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本編

19.輪郭をすくう

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「峡が結婚してた? それはないよ。まあ、過去に付き合っていた相手はいたけど」
 佐枝さんは気を取り直したように転がったビール缶を拾い、握った。パコンと缶の真ん中が凹む。
「俺が子供の頃はたまに仲の良さそうな人を連れてきてたけど、知るかぎりそれだけだな。いつまで独身なんだって聞いても、峡はすぐ『俺はモテない』とかいって話をそらしてさ――にしてもなんでそんなこと聞くの? 三波って峡と」
「なんでもいいじゃないですか」

 なんだってこんなことを聞いてしまったんだろうと思ったが、もう遅い。峡さんに送ってもらった上にこんなことを聞いた日には誤魔化すのはたぶん無理だ。それでも全力ではぐらかすつもりで僕はいう。
「あの人がモテないなんて信じられないですけどね」
「ああ、俺もそう思う――っていうか原因はわかってる」
「原因?」
「俺」

 佐枝さんは人差し指で自分自身を指した。
「佐枝家は俺のためにいろいろ……犠牲を払ってきた。とくに峡は。高校のとき俺は峡と同居していたし、ひとり暮らしをはじめてからも、問題が起きるたびに峡はすぐやってきて――あれだとベータの恋人は引くんじゃないかと思う。オメガの甥がヒートになるたびに飛び出していくんじゃ」
「そうだったんですか」

 あたりが暗くなっていく中、佐枝さんの顔は少し赤かった。すでに酔っているのかもしれない。
「ベータの偽装もだけど、峡がいなかったらたぶん俺はいろいろ……まずかった。それに佐井の本家がらみの雑用も峡はいろいろやってるから、家のことで自由が利かないのは歓迎されなかったんじゃないかな」
「――そんなもんですかね」
「そんなもんだろう。もちろん俺が知らないだけで、その後もつきあってた相手はいたかもしれないけどさ、ここ数年はそんな感じじゃなかった。ひとにはおせっかいを焼く癖に。――それで三波」
 佐枝さんはおもむろに、まだ開けていない缶を取り上げると僕の手におしつけた。
「峡とつきあってるの?」

 にやにやと楽しそうに笑う佐枝さんの様子は最近会った誰かを連想させた。ひとの悪そうな、というほどでもないが、ひたすら面白がっているだけの表情だ。
 誰だろう――そう思ったとたんに答えがわかった。彼とボスを祝うサプライズパーティを開いたカフェのマスターだ。

「だからなんでもいいじゃないですか。そんなに峡さんのことが気になります?」
「まさか。気になるのは三波だよ」

 佐枝さんは今度は子供を見守るかのような、年相応の顔つきでニコニコ笑った。年上の人にこんなことを思うのも失礼かもしれないが、彼は時々ひどく幼く見えるから、ギャップが面白かった。
「さっき三波を見たときすごくびっくりしたんだけど――なんか、三波すごくいいよ。色っぽい。カッコいい。いや、もとからカッコいいんだけどさ。いまはもう史上最高」

 へ?
 返事をしかねている僕へ佐枝さんはかぶせるように「今度俺のモデルにならない?」といった。眼をきらきらさせながら。




 それが一時間ばかり前のことで、いま僕は電車に乗っている。
 都心の電車はどうしていつもこんなに混んでいるんだろう。佐枝さんの新しい家の最寄り駅は、僕がふだん乗り慣れない私鉄線で、僕のアパートの最寄り駅までいささかややこしい乗換が必要だった。やたらと複雑な都内交通あるあるというやつだ。つまりいったん私鉄線から都心の地下鉄へ接続し、一度降りて地下道を歩いて、別の私鉄に乗り換えて……という具合だ。

 最初の電車は方向のせいかそれほど混雑していなかった。ところが一度ちがう路線に乗り換えると、たいへんな混みようだった。車内でドア脇に押しつけられるように立ちながら、僕はぼんやり、佐枝さんとの会話を頭の中で繰り返しながら考えを追っていた。といってもたいしたことではない。峡さんがモテないなんて、まあ嘘だよなぁ……とか、手を出してこないのはやっぱりそんな対象に見られていないのかも、とか、そんなことだ。

 もちろん、どうやら完全にストーカーと化したらしい昌行のことも考えてはいた。彼に峡さんが対処するといってくれたことも。しかしこれについても僕の思考は肝心の中身ではなく、別の方向へぶれがちだった。つまりコンビニに寄った時に車の中でキスしてくるかも……なんて期待したのは僕の早合点か馬鹿なのか、とか、そんなくだらない事柄だ。要するにろくな話ではない。

 つまるところぼんやりしていたのだ。佐枝さんと飲んだビールのせいもあっただろう。エアコンが効いていても車内は人いきれでむっとしていた。乗換駅で停まるとさらに人が増え、反対側の閉まったドアへぐいっと押しやられる。鞄を死守するだけでせいいっぱいだし、足を置く場所もほとんどないような混みようだ。

 ふいに腰のあたりを触る動きを感じた。
 僕は一瞬硬直した。身動きもろくにできない中、真後ろ、うなじのあたりに誰かの息があたる。首をねじろうとしたとき、スラックスの上から尻をなぞる指を感じた。このやろう。
 ――そう思った直後、僕は踵をあげて、自分の足のすぐ後ろに触った靴のつま先を踏んでいた。ひょっとしたら別人の靴かもしれないが、この際構っていられなかった。足元で何か引っ込む気配があった。そこを追いかけて、今度は蹴る。

 正解かどうかはわからないが、僕の踵が何かにクリーンヒットしたのはたしかなようだ。というのも尻をなぞる指が消えたからだ。アナウンスが次の停車駅を告げている。ありがたいことに開くドアの方向が変わるらしい。僕は胸の前に抱えた鞄を盾にモゾモゾと動き、周囲の人を押しのけはじめた。満員電車がけしからんのはこれがあまねく人類を失礼にするデバイスだからだ。こんなものはもちろん、人類史上から撲滅すべきである。

 やっと電車が停まりドアが開くと、人の流れに重なってホームへ降りる。発車ベルを聞きながらいくらか隙間のできた車内にもう一度乗ろうとして、ふと知らない男と眼が合った。グレーのスーツのサラリーマン。そんなに年じゃない。ふっとアルファの匂いが立ち上がる。

 僕は顔をしかめ、後ずさりした。発車ベルが鳴りやみ、風を巻き立てながら電車が走り去っていく。思わず舌打ちしそうになってやめた。次の到着時刻は電光表示板に出ていた。快速電車だった。つまり乗り換えが増えるということだ。
 ホームに立ったまま乗換アプリで最短距離の検索をかけていると急速に腹が立ってきた。くそくだらない痴漢のせいで酔いはすっかり醒めたし、本来今日は峡さんと(短いとはいえ)ドライブデート(僕としては)になるはずだったのに、昌行のせいで台無しだったのだ。

 僕はぷんぷんしながらホームへ到着した電車に乗りこみ、戦闘的な気分で痴漢と昌行への効果的で永続的な呪いを考えた。おかげで多少気はまぎれたが、それから流れてきた車内アナウンスを聞いてわかったのは「降りるべき駅を通りすぎた」ということだった。
 なんと僕が乗っていたのは快速ではなく特急電車で(まったく、私鉄線は紛らわしい電車呼称をやめるべきだ。追加料金もいらないのに特急電車なんて、どういうことだ?)一度降りて乗り換えなければ僕の行くべき路線への乗り換えはできないのだと。このひょっとこですっとこどっこいな都心部交通網ときたら!

 というわけで、僕は行き過ぎた駅のホームに立って、また腹を立てていた。今度は自分自身にである。ホームを渡って反対方向の電車に乗り換えるのが一番の早道だが、それも妙に癪に障った。
 いいや、この際だ。たとえ遠回りになっても、後ろを振り向かないルートで帰るぞ。

 冷静に考えるとあきらかにおかしな決断だが、そんな気分だったのだ。どうせ帰っても寝るだけだし……自分でもいじけているのかやけになっているのかわからないまま路線図を眺めていると、モバイルが鳴った。

『朋晴? 今いいか?』
「隆兄さん?」
 なんとめったに電話をかけてこない、一番上の兄、隆光だ。

『元気か?』
「元気だよ。珍しいね。隆兄から電話なんて」
『大丈夫か? よく聞こえない』
「あ、ごめん。駅だからうるさいか」

 僕はホームを歩きはじめた。階段を上ると音声は多少ましになったらしい。隆光が『おまえ、夏の帰省はどうする』とたずねてくる。
「休みは取ろうと思えばとれるし、隆兄とちがって簡単だから、適当に帰るけど」
 答えながら階段を上りきるとそこはよくある都内の私鉄駅の風景だった。売店と立ち食いそばとどこにでもあるコーヒーチェーン店。改札の中にも入口がある。

『それがな、千歳も久しぶりに帰るらしいんだ』
 長兄は二番目の兄の名前をいい、僕は「え、南米から?」と思わず口走った。
『そう。久しぶりだから全員でそろった方がいいと思ってな。といってもうちのは挨拶だけで向こうの実家へ行くことになってるが、俺は何日かいる。千歳も二日間くらいはいるらしい』
「へえ。みんな揃うなんて久しぶりだね」
『朋晴は日帰りか? だったら美晴やおやじたちにも都合があるから、聞いて日を合わせてくれ』

 長兄の隆光は僕より十歳年上、次兄の千歳は七歳上だ。姉の美晴が五歳上だから、僕はきょうだいの末っ子として思う存分いじられて育った。とはいえ兄弟仲は円満だ。特に大人になってからは、長兄と次兄には年に一度会うか会わないか、どうかすると数年に一度しか会わないので、喧嘩をする余地もない。
 わかった、と答えて電話を切った僕は、ついでに姉の美晴とも話しておこうと思った。コーヒーチェーンに入ってアイスティーを頼み、またモバイルを鳴らす。美晴はすぐに出たが、その直後電話を奪い取ったらしい甥の湊人が僕の名を絶叫した。

 彼らと前に電話で話したのは五月頃だろうか。時間が経つのは早い。なんとかして早く湊人を寝かせたいの、という美晴と日付だけ打ち合わせると、僕は通話を切った。

 ふとみるとモバイルの画面に「よくかける連絡先の一覧」が光っていた。峡さんの番号が一番上にある。彼はもう家に帰っただろうか。アイスティーの氷をかきまわしながら僕はすこし迷った。忙しいなら……でも結局タップした。

 コールが何回か続いた。切ろうとしたとたん『峡です』とあわてた声が聞こえた。
「峡さん」
『朋晴』

 名前を呼ばれたとたん胸の奥がざわざわと鳴り響き、僕は小さな椅子に座りなおす。さっき長兄に呼ばれたときはもちろんこんなことはなかった。峡さんは隆光よりもずっと年上なのに。

『ごめん、電話中だった。もう家に帰った?』
「あ、それが……まだなんです」

 僕は痴漢に遭遇した部分をすっとばし、佐枝さんの家を出てからうっかり電車を乗り間違えたり乗り過ごした、と話した。いつものように――つまり僕の悪い癖でもあるが、冗談半分な調子で。

「僕としたことが乗り過ごしたのがかなり悔しくて、それで今――」と現在の駅名をいう。
 とたんにモバイルの向こうから『え?』と聞き返す声が響いた。
『俺の家のすぐ近くなんだけど』
 ははは、と僕は思わず笑った。
「冗談でしょう」
『いや。――朋晴』
 ふいに峡さんの声が真面目な響きになった。
『そこにいなさい。迎えに行くから。車で家まで送るよ』
「え、峡さん」今度は僕が驚く番だった。
「帰ったばかりなんでしょう? 僕はもう電車に乗るだけですから。酔ってもいないし、大丈夫ですよ。気にしないでください。話せてよかったです」
『いや。実はさっきまで渡来さんと話していた。週刊誌にリークしたストーカーの件、渡来さんも重要だと思っている。警戒しないとまずいという考えも俺と同じだ』
「だからって今日はもう――」
『すぐに行く。待っていなさい』

 腹の底から何かがゆらりと立ち上がった。嬉しいのか鬱陶しいのか、僕は自分の気持ちがわからず混乱した。峡さんがここに来てくれる――それは嬉しい。でもこんな風に一方的に押しつけられるようなのは――好きじゃない。なんだかとても……。

「峡さん、だったら」
 僕は思わず口走っていた。
「送ってくれる前に峡さんの家にも寄らせてください。近いんでしょう?」

 モバイルの向こうが静まりかえった。胸がどきどきと脈打っている。僕はアイスティーのグラスを握りしめた。水滴で手のひらがぐっしょり濡れる。
 耳の奥に峡さんの静かな、すこしかすれた声が響いた。
『ああ。わかった』



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