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第4章 氷の公爵
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式の鐘が三度鳴ったとき、私は自分の足音のほか、何も聞こえませんでした。
荘厳な式場には、神父様の祈りの声と、氷のように冷たい沈黙だけが満ちています。
私と、公爵――アレクシス・ヴァレンティーヌ様。
互いの姿を見たのは、この場が初めてなのに、式はもう終わりかけていました。
「……誓いますか」
「誓う」
「……はい、誓います」
それだけ。形式的に交わされた言葉と印章の押印。
それで、私は公爵夫人になったのです。
隣に立つ公爵様は、やはり“氷の”という名にふさわしい方でした。
黒と銀で統一された服装に、わずかに光を反射する蒼い瞳。
それは本当に人の瞳なのかと思うほど、冷たく静まり返っていました。
彼がこちらを見ることは、一度もありません。
私が手を上げた瞬間、わずかに距離をとるように歩を進める。
まるで花嫁ではなく、儀式に付き合っているだけのようでした。
でも、私は知っていました。
この人には、そうさせるだけの過去があると。
婚約者を病気で亡くした――そう噂で聞いたからです。
「……お疲れ様でございました、公爵夫人」とグレゴール執事が静かに言いました。
「お部屋はご用意してあります。公爵様のお部屋とは別棟になります」
「あ、はい……ありがとうございます」
“別棟”。
……まさか、本当にそうなのですね。契約婚、という言葉が現実味を帯びて胸に残りました。
◇ ◇ ◇
「お嬢様、少し休まれませんか?」
侍女のメアが心配そうに顔をのぞきこみました。
彼女はこの城唯一の太陽みたいな人です。話しかけるたび、笑顔がこぼれます。
「大丈夫よ。少しお庭が気になって」
「えっ、お庭ですか!? い、今夜はかなり冷えますよ!」
「寒いのは平気。氷の公爵様のお城ですもの、慣れていかないと」
そう笑って外へ出ると、月光に照らされた庭が、一面白く凍りついていました。
霜柱が音を立て、足音ひとつにも氷の欠片が砕けて散ります。
それでも、私は不思議と寒くありませんでした。
――凍てつく空気の中でも、きっと春につながる種が眠っている。
そう思うと、胸の奥が温かくなるのです。
「この花は……」
足元にしゃがみこむと、氷の中から顔を覗かせていたのは、白い小さな冬草でした。
陽の当たらぬ土地でも芽吹く、生命力の強い薬草です。
「冷たい土の中でも、咲くんですね……」
「そんなものに感心するとは」
背後から低い声。びくりと体が跳ね上がりました。
振り返れば、公爵様がいつの間にかそこに立っていました。
月光を浴びた横顔は、彫像のようで――けれどどこか、疲れた影がありました。
「……お庭を、見ておりまして」
「夜に外を出歩くとは、物好きな」
「落ち着くのです。植物の香りがあると安心します」
「馬鹿げている」
「ええ、そうかもしれません。でも、そういうものですよ。癒しって」
少しだけ笑ってみせると、公爵様の眉がわずかに動きました。
見開かれた蒼い瞳が、一瞬だけ迷うように私を見つめ――すぐに逸らされました。
「……寒い。部屋へ戻れ」
「はい。おやすみなさいませ、公爵様」
背を向ける私に、彼は何も返しませんでした。
でも、その沈黙が不思議と、心地よく感じたのです。
◇ ◇ ◇
翌朝。
領地内に病が広がっているという話を聞きました。
メアが慌てた様子で報告します。
「村に熱病が……お医師様もお手上げみたいで」
「薬草の貯蔵庫、ありますか?」
「え、ええっ!? 奥の納屋に少しあるみたいですけど――」
「見に行ってきます!」
その勢いのまま私は駆け出しました。
あの時、婚約破棄の悲しみで塞ぎこんでいた私を救ったのは“薬草”でした。
誰かを助けられるのなら、私の存在にも意味があります。
それを、もう一度信じたかったのです。
◇ ◇ ◇
村人たちはみな、疲れ果てた顔で子どもを抱えていました。
高熱で苦しむ少年の額に触れると、私は思わず息をのみました。
「……この熱。すぐに下げないと危険です」
メアと一緒に薬草を選びました。
白い根の部分を細かく切り刻み、煮出して粉にする。
手を震わせながらも、私の頭の中は不思議と冷静でした。
「この薬を。少し苦いけれど、必ず効きます」
「本当に……? 神様、ありがとうございます!」
母親に薬を手渡すと、背後で重い靴音が響きました。
――ああ、この足音を、私はもう覚えてしまったようです。
「勝手な真似をするなと言ったはずだ」
公爵様でした。しかし、その声は昨日よりも低く――怒りというより困惑のように聞こえます。
「村の方々が困っていて……薬草で助けられるなら、と思いまして」
「契約婚の妻が領地に勝手をしていいと思うのか」
「……ごめんなさい。でも、見て見ぬふりはできませんでした」
公爵様は何も言いませんでした。ただ、村の子どもを見つめる瞳がほんの僅かに揺れて。
その後ろ姿が、酷く寂しく見えたのを私は覚えています。
◇ ◇ ◇
夜。
私は城の一室にこもり、薬草帳を開いて調合の記録を書き付けていました。
何度も筆が落ちそうになるくらい疲れていたのに、それでも手を止められません。
この領地には、まだ知らない草がたくさんあります。
この場所でなら、きっと自分の力をもっと活かせる。
そう信じたかったのです。
――とん、と扉が叩かれました。
「……お入りください」
入ってきたのは、公爵様でした。
その存在だけで部屋の空気が震えます。
「……村の子は」
「え……?」
「昼間の熱病の子だ。死んだのか、生きたのか」
「あ……生きています。熱は下がりました」
「そうか」
それだけ言って、踵を返す――けれど、なぜか扉の前で立ち止まりました。
そして、ふいに低く呟きます。
「……お前は、なぜそんなに優しい」
「優しくなどありません。ただ、私にできることをしているだけです」
言葉が零れた瞬間、自分でも驚くほど心臓が鳴りました。
アレクシス様は振り向きませんでしたが、わずかに肩が震えて見えました。
「……勝手にしろ」
扉が閉じる直前に、それだけ聞こえました。
――その声が、ほんの少しだけ温かかった気がするのは、私の錯覚でしょうか。
◇ ◇ ◇
「お嬢様、これ、誰が置いたんでしょう?」
翌朝、机の上に見慣れない小箱がありました。
開けてみると、中には暖かなガラスのランプが。
火を灯すと、橙色の光がふんわりと部屋を包み込みました。
「まあ……きれい」
メアは目をまん丸にして言います。
「きっと公爵様です! だって夜にこっそり来た音がしましたもの!」
「そんな、まさか……」
けれど私は、ふんわり微笑んでしまいました。
もし本当にそうなら――この小さな灯りが、氷の心に生まれた“初めてのひび”なのかもしれません。
私はそっとランプに触れ、呟きました。
「ありがとう、公爵様」
橙の光が揺らめいて、まるで照れくさそうに、答えを返したようでした。
荘厳な式場には、神父様の祈りの声と、氷のように冷たい沈黙だけが満ちています。
私と、公爵――アレクシス・ヴァレンティーヌ様。
互いの姿を見たのは、この場が初めてなのに、式はもう終わりかけていました。
「……誓いますか」
「誓う」
「……はい、誓います」
それだけ。形式的に交わされた言葉と印章の押印。
それで、私は公爵夫人になったのです。
隣に立つ公爵様は、やはり“氷の”という名にふさわしい方でした。
黒と銀で統一された服装に、わずかに光を反射する蒼い瞳。
それは本当に人の瞳なのかと思うほど、冷たく静まり返っていました。
彼がこちらを見ることは、一度もありません。
私が手を上げた瞬間、わずかに距離をとるように歩を進める。
まるで花嫁ではなく、儀式に付き合っているだけのようでした。
でも、私は知っていました。
この人には、そうさせるだけの過去があると。
婚約者を病気で亡くした――そう噂で聞いたからです。
「……お疲れ様でございました、公爵夫人」とグレゴール執事が静かに言いました。
「お部屋はご用意してあります。公爵様のお部屋とは別棟になります」
「あ、はい……ありがとうございます」
“別棟”。
……まさか、本当にそうなのですね。契約婚、という言葉が現実味を帯びて胸に残りました。
◇ ◇ ◇
「お嬢様、少し休まれませんか?」
侍女のメアが心配そうに顔をのぞきこみました。
彼女はこの城唯一の太陽みたいな人です。話しかけるたび、笑顔がこぼれます。
「大丈夫よ。少しお庭が気になって」
「えっ、お庭ですか!? い、今夜はかなり冷えますよ!」
「寒いのは平気。氷の公爵様のお城ですもの、慣れていかないと」
そう笑って外へ出ると、月光に照らされた庭が、一面白く凍りついていました。
霜柱が音を立て、足音ひとつにも氷の欠片が砕けて散ります。
それでも、私は不思議と寒くありませんでした。
――凍てつく空気の中でも、きっと春につながる種が眠っている。
そう思うと、胸の奥が温かくなるのです。
「この花は……」
足元にしゃがみこむと、氷の中から顔を覗かせていたのは、白い小さな冬草でした。
陽の当たらぬ土地でも芽吹く、生命力の強い薬草です。
「冷たい土の中でも、咲くんですね……」
「そんなものに感心するとは」
背後から低い声。びくりと体が跳ね上がりました。
振り返れば、公爵様がいつの間にかそこに立っていました。
月光を浴びた横顔は、彫像のようで――けれどどこか、疲れた影がありました。
「……お庭を、見ておりまして」
「夜に外を出歩くとは、物好きな」
「落ち着くのです。植物の香りがあると安心します」
「馬鹿げている」
「ええ、そうかもしれません。でも、そういうものですよ。癒しって」
少しだけ笑ってみせると、公爵様の眉がわずかに動きました。
見開かれた蒼い瞳が、一瞬だけ迷うように私を見つめ――すぐに逸らされました。
「……寒い。部屋へ戻れ」
「はい。おやすみなさいませ、公爵様」
背を向ける私に、彼は何も返しませんでした。
でも、その沈黙が不思議と、心地よく感じたのです。
◇ ◇ ◇
翌朝。
領地内に病が広がっているという話を聞きました。
メアが慌てた様子で報告します。
「村に熱病が……お医師様もお手上げみたいで」
「薬草の貯蔵庫、ありますか?」
「え、ええっ!? 奥の納屋に少しあるみたいですけど――」
「見に行ってきます!」
その勢いのまま私は駆け出しました。
あの時、婚約破棄の悲しみで塞ぎこんでいた私を救ったのは“薬草”でした。
誰かを助けられるのなら、私の存在にも意味があります。
それを、もう一度信じたかったのです。
◇ ◇ ◇
村人たちはみな、疲れ果てた顔で子どもを抱えていました。
高熱で苦しむ少年の額に触れると、私は思わず息をのみました。
「……この熱。すぐに下げないと危険です」
メアと一緒に薬草を選びました。
白い根の部分を細かく切り刻み、煮出して粉にする。
手を震わせながらも、私の頭の中は不思議と冷静でした。
「この薬を。少し苦いけれど、必ず効きます」
「本当に……? 神様、ありがとうございます!」
母親に薬を手渡すと、背後で重い靴音が響きました。
――ああ、この足音を、私はもう覚えてしまったようです。
「勝手な真似をするなと言ったはずだ」
公爵様でした。しかし、その声は昨日よりも低く――怒りというより困惑のように聞こえます。
「村の方々が困っていて……薬草で助けられるなら、と思いまして」
「契約婚の妻が領地に勝手をしていいと思うのか」
「……ごめんなさい。でも、見て見ぬふりはできませんでした」
公爵様は何も言いませんでした。ただ、村の子どもを見つめる瞳がほんの僅かに揺れて。
その後ろ姿が、酷く寂しく見えたのを私は覚えています。
◇ ◇ ◇
夜。
私は城の一室にこもり、薬草帳を開いて調合の記録を書き付けていました。
何度も筆が落ちそうになるくらい疲れていたのに、それでも手を止められません。
この領地には、まだ知らない草がたくさんあります。
この場所でなら、きっと自分の力をもっと活かせる。
そう信じたかったのです。
――とん、と扉が叩かれました。
「……お入りください」
入ってきたのは、公爵様でした。
その存在だけで部屋の空気が震えます。
「……村の子は」
「え……?」
「昼間の熱病の子だ。死んだのか、生きたのか」
「あ……生きています。熱は下がりました」
「そうか」
それだけ言って、踵を返す――けれど、なぜか扉の前で立ち止まりました。
そして、ふいに低く呟きます。
「……お前は、なぜそんなに優しい」
「優しくなどありません。ただ、私にできることをしているだけです」
言葉が零れた瞬間、自分でも驚くほど心臓が鳴りました。
アレクシス様は振り向きませんでしたが、わずかに肩が震えて見えました。
「……勝手にしろ」
扉が閉じる直前に、それだけ聞こえました。
――その声が、ほんの少しだけ温かかった気がするのは、私の錯覚でしょうか。
◇ ◇ ◇
「お嬢様、これ、誰が置いたんでしょう?」
翌朝、机の上に見慣れない小箱がありました。
開けてみると、中には暖かなガラスのランプが。
火を灯すと、橙色の光がふんわりと部屋を包み込みました。
「まあ……きれい」
メアは目をまん丸にして言います。
「きっと公爵様です! だって夜にこっそり来た音がしましたもの!」
「そんな、まさか……」
けれど私は、ふんわり微笑んでしまいました。
もし本当にそうなら――この小さな灯りが、氷の心に生まれた“初めてのひび”なのかもしれません。
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