あなたさまがいちばんよくご存じなのではございませぬか」
敢えて〝殿〟ではなく〝あなたさま〟と呼ぶ。
わずかな間があった。
嘉門の声にかすかに苛立ちが混じる。
「俺はそう気が長い方ではない。もって回った物言いは大嫌いなのだ。用件があるというのなら、疾く申せ」
お民は嘉門を見据える瞳にぐっと力を込めた。
「あくまでもあなたさまがご存じないと仰せならば、私の方から申し上げます。我が子松之助をこちらでお預かり頂いていると知り、お返し頂くために急ぎ、こうしてまかり越しました」
「―松之助とな。龍之助の弟か」
嘉門の貌には、意外なことを聞いたとでも言いたげな軽い愕きがあった。
「双子の残った片割れか。龍之助は不憫なことをした。残った弟は健やかに育っておるか」
嘉門の声にも表情にも含むところは何もないと言って良かった。
やはり、祥月院の差し金だろうか。
とは思うものの、仮にも嘉門にとっては実の母親だ。息子の前で母親の罪を暴き立てるようなことを言っても良いものかと逡巡する。
お民が声もなく見つめていると、嘉門の顔色が変わった。
「まさか、松之助がいなくなったのか?」
嘉門がハッとした表情で立ち上がり、小さく呟いた。
「―あの女狐め」
〝女狐〟というのが誰を指すのか―、お民にはすぐに判った。お民に辛く当たった母をたしなめながらも、お民の前では母を弁護しようとしていた嘉門、その嘉門がそこまで悪し様に母を詰るのはよほどの腹立ちであろうと察せられる。
「そうなのだな、松之助が何者かにまた連れ去られたのだな」
念を押すように問いかけられ、お民は無言で首肯した。
嘉門はしばらく痛みに耐えるような表情で眼を閉じていた。
ややあって早口に言う。
「このことは俺が対処する。松之助は必ずやそなたの許につつがなく返すと約束するゆえ、そなたは先に帰―」
嘉門が突如、口ごもった。
お民の方を窺うように見つめ、また、眼を瞑る。今度は先刻よりはやや長い沈黙があった。
しばらくして眼を開いた嘉門の眼が一瞬、揺れた。その瞳の中を様々な感情がよぎってゆく。
迷い、懊悩、もどかしさ、切なさ。
嘉門がそのように己れの心の奥底を見せるのは極めて珍しいことだった。
が。嘉門は一瞬だけ素顔を晒すと、すぐにまたいつもの酷薄さを滲ませる微笑で心を覆った。
「では、一つ取引をしようではないか」
「―取引?」
固唾を呑んで見守っていたお民は、虚を突かれた。
嘉門は今、松之助は必ず無事に返してくれると言ったのではなかったか?
その後に言おうとしていた科白は、ついに聞けずじまいになったけれど、嘉門は確かにこの件については自分が善処すると言ったはずだ。
なのに、取引をするとは、どういうことなのか。
お民は戸惑いながらも、小さく頷いた。
「一晩だけ、そなたが俺のものになるというのなら、この話は考えてやっても良い」
「それはつまり、松之助を返して下さる代わりに、私にまたあなたの想い者になれということでございますか」
お民の唇が戦慄く。
「なに、たったの一夜だけだ。想い者になるとは、ちと大仰すぎるだろう」
事もなげに言い放つ男を、お民は涙の滲んだ眼で睨んだ。
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「―こたびの事、誰が裏で糸を引いておるか、そなたは既に気付いておるのであろう? その者の名を俺に告げぬは、そなたの優しさからだと俺は判っている。だが、お民。俺は自分の望むものを手に入れるためなら、手段を選ぼうとはせぬ―そんな女の息子なのだ」
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