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第二章 はなれる
79 バレンタインデー
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「グッモーニーン!今日はバレンタインデーですよー。いつもお世話になってまーすっ」
始業5分前。江原さんが楽しげに席を回りながら、はいっ、はいっ、とチョコレート味のマドレーヌを配っている。はいっ、と渡されてお礼を言い、製造所を見ると近所のお菓子屋さんらしい。
「結構マメだね」
俺の言葉に、はいっと元気よく返事をしてから、
「ホワイトデーの三倍返し、期待してますっ」
笑顔と共に返ってくる。
なるほどね。
妙な納得をしつつ、一度手に取ったマドレーヌを机の上に置いた。
恋人たちの日であり、俺の誕生日でもあるバレンタインデーは、今年は平日にあたった。だからこそ、先週末に一足早く橘が祝ってくれた訳で、一応、美味いコーヒーとネクタイも置いていってくれた。
「あれっ、神崎さん、今日のネクタイ洒落てますね」
橘が置いていってくれたネクタイは、紺地にベージュやライトピンクで上品な色合いの刺繍がしてある。柄はペイズリー柄で、到底自分で選ぶものではないが、だからこそくれたのだろう。
「ああ、そう?」
江原さんに苦笑を返す。まあせっかくくれたものだし、つけてみるかと試してみたのだが、イマイチ落ち着かない。
「意外と似合ってますよ。誠実で柔らかい感じに見えます」
何となく失礼なことを言われた気がしたが、とりあえずお礼を言っておいた。
「でも、選ばないよなぁ、自分で。ピンクのペイズリー柄」
ニヤニヤしながら隣のデスクから俺を見やる阿久津。
「そういえば、バレンタインデーって誰かさんの誕生日だった気がするなぁ」
俺は苦笑した。就職前、内定後の飲み会がちょうど2月で、そんな話になった気もする。
「阿久津、お前どんだけ俺のこと好きなの」
「いやマジそれキモいからやめて」
「えっ、神崎さん、誕生日がバレンタインデーなんですか!?ウケる!」
「人の誕生日にウケんな」
毎年この日は、そうと知っている人と知らない人、双方からの贈り物が入り乱れる。知らない人は贈り物がだいたい食べ物なので分かるが、誕生日を誕生日として祝うよりも、世間一般のイベント色に紛れてしまうのがお決まりのパターンで、幼いときには何となく不服だったものだ。
「でも、バレンタインデーって山のようにもらってたんじゃないですか、神崎さん」
「どうだかねぇ」
学生時代は、もらって帰ったものは全て姉に検品され、俺に渡されるのは大概、しゃれっ気のない市販のお菓子だけだった。考えてみれば弟の隼人の方が俺の贈り物の恩恵にあずかっていたくらいである。
が、隼人自身は基本的に手ぶらで帰って来ていた。曰く、「その気もないのに貰って期待されるのも嫌だし、後でお礼するのもめんどくさいし、校則違反に巻き込まれるのもめんどくさい」だそうで、優しく見えて案外ドライな弟だ。さすがにみんなが貰っているものや、部活の後輩など復数人からの差し入れに近いものは、場の空気を壊さない程度に受け取っていたようだが。
俺の場合、知らないうちに鞄や机に突っ込まれていたり、部活の後輩男子から預かりものですと渡されたり、断りようがなかったのも確かだが、その点、我が社は割とドライなので助かっている。一人暮らしの今、食べきれない量を貰っても困るからだ。たまに取引先から貰うことはあるが、課員でいただきますと断って受け取っていたのでこれも捌けていた。
「聞きたいなぁ、武勇伝」
「聞くときは俺も誘えよ」
江原さんと阿久津が言い合うのを適当に流して、パソコンに向き合った。
【つけてくれたんだね、ネクタイ】
橘のメッセージがスマホに届いたのは昼休みだった。俺は苦笑する。
【阿久津か?】
【うん、社内メッセージくれた】
【後輩の女の子に褒められたよ。意外と似合ってるって】
【女子好きのするデザインかもね。でも似合ってよかった】
デスクでコンビニ弁当をつつきながらそんなやり取りをしていたとき、廊下から戻ってきた桑原さんから名前を呼ばれる。立ち上がってそちらに向かうと、顎で外を指し示しながら、お客さん、と無愛想に言ってデスクに行ってしまった。
俺がそれを見送ってから廊下を見やると、そわそわしながら立っていたのは山口会長夫人の花子さんだった。珍しい訪問者に驚きつつ、中に招こうとしたが断られる。
「大した用じゃなかです。ちょっと廊下に、いいですか」
不思議に思いながら廊下に出てドアを締めると、花子さんは手持ちの小さな紙袋を差し出した。
「ご迷惑とは思ったんですけど」
何となく嫌な予感に笑顔が引き攣る。
「これ、ヒカルからーーいつもお世話になってるから、お礼したいちゅうて」
花子さんが差し出した紙袋を、俺はゆっくりと手に取った。断る訳にも行かない。
「わざわざすみません。ありがとうございます。江原や阿久津といただきます」
「あ、いえ。これは神崎さんに」
花子さんは慌てて言った。
「神崎さんに、貰ってほしいとです」
俺は笑顔が完全に苦笑になったのを自覚しながら、何と言ったものかと考えていたが、苦笑しているのは花子さんも同じだった。
「神崎さんは大人やし、カノジョもいるけ、そんな気はない、ち言い張りよるんで、そのまま受け取ってやってください」
俺は嘆息して、それなら、と紙袋を持った手を下げた。
ーー江原さんにはひどく怒られそうだが。
「今日は、買い物のついでに寄っただけですんで。急にお邪魔して失礼しました」
花子さんはほっとした顔で一礼すると、背を向けて歩き出しかけ、振り向いた。
「そういえば、今日のネクタイ、お洒落ですね。神崎さんの優しいところ、よく引き出して見えます」
他意のない笑顔にどうもと答えて、その姿を見送った後、橘に伝えておこうとポケットのスマホに手を伸ばした。
始業5分前。江原さんが楽しげに席を回りながら、はいっ、はいっ、とチョコレート味のマドレーヌを配っている。はいっ、と渡されてお礼を言い、製造所を見ると近所のお菓子屋さんらしい。
「結構マメだね」
俺の言葉に、はいっと元気よく返事をしてから、
「ホワイトデーの三倍返し、期待してますっ」
笑顔と共に返ってくる。
なるほどね。
妙な納得をしつつ、一度手に取ったマドレーヌを机の上に置いた。
恋人たちの日であり、俺の誕生日でもあるバレンタインデーは、今年は平日にあたった。だからこそ、先週末に一足早く橘が祝ってくれた訳で、一応、美味いコーヒーとネクタイも置いていってくれた。
「あれっ、神崎さん、今日のネクタイ洒落てますね」
橘が置いていってくれたネクタイは、紺地にベージュやライトピンクで上品な色合いの刺繍がしてある。柄はペイズリー柄で、到底自分で選ぶものではないが、だからこそくれたのだろう。
「ああ、そう?」
江原さんに苦笑を返す。まあせっかくくれたものだし、つけてみるかと試してみたのだが、イマイチ落ち着かない。
「意外と似合ってますよ。誠実で柔らかい感じに見えます」
何となく失礼なことを言われた気がしたが、とりあえずお礼を言っておいた。
「でも、選ばないよなぁ、自分で。ピンクのペイズリー柄」
ニヤニヤしながら隣のデスクから俺を見やる阿久津。
「そういえば、バレンタインデーって誰かさんの誕生日だった気がするなぁ」
俺は苦笑した。就職前、内定後の飲み会がちょうど2月で、そんな話になった気もする。
「阿久津、お前どんだけ俺のこと好きなの」
「いやマジそれキモいからやめて」
「えっ、神崎さん、誕生日がバレンタインデーなんですか!?ウケる!」
「人の誕生日にウケんな」
毎年この日は、そうと知っている人と知らない人、双方からの贈り物が入り乱れる。知らない人は贈り物がだいたい食べ物なので分かるが、誕生日を誕生日として祝うよりも、世間一般のイベント色に紛れてしまうのがお決まりのパターンで、幼いときには何となく不服だったものだ。
「でも、バレンタインデーって山のようにもらってたんじゃないですか、神崎さん」
「どうだかねぇ」
学生時代は、もらって帰ったものは全て姉に検品され、俺に渡されるのは大概、しゃれっ気のない市販のお菓子だけだった。考えてみれば弟の隼人の方が俺の贈り物の恩恵にあずかっていたくらいである。
が、隼人自身は基本的に手ぶらで帰って来ていた。曰く、「その気もないのに貰って期待されるのも嫌だし、後でお礼するのもめんどくさいし、校則違反に巻き込まれるのもめんどくさい」だそうで、優しく見えて案外ドライな弟だ。さすがにみんなが貰っているものや、部活の後輩など復数人からの差し入れに近いものは、場の空気を壊さない程度に受け取っていたようだが。
俺の場合、知らないうちに鞄や机に突っ込まれていたり、部活の後輩男子から預かりものですと渡されたり、断りようがなかったのも確かだが、その点、我が社は割とドライなので助かっている。一人暮らしの今、食べきれない量を貰っても困るからだ。たまに取引先から貰うことはあるが、課員でいただきますと断って受け取っていたのでこれも捌けていた。
「聞きたいなぁ、武勇伝」
「聞くときは俺も誘えよ」
江原さんと阿久津が言い合うのを適当に流して、パソコンに向き合った。
【つけてくれたんだね、ネクタイ】
橘のメッセージがスマホに届いたのは昼休みだった。俺は苦笑する。
【阿久津か?】
【うん、社内メッセージくれた】
【後輩の女の子に褒められたよ。意外と似合ってるって】
【女子好きのするデザインかもね。でも似合ってよかった】
デスクでコンビニ弁当をつつきながらそんなやり取りをしていたとき、廊下から戻ってきた桑原さんから名前を呼ばれる。立ち上がってそちらに向かうと、顎で外を指し示しながら、お客さん、と無愛想に言ってデスクに行ってしまった。
俺がそれを見送ってから廊下を見やると、そわそわしながら立っていたのは山口会長夫人の花子さんだった。珍しい訪問者に驚きつつ、中に招こうとしたが断られる。
「大した用じゃなかです。ちょっと廊下に、いいですか」
不思議に思いながら廊下に出てドアを締めると、花子さんは手持ちの小さな紙袋を差し出した。
「ご迷惑とは思ったんですけど」
何となく嫌な予感に笑顔が引き攣る。
「これ、ヒカルからーーいつもお世話になってるから、お礼したいちゅうて」
花子さんが差し出した紙袋を、俺はゆっくりと手に取った。断る訳にも行かない。
「わざわざすみません。ありがとうございます。江原や阿久津といただきます」
「あ、いえ。これは神崎さんに」
花子さんは慌てて言った。
「神崎さんに、貰ってほしいとです」
俺は笑顔が完全に苦笑になったのを自覚しながら、何と言ったものかと考えていたが、苦笑しているのは花子さんも同じだった。
「神崎さんは大人やし、カノジョもいるけ、そんな気はない、ち言い張りよるんで、そのまま受け取ってやってください」
俺は嘆息して、それなら、と紙袋を持った手を下げた。
ーー江原さんにはひどく怒られそうだが。
「今日は、買い物のついでに寄っただけですんで。急にお邪魔して失礼しました」
花子さんはほっとした顔で一礼すると、背を向けて歩き出しかけ、振り向いた。
「そういえば、今日のネクタイ、お洒落ですね。神崎さんの優しいところ、よく引き出して見えます」
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