肩甲骨に薔薇の種(アルファポリス版・完結済)

おにぎり1000米

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本編

20. 夜に落ちる果物

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 コーヒーショップのガラス窓の外でヘッドライトが光った。外のロータリーにパールグレーの車が停まっている。車体にオレンジががった夜の街灯と信号機の光が反射している。運転席の方から峡さんの頭がみえた。僕は急いで外へ出た。

 峡さんが僕をみてうなずく。夕方会った時と同じワイシャツを着ているが、腕時計はない。助手席に座りながら僕は迷った。とりあえず何か(ありがとうございますとか、ありきたりのことを)口に出そうとしたのに、奇妙に硬い空気が漂って、口をあけたとたん、何をいえばいいのかわからなくなってしまう。

「すぐ近くだから」
 先に口をひらいたのは峡さんで、ぎこちなくシートベルトを引いた僕に首を振る。と、なぜか僕を二、三秒凝視して、ついと眼をそらした。

「あ……零はどうだった? 引越は大変そう?」
 車を発進させながら、まっすぐ前を見たままいう。
「大変そうではありましたけど、たいていは業者まかせだからそれほどでもないそうです」
「そうか。ならよかった」
 僕は続けて何か喋ろうとしたが、話題が思いつかなかった。どうしてうまく喋れないんだろう? こんなことは初めてのような気がする。

 焦る僕を置いて車はロータリーを抜け、マンションと戸建てがならぶ住宅街を走るとまもなく停まった。たしかに近かった。歩いてもたいした距離じゃないだろう。
 マンションを囲む生垣には、駐車スペースが歯型のように埋めこまれている。峡さんはそのひとつに車をバックで入れてエンジンを切った。街灯の光のなかに生垣にからみつくように咲いたオレンジ色の花が浮かび上がる。峡さんはすぐそばのテラスの門を開けてタイル敷きの通路を進む。数歩先に玄関のドアがある。

「散らかっているけど」

 うながされて一歩中に入ると板張りの廊下はほの明るくて涼しい。かすかに香ばしい匂いが鼻先に漂った。美味しそう、という言葉が反射的に頭に浮かぶ。まずいことに突然自分が空腹なのを思い出した。佐枝さんの新居ではビールを飲んだだけで、その後も何も食べていなかったからだ。

 靴を脱いであがったとき、お腹がぐうっと鳴った。峡さんに聞かれなかったかとヒヤヒヤしたが、彼はもう玄関のすぐ横手の扉の向こうへ消えていた。あとについていくと聞き覚えのあるドキュメンタリー番組のテーマ曲が聞こえた。テレビがつきっぱなしなのだ。

 広いガラス窓の向こうに生垣に囲まれたテラスが見えた。地面に据えられた小さなランプが黒い壁のように刈りこまれた樹木を照らしている。
 クッションが散らばるソファとその前のテーブルに雑誌や本が重なっていた。ちらりと見えたタイトルは英語で、テレビを囲むように壁一面に据えられた棚にも、本や雑誌や置物、日用品が置かれている。几帳面に並んでいるのではなく、とりあえず拾って重ねている、といった様子だ。

 ぼんやり眺めている僕に峡さんは照れくさそうに「散らかっているっていっただろう」と呟いた。テレビのリモコンをいじってチャンネルを変える。
「お腹が空いているんじゃないか」
 図星をさされて僕は口ごもった。
「えっ……いえ、はい」
「何か作ろう」
「いやその、僕が無理矢理押しかけたようなもので……気をつかわないでください」
「たいしたものじゃない。すぐできるから、そこに座っていなさい。あ、トイレに行きたかったら、出たところを左だから」

 ソファの裏側の壁の向こうがキッチンらしい。峡さんはすたすたとそちらへ歩いていき、僕はソファの手前で中腰になって峡さんの背中を眺めた。蛇口から水が流れ、換気扇が風のような音を鳴らす。峡さんのスラックスに包まれた腰をみつめているうちに緊張がわきあがってくる。それを隠すように「すみません、トイレお借りします」と僕は呟く。
 戻ると峡さんはお椀と湯呑みをふたつずつのせたトレイをリビングのローテーブルに置いたところだった。テーブルに載った本や雑誌を床に移しながら「ほら」という。

 ほぐした鮭の切り身がのったお茶漬けだった。ピンクがかった鮭とお茶の緑と海苔の黒が見た目にもきれいだ。出汁のいい匂いもする。お茶漬けといえばインスタントしか知らない僕にはまるで魔法のようだ。
 不覚にも僕のお腹がまた鳴った。峡さんが小さく笑った。

「やっぱり」
「……すみません」
「まさか。俺も食べるから」

 ためらう僕をソファの奥側へとうながして、峡さんは隣に腰をおろした。テレビ画面では毎年一度はかならず放映される有名なアニメ映画が流れている。彼はいつもこんなふうにテレビを見ながら夕食を食べているのだろうか。僕に電話をかけてくるときも。

 お茶漬けはほのかに甘い舌ざわりと塩気が絶妙な組み合わせで、とても美味しかった。僕はあっという間に食べてしまい、ほっと息をついて冷たいほうじ茶を飲んだ。涼しい室内で食べる、適度に熱い食べ物は格別だ。お茶漬けの中の鮭みたいに、緊張も無理矢理ほぐされてしまったような気がする。少なくともそのときはそう思ったのだが……。

「そう、さっき渡来さんと例の――つきまとう彼の話をしていたが」
 それでも峡さんが話しはじめたとたんに居心地悪さが戻ってきた。
「また身近に姿を見せることがあればいつでも、すぐに連絡するんだ。TEN‐ZEROの警備でも対応するよう、渡来さんが手配することになった。雑誌の件もあわせて弁護士も」
「峡さん、あの……」
「零の時も同じように対応したから、特別なことじゃない。だから」
「……そうかもしれませんけど」
「何かあってからは遅いんだ」
「それはわかってます」

 もちろんわかっていた。
 だいいち僕にとって、つきまとってくる人間は今回がはじめてじゃなかった。十五歳を過ぎた頃から時たまあったことだ。実家の両親や兄たちはそのたびに僕を守った。見知らぬ人間たちから守ってくれただけではない。彼らが無遠慮な興味で追ってくるのは僕のせいではないと繰り返すことで、僕自身が卑屈な人間になることからも守ってくれたのだ。けれど今回は……。

 僕自身が釈然としない理由はうすうす理解していた。相手が昌行だからだ。

 あの頃、高校時代の昌行は秀哉が好きだった。はた目にはそう見えなかったかもしれない。普通の友人に見えたかもしれない。昌行はいつも秀哉に対抗して、秀哉と張り合おうとしていた。アルファの秀哉と。
 僕はその理由がわかると思う。昌行は秀哉と対等でいたかったのだ。

 いや、、たぶん他の誰よりも僕はそのことを知っていた。だからこそ秀哉が僕を過剰に意識していると昌行に打ち明けることができたのだ。もっとも昌行はとっくに知っていたかもしれない。秀哉も彼に打ち明けていたかもしれないからだ。

 ひとの心はよくわからない迷路をたどる。
 秀哉を拒絶した昌行があれほど憎むとは、僕には想像もつかなかった。

「峡さん。僕は零さんじゃないです」
 僕は下を向いたまま言葉をこぼした。聞きなれたアニメのテーマ曲がテレビから流れている。主人公の子供たちがついに悪人を退治して故郷に帰るのだ。
 ソファの座面が揺れた。
「そんなつもりじゃない。俺は――」

 峡さんは言葉を切った。僕はそのまま自分の膝をみつめ、指をみつめ、左手首の腕時計をみた。薔薇の留め金をいじって、耐えられずに顔をあげたとき、峡さんと眼があった。

 どちらから、というのでもなかったと思う。
 気がつくと唇が重なって、僕は峡さんとキスをしていた。玄米茶の味がすると思ったのもほんの一瞬だった。湿った唇の感触が僕の背筋に電流を走らせ、いつのまにか僕は峡さんの首に腕を回してしがみついていた。ぎゅっと眼を閉じる。彼のワイシャツは汗の匂いと、前に車の中で嗅いだちがう匂い――男くさい深い匂いがした。たがいについばむように唇を動かし、舌をみつけて重ね合わせる。歯のあいだをなぞられ、隙間をうめるように粘膜が触れあう。

 峡さんの舌がつつくように僕の口の中をすこしずつ侵し、そのたびに背中から力が抜けた。回された腕の温度が肩甲骨から腰にかけて移動していく。彼のゆるやかな愛撫に負けたくないと舌をのばすと、逆に強く吸われた。下唇と上唇を交互に噛まれ、僕の鼻から甘ったるく息が抜ける。

「……ん……あ、」

 とても長いキスだった。されるままになっているのがいやで僕は峡さんの髪に指をからめたが、気がつくとソファに倒されて足の上に彼の体重を感じている。前髪からうなじにかけて指で愛撫されながら峡さんのキスを受けつづける。キスだけなのにスラックスの前がきつくなり、背中から腰が熱くてたまらなくなる。
 峡さんの手は僕の髪から首筋をたどり、シャツの襟のすきまから鎖骨に触れた。布の上から胸のあたりをこすられたはずみに僕の腰が勝手に動く。

「あぅ、ん――」

 一瞬離れた唇のあいだで唾液が糸をひくのがわかった。耳の裏側に吐息がふきかけられ、耳たぶに軽い痛みを感じて背中がのけぞりそうになる。峡さんの堅い腕が僕を押さえつけて自由を奪う。
 なんだか、彼が触るところがことごとく感じる場所になったみたいだ。ヒートでもないのに。
 たまらない。肌をこする自分の服の感触ももどかしくてたまらないし、峡さんの吐息も指もたまらない。

「あ――……峡さ……」

 僕はうるんだ眼で峡さんをみつめ、無意識に腰をもちあげて彼に擦り合わせようとした。自分のシャツのボタンを外したくて指をやみくもに動かすと、そっと手首をもちあげられ、内側にキスをされる。そのまま彼の舌が動いて指をそろりとなめられ、人差し指と中指の先を咥えられた。

「峡さん、峡さんっ……あ、あ……」

 もうだめだった。腰をよじるようにして悶えながら僕はまた眼を閉じ、かすれた声をあげていた。深く咥えられた僕の指のあいだを峡さんの唾液がおちていく。シャツの前があけられて、むきだしになった胸にエアコンの冷気と峡さんの体温を同時に感じた。

 スラックスの前がゆるめられる。僕は安堵とも興奮ともつかない吐息を漏らし、緊張がせりあがるままに腰を揺らす。指先への刺激でうしろも熱くなり、背筋を這う快感で腰の奥のほうがうずいた。
 ソファの上で僕に覆いかぶさったまま、峡さんは僕の下着を指でなぞる。僕自身の先端はすでにびしょびしょに濡れていて、ボクサーを引き下ろされると素直に上にたちあがる。峡さんの眼は欲情の影に濡れているのに、妙に冷静な気配もあった。それが僕をもっと興奮させた。ああ、もう、この人は。

「峡さん、峡さんも、ねえ、」

 僕がそう口走っても、峡さんは焦らすようにゆっくり動いた。たまらず僕は峡さんのスラックスに手をかけようともがき、すると峡さんはふっと微笑んだようだった。彼がゆるめたベルトの下からトランクスがのぞくと、その上から何かが顔を覗かせようとしている。大きな雄をみつめて僕は思わず唾をのんだ。うしろの穴がきゅっと期待でうずいたのがわかった。アレを……。

「峡さん……ねえ……お願い……」

 たまらず僕は懇願した。峡さんは微笑んで僕の上にかぶさると「朋晴」とささやく。
 それだけでいきそうだった。
 トランクスの下からあらわれた峡さんの雄が僕自身に触れる。揺さぶられるだけでたちまち持っていかれ、あっという間に僕は峡さんのワイシャツに白濁を飛ばしていた。ゆるやかな陶酔の感覚が覆うなか、乳首にかすかに痛みを感じる。峡さんの唇が僕の胸から腹にかけて動き、舌が這ってしずくを舐めとる。腰の奥がさらなる渇望にうずく。

「あ……峡さん、もっと……」
「朋晴」
「うしろも……お願い……峡さんはまだでしょう……?」

 僕の肩口でふっと微笑んだ気配がした。今度のキスも長く、僕は峡さんの舌を甘く存分に味わいながら、一度達した僕自身を彼のシャツに押しつける。峡さんの雄が腹の上から僕自身をなぞって動き、それに従って僕のうしろが、また欲しい、もっと欲しいとわがままをいいはじめる。

「ねえ、中に……僕の――」
 唇が離れたすきにたまらず声がもれた。峡さんの舌が僕の耳たぶをなぞる。
「だめだ」
 耳を咥えられながらそうささやかれる。背筋が甘くしびれた。
「でも……」
「もう一度してあげるから」
「だけど峡――あっ、あっ……ん」

 ずるっとのしかかる重みがずれたと思うと、今度は僕自身を彼の舌が咥えていた。さっきの余韻もまだ残っていたはずなのに、僕はたちまちからみつく舌の動きに翻弄され、追い上げられる。いやだ。どうして彼はこんなに――こんなに……
「あ、あ、あ――」
 まるで岸辺に打ち上げられるようだった。舌と指だけで僕は翻弄され、さんざん喘いで、ふたたび果てた。




 不覚にも、僕はそのままうとうとしてしまったらしい。
 はっと気づくと峡さんの顔がすぐそばにあった。床に膝を落として座った姿勢でソファに肘をつき、横になった僕をみつめていたのだ。

「起きた?」
「あ、あの」
「すっかり遅くなってしまった。ごめん。いそいで送るよ」

 いつの間にか出現していたタオルケットの下で、僕はちゃんとボクサーパンツを履いている(濡れて染みができていたが)。峡さんは着替えていた。Tシャツにテーパードパンツ。僕は腕に嵌めた時計を見た。

 0時。なんということだ。もうこんな時間か。
 僕はシャワーを断って、トイレと洗面所を借りて顔を洗った。リビングに戻ると峡さんはテレビをみつめながら車のキーでお手玉をしていた。

 ふいに胸の奥がきりきりと痛んだ。ひどく寂しかった。このままこの部屋にいられたらいいのに。朝までいて、峡さんのあの――
 バージンでもないのに、僕は自分が想像したことに顔を赤らめそうになった。

「朋晴?」
 峡さんがお手玉をやめ、不思議そうに僕をみている。
「こんな時間まですまない」といつもの穏やかな声がいった。
「いえ、そんな――」

 どういうわけか急に、強烈に胸がつまった。この部屋が峡さんの匂いでいっぱいだからだろうか?
 あなたが好きです、ほんとうに。そういいたかったのに言葉が出てこなかった。

「すみません、急に押しかけて」
 なので、あきらめた僕はこんなつまらないことをいう。
「いや、とんでもないよ」
「お茶漬け、美味しかったです」
「そう?」
 とたんに峡さんはひどく嬉しそうな顔になった。

「あの、また――また来てもいいですか。今度は僕も手伝うので、料理なんかも」
 させてくださいと最後までいえなかった。背中にふわっと腕が回され、ひたいに唇が落とされたからだ。エアコンに冷やされたのか、今度僕の肩に触れた峡さんの腕はひんやりしていた。
「わかった。ほら、行こう」

 いつ僕はアパートの住所を峡さんに告げたのだろう。助手席に乗ったところまでは記憶にあるのに、次に気がついたときは自分の部屋の前だった。寝落ちしていたのだ。オメガ以外は立ち入り禁止のアパートとはいえ、僕は飲み物でもどうかと誘いたかった。峡さんはアルファではないから、一度くらいきっと大丈夫だ。でも彼は車から降りなかった。

「おやすみ、朋晴」
「おやすみなさい」

 僕らは礼儀正しく挨拶し、パールグレーの車は夜の中を走り去った。



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