4 / 7
第四話 侯爵令嬢は、魔法省にも現れる
しおりを挟む
魔法省に勤め始めて二週間が経った頃、事件は起きた。
その日、わたしは地下研究室で第五式を使った計算式の再検証をしていた。トルヴェン主任の検証結果が予想通りだったことで、プロジェクト全体の計算を一から見直す必要が出てきたのだ。地味な作業だが、これが終わらないと次に進めない。
黙々とペンを走らせていると、扉がノックもなく開いた。
「ここが詠唱補助式の研究室ですか」
聞き覚えのある声だった。
顔を上げると、深緑のドレスに身を包んだセラフィーヌ・クロードが、扉の前に立っていた。後ろに侍女をひとり連れている。
室内の全員が固まった。当然だ。魔法省の、しかも地下研究室に、令嬢が突然現れる状況は通常起こらない。
「クロード侯爵家のセラフィーヌと申します。ヴァルナ公爵閣下から、こちらの研究について説明を受けたいとお許しをいただいております」
許可を取っているのか、とわたしは思った。それは準備がいい。無断乗り込みではない分、対処が難しくなる。
「閣下のご許可があるなら」
トルヴェン主任が渋い顔で言った。
セラフィーヌは室内を見回して、すぐにわたしを見つけた。青い瞳が、ほんの一瞬だけ鋭くなった。
「ランドール様、ご活躍とお聞きしました」
にこやかに言う。周りには世間話のように聞こえるだろう。でも声音の端に、棘がある。
「おかげさまで」
わたしは立ち上がり、軽く会釈した。
「何かお手伝いできることがあれば」
「では、今のご研究について教えていただけますか。専門的なことは分からないのですが、ぜひ聞いてみたくて」
研究内容を説明しろ、ということだ。業務中に。
断る理由はない。公爵の許可が出ている以上、研究内容の概要説明は業務の範囲内とも言える。ただし、時間を取られるのは痛い。
「承知しました。応接スペースをお使いください」
研究室の隅に、来客用の小テーブルと椅子が置いてある。そこにセラフィーヌを案内し、向かいに座った。
「詠唱補助式というのは、魔力量が少ない人でも、詠唱の組み立て方を工夫することで、より大きな効果を出せるようにする技術です」
「それはつまり、魔力の少ない人でも魔法が使えるようになる?」
「使えるようになる、というより、今使える魔法の質を上げる、という方が正確です。魔力の総量は変わりません」
「なるほど」
セラフィーヌはすました顔で聞いていたが、やがてゆっくりと口を開いた。
「でもランドール様、あなたは魔力量が平均以下とお聞きしました。そのような方が、本当にこの研究を進められるのでしょうか」
室内が静かになった。
ミラ研究員が手を止めた気配がする。デニスも顔を上げたのが視界の端に見えた。
わたしは一拍置いた。
「はい」
「あら、そうですか」
「魔力量が少ないから、三年間誰も見つけられなかった計算の誤りを発見できました。充分な魔力があれば、誤った計算式でもある程度は結果が出てしまう。誤差が顕著に出るのは、低魔力域での運用時だけですから」
セラフィーヌの笑顔が、わずかに固まった。
「それに」
わたしは続けた。
「この研究が完成すれば、魔力量が少ないために魔法職に就けなかった人たちが、選択肢を持てるようになります。わたしもそのひとりです。だから誰より、完成させたい理由があります」
しばらく沈黙があった。
セラフィーヌは何かを言いかけて、やめた。代わりに、すっと立ち上がった。
「……よく分かりました。お時間をいただいてありがとうございます」
深緑のドレスの裾を翻して、扉に向かう。
扉の前で、一度だけ振り返った。
「ランドール様は、頭がいいのですね」
褒め言葉か、嫌みか、判別できない言い方だった。
「ありがとうございます」
わたしは微笑んで返した。
---
セラフィーヌが去った後、しばらく研究室は静かだった。
やがてデニスが「……強いですね」とぼそりと言った。
「何がですか」
「いや、普通あそこで萎縮しますよ。クロード侯爵令嬢に、あんなことを言われたら」
「萎縮する理由がありませんでした。間違ったことは言っていないので」
トルヴェン主任が低く笑った。研究室に来て初めて聞く笑い声だった。
「……気に入った」
主任はそれだけ言って、また書類に顔を向けた。
ミラ研究員がこっそりわたしに向かって親指を立てた。
わたしは黙って作業に戻った。胸の中が、じんわりと温かかった。
---
その日の夕方、廊下で鉢合わせたカイル公爵に呼び止められた。
「今日のこと、報告を受けました」
「セラフィーヌ様のことですか」
「説明対応、ありがとうございました。本来なら私が対処すべきでしたが」
公爵が「ありがとう」を言うのを初めて聞いた。声音は相変わらず平坦だが、意味はちゃんとある。
「いえ。研究の説明をしただけです」
「彼女が来たのは、研究の説明を聞くためではないでしょう」
「分かっています」
わたしは少し考えてから、正直に言った。
「でも、研究の話をする分には、わたしは負けません」
カイル公爵が、わずかに目を細めた。
笑ったのかもしれない。ほんの少しだけ、口の端が動いた気がした。
「そうですね」
短い返答。でも今日のそれは、いつもより少しだけ温度があった気がした。
気のせいかもしれないけれど。
その日、わたしは地下研究室で第五式を使った計算式の再検証をしていた。トルヴェン主任の検証結果が予想通りだったことで、プロジェクト全体の計算を一から見直す必要が出てきたのだ。地味な作業だが、これが終わらないと次に進めない。
黙々とペンを走らせていると、扉がノックもなく開いた。
「ここが詠唱補助式の研究室ですか」
聞き覚えのある声だった。
顔を上げると、深緑のドレスに身を包んだセラフィーヌ・クロードが、扉の前に立っていた。後ろに侍女をひとり連れている。
室内の全員が固まった。当然だ。魔法省の、しかも地下研究室に、令嬢が突然現れる状況は通常起こらない。
「クロード侯爵家のセラフィーヌと申します。ヴァルナ公爵閣下から、こちらの研究について説明を受けたいとお許しをいただいております」
許可を取っているのか、とわたしは思った。それは準備がいい。無断乗り込みではない分、対処が難しくなる。
「閣下のご許可があるなら」
トルヴェン主任が渋い顔で言った。
セラフィーヌは室内を見回して、すぐにわたしを見つけた。青い瞳が、ほんの一瞬だけ鋭くなった。
「ランドール様、ご活躍とお聞きしました」
にこやかに言う。周りには世間話のように聞こえるだろう。でも声音の端に、棘がある。
「おかげさまで」
わたしは立ち上がり、軽く会釈した。
「何かお手伝いできることがあれば」
「では、今のご研究について教えていただけますか。専門的なことは分からないのですが、ぜひ聞いてみたくて」
研究内容を説明しろ、ということだ。業務中に。
断る理由はない。公爵の許可が出ている以上、研究内容の概要説明は業務の範囲内とも言える。ただし、時間を取られるのは痛い。
「承知しました。応接スペースをお使いください」
研究室の隅に、来客用の小テーブルと椅子が置いてある。そこにセラフィーヌを案内し、向かいに座った。
「詠唱補助式というのは、魔力量が少ない人でも、詠唱の組み立て方を工夫することで、より大きな効果を出せるようにする技術です」
「それはつまり、魔力の少ない人でも魔法が使えるようになる?」
「使えるようになる、というより、今使える魔法の質を上げる、という方が正確です。魔力の総量は変わりません」
「なるほど」
セラフィーヌはすました顔で聞いていたが、やがてゆっくりと口を開いた。
「でもランドール様、あなたは魔力量が平均以下とお聞きしました。そのような方が、本当にこの研究を進められるのでしょうか」
室内が静かになった。
ミラ研究員が手を止めた気配がする。デニスも顔を上げたのが視界の端に見えた。
わたしは一拍置いた。
「はい」
「あら、そうですか」
「魔力量が少ないから、三年間誰も見つけられなかった計算の誤りを発見できました。充分な魔力があれば、誤った計算式でもある程度は結果が出てしまう。誤差が顕著に出るのは、低魔力域での運用時だけですから」
セラフィーヌの笑顔が、わずかに固まった。
「それに」
わたしは続けた。
「この研究が完成すれば、魔力量が少ないために魔法職に就けなかった人たちが、選択肢を持てるようになります。わたしもそのひとりです。だから誰より、完成させたい理由があります」
しばらく沈黙があった。
セラフィーヌは何かを言いかけて、やめた。代わりに、すっと立ち上がった。
「……よく分かりました。お時間をいただいてありがとうございます」
深緑のドレスの裾を翻して、扉に向かう。
扉の前で、一度だけ振り返った。
「ランドール様は、頭がいいのですね」
褒め言葉か、嫌みか、判別できない言い方だった。
「ありがとうございます」
わたしは微笑んで返した。
---
セラフィーヌが去った後、しばらく研究室は静かだった。
やがてデニスが「……強いですね」とぼそりと言った。
「何がですか」
「いや、普通あそこで萎縮しますよ。クロード侯爵令嬢に、あんなことを言われたら」
「萎縮する理由がありませんでした。間違ったことは言っていないので」
トルヴェン主任が低く笑った。研究室に来て初めて聞く笑い声だった。
「……気に入った」
主任はそれだけ言って、また書類に顔を向けた。
ミラ研究員がこっそりわたしに向かって親指を立てた。
わたしは黙って作業に戻った。胸の中が、じんわりと温かかった。
---
その日の夕方、廊下で鉢合わせたカイル公爵に呼び止められた。
「今日のこと、報告を受けました」
「セラフィーヌ様のことですか」
「説明対応、ありがとうございました。本来なら私が対処すべきでしたが」
公爵が「ありがとう」を言うのを初めて聞いた。声音は相変わらず平坦だが、意味はちゃんとある。
「いえ。研究の説明をしただけです」
「彼女が来たのは、研究の説明を聞くためではないでしょう」
「分かっています」
わたしは少し考えてから、正直に言った。
「でも、研究の話をする分には、わたしは負けません」
カイル公爵が、わずかに目を細めた。
笑ったのかもしれない。ほんの少しだけ、口の端が動いた気がした。
「そうですね」
短い返答。でも今日のそれは、いつもより少しだけ温度があった気がした。
気のせいかもしれないけれど。
82
あなたにおすすめの小説
社畜の私は異世界でも社畜精神が残ったままだった
木嶋うめ香
恋愛
貴族学園の小さな部屋で、私は一人書類仕事に追われていた。
今日も寮には帰れそうにない、机の上には大量の未処理の書類。
せめて空腹を紛らわそうと、ビスケットを鞄から取り出し水を汲んでこようとして立ち上がった途端、視界が暗くなり倒れた。
床に倒れた反動で、頭を床にぶつける。
その衝撃で思い出した、私は前世ブラック企業に勤めていた社畜で、二十三連勤サービス残業付きの末、体調を崩し亡くなったアラサー営業職だった。
他サイトでもアップしています。
【完】出来損ない令嬢は、双子の娘を持つ公爵様と契約結婚する~いつの間にか公爵様と7歳のかわいい双子たちに、めいっぱい溺愛されていました~
夏芽空
恋愛
子爵令嬢のエレナは、常に優秀な妹と比較され家族からひどい扱いを受けてきた。
しかし彼女は7歳の双子の娘を持つ公爵――ジオルトと契約結婚したことで、最低な家族の元を離れることができた。
しかも、条件は最高。公の場で妻を演じる以外は自由に過ごしていい上に、さらには給料までも出してくてれるという。
夢のような生活を手に入れた――と、思ったのもつかの間。
いきなり事件が発生してしまう。
結婚したその翌日に、双子の姉が令嬢教育の教育係をやめさせてしまった。
しかもジオルトは仕事で出かけていて、帰ってくるのはなんと一週間後だ。
(こうなったら、私がなんとかするしかないわ!)
腹をくくったエレナは、おもいきった行動を起こす。
それがきっかけとなり、ちょっと癖のある美少女双子義娘と、彼女たちよりもさらに癖の強いジオルトとの距離が縮まっていくのだった――。
公爵閣下、社交界の常識を学び直しては?
碧井 汐桜香
ファンタジー
若い娘好きの公爵は、気弱な令嬢メリシアルゼに声をかけた。
助けを求めるメリシアルゼに、救いの手は差し出されない。
母ですら、上手くやりなさいと言わんばかりに視線をおくってくる。
そこに現れた貴婦人が声をかける。
メリシアルゼの救いの声なのか、非難の声なのか。
【完結】悪役令嬢は番様?
水江 蓮
恋愛
ある日ぼんやり鏡を見ていたら、前世の記憶を思い出したツェツリア8歳。
この世界は人気乙女ゲームの世界であり自分の役どころは悪役令嬢だと…。
まだ悪役令嬢として活動していないから、まだ挽回できるはず!
え?
誰が誰の番?
まず番って何?
誰か何がどうなっているのか教えて!!
養豚農家のおっさんだった令嬢が、「あなたを愛せない」と泣く婚約者を育ててみた。
灯乃
ファンタジー
ある日、伯爵令嬢のデルフィーヌは、前世の自分が養豚場を営むおっさんだったことを思い出した。
(あああぁあ……。むしろ、今のわたしの記憶を持ったまま、おっさんの人生をやり直したい……。おっさんの奥方が、年子の三兄弟の育児でノイローゼになりかけていたとき、もっと全力でお助けして差し上げたい……!)
そんなことを考えつつ、婚約者との初顔合わせで「あなたを愛せない」と泣かれたデルフィーヌは、彼を育てることにしたのだが――?
記憶を失くして転生しました…転生先は悪役令嬢?
ねこママ
恋愛
「いいかげんにしないかっ!」
バシッ!!
わたくしは咄嗟に、フリード様の腕に抱き付くメリンダ様を引き離さなければと手を伸ばしてしまい…頬を叩かれてバランスを崩し倒れこみ、壁に頭を強く打ち付け意識を失いました。
目が覚めると知らない部屋、豪華な寝台に…近付いてくるのはメイド? 何故髪が緑なの?
最後の記憶は私に向かって来る車のライト…交通事故?
ここは何処? 家族? 友人? 誰も思い出せない……
前世を思い出したセレンディアだが、事故の衝撃で記憶を失くしていた……
前世の自分を含む人物の記憶だけが消えているようです。
転生した先の記憶すら全く無く、頭に浮かぶものと違い過ぎる世界観に戸惑っていると……?
女神様、もっと早く祝福が欲しかった。
しゃーりん
ファンタジー
アルーサル王国には、女神様からの祝福を授かる者がいる。…ごくたまに。
今回、授かったのは6歳の王女であり、血縁の判定ができる魔力だった。
女神様は国に役立つ魔力を授けてくれる。ということは、血縁が乱れてるってことか?
一人の倫理観が異常な男によって、国中の貴族が混乱するお話です。ご注意下さい。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる