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第1章 婚約破棄 ― 地味な令嬢と嘲られて
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その日、私は王都の第二王宮に呼び出されていました。
由緒ある謁見の間の扉をくぐるたび、背筋が自然と伸びてしまうのは、長年のしつけの賜物だと思います。けれども胸の内はひどくざわついていました。
第一王子――ライオネル殿下から直々に呼び出し状をいただくなど、滅多にないことです。
もしやこれは、婚約から一年を経て、正式な結婚の承認を……?
いえ、まさか。そんな期待は、身の程知らずというものでしょう。
でも、小さな心の灯はどうしても消せませんでした。
ライオネル殿下は華やかな方。私は地味で目立たない令嬢。釣り合う相手であるはずもないけれど――それでも、お妃教育を受けてきたあの日々に、確かに私は幸せを感じていました。
だからこそ、あの冷たい声が告げられた瞬間、息が止まりました。
「婚約を、破棄する」
「……はい?」
私の喉は、言葉にならない音を漏らしました。
殿下はまっすぐに私を見つめ、ほんの一瞬のためらいを見せただけで、容赦なく続けられました。
「君には華がない。王妃としてはふさわしくないと判断した」
まるで、それが正論であるかのように。
控えていた家族――父と母、そして妹のセリーヌは一言も発しませんでした。ただ、妹の唇がわずかに震えているのを見た瞬間、私はすべてを悟りました。
――ああ、そういうこと。
殿下の隣に立つ妹の手には、白いハンカチが握られていました。
泣いているように見えるけれど、その目の奥には、勝ち誇った光が宿っています。
「お姉様……わたし、殿下を……」
震える声。けれど涙は一滴も落ちません。
私はゆっくりと息を吸い、微笑みを保つのが精一杯でした。
「殿下がお決めになったことでしたら、従います」
それだけ言うのが、今の私にできる唯一の誇りでした。
顔を伏せた瞬間、視界が滲みました。けれども涙は落ちません。地味な私に、似合う涙ではありませんから。
――おめでとう。
――ありがとう。
そんな声が周囲から聞こえる気がしましたが、誰のものかは確かめませんでした。
◇ ◇ ◇
「あなたも納得しているのね、リリアーナ」
馬車で屋敷に戻ると、母はそう言いました。
穏やかで上品な声色なのに、心に小さな針が刺さるような言葉です。
「殿下のお気持ちは仕方ありません。あなたは、少し地味すぎるのよ。セリーヌのように華やかにできればよかったのだけれど」
「お母様……」
私は唇を噛み、そっと両手を膝の上で握りしめました。
叱られたわけではない。けれども、胸が締めつけられるように痛い。
屋敷に戻ると、使用人たちは皆セリーヌにばかり笑顔を向けました。
紅茶を運ぶ侍女でさえ、「お嬢様、婚約おめでとうございます」と妹に頭を下げていました。
私は薬草棚の前にしゃがみ込み、小瓶をひとつ、そっと手の中に取ります。
この香りだけは、私を裏切らない。
乾かしたミントの清涼な香りが、少しだけ心を落ち着けてくれました。
「……それでも、わたしは泣かない。泣くほどの価値を、殿下に見出してもらえなかったのだから」
独り言は、棚の奥へ消えました。
◇ ◇ ◇
数日後の朝、父が食卓で新聞を畳みながら、軽い調子で言いました。
「ヴァレンティーヌ公爵が、また花嫁を募集しているそうだ」
「また、ですか?」
予想外の話に、私も思わず顔を上げました。
父は苦笑します。「あの公爵だ。これで二十四人目を断ったらしい。誰も彼の妻になどなりたがらん」
「二十四人も……?」
セリーヌが紅茶を飲みながら、くすっと笑いました。
「きっと、すごく冷たい方なのね。氷のように冷たくて、怖い人なんだわ」
氷のように、ですか。
殿下の冷たさを知ってしまった今の私には、そういう人のほうが案外、優しく思える気がしました。
けれどそのとき、父がひと言、信じられないことを言い出したのです。
「試しに――リリアーナ、お前、行ってみるか?」
「……え?」
「セリーヌには王家との縁談が控えている。だが、我が家も公爵家とつながりを持つのは悪くない。お前なら地味だから、かえって断られても傷は浅い」
食卓の空気が、一瞬止まりました。
妹の瞳がわずかに輝く。あえいで吸う息の音が、やたらと大きく響きました。
「お姉様が、公爵家に……?」
「どうせ断られるのなら、うちにとっても損はない。公爵が“花嫁候補を断った”という名誉な名目で、ね」
――つまり私は、家の体裁を保つための“盾”なのですね。
胸の奥がざわめきましたが、私は静かに頭を下げました。
「……承知いたしました。お父様」
「お姉様っ!」
セリーヌが珍しく声を上げました。
「ほんとうに行くの? あんな恐ろしいところに?」
「大丈夫よ。どうせ、すぐ断られて帰ってくるわ」
そう言いながら微笑んだ瞬間、妹の表情がほんの一瞬、安堵に揺れました。
それだけで、すべてが報われた気がしました。
◇ ◇ ◇
出立の日の朝。霧のかかる門の前で、馬車を待っていると、庭師の老人が声をかけてきました。
「お嬢様、本当に行かれるんですかい」
「ええ。でも、心配いりません。少し遠くへ嫁ぐだけです」
「……あんたは優しい。けれど、公爵様は氷みてぇな人だって噂で」
「氷は、春になれば溶けますよ。わたしも、冬の間だけ凍えるつもりです」
老人は目を丸くして、それから泣き笑いのような顔で手を振ってくれました。
私は頬を撫でる風を感じながら、馬車へと乗り込みました。
車輪が土を踏みしめる音が、徐々に遠ざかっていく。
王都の高い塔が小さくなるたび、胸の中で何かがぽろりと剥がれていきました。
「さようなら、リリアーナ・エインズワース」
窓に映る自分にそう呟いて、そっと微笑みかけました。
由緒ある謁見の間の扉をくぐるたび、背筋が自然と伸びてしまうのは、長年のしつけの賜物だと思います。けれども胸の内はひどくざわついていました。
第一王子――ライオネル殿下から直々に呼び出し状をいただくなど、滅多にないことです。
もしやこれは、婚約から一年を経て、正式な結婚の承認を……?
いえ、まさか。そんな期待は、身の程知らずというものでしょう。
でも、小さな心の灯はどうしても消せませんでした。
ライオネル殿下は華やかな方。私は地味で目立たない令嬢。釣り合う相手であるはずもないけれど――それでも、お妃教育を受けてきたあの日々に、確かに私は幸せを感じていました。
だからこそ、あの冷たい声が告げられた瞬間、息が止まりました。
「婚約を、破棄する」
「……はい?」
私の喉は、言葉にならない音を漏らしました。
殿下はまっすぐに私を見つめ、ほんの一瞬のためらいを見せただけで、容赦なく続けられました。
「君には華がない。王妃としてはふさわしくないと判断した」
まるで、それが正論であるかのように。
控えていた家族――父と母、そして妹のセリーヌは一言も発しませんでした。ただ、妹の唇がわずかに震えているのを見た瞬間、私はすべてを悟りました。
――ああ、そういうこと。
殿下の隣に立つ妹の手には、白いハンカチが握られていました。
泣いているように見えるけれど、その目の奥には、勝ち誇った光が宿っています。
「お姉様……わたし、殿下を……」
震える声。けれど涙は一滴も落ちません。
私はゆっくりと息を吸い、微笑みを保つのが精一杯でした。
「殿下がお決めになったことでしたら、従います」
それだけ言うのが、今の私にできる唯一の誇りでした。
顔を伏せた瞬間、視界が滲みました。けれども涙は落ちません。地味な私に、似合う涙ではありませんから。
――おめでとう。
――ありがとう。
そんな声が周囲から聞こえる気がしましたが、誰のものかは確かめませんでした。
◇ ◇ ◇
「あなたも納得しているのね、リリアーナ」
馬車で屋敷に戻ると、母はそう言いました。
穏やかで上品な声色なのに、心に小さな針が刺さるような言葉です。
「殿下のお気持ちは仕方ありません。あなたは、少し地味すぎるのよ。セリーヌのように華やかにできればよかったのだけれど」
「お母様……」
私は唇を噛み、そっと両手を膝の上で握りしめました。
叱られたわけではない。けれども、胸が締めつけられるように痛い。
屋敷に戻ると、使用人たちは皆セリーヌにばかり笑顔を向けました。
紅茶を運ぶ侍女でさえ、「お嬢様、婚約おめでとうございます」と妹に頭を下げていました。
私は薬草棚の前にしゃがみ込み、小瓶をひとつ、そっと手の中に取ります。
この香りだけは、私を裏切らない。
乾かしたミントの清涼な香りが、少しだけ心を落ち着けてくれました。
「……それでも、わたしは泣かない。泣くほどの価値を、殿下に見出してもらえなかったのだから」
独り言は、棚の奥へ消えました。
◇ ◇ ◇
数日後の朝、父が食卓で新聞を畳みながら、軽い調子で言いました。
「ヴァレンティーヌ公爵が、また花嫁を募集しているそうだ」
「また、ですか?」
予想外の話に、私も思わず顔を上げました。
父は苦笑します。「あの公爵だ。これで二十四人目を断ったらしい。誰も彼の妻になどなりたがらん」
「二十四人も……?」
セリーヌが紅茶を飲みながら、くすっと笑いました。
「きっと、すごく冷たい方なのね。氷のように冷たくて、怖い人なんだわ」
氷のように、ですか。
殿下の冷たさを知ってしまった今の私には、そういう人のほうが案外、優しく思える気がしました。
けれどそのとき、父がひと言、信じられないことを言い出したのです。
「試しに――リリアーナ、お前、行ってみるか?」
「……え?」
「セリーヌには王家との縁談が控えている。だが、我が家も公爵家とつながりを持つのは悪くない。お前なら地味だから、かえって断られても傷は浅い」
食卓の空気が、一瞬止まりました。
妹の瞳がわずかに輝く。あえいで吸う息の音が、やたらと大きく響きました。
「お姉様が、公爵家に……?」
「どうせ断られるのなら、うちにとっても損はない。公爵が“花嫁候補を断った”という名誉な名目で、ね」
――つまり私は、家の体裁を保つための“盾”なのですね。
胸の奥がざわめきましたが、私は静かに頭を下げました。
「……承知いたしました。お父様」
「お姉様っ!」
セリーヌが珍しく声を上げました。
「ほんとうに行くの? あんな恐ろしいところに?」
「大丈夫よ。どうせ、すぐ断られて帰ってくるわ」
そう言いながら微笑んだ瞬間、妹の表情がほんの一瞬、安堵に揺れました。
それだけで、すべてが報われた気がしました。
◇ ◇ ◇
出立の日の朝。霧のかかる門の前で、馬車を待っていると、庭師の老人が声をかけてきました。
「お嬢様、本当に行かれるんですかい」
「ええ。でも、心配いりません。少し遠くへ嫁ぐだけです」
「……あんたは優しい。けれど、公爵様は氷みてぇな人だって噂で」
「氷は、春になれば溶けますよ。わたしも、冬の間だけ凍えるつもりです」
老人は目を丸くして、それから泣き笑いのような顔で手を振ってくれました。
私は頬を撫でる風を感じながら、馬車へと乗り込みました。
車輪が土を踏みしめる音が、徐々に遠ざかっていく。
王都の高い塔が小さくなるたび、胸の中で何かがぽろりと剥がれていきました。
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