36 / 43
35.再会
しおりを挟む
そこは日本の中央にある山。単独峰だった。
学生時代、幾度か登った事がある。
はがきに載っていた山には山小屋はなかった。なら、その山が見える場所は? そう考えてやってきた場所だ。
ここは山がよく見えるな。
確かに葉書きにある風景がそこには広がっていた。遠くの山並みが青くかすむ。
この景色を大和も見たのか。
「宿泊者ですか?」
声をかけられ振り返れば、長身の青年が立っていた。両手に水の入ったタンクを抱えている。
ここは小屋の勝手口にあたるようだった。見れば壁際に不要になった段ボール箱が積まれ、隣には空瓶の類も置かれている。
入口を間違えたと思われたのだろう。
年の頃は二十代半ばか。大和より少し上くらいだろう。日に焼けた精悍な顔つきだが、何処か見覚えがある気がした。
それは青年も同じだったようで、首を傾げる様にした後。
「岳…先輩?」
呼ばれて一気に記憶が甦る。
大学時代、山岳部の後輩だった男だ。
岳が三年生の時、入部してきた。名前を瀬良祐二と言ったはず。
「…瀬良か? お前、なんかデカくなったなぁ。大学で伸びたのか?」
「はあ、まあ。てか、先輩は変わりませんね? 相変わらずの男ぶりで。本当、久しぶりです。今日は登りに来たんですか?」
「ああ、いや…。人を探しててな。仕事中にすまない。ここでこういう奴は働いてないか?」
そう言って端末の写真を見せる。
そこには少し照れくさそうに笑みを浮かべる大和が写っていた。朝のリビングで撮ったものだ。
自然な表情は撮り手が岳だったせいもあるのかも知れない。
「もしかしたら髪型が変わったり、日焼けをしたりしているかも知れないが…」
すると祐二の表情がすっと硬いものになった。
「…大和に何の用ですか?」
その言葉に、祐二の態度とは裏腹に一気にテンションが上がる。
「大和がいるのか? いるなら会いたいんだ」
「岳先輩…。どうして大和を追ってきたんですか?」
「どうしてって…。それは──」
「ここに来たとき、大和は随分憔悴してました。大和となにかあったんですか? ようやく最近、元気になって…。大和は今、俺にとって大事なスタッフでここの後輩なんです。先輩と関わる事でまた元の状態になってしまうかも知れない…。場合によっては会わせる事はできません」
きっぱりとそう言い切る。
瀬良達後輩にも、岳と紗月の関係は知られていたらしい。それを思えば、大和と何かしらあったと思うのも無理はない。
「なくはないが、詳しくは言えない。ただ会って話したい。それだけだ…」
すると祐二はため息をついてから。
「…いません。大和は用事があって今山を降りてます。しばらく休みを取らせてるんです。いつ戻るかは分かりません。それじゃあ俺、仕事があるんで」
「ちょっと待てって。何か連絡先は──」
「知ってても教えられません。友人なら大和が連絡するでしょう? だいたい一緒に働いてましたけど、先輩の名前は一度も聞いた事がありません。無いって事は会いたくないってことじゃないですか? じゃあ、仕事の途中なんで」
そう言って再度、水を運び出した所へ。
「祐二! 水あとどれくらい──」
弾むような声が背後から聞こえてきた。忘れるはずもない声に弾かれた様に振り返る。
同じく振り返った祐二は舌打ちすると。
「…下で待ってろって言ったろ?」
「……」
祐二はそこに立ち尽くす大和の手から、水の入ったタンクを取り上げる。
下の水場から登って来たらしい。
大和は岳の姿を認め、そこに立ったままぽかんと口を開けている。
「大和…?」
やはりここにいたのだ。
先程の祐二の態度はひとまず置いておくとして、それよりも大和だ。思わず数歩近づく。
久しぶりに見た大和はだいぶ日に焼けていた。髪は短めにカットされている。Tシャツから伸びる、細いがしなやかな筋肉が付いた腕。頬の傷は殆ど目立たない。
あと少し、近づけば触れられるという所で。
「…んで?」
大和は震える声でようやく言葉を口にした。
祐二は大和が運んできた分のタンクも小屋の中に運び込むと、直ぐに戻って来て。
「これから仕事なんです。話は後にしてもらえますか?」
祐二は二人の間に割って入るように立つ。
「…何時頃なら話せる?」
岳は大和から視線を外さない。
「昼の休憩は短いですから。二時から四時までは自由時間です」
「じゃあ、それまで待たせて貰う。時間になったらここに来る。大和、また後で…」
祐二の向こうに立つ大和は、相変わらず目を見開き無言のまま。拒絶でも容認でもなく。
それでも、漸く会うことができた。
元気な姿に安堵と嬉しさを覚える。大和を見るのは、あの河原で別れて以来。
今すぐにでも抱き締めたくなる気持ちを堪え、そこを後にする。大和はただじっとこちらを見つめていた。
大和に会ったら謝りたいと思っていた。そして、誤解を解くこと。
迎えに行く資格はないと言いながらも、大和を忘れる事など出来なかった。
一度は共に生きようと心に決めたのだ。そこまでの相手を振り切る事など出来なかった。
今も愛している。
その一言を伝えたかった。
+++
「何しに来たんだろう…」
余りにも動揺を隠せないでいる俺に、祐二は奥で洗濯物を畳むよう命じた。
ジャガイモの皮むきも、玉ねぎの薄切りも、キャベツの千切りも。刃物を扱うものは危なっかしく任せられないと言われ。
部屋の奥で大量のタオル、シーツの類いを畳みながら。
岳…。
ちっとも変わっていなかった。
髪は前より伸びて、肌も少し焼けているけれど、強い眼差しや低く落ち着いた声音。何も変わっていない。
あと少し近づけば触れられた。
「って、何なんだよ、俺。全然、まだ岳のこと…」
──思っている。
手にしたタオルを握りしめた。
そうなのだ。あの日。自分の目にした岳は新たな相手がいたのだ。
岳の様な魅力ある人間が数ヶ月と言えど、ひとりでいるはずもなく。
もう、迎えには来ない。
俺は振られたのだ。
そのまま、いわゆる傷心旅行に出た。傷は時間が癒やしてくれる。それを信じた。
揺れる電車の中で岳を思う。
責めるつもりは無かった。俺を思う余り、動けなくなったのだ。責めても仕方がない。
俺はただ、岳を守りたかった。岳もまた、俺を守ると誓って。
それが上手く噛み合わなかっただけのこと。嫌いになった訳じゃない。ただ、守りきれなかった事で、続ける自信を無くしたのだろう。
それでも、倫也に襲われたあの時の選択は正しかったと思っている。もし、呼び止めていたらどんな結果になっていたか。
目の前で俺が刺されれば、岳の心に大きな傷を残しただろう。それに、岳も怪我を負わされたかも知れない。
あのまま、俺が死んでもダメだったけどな。
携帯越しに話した岳の声は今でも覚えている。逆にあそこで終わっていたなら、俺は幸せだったのかも知れない。
『俺もだ』
今も残る、岳の声。
目が覚めて、これからも一緒に過ごせるのだと知って、不覚にも涙が出た。
ただ、岳と生きられる事が嬉しかったのだ。
でも、迎えは来なかった。
幼い頃から、ひとりは馴れている。
捨てられる事も、忘れられる事も。
中学三年になった時、母親が病で亡くなって。それから、家計を支えつつ、家事をこなし、飲んだくれる父親を世話しながらひとり奮闘してきた。
いくらアパートの住人がいたとは言え、一人になることも多く。ものもろくにない、サッパリとした部屋で一人食卓で手を合わせ。
でも、自分を可哀想だとは思わなかった。
ただ、淡々と事実を受け止め、目の前のやるべき事をこなし。
ひとり過ごす日々にも、馴れれば寂しいとは思わなくなっていた。
岳に捨てられて、一人になっても。俺は大丈夫。
そう言い聞かせても、やはり辛かった。
偶然、降りた駅の掲示板でチラシを見つけた。
『一緒に山小屋で働きませんか』
手描きで一色刷りのシンプルな募集広告。
体力に自信のある方なら誰でもOK。年齢問わず。
何処かひと目のつかない所で働きたかった俺は、直ぐに連絡する。やった事のない仕事なら、忙しくて岳の事を考えずに済むと思ったからだ。
端末の電源は入れたくない。駅にあった公衆電話で書かれた番号へ連絡すると、出たのは祐二だった。
駅の掲示板の募集を見たと言うと。
『今、ちょうど山降りたんで、駅のベンチで待ってて貰えますか?』
抑揚のない無愛想な声。でも、冷たくはない。不必要な愛想がないだけだ。
「分かりました」
そう答えて待つこと数十分。空の背負子を背負った祐二が現れた。
祐二は俺に販売機で買った缶コーヒーを渡しながら、簡単に素性を尋ねてきた。面接だ。年齢、今までの職歴、犯罪歴の有無。
全て正直に話すと、飲み終わった缶をゴミ箱に捨ててから。
「じゃあ、行こうか」
そう言って、すっかり日に焼けた手を差し出して来た。それが、祐二との出会い、この仕事の始まりだった。
それからの日々は忙しく、あっという間に季節は過ぎて行き。
山での生活は不便はあっても楽しかった。
それに、そこにいると自然と落ち込んでばかりもいられず。
毎日、昇る朝日に沈む夕日を見つめているうちに、カチカチに固まっていた心がほぐされていくようで。
自然と深呼吸が出来る様になっていた。
岳の事は忘れられない。忘れなくてもいい。無理に忘れようとするから、辛いのだ。
岳が忘れても、俺は好きでいる。当分はそれでいいんだ。
そう思う様になっていた。
ようやく連絡したのは秋も終わりかける頃。直に小屋も閉める時期だった。
その後も岳の事はそれでもずっと頭にあった。忘れる事などなく。
仕事でどんなに疲れて、泥のように眠っても、頭の片隅にはいつも岳はいた。
その岳が会いに来た。
理由はなにか。
岳はあの青年と付き合っているはずだった。分からない。俺に会いに来る理由なんて。
気づくとシーツの端を握りしめていた。慌ててくしゃくしゃになったシーツから手を離し伸ばす。
「大和。やっぱり手につかないか?」
はっとして振り返ると戸口に肩を預け祐二が立っていた。いつからそこにいたのだろう。
「べ、別に。あとちょっとで終わる…」
すると祐二も部屋に上がってきて、板の間に座ると一緒に洗濯物を畳み出した。もう、昼の片付けや夕飯の仕込みは済んだらしい。
積まれていたタオルはあっという間に片付いて行く。
「大和。先輩に会うのが嫌だったら無理するな? 会いたくなければ、俺が何とかするから」
「う…ん…」
曖昧に返事をすると。
「大和、先輩と付き合ってたのか?」
「へっ?」
なんでそうなる? というか分かったのかと、驚いて見返せば。俺の反応にやっぱりと呟いて。
「山岳部でも、岳先輩が男と付き合ってんの知られてたからさ。同じ部に相手がいたんだ。で、大和の様子見てピンと来た。なんか拗れてんのか?」
「拗れるって、そんなんじゃねぇけど。俺が振られたってだけで…。だから、会いに来た理由が分からなくて…」
「お前、元々男が恋愛対象なのか?」
「…違う。違った。色々事情があって、岳の家で世話になって、それで──」
祐二はそういった事柄を笑う奴じゃない。今までの事の顛末を掻い摘んで話した。
父親の借金のせいで岳に家政婦として雇われた事。俺が岳の弟の代わりに襲われた辺りから、岳との関係が変わって行ったこと。
その後、岳の父親が襲われ、結果、岳が急遽跡を継ぐことになって。
それでも、迎えに来るから待っていて欲しいと言われ、俺も受け入れ。
けれど、今度は俺が襲われ、そのせいで岳との関係が崩れた事。
「てか、先輩。そっちの関係者だったのか…」
「でも、大学を卒業してから知ったみたいだ。それまでは知らなかったって。それに、今はもう、違う…」
「大和はもう先輩の事は吹っ切れてんのか?」
「いや、その…。うん…」
俯き言葉を濁す俺に、祐二はため息をつくと。
「吹っ切れてないんだな…。先輩の来た理由もその辺にある気がするけどな」
「俺、それでも会いに行ったんだ。そしたらやたら綺麗な男と一緒にいたぞ? いい雰囲気でさ…。あれ見たら誰でも諦めるしか無いって。それに俺の写真も全部処分したって言ってた。俺は…必要ないんだ」
「綺麗な、ね。それってかなり美人?」
「なんか、女性でも通りそうなくらい──」
「それって、紗月先輩かな? 大学時代の恋人。卒業したときに別れたって聞いたけどな。凄い美形で男女構わず人気があったんだ。お互い話し合って円満に別れたって。紗月先輩はイギリス留学したらしいけど。幾ら別れたとしても、仲がいいのは当たり前だよな?」
「そう、なのか…?」
「てか、岳先輩。写真、持ってたぞ? 偉くリラックスした大和の。たまたま持ってたって感じの写真じゃなかったけどな…」
祐二の言葉に動揺する。
それは、昔付き合っていたなら、打ち解けた雰囲気もあるだろうが。
写真だって処分したって…。じゃあなんで持っているんだ?
理由がわからず混乱する。
祐二は胡座を組んで座った上に肘をつくと。
「もう、答え出てんじゃないのか?」
「……」
祐二の言葉に押し黙る。
「なあ、どういうつもりか試してみるか」
そこで祐二は、にっと笑んで見せた。
学生時代、幾度か登った事がある。
はがきに載っていた山には山小屋はなかった。なら、その山が見える場所は? そう考えてやってきた場所だ。
ここは山がよく見えるな。
確かに葉書きにある風景がそこには広がっていた。遠くの山並みが青くかすむ。
この景色を大和も見たのか。
「宿泊者ですか?」
声をかけられ振り返れば、長身の青年が立っていた。両手に水の入ったタンクを抱えている。
ここは小屋の勝手口にあたるようだった。見れば壁際に不要になった段ボール箱が積まれ、隣には空瓶の類も置かれている。
入口を間違えたと思われたのだろう。
年の頃は二十代半ばか。大和より少し上くらいだろう。日に焼けた精悍な顔つきだが、何処か見覚えがある気がした。
それは青年も同じだったようで、首を傾げる様にした後。
「岳…先輩?」
呼ばれて一気に記憶が甦る。
大学時代、山岳部の後輩だった男だ。
岳が三年生の時、入部してきた。名前を瀬良祐二と言ったはず。
「…瀬良か? お前、なんかデカくなったなぁ。大学で伸びたのか?」
「はあ、まあ。てか、先輩は変わりませんね? 相変わらずの男ぶりで。本当、久しぶりです。今日は登りに来たんですか?」
「ああ、いや…。人を探しててな。仕事中にすまない。ここでこういう奴は働いてないか?」
そう言って端末の写真を見せる。
そこには少し照れくさそうに笑みを浮かべる大和が写っていた。朝のリビングで撮ったものだ。
自然な表情は撮り手が岳だったせいもあるのかも知れない。
「もしかしたら髪型が変わったり、日焼けをしたりしているかも知れないが…」
すると祐二の表情がすっと硬いものになった。
「…大和に何の用ですか?」
その言葉に、祐二の態度とは裏腹に一気にテンションが上がる。
「大和がいるのか? いるなら会いたいんだ」
「岳先輩…。どうして大和を追ってきたんですか?」
「どうしてって…。それは──」
「ここに来たとき、大和は随分憔悴してました。大和となにかあったんですか? ようやく最近、元気になって…。大和は今、俺にとって大事なスタッフでここの後輩なんです。先輩と関わる事でまた元の状態になってしまうかも知れない…。場合によっては会わせる事はできません」
きっぱりとそう言い切る。
瀬良達後輩にも、岳と紗月の関係は知られていたらしい。それを思えば、大和と何かしらあったと思うのも無理はない。
「なくはないが、詳しくは言えない。ただ会って話したい。それだけだ…」
すると祐二はため息をついてから。
「…いません。大和は用事があって今山を降りてます。しばらく休みを取らせてるんです。いつ戻るかは分かりません。それじゃあ俺、仕事があるんで」
「ちょっと待てって。何か連絡先は──」
「知ってても教えられません。友人なら大和が連絡するでしょう? だいたい一緒に働いてましたけど、先輩の名前は一度も聞いた事がありません。無いって事は会いたくないってことじゃないですか? じゃあ、仕事の途中なんで」
そう言って再度、水を運び出した所へ。
「祐二! 水あとどれくらい──」
弾むような声が背後から聞こえてきた。忘れるはずもない声に弾かれた様に振り返る。
同じく振り返った祐二は舌打ちすると。
「…下で待ってろって言ったろ?」
「……」
祐二はそこに立ち尽くす大和の手から、水の入ったタンクを取り上げる。
下の水場から登って来たらしい。
大和は岳の姿を認め、そこに立ったままぽかんと口を開けている。
「大和…?」
やはりここにいたのだ。
先程の祐二の態度はひとまず置いておくとして、それよりも大和だ。思わず数歩近づく。
久しぶりに見た大和はだいぶ日に焼けていた。髪は短めにカットされている。Tシャツから伸びる、細いがしなやかな筋肉が付いた腕。頬の傷は殆ど目立たない。
あと少し、近づけば触れられるという所で。
「…んで?」
大和は震える声でようやく言葉を口にした。
祐二は大和が運んできた分のタンクも小屋の中に運び込むと、直ぐに戻って来て。
「これから仕事なんです。話は後にしてもらえますか?」
祐二は二人の間に割って入るように立つ。
「…何時頃なら話せる?」
岳は大和から視線を外さない。
「昼の休憩は短いですから。二時から四時までは自由時間です」
「じゃあ、それまで待たせて貰う。時間になったらここに来る。大和、また後で…」
祐二の向こうに立つ大和は、相変わらず目を見開き無言のまま。拒絶でも容認でもなく。
それでも、漸く会うことができた。
元気な姿に安堵と嬉しさを覚える。大和を見るのは、あの河原で別れて以来。
今すぐにでも抱き締めたくなる気持ちを堪え、そこを後にする。大和はただじっとこちらを見つめていた。
大和に会ったら謝りたいと思っていた。そして、誤解を解くこと。
迎えに行く資格はないと言いながらも、大和を忘れる事など出来なかった。
一度は共に生きようと心に決めたのだ。そこまでの相手を振り切る事など出来なかった。
今も愛している。
その一言を伝えたかった。
+++
「何しに来たんだろう…」
余りにも動揺を隠せないでいる俺に、祐二は奥で洗濯物を畳むよう命じた。
ジャガイモの皮むきも、玉ねぎの薄切りも、キャベツの千切りも。刃物を扱うものは危なっかしく任せられないと言われ。
部屋の奥で大量のタオル、シーツの類いを畳みながら。
岳…。
ちっとも変わっていなかった。
髪は前より伸びて、肌も少し焼けているけれど、強い眼差しや低く落ち着いた声音。何も変わっていない。
あと少し近づけば触れられた。
「って、何なんだよ、俺。全然、まだ岳のこと…」
──思っている。
手にしたタオルを握りしめた。
そうなのだ。あの日。自分の目にした岳は新たな相手がいたのだ。
岳の様な魅力ある人間が数ヶ月と言えど、ひとりでいるはずもなく。
もう、迎えには来ない。
俺は振られたのだ。
そのまま、いわゆる傷心旅行に出た。傷は時間が癒やしてくれる。それを信じた。
揺れる電車の中で岳を思う。
責めるつもりは無かった。俺を思う余り、動けなくなったのだ。責めても仕方がない。
俺はただ、岳を守りたかった。岳もまた、俺を守ると誓って。
それが上手く噛み合わなかっただけのこと。嫌いになった訳じゃない。ただ、守りきれなかった事で、続ける自信を無くしたのだろう。
それでも、倫也に襲われたあの時の選択は正しかったと思っている。もし、呼び止めていたらどんな結果になっていたか。
目の前で俺が刺されれば、岳の心に大きな傷を残しただろう。それに、岳も怪我を負わされたかも知れない。
あのまま、俺が死んでもダメだったけどな。
携帯越しに話した岳の声は今でも覚えている。逆にあそこで終わっていたなら、俺は幸せだったのかも知れない。
『俺もだ』
今も残る、岳の声。
目が覚めて、これからも一緒に過ごせるのだと知って、不覚にも涙が出た。
ただ、岳と生きられる事が嬉しかったのだ。
でも、迎えは来なかった。
幼い頃から、ひとりは馴れている。
捨てられる事も、忘れられる事も。
中学三年になった時、母親が病で亡くなって。それから、家計を支えつつ、家事をこなし、飲んだくれる父親を世話しながらひとり奮闘してきた。
いくらアパートの住人がいたとは言え、一人になることも多く。ものもろくにない、サッパリとした部屋で一人食卓で手を合わせ。
でも、自分を可哀想だとは思わなかった。
ただ、淡々と事実を受け止め、目の前のやるべき事をこなし。
ひとり過ごす日々にも、馴れれば寂しいとは思わなくなっていた。
岳に捨てられて、一人になっても。俺は大丈夫。
そう言い聞かせても、やはり辛かった。
偶然、降りた駅の掲示板でチラシを見つけた。
『一緒に山小屋で働きませんか』
手描きで一色刷りのシンプルな募集広告。
体力に自信のある方なら誰でもOK。年齢問わず。
何処かひと目のつかない所で働きたかった俺は、直ぐに連絡する。やった事のない仕事なら、忙しくて岳の事を考えずに済むと思ったからだ。
端末の電源は入れたくない。駅にあった公衆電話で書かれた番号へ連絡すると、出たのは祐二だった。
駅の掲示板の募集を見たと言うと。
『今、ちょうど山降りたんで、駅のベンチで待ってて貰えますか?』
抑揚のない無愛想な声。でも、冷たくはない。不必要な愛想がないだけだ。
「分かりました」
そう答えて待つこと数十分。空の背負子を背負った祐二が現れた。
祐二は俺に販売機で買った缶コーヒーを渡しながら、簡単に素性を尋ねてきた。面接だ。年齢、今までの職歴、犯罪歴の有無。
全て正直に話すと、飲み終わった缶をゴミ箱に捨ててから。
「じゃあ、行こうか」
そう言って、すっかり日に焼けた手を差し出して来た。それが、祐二との出会い、この仕事の始まりだった。
それからの日々は忙しく、あっという間に季節は過ぎて行き。
山での生活は不便はあっても楽しかった。
それに、そこにいると自然と落ち込んでばかりもいられず。
毎日、昇る朝日に沈む夕日を見つめているうちに、カチカチに固まっていた心がほぐされていくようで。
自然と深呼吸が出来る様になっていた。
岳の事は忘れられない。忘れなくてもいい。無理に忘れようとするから、辛いのだ。
岳が忘れても、俺は好きでいる。当分はそれでいいんだ。
そう思う様になっていた。
ようやく連絡したのは秋も終わりかける頃。直に小屋も閉める時期だった。
その後も岳の事はそれでもずっと頭にあった。忘れる事などなく。
仕事でどんなに疲れて、泥のように眠っても、頭の片隅にはいつも岳はいた。
その岳が会いに来た。
理由はなにか。
岳はあの青年と付き合っているはずだった。分からない。俺に会いに来る理由なんて。
気づくとシーツの端を握りしめていた。慌ててくしゃくしゃになったシーツから手を離し伸ばす。
「大和。やっぱり手につかないか?」
はっとして振り返ると戸口に肩を預け祐二が立っていた。いつからそこにいたのだろう。
「べ、別に。あとちょっとで終わる…」
すると祐二も部屋に上がってきて、板の間に座ると一緒に洗濯物を畳み出した。もう、昼の片付けや夕飯の仕込みは済んだらしい。
積まれていたタオルはあっという間に片付いて行く。
「大和。先輩に会うのが嫌だったら無理するな? 会いたくなければ、俺が何とかするから」
「う…ん…」
曖昧に返事をすると。
「大和、先輩と付き合ってたのか?」
「へっ?」
なんでそうなる? というか分かったのかと、驚いて見返せば。俺の反応にやっぱりと呟いて。
「山岳部でも、岳先輩が男と付き合ってんの知られてたからさ。同じ部に相手がいたんだ。で、大和の様子見てピンと来た。なんか拗れてんのか?」
「拗れるって、そんなんじゃねぇけど。俺が振られたってだけで…。だから、会いに来た理由が分からなくて…」
「お前、元々男が恋愛対象なのか?」
「…違う。違った。色々事情があって、岳の家で世話になって、それで──」
祐二はそういった事柄を笑う奴じゃない。今までの事の顛末を掻い摘んで話した。
父親の借金のせいで岳に家政婦として雇われた事。俺が岳の弟の代わりに襲われた辺りから、岳との関係が変わって行ったこと。
その後、岳の父親が襲われ、結果、岳が急遽跡を継ぐことになって。
それでも、迎えに来るから待っていて欲しいと言われ、俺も受け入れ。
けれど、今度は俺が襲われ、そのせいで岳との関係が崩れた事。
「てか、先輩。そっちの関係者だったのか…」
「でも、大学を卒業してから知ったみたいだ。それまでは知らなかったって。それに、今はもう、違う…」
「大和はもう先輩の事は吹っ切れてんのか?」
「いや、その…。うん…」
俯き言葉を濁す俺に、祐二はため息をつくと。
「吹っ切れてないんだな…。先輩の来た理由もその辺にある気がするけどな」
「俺、それでも会いに行ったんだ。そしたらやたら綺麗な男と一緒にいたぞ? いい雰囲気でさ…。あれ見たら誰でも諦めるしか無いって。それに俺の写真も全部処分したって言ってた。俺は…必要ないんだ」
「綺麗な、ね。それってかなり美人?」
「なんか、女性でも通りそうなくらい──」
「それって、紗月先輩かな? 大学時代の恋人。卒業したときに別れたって聞いたけどな。凄い美形で男女構わず人気があったんだ。お互い話し合って円満に別れたって。紗月先輩はイギリス留学したらしいけど。幾ら別れたとしても、仲がいいのは当たり前だよな?」
「そう、なのか…?」
「てか、岳先輩。写真、持ってたぞ? 偉くリラックスした大和の。たまたま持ってたって感じの写真じゃなかったけどな…」
祐二の言葉に動揺する。
それは、昔付き合っていたなら、打ち解けた雰囲気もあるだろうが。
写真だって処分したって…。じゃあなんで持っているんだ?
理由がわからず混乱する。
祐二は胡座を組んで座った上に肘をつくと。
「もう、答え出てんじゃないのか?」
「……」
祐二の言葉に押し黙る。
「なあ、どういうつもりか試してみるか」
そこで祐二は、にっと笑んで見せた。
54
あなたにおすすめの小説
旦那様と僕
三冬月マヨ
BL
旦那様と奉公人(の、つもり)の、のんびりとした話。
縁側で日向ぼっこしながらお茶を飲む感じで、のほほんとして頂けたら幸いです。
本編完結済。
『向日葵の庭で』は、残酷と云うか、覚悟が必要かな? と思いまして注意喚起の為『※』を付けています。
雪解けを待つ森で ―スヴェル森の鎮魂歌(レクイエム)―
なの
BL
百年に一度、森の魔物へ生贄を捧げる村。
その年の供物に選ばれたのは、誰にも必要とされなかった孤児のアシェルだった。
死を覚悟して踏み入れた森の奥で、彼は古の守護者である獣人・ヴァルと出会う。
かつて人に裏切られ、心を閉ざしたヴァル。
そして、孤独だったアシェル。
凍てつく森での暮らしは、二人の運命を少しずつ溶かしていく。
だが、古い呪いは再び動き出し、燃え盛る炎が森と二人を飲み込もうとしていた。
生贄の少年と孤独な獣が紡ぐ、絶望の果てにある再生と愛のファンタジー
ワルモノ
亜衣藍
BL
西暦1988年、昭和の最後の年となる63年、15歳の少年は一人東京へ降り立った……!
後に『傾国の美女』と讃えられるようになる美貌の青年、御堂聖の物語です。
今作は、15歳の聖少年が、極道の世界へ飛び込む切っ掛けとなる話です。
舞台は昭和末期!
時事ネタも交えた意欲作となっております。
ありきたりなBLでは物足りないという方は、是非お立ち寄りください。
ジャスミン茶は、君のかおり
霧瀬 渓
BL
アルファとオメガにランクのあるオメガバース世界。
大学2年の高位アルファ高遠裕二は、新入生の三ツ橋鷹也を助けた。
裕二の部活後輩となった鷹也は、新歓の数日後、放火でアパートを焼け出されてしまう。
困った鷹也に、裕二が条件付きで同居を申し出てくれた。
その条件は、恋人のフリをして虫除けになることだった。
すべてを奪われた英雄は、
さいはて旅行社
BL
アスア王国の英雄ザット・ノーレンは仲間たちにすべてを奪われた。
隣国の神聖国グルシアの魔物大量発生でダンジョンに潜りラスボスの魔物も討伐できたが、そこで仲間に裏切られ黒い短剣で刺されてしまう。
それでも生き延びてダンジョンから生還したザット・ノーレンは神聖国グルシアで、王子と呼ばれる少年とその世話役のヴィンセントに出会う。
すべてを奪われた英雄が、自分や仲間だった者、これから出会う人々に向き合っていく物語。
ハイスペックストーカーに追われています
たかつきよしき
BL
祐樹は美少女顔負けの美貌で、朝の通勤ラッシュアワーを、女性専用車両に乗ることで回避していた。しかし、そんなことをしたバチなのか、ハイスペック男子の昌磨に一目惚れされて求愛をうける。男に告白されるなんて、冗談じゃねぇ!!と思ったが、この昌磨という男なかなかのハイスペック。利用できる!と、判断して、近づいたのが失敗の始まり。とある切っ掛けで、男だとバラしても昌磨の愛は諦めることを知らず、ハイスペックぶりをフルに活用して迫ってくる!!
と言うタイトル通りの内容。前半は笑ってもらえたらなぁと言う気持ちで、後半はシリアスにBLらしく萌えると感じて頂けるように書きました。
完結しました。
三ヶ月だけの恋人
perari
BL
仁野(にの)は人違いで殴ってしまった。
殴った相手は――学年の先輩で、学内で知らぬ者はいない医学部の天才。
しかも、ずっと密かに想いを寄せていた松田(まつだ)先輩だった。
罪悪感にかられた仁野は、謝罪の気持ちとして松田の提案を受け入れた。
それは「三ヶ月だけ恋人として付き合う」という、まさかの提案だった――。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる