25番目の花嫁 ~妹の身代わりで嫁いだら、冷徹公爵が私を溺愛し始めました~

朝日みらい

文字の大きさ
8 / 41

第8章 王都からの呼び声

しおりを挟む
 その手紙が届いたのは、春がゆっくりと夏へ移ろい始めたころでした。  
 新しく芽吹いた薬草たちが風に揺れる、穏やかな午後のことです。

 「リリア様、王都からの封書でございます」
 執事のグレゴールが差し出した白い封筒には、懐かしい印章が押されていました。  
 それを見た瞬間――胸の奥が少しだけざわめきます。

 読み慣れた紋章。見間違えるはずがありません。  
 エインズワース侯爵家、つまりわたしの生家のものです。

 嫌な予感というのは、たいてい当たるものですね。

 「セリーヌが……重病?」

 思わず声が震えました。  
 手紙の文面には、妹の病状と、“公爵夫人にしか頼めない”という一文が綴られていました。

 “妹の命を救えるのは、薬草の心得を持つあなたしかいない”

 ああ……どれほど久しぶりに、この名前を自分で呼んだことでしょう。  
 この領地に嫁いでから、“エインズワース”という響きを避けて生きてきたのに。

 メアが心配そうに覗き込みます。
 「リリア様……どうなさるのですか?」

 胸の奥で、二つの声がせめぎ合っていました。  
 ――帰りたくない。あの家に、あの人たちに。  
 けれど同時に――。“助けを求めているなら、見捨てたくない”。

 結局のところ、わたしは昔から変われないのです。

 「……準備をしてください、メア。王都へ行きます」  
 「え? すぐ……ですか?」

 「はい。今この瞬間にも、命の灯は短くなっているかもしれません」

 静かに、けれどはっきりと告げました。

 言葉を交わす間にも、どこかで扉の音がしました。  
 振り向くと――アレクシス様が廊下の影からこちらを見ていらっしゃいました。

 「王都へ行くつもりか」

 「……ご存知でしたか」

 いつも通り冷静な表情。けれど、どこか翳りがあるように感じます。  
 「手紙を見た。行く必要はない。王家にかかわる話になりかねない」

 「ですが、病人です。たとえ誰であっても、見殺しにはできません」

 「無謀だ」  
 短く切り捨てられたその声に、思わず胸が締めつけられました。

 「危険なのは分かっています。でも……あの人は、私の妹です。せめて薬を届けたいのです」

 アレクシス様はしばらく黙ったままでした。  
 長い沈黙のあと、低く呟かれた言葉が風音に溶けていきます。

 「……お前は昔から、そうなのだな」

 「え?」

 「自分を顧みず、他人を救おうとする」

 こちらに視線を向けないまま、彼の表情は深い陰を落としていました。  
 ほんの一瞬、過去の傷が覗いたように見えます。

 「お前の“優しさ”は時に、俺には恐ろしい」

 「恐ろしい、ですか?」

 「そうだ。また誰かを失いたくない」

 その一言に、喉の奥が焼けるようになりました。  
 ……心配してくださっている。それが伝わっただけで、胸がもう痛くて。

 「大丈夫です。私を信じてください。必ず無事に戻ります」

 彼の瞳が揺れ、そして息を吐く音が聞こえました。  
 「……分かった。ただし、護衛として兵を三人付ける。拒むな」

 「……はい」

 

 出立の日は、思いのほか早く巡ってきました。  
 霧に包まれた早朝の庭園。薬草の香りが風に乗って淡く広がります。

 馬車のそばでは、メアが荷物の確認をしており、グレゴールが「殿下の許可を得た旅路だ。無茶はするな」と釘を刺していました。

 その背後で、黒い外套の影が動きます。  
 アレクシス様です。

 「出立の前に、一つ言っておく」

 彼はわたしの荷を一瞥すると、いつもの低い声で続けられました。  
 「何があっても、迷うな。後ろを振り返るな。――俺を信じろ」

 「……はい」

 「そして、俺を信じられなくなったら……その時はもう、戻ってくるな」

 胸の奥が小さく震えました。  
 それは突き放すようでいて、深い決意のこもった言葉でした。

 わたしはそっと微笑みました。

 「……大丈夫です。信じています。あなたは、きっと守ってくださる方だから」

 少しの間だけ、沈黙が落ちます。  
 その次の瞬間、アレクシス様の指先が――わたしの額に触れました。

 ひやりとした感触。けれど、とてもやさしい。

 「……無事で帰れ」

 その声は、春の雪解けよりも静かで、確かに温かかった。

 

 馬車の扉が閉まると、メアがそっと声を潜めます。  
 「リリア様、本当に行ってしまうのですか? 公爵様……すごく心配されてましたよ」

 「わかっています。でも、私が行かなきゃ……」

 「うーん……でも、どうしてあんな怖い顔して送り出すんでしょうねえ。素直じゃないなあ」

 思わず苦笑してしまいました。  
 そう、あの方はいつも不器用なのです。優しさを言葉にできない人。

 車輪が動き出し、屋敷の門が遠ざかっていきます。  
 窓の外には、曇り空の下でひときわ目立つ黒いコートの影。  
 その姿が小さくなるまで、わたしは目を離せませんでした。

 「……アレクシス様。次にお会いする時、胸を張って“帰ってきました”と言えるように」

 

 王都までの道は長く、夜には雨も降りました。  
 揺れる馬車の中、ランプの灯がかすかに揺れて、メアがため息をつきます。

 「うう、腰が痛いです。公爵様、きっと追ってきますよ、こんな旅」

 「……まさか。公爵様はわたしを信じてくれています」  
 わたしは首を横に振りました。

 「でも結局、アレクシス様は奥さまから目が離せないんですよ」

 その瞬間、胸の奥にぽっと灯りがともるようでした。  
 まるで“薬草園の灯”が再び心に戻ってきたみたいに。

 

 夜更け。窓の外では、雲の切れ間から星がのぞいていました。  
 心の中で、誰にも聞こえない祈りを捧げます。

 ――セリーヌ。どうか生きていて。  
 どれほどあなたに傷つけられても、私はあなたを見捨てることはできないの。

 そう、わたしが“25番目の花嫁”としてここに立てているのは、過去の痛みがあったからこそ。  
 あの痛みが、わたしを強くしてくれた。

 

 翌朝、王都の尖塔がかすかに見え始めました。  
 懐かしい街並み。けれどそこに帰ることが“居場所”ではないことを、いまなら知っています。

 メアがふっと笑いました。  
 「ほら見てください、リリア様。公爵様の言った通り、夜が明けました。素敵な朝ですね」

 わたしは窓を開けて春の風を吸い込みました。  
 「ええ。夜は必ず明けるわね」

 静かに、でも確かに。  
 新しい陽の光が旅路を照らしていきます。
しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

ドレスが似合わないと言われて婚約解消したら、いつの間にか殿下に囲われていた件

ぽぽよ
恋愛
似合わないドレスばかりを送りつけてくる婚約者に嫌気がさした令嬢シンシアは、婚約を解消し、ドレスを捨てて男装の道を選んだ。 スラックス姿で生きる彼女は、以前よりも自然体で、王宮でも次第に評価を上げていく。 しかしその裏で、爽やかな笑顔を張り付けた王太子が、密かにシンシアへの執着を深めていた。 一方のシンシアは極度の鈍感で、王太子の好意をすべて「親切」「仕事」と受け取ってしまう。 「一生お仕えします」という言葉の意味を、まったく違う方向で受け取った二人。 これは、男装令嬢と爽やか策士王太子による、勘違いから始まる婚約(包囲)物語。

愚か者が自滅するのを、近くで見ていただけですから

越智屋ノマ
恋愛
宮中舞踏会の最中、侯爵令嬢ルクレツィアは王太子グレゴリオから一方的に婚約破棄を宣告される。新たな婚約者は、平民出身で才女と名高い女官ピア・スミス。 新たな時代の象徴を気取る王太子夫妻の華やかな振る舞いは、やがて国中の不満を集め、王家は静かに綻び始めていく。 一方、表舞台から退いたはずのルクレツィアは、親友である王女アリアンヌと再会する。――崩れゆく王家を前に、それぞれの役割を選び取った『親友』たちの結末は?

【完結】飽きたからと捨てられていたはずの姉の元恋人を押し付けられたら、なぜか溺愛されています!

Rohdea
恋愛
──今回も飽きちゃった。だからアンタに譲ってあげるわ、リラジエ。 伯爵令嬢のリラジエには、社交界の毒薔薇と呼ばれる姉、レラニアがいる。 自分とは違って美しい姉はいつも恋人を取っかえ引っ変えしている事からこう呼ばれていた。 そんな姉の楽しみは、自分の捨てた元恋人を妹のリラジエに紹介しては、 「妹さんは無理だな」と笑われバカにされる所を見て楽しむ、という最低なものだった。 そんな日々にウンザリするリラジエの元へ、 今日も姉の毒牙にかかり哀れにも捨てられたらしい姉の元恋人がやって来た。 しかし、今回の彼……ジークフリートは何故かリラジエに対して好意的な反応を見せた為、戸惑ってしまう。 これまでの姉の元恋人とは全く違う彼からの謎のアプローチで2人の距離はどんどん縮まっていくけれど、 身勝手な姉がそれを黙って見ているはずも無く……

私がいなくなっても構わないと言ったのは、あなたの方ですよ?

睡蓮
恋愛
セレスとクレイは婚約関係にあった。しかし、セレスよりも他の女性に目移りしてしまったクレイは、ためらうこともなくセレスの事を婚約破棄の上で追放してしまう。お前などいてもいなくても構わないと別れの言葉を告げたクレイであったものの、後に全く同じ言葉をセレスから返されることとなることを、彼は知らないままであった…。 ※全6話完結です。

姉の婚約者を奪おうとする妹は、魅了が失敗する理由にまだ気付かない

柚木ゆず
恋愛
「お姉ちゃん。今日からシュヴァリエ様は、わたしのものよ」  いつも私を大好きだと言って慕ってくれる、優しい妹ソフィー。その姿は世間体を良くするための作り物で、本性は正反対だった。実際は欲しいと思ったものは何でも手に入れたくなる性格で、私から婚約者を奪うために『魅了』というものをかけてしまったようです……。  でも、あれ?  シュヴァリエ様は引き続き私に優しくしてくださって、私を誰よりも愛していると仰ってくださいます。  ソフィーに魅了されてしまったようには、思えないのですが……?

不愛想な婚約者のメガネをこっそりかけたら

柳葉うら
恋愛
男爵令嬢のアダリーシアは、婚約者で伯爵家の令息のエディングと上手くいっていない。ある日、エディングに会いに行ったアダリーシアは、エディングが置いていったメガネを出来心でかけてみることに。そんなアダリーシアの姿を見たエディングは――。 「か・わ・い・い~っ!!」 これまでの態度から一変して、アダリーシアのギャップにメロメロになるのだった。 出来心でメガネをかけたヒロインのギャップに、本当は溺愛しているのに不器用であるがゆえにぶっきらぼうに接してしまったヒーローがノックアウトされるお話。

【完結・7話】召喚命令があったので、ちょっと出て失踪しました。妹に命令される人生は終わり。

BBやっこ
恋愛
タブロッセ伯爵家でユイスティーナは、奥様とお嬢様の言いなり。その通り。姉でありながら母は使用人の仕事をしていたために、「言うことを聞くように」と幼い私に約束させました。 しかしそれは、伯爵家が傾く前のこと。格式も高く矜持もあった家が、機能しなくなっていく様をみていた古参組の使用人は嘆いています。そんな使用人達に教育された私は、別の屋敷で過ごし働いていましたが15歳になりました。そろそろ伯爵家を出ますね。 その矢先に、残念な妹が伯爵様の指示で訪れました。どうしたのでしょうねえ。

没落貴族とバカにしますが、実は私、王族の者でして。

亜綺羅もも
恋愛
ティファ・レーベルリンは没落貴族と学園の友人たちから毎日イジメられていた。 しかし皆は知らないのだ ティファが、ロードサファルの王女だとは。 そんなティファはキラ・ファンタムに惹かれていき、そして自分の正体をキラに明かすのであったが……

処理中です...