25番目の花嫁 ~妹の身代わりで嫁いだら、冷徹公爵が私を溺愛し始めました~

朝日みらい

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第5章 無言の契約

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 朝日が、ようやく霞の向こうから顔を出していました。  
 その光に照らされた私の前にあるのは――土。ひたすらの、土。  
 公爵家の裏庭の一角を、私は今日も黙々と耕していました。

「……よし、今日こそ形にしてみせます」

 泥のついたスコップを握りしめながら決意を固めます。  
 といっても、貴族令嬢がこんな姿をしていたら驚かれてしまうのでしょうね。  
 でも私にとっては不思議と心地よい時間でした。薬草と向き合っていると、心が落ち着くのです。

「お嬢様ぁぁー! またですか、お手が泥まみれに……!」

 メアが半泣きになりながら駆け寄ってきます。  
 城では彼女だけが私の味方。明るく健気で、少しおしゃべりですが、その分だけ安心できる存在です。

「構いませんよ。草は正直ですから。手を汚さないと、心も通いません」

「名言っぽく言っても、貴族夫人のすることじゃありませんー!」

 メアはぷくっと頬を膨らませています。  
 私は苦笑して、スコップの代わりに小さな苗を手に取りました。

「この花、覚えておいてください。『風見草』といって、病を祓う力があるんです」

「ふーん。お嬢様、本当に植物のことになると楽しそうですね」

「ええ。ええ、そうかもしれません」

 メアが眉を下げ、頬をかきました。  
「でも……公爵様は、そんなお嬢様のことをどう思ってるんですかね?」

「どう、とは……?」

「ほら、なんというか、“妻らしくない”と叱られたりとか」

 その言葉に、私は少しだけ苦笑してしまいました。

「叱られるほど、何も話していませんからね。お互い、干渉しない契約ですもの」

「むむ……ロマンの香り、ゼロです!」

 ロマン。そんなもの、私と公爵様の間に存在するはずもありません。  
 ただ、なぜでしょう。メアの言葉に胸がわずかに痛みました。  
 ――干渉しない関係。そう自分に言い聞かせても。

     ◇ ◇ ◇ 

 日差しが傾き始めた頃。私は泥を払って大きく息をつきました。  
 どうにか、小さな区画の薬草園が出来上がりつつあります。  
 見栄えこそ悪いけれど、これが誰かの命を救う花になるかもしれない。

「……よしっ!」

 思わず声が出ました。  
 その瞬間、背後から低い声が聞こえます。

「何をしている」

「……っ!? 公爵様!」

 手にした木鍬を落としそうになって、あわててスカートを押さえました。  
 よりによってこの格好で――髪も乱れ、袖口まで泥。  
 完璧主義のあの方が見たら、眉を顰めること間違いなしです。

「公爵夫人が泥遊びとは奇妙な趣味だな」

「そ、そんな可愛いものじゃありません……! ちゃんと目標があります」

 本気です、と胸を張ります。少し泥が飛びましたが気にしません。  
 アレクシス公爵はため息をつきつつも、その瞳にほんの一瞬、驚きが浮かびました。

「目標?」

「病が流行したら困ります。薬草を育てておけば、領民を助けられるはずです」

「……領民のため、と?」

「はい。お金も地位も持たない私にできるのは、それくらいです」

 私の言葉に、公爵様はなぜか目を逸らしました。  
 長い沈黙のあと、今度は淡い声で呟きます。

「……好きにしろ」

 それだけで、くるりと踵を返して去っていきました。  
 残された私は格好を忘れて、思わず微笑んでしまいます。

「“好きにしろ”、ですって。……許可、ですね?」

 メアが後ろで小躍りして叫びます。  
「初めて公爵様が優しい言葉を! お嬢様、これは奇跡です!」

「奇跡というより……契約更新、かもしれませんね」

     ◇ ◇ ◇ 

 日が暮れると、風が冷たくなりました。  
 指先に染みる冷気に息を吹きかけながら、私は乾燥棚の様子を確かめます。  
 薬草たちの香りが空気に混じって、胸の奥が穏やかになりました。

 そのとき――ふと背後から、灯が差しました。  
 振り向くと、夜を照らす柔らかな橙の光。  
 机の上には、見覚えのない油ランプが置かれていました。

「これ……」

「使え」  
 背後から聞こえる低い声に、思わず息を呑みました。  
 アレクシス様。いつの間に――。

「火が消えていた。……風邪を引かせるわけにはいかん」

 短く、それだけ残して歩き去ろうとする背中。  
 無意識に、私は声をかけていました。

「あの、公爵様!」

「……何だ」

「どうして、そのように優しくしてくださるんですか?」

 彼は一瞬、足を止めます。横顔にかかる光が、ほんの少し柔らかく見えました。  
 そして、視線を逸らしながら答えます。

「優しくなどしていない。ただ……風邪をひかれると面倒だ」

「面倒……ですか」

「そうだ」

 返事だけ聞いて、彼はまた静かに去っていきました。  
 小さく扉が閉じる音がして、私は苦笑しました。  

 ――本当は優しいのに、それを絶対に言葉にしない人。  
 氷の公爵、とはよく言ったものです。

     ◇ ◇ ◇ 

 その夜。  
 私は日記の代わりに薬草帳の端にメモを書きました。

『あの方は氷の方だけれど、触れたら火傷をしそうな温度をしている』

 書き終えた瞬間、恥ずかしくなってページを閉じます。  
 まさか本人に見られたら二度と顔を合わせられません。  
 けれど胸の奥では、どうしようもなく温かいものが残っていました。

     ◇ ◇ ◇ 

 数日後、薬草園が形になったとき。  
 領民の一人の老婆が、籠いっぱいの果物を届けてくれました。  
 「奥様のおかげです」と。  
 それを聞いたメアが目を丸くしながら笑います。

「お嬢様、領地が“ほんわか公爵領”になりそうです!」

「まあ……なんだか穏やかでいい響きですね」

 ふと遠くを見つめると、石畳を歩く黒い外套の姿が見えました。  
 ――アレクシス様。  
 あの方は、いつもこちらを遠巻きに見ている気がします。  
 優しいのか、興味がないのか、そのどちらとも違うような。

 けれど、彼の歩き方が少しだけ柔らかくなった気がして。  
 私はつい、胸の中で小さく微笑みました。

     ◇ ◇ ◇ 

 夜、実験室。  
 乾燥した草をすり潰し、瓶に詰めながら、つい指先に力が入りすぎました。

「痛っ……」

 小さな切り傷から血がにじみます。  
 慌てて布を探そうとしたとき、扉が静かに開きました。

「……なぜいつも怪我をする」

「あっ、公爵様……! す、すみませんっ」

 彼は一言も言わず、袖をまくった私の手を取ります。  
 その瞬間、冷たい掌が触れて、鼓動が一気に速くなりました。

「……指先を貸せ」

「え? あの、どうすれば……っ」

 氷のような冷たさが、私の指先に軽く触れる。  
 包帯を巻く彼の指は丁寧なのに、震えるほど近かった。  
 ――まるで、触れたら壊れてしまう何かを扱うように。

「終わった」

「あ、ありがとうございます……」

「もう無理をするな」

「でも、放っておけませんもの。皆さんの役に立ちたいので」

「……相変わらずだな」

 短くそう言って、彼はまた去っていきました。  
 でも、扉が閉まる瞬間。  
 彼の横顔に、ごくわずかな微笑みが浮かんだ気がしたのです。

     ◇ ◇ ◇ 

 夜更け。  
 机に残された新しいインク瓶と、香草の束。  
 どちらにも名も無い贈り主――でも、考えるまでもありません。

「……無言の契約、ですね、公爵様」

 心の中でそう呟いて、私はそっと灯りを消しました。  
 心臓の奥で、まだ淡く光る種が芽吹こうとしているのを感じながら。  
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