25番目の花嫁 ~妹の身代わりで嫁いだら、冷徹公爵が私を溺愛し始めました~

朝日みらい

文字の大きさ
6 / 41

第6章 薬草園の灯

しおりを挟む
 春の風というのは、本当に不思議です。  
 昨日まで凍っていた土も、今朝にはすっかりほぐれて――まるで心まで解けてしまいそうなほどにぬくもりをくれるのです。

 「……よし、これで大丈夫」
 わたしは膝丈のスカートをそっと押さえ、苗の間に水を引きました。  
 小さな芽が陽に照らされて、ぱっと光る。どの子も愛しくて、このまま話しかけたくなるくらいです。

 「リリア様、また土に座っておられます! そんな格好で泥まみれになったら──」
 怒ったような声。案の定、背後には侍女のメアの姿がありました。  
 真っ赤な頬で両手を腰に当てています。

 「ごめんなさい、でもこの場所、日当たりが良くて……。根が呼吸しやすいのですよ」
 「根が呼吸……? お、お嬢様は本当に……ああもう、公爵様が見たら卒倒されます!」

 思わず笑ってしまいました。  
 ──卒倒、ですか。あの冷静沈着な公爵様が?

 「たぶん大丈夫です。アレクシス様は、わたしのことなど……あまり気にもされていませんから」
 自然と声が弱まります。契約だけの夫婦ですもの。情があってはならない立場。  
 ……けれど、それでも少し、寂しいと思ってしまうのです。

 「ほら、土が呼吸してるって言うなら、リリア様も一緒に休まないと酸欠になりますよ!」
 そんな無茶苦茶な理屈を言って笑わせてくるメアに、わたしは噴き出してしまいました。  

 春の風が吹き、花の香りが混じって広がっていきます。  
 薬草園の空気はきっと、少しだけ甘いと思うのです。

 ──だけど、そのときでした。

 「何をしている」
 背筋がぴん、と伸びました。

 ゆっくり振り向くと、少し離れた場所にアレクシス様が立っていらっしゃいました。  
 濡れた黒髪に陽の光が反射して、氷のような銀色の光を散らしています。

 「ご覧のとおり、……薬草園の整備を」
 「わかっている。だが、泥まみれの公爵夫人など聞いたことがない」
 「草たちが喜ぶなら、それでも構いません」

 あ、少し尖った言い方だったかもしれません。  
 でも、アレクシス様は眉を寄せながらも、すぐには何も言われませんでした。

 「……草が喜ぶ、か」  
 ひそやかに繰り返す声に、どこか柔らかい響きがありました。

 わたしがそっと立ち上がろうとしたとき、足首に何か冷たいものが巻きつきました。つる草です。  
 「わっ──」
 とっさに声が漏れた瞬間、金属のように硬い腕がわたしの身体を受け止めていました。

 「……まったく、世話の焼ける花嫁だな」
 耳元で低く、ため息のような声。  
 目を上げると、至近距離に公爵様の整った顔が――近い。近すぎます!

 「す、すみません! 草に……!」
 「言い訳は結構だ」
 そういいながらも、アレクシス様の手はまだ離れません。  
 冷たいと思っていたその手は、驚くほど温かくて。

 しばらくそのままの姿勢でいたせいでしょう。  
 心臓の音がやけに大きく響いて、彼に聞こえてしまうのではないかと不安になるほどでした。

 「……もう大丈夫です。ありがとうございます」
 やっとの思いで離れると、公爵様は一歩だけ距離を取って、不自然なほどゆっくり咳払いをされました。
 「次から気をつけろ。草よりお前の方が折れそうだ」
 ふっと耳が熱くなり、答えられませんでした。

 

 それからの日々、薬草園にはいつも人の笑い声が絶えなくなりました。  
 病から回復した村の子どもたちが遊びに来て、花を摘み、瓶に詰めて持ち帰る。  
 メアは大忙しですし、執事のグレゴールさんは「庭は遊び場ではない」とぼやいていましたが、どこか嬉しそうに目尻を下げていました。

 ある日、庭で子どもたちと遊んでいると、背後から視線を感じます。  
 振り返れば、テラスの上にアレクシス様が立っていらっしゃいました。

 その瞳が、静かにこちらを見つめている。  
 まるで、ずっと前から見守っていたかのように。  
 ──そして、彼が微かに笑ったように見えたんです。

 わたしはその場から動けなくなりました。  
 胸がどきどきする。  
 どうしてでしょう、何でもない笑みなのに、涙が出そうなくらい嬉しいのです。

 

 夜。月が高くのぼったころ。  
 わたしは書斎の机に向かって、昼に摘んだ薬草の整理をしていました。  
 香りの強い葉を刻むたびに、指先まで草の匂いが染み込んでいくようです。

 「……ふう、これで今日は終わり……」

 疲れでまぶたが重くなる。けれど、まだ火を消すには惜しくて灯りを見つめていると、コン、と静かなノックが響きました。  
 「リリアーナ、まだ起きているか」

 この屋敷で、わたしの名を呼ぶその声を知っているのは、ただ一人。  
 「……アレクシス様?」

 扉を開けると、予想どおり彼が立っていました。  
 松明の光が横顔を照らし、優しい影を落としています。

 「……香りが外まで漂っていた。寝る前に少し、気になってな」
 「香り……あ、すみません、強すぎましたか?」
 「いや、嫌な匂いではない」

 短く答えたあと、彼は少し逡巡し――机の上に、一つの包みを置かれました。  
 「これをやる」

 包みの中から出てきたのは、手のひらほどの木製のランプでした。  
 わずかに青い炎が灯り、やわらかな光を放っています。

 「この灯りは長持ちする。お前の夜更かしには、ちょうど良いだろう」
 「ありがとうございます……! 本当にきれい。まるで春の光みたいです」

 わたしが嬉しそうにすると、アレクシス様はわずかに顔をそむけて言いました。  
 「別に……書類仕事を増やされては困るだけだ」

 言葉とは裏腹に、その声はどこか照れくさそうで。  
 ――もしかして、心配してくださったのかもしれません。  
 気づいた瞬間、胸の奥が甘く震えました。

 

 その夜。ベッドのそばに置いたランプの灯りが、ずっと消えずに揺れていました。  
 春の光のようにやさしく、心まで照らすようで。  
 夢の中でわたしは、知らず知らずのうちに彼の名前を呼んでいたかもしれません。

 

 翌朝、薬草園に出ると、アレクシス様の姿がありました。  
 朝露に濡れる花々の間で黒いマントが揺れて――思わず息を飲みます。  
 普段は城内でしか見かけない方なのに。

 「おはようございます、アレクシス様」
 「お前の言う“朝の光が育てる薬草”とやらを、見に来た」

 くす、と笑ってしまいました。  
 「まあ、気にしてくださったんですね」

 「誤解するな。ただ……見てみたかっただけだ」

 言葉を続けようとする彼の目が、一瞬だけわたしを捉え――すぐに花々へ落ちます。  
 春風が吹き、マントの裾が揺れました。

 「……きれいだな」
 「え?」
 「この景色も……お前も」

 今、確かに彼はそう言った。  
 小さな声だったけれど、はっきりと。

 返す言葉を失っているわたしの頬へ、彼の手が伸びました。  
 指先がそっと触れて、驚くほどやさしい感触が伝わります。

 「少し、泥がついている。……まったく、本当に花嫁らしくない」

 叱るように言いながら、指でそっと拭い取ってくださる。  
 なぜか心臓の音が遠くまで響いた気がしました。

 

 その手を離すことも、視線を逸らすこともできない。  
 しばらくの沈黙のあと、公爵様の低い声が落ち着いた空気を震わせました。

 「お前が来てから、屋敷が……少しだけ静かではなくなった」
 「静かでは……なく?」
 「鳴いている鳥のようだ。悪くない。……ただ、慣れていない」

 照れくさそうに視線を外すその仕草が、ひどく幼く見えて――  
 思わず笑ってしまいました。

 「では、わたしはその鳥として、この庭を賑やかにしてみせます」

 「ふ。勝手にしろ」

 そう言って背を向けた彼の横顔に、陽の光が差し込みました。  
 冷たい氷が溶けて滴となり、光に溶けていくように――。

 春の光を映す薬草園で、わたしは確かに感じました。  
 “あの氷の公爵”の心が、今ほんの少しだけ、動いたのだと。

 

 その夜、灯りをともしたランプが、いつよりも強く輝いていました。  
 窓の外には、月明かりに照らされた花々と、静かに見守る彼の影。  
 光は優しく混ざり合い、静かな夜を照らしていました。
しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

ドレスが似合わないと言われて婚約解消したら、いつの間にか殿下に囲われていた件

ぽぽよ
恋愛
似合わないドレスばかりを送りつけてくる婚約者に嫌気がさした令嬢シンシアは、婚約を解消し、ドレスを捨てて男装の道を選んだ。 スラックス姿で生きる彼女は、以前よりも自然体で、王宮でも次第に評価を上げていく。 しかしその裏で、爽やかな笑顔を張り付けた王太子が、密かにシンシアへの執着を深めていた。 一方のシンシアは極度の鈍感で、王太子の好意をすべて「親切」「仕事」と受け取ってしまう。 「一生お仕えします」という言葉の意味を、まったく違う方向で受け取った二人。 これは、男装令嬢と爽やか策士王太子による、勘違いから始まる婚約(包囲)物語。

愚か者が自滅するのを、近くで見ていただけですから

越智屋ノマ
恋愛
宮中舞踏会の最中、侯爵令嬢ルクレツィアは王太子グレゴリオから一方的に婚約破棄を宣告される。新たな婚約者は、平民出身で才女と名高い女官ピア・スミス。 新たな時代の象徴を気取る王太子夫妻の華やかな振る舞いは、やがて国中の不満を集め、王家は静かに綻び始めていく。 一方、表舞台から退いたはずのルクレツィアは、親友である王女アリアンヌと再会する。――崩れゆく王家を前に、それぞれの役割を選び取った『親友』たちの結末は?

【完結】飽きたからと捨てられていたはずの姉の元恋人を押し付けられたら、なぜか溺愛されています!

Rohdea
恋愛
──今回も飽きちゃった。だからアンタに譲ってあげるわ、リラジエ。 伯爵令嬢のリラジエには、社交界の毒薔薇と呼ばれる姉、レラニアがいる。 自分とは違って美しい姉はいつも恋人を取っかえ引っ変えしている事からこう呼ばれていた。 そんな姉の楽しみは、自分の捨てた元恋人を妹のリラジエに紹介しては、 「妹さんは無理だな」と笑われバカにされる所を見て楽しむ、という最低なものだった。 そんな日々にウンザリするリラジエの元へ、 今日も姉の毒牙にかかり哀れにも捨てられたらしい姉の元恋人がやって来た。 しかし、今回の彼……ジークフリートは何故かリラジエに対して好意的な反応を見せた為、戸惑ってしまう。 これまでの姉の元恋人とは全く違う彼からの謎のアプローチで2人の距離はどんどん縮まっていくけれど、 身勝手な姉がそれを黙って見ているはずも無く……

私がいなくなっても構わないと言ったのは、あなたの方ですよ?

睡蓮
恋愛
セレスとクレイは婚約関係にあった。しかし、セレスよりも他の女性に目移りしてしまったクレイは、ためらうこともなくセレスの事を婚約破棄の上で追放してしまう。お前などいてもいなくても構わないと別れの言葉を告げたクレイであったものの、後に全く同じ言葉をセレスから返されることとなることを、彼は知らないままであった…。 ※全6話完結です。

姉の婚約者を奪おうとする妹は、魅了が失敗する理由にまだ気付かない

柚木ゆず
恋愛
「お姉ちゃん。今日からシュヴァリエ様は、わたしのものよ」  いつも私を大好きだと言って慕ってくれる、優しい妹ソフィー。その姿は世間体を良くするための作り物で、本性は正反対だった。実際は欲しいと思ったものは何でも手に入れたくなる性格で、私から婚約者を奪うために『魅了』というものをかけてしまったようです……。  でも、あれ?  シュヴァリエ様は引き続き私に優しくしてくださって、私を誰よりも愛していると仰ってくださいます。  ソフィーに魅了されてしまったようには、思えないのですが……?

不愛想な婚約者のメガネをこっそりかけたら

柳葉うら
恋愛
男爵令嬢のアダリーシアは、婚約者で伯爵家の令息のエディングと上手くいっていない。ある日、エディングに会いに行ったアダリーシアは、エディングが置いていったメガネを出来心でかけてみることに。そんなアダリーシアの姿を見たエディングは――。 「か・わ・い・い~っ!!」 これまでの態度から一変して、アダリーシアのギャップにメロメロになるのだった。 出来心でメガネをかけたヒロインのギャップに、本当は溺愛しているのに不器用であるがゆえにぶっきらぼうに接してしまったヒーローがノックアウトされるお話。

【完結・7話】召喚命令があったので、ちょっと出て失踪しました。妹に命令される人生は終わり。

BBやっこ
恋愛
タブロッセ伯爵家でユイスティーナは、奥様とお嬢様の言いなり。その通り。姉でありながら母は使用人の仕事をしていたために、「言うことを聞くように」と幼い私に約束させました。 しかしそれは、伯爵家が傾く前のこと。格式も高く矜持もあった家が、機能しなくなっていく様をみていた古参組の使用人は嘆いています。そんな使用人達に教育された私は、別の屋敷で過ごし働いていましたが15歳になりました。そろそろ伯爵家を出ますね。 その矢先に、残念な妹が伯爵様の指示で訪れました。どうしたのでしょうねえ。

没落貴族とバカにしますが、実は私、王族の者でして。

亜綺羅もも
恋愛
ティファ・レーベルリンは没落貴族と学園の友人たちから毎日イジメられていた。 しかし皆は知らないのだ ティファが、ロードサファルの王女だとは。 そんなティファはキラ・ファンタムに惹かれていき、そして自分の正体をキラに明かすのであったが……

処理中です...