生まれる前から好きでした。

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57.空虚。

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 汐音が側に居ない日が、二日目を迎えた。
 一人で目覚め、一人で食事をする。汐音と一緒に暮らすまでは、当たり前だった。

「ははは。思っていた以上だな……」

 空虚に感じる家の中で、和真は自虐的に笑う。
 自分が林間学校へ行っている間は、非日常の環境で慌ただしかった事もあり、寂しがっている暇などなかった。
 だが、自宅だとどうしても汐音の面影を無意識に探してしまう。

(汐音が帰って来たら、素直に凄く寂しかったと言ってみようか? きっとあの整った顔を緩ませて、子供みたいに抱きついてくるんだろうな……)

 その様子が簡単に想像出来て、クスッと笑いが洩れる。
 側に居て欲しいと思える人が存在する。その事が何より嬉しかった。

(おれがこんな気持ちになるなんてな。汐音に出会ってからは、知らない感情に戸惑うことだらけだ……)

 まるっきり会えない日がたった1日だけだというのに、これほどまでに心が揺れてしまう。
 
(前世とはいえ、汐音は目の前で慕っていた者を亡くしている。それも処刑で……)

 何度生まれ変わってもその人の魂を探し求める。それほどの相手を喪ってしまう体験は、どれ程のものだったのだろうか? と、今になって汐音が過去で受けた心の傷に理解が及び、胸が苦しくなった。
 ふいに和真の前の席に誰かが座った。和真の意識は現実へ引き戻される。

(あ……、今は学校にいたんだった)

 視線を上げると、そこには奏の日に焼けた顔があった。椅子に後ろ向きに座り、こちらをじっと見ている。

「……奏?」
「和真。助けてくれ!」

 突然、奏が和真に向かって手を合わせる。

「え? ……何? どうした?」
「今日、一限目の英語で、俺が当たるんだけどさ、どうしても上手く訳せないところがあるんだ。教えてくれ!」
「ええ? もうすぐチャイムが鳴るぞ⁉」

 慌てて英語のノートを取り出し、宿題の答え合わせを始める。お互いの額が引っ付きつきそうな距離で向かい合っていた。ノートに視線を向け、訳の注釈をする和真を、時折奏が熱を帯びた瞳を向けている事には気づかないまま。

「あ! 英語の宿題? 俺にも教えて!」

 奏を押しのけそうな勢いで現れたのは芝崎だった。奏はあからさまに眉間に深い皺を寄せる。

「シバ! 邪魔すんな! 今、俺が教えてもらっているんだからな!」
「じゃあ、俺は答えだけ写させて!」

 芝崎は和真のノートをあっと言う間に奪い取ってしまった。それを奪い返そうとする奏の腕を掴んで、和真は止めに入る。奏の体がビクッと揺れた。

「あ、ごめん。驚かせた? でも、奏のノートがあれば大丈夫だ。それに、さっきの問題以外は、全部上手く訳せているよ」

 奏はピタリと動きを止めたまま、和真が掴んだままの腕を凝視している。和真の視線はノートに向いていて気付かなかった。

「?」

 ふと奏の反応が無い事に気付き、視線を上げるのと同時に、チャイムが鳴り始めた。

「うわっ! ここまでか!」

 芝崎は惜しそうに和真へノートを返し、奏も自分のノートを持って、すぐに自席へと戻って行った。
 その次の休み時間も、奏はまっすぐに和真の席へやって来た。

「和真。宿題を一緒にしてくれ」
「え? 宿題を?」
「試合が近いから練習がキツくてさ。家に帰ってから宿題をしていたら寝落ちしてしまうんだよ」

 何でも器用にこなす奏が頼ってくるなんて珍しい事だった。どちらかというと奏に頼っている方なので、顔には出さないようにしたが、心の中では嬉しいと感じていた。

「別に、いいよ」
「サンキュー」

 それからというもの奏とは休み時間になる度に、一緒に宿題をする事になった。

「なんだか楽しそうだな?」

 突然、奏が書く手を止めて聞いてくる。

「え? そう? ……そう言えば、友達と一緒に宿題をするのは初めてだ。……だからかな?」

 苦笑すれば、奏は一瞬ポカンとした表情を浮かべた後、和真の頭をぐしゃぐしゃと掻き回し始めた。

「うわっ! 止めろ!」

 慌てて背後へ身を引き、距離を取る。頭を両手で防御しながら奏を睨みつけた。

「ははは。ごめん。……我慢出来なかった」
「は? 何に?」

 むっとする和真に対し、奏は何とも言えない笑顔を向けると立ち上がった。

「席に戻るわ。ありがとう、和真、また明日も宜しくな~」

 そう言いながらあっさりと席に戻って行く。

「何なんだ? あいつは……」

 その日は奏に振り回された一日となった。

「でも、まあ、気は紛れたから、いいか」

 奏のお陰で、あっという間に時間が過ぎていた。

(そういえば、今日は病院の診察の日だったな……。汐音が居ない一日をなんとか乗り切れそうだ)

 家に戻るとすぐに家を出て予約していた病院へ向かう。

(やっぱり、汐音が居ない家にいるより外へ出ている方が気が紛れるよな)

「こんにちは」

 病院の待合室で本を読んでいた和真は反射的に顔を上げた。目の前には、均整の取れた長身の男が立ったまま和真を見下ろしている。ベージュのチノパンにネイビー色のジャケットを羽織ったカジュアルな服装をスマートに着こなしていた。年齢は30代半ぐらいに見える。
 だが、落ち着いた物腰からはもう少し上のようにも思えた。

「昨日は、ありがとう」

 見知らぬ男から突然お礼を言われて面食らう。

「え? 昨日……、あっ!」

 和真をじっと見つめる眼差しに見覚えがあった。

「思い出してもらえたようだな」

 男は少し照れくさそうに微笑んだ。隙の無いキリリとした表情から一転、親しみを感じる微笑みを向けられたら、女でなくとも心臓がおかしなことになってしまう。大人の魅力を遺憾無く発揮していて、完全に女にモテるタイプの男だった。出会った時はジョギングスタイルで、顔色も悪く、苦し気に顔を歪ませていて、髪も汗で濡れて額に張り付いていて、容姿がどうのこうの言っている場合では無い酷い状態だった。
 だが、今の姿は、カジュアルであっても雑誌に載っていそうな服装に、少し前髪を下ろした爽やかな髪型になっている。これでは、あまりに雰囲気が違っていて、すぐに同一人物とは分からないはずだ。

「お元気になられたのですね! 本当に、良かったです!」

 心から喜ぶ和真の姿に、男は少し面食らったようだった。瞠目したままこちらをじっと見つめている。

「……君のお陰だ。昨日は、本当に助かったよ。ありがとう。医者には、熱中症だと言われたよ」

 やや低めの落ち着いた声で感謝を伝えながら、男は和真の隣の席に腰を下ろした。

「……もう大丈夫なのですか?」
「ああ。早く病院に運び込んでもらえたからね。今、こうして元気でいられる。君には、本当に感謝している。今日は、念の為、診察してもらったのだが、もう大丈夫だと言われたよ。心配をかけてしまったね。……君の診察は、終わったのかい?」
「はい。今は会計待ちです」
「そうか。この後、何か予定はあるのかい?」
「あ、いえ、家に帰るだけです」
「もし良ければ、この後夕飯を一緒にどうだろうか?」
「え⁈」
「昨日のお礼がしたいのだが、付き合ってくれないかい?」

 突然の男の申し出に、和真は驚く。

「どうかお気になさらず。誰だって同じことをしたはずです。近くに居たのが、たまたまおれだっただけですから」

 顔の前で両手を振り、和真は失礼にならないように気を付けながら断りを口にする

「まあ、そう言わず、お礼をさせてほしい。こんなところで再び会えたのも何かの縁だ。この偶然を無駄にしたく無い。……もし、私との食事が嫌なら、君が欲しい物を買いにいくのはどうだろうか?」」
「え? ええ⁇」

 和真は焦った。男のペースにどんどん飲まれていく。声も優しく、言葉遣いも丁寧なのだが、有無を言わせない雰囲気がこの男にはあるのだ。

「ほ、本当にお気遣いは無用です! おれがお役に立てたと分かっただけで嬉しいですから。わざわざ声を掛けてくださって、本当にありがとうございました。お気持ちだけ、いただいておきます」

 和真の返答に、男は納得できていないようだった。顎に指先を当て、どうしたものかと思案しているのが分かった。ちょうどその時、和真の名前がアナウンスされた。

「あ、名前を呼ばれたようです! 貴方が大事に至らず本当に良かったです。お元気な姿が見られて、安心しました。どうかお身体をお大事になさってください。では、これで失礼します」

 会釈をして和真は早足で会計窓口へと向かった。お金を払いながらちらりと男のいる方へ視線を向けると、スーツを着た男と何か話し込んでいた。和真は支払いを済ませると、トイレに寄ってから病院の出口に向かう。その時には、すでに男の姿は無かった。内心ホッとするも、もう会えないのかと思うと、少し残念な気がした。

「堂々とした身のこなしの人だったな。おれもあんな大人になれたらいいのにな……」

 男の姿を脳裏に浮かべながら、自分の未来の姿を想い描いてみるのだった。
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