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伝説のパン職人と、麦畑の守り神 ~陽だまりのアトリエと、古代酵母の約束~
第71話 黒いフラスコと、枯れゆく水脈
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ホズネが心を開いて数週間。アトリエ・フィオナの日常は、これ以上ないほどの幸福な光に満ちていた。厨房ではフィオナがパンを捏ね、その足元ではホズネが黄金色の毛玉のように丸くなって微睡(まどろ)んでいる。その光景は、もはやアトリエの「当たり前」になっていた。
「陽光の酵母」の奇跡は続き、パンを求める行列は絶えない。だが、フィオナは決してパンを増産しなかった。 「ホズネの力は、ホズネの命そのものです。それを無理強いすることは、あの商人と同じになってしまうから」 彼女は、ホズネが自ら胞子を落とした生地だけを「お守りのパン」として、本当に助けを必要とする病気の人や、心の疲れた人にだけ、そっと分け与えていた。
そのフィオナの「分け合う」姿勢こそが、皮肉にも、王都の暗部に潜む者たちの神経を逆撫でしていた。
異変に最初に気づいたのは、マルセルだった。 「……おかしい」 彼は、厨房の片隅で、王都の井戸から汲んできた水を入れた試験管と、古い文献を睨みつけていた。 「フィオナ、エリィ。最近、どうも体の調子が悪くないか? 例えば、軽い眩暈(めまい)がするとか、疲れが取れにくいとか」 「え? ああ、そう言われてみれば……」エリィが首をかしげる。「最近、お客さんもみんな『夏バテかしら』って、顔色が悪い人が多いかも?」 「これは夏バテなどではない」 マルセルは、試験管の水をフィオナの前に差し出した。 「王都の水脈に、ごく微量だが、未知の重金属と、穀物の成長を阻害する菌類が混入している。……誰かが、意図的に『毒』を流しているんだ」
その言葉に、フィオナの血の気が引いた。 (水が、毒されている……? だから、最近、ホズネの元気が……) フィオナは、足元の寝床で丸くなるホズネに目をやった。あれほど艶やかだった黄金色の毛並みが、ここ数日、また少しずつ乾燥し、しおれ始めていることに、彼女は気づいていた。
その日の午後。 店が一段落した頃、カラン、とドアベルが鳴った。 入ってきたのは、今までの客とは明らかに雰囲気の違う、二人組の男だった。一人は学者風の、理知的な目をした初老の男。もう一人は、その助手らしき、感情の読めない目をした青年。
「いらっしゃいませ……」 フィオナが声をかけると、初老の男は、店内に並んだパンには目もくれず、まっすぐにフィオナを見据えた。 「……素晴らしい。噂には聞いていたが、これほどとは」 「と、仰いますと?」 「この店を満たしている、生命力の香りだよ。君は、貴重な『触媒』を手に入れたようだね」 男の言葉に、フィオナは息を呑んだ。この男、ホズネの正体を知っている。
男は、懐から小さな黒いフラスコを取り出し、カウンターに置いた。 「我々は『黒いフラスコ』。美食家同盟が捨て置いた『食による世界の平定』という理想を、科学の力で実現しようとしている者たちだ」 男は、まるで講義でもするかのように、静かに、しかし狂気をはらんだ熱量で語り始めた。 「我々の目的は、君の持つ『触媒(ホズネ)』を解析し、その『陽光の酵母』を人工的に培養、量産することだ。そうすれば、この世界から飢餓はなくなる。病に苦しむ人々もいなくなる。我らの手によって管理された、完璧な世界が訪れるのだ」
「……管理、ですか」フィオナは、冷たくなっていく指先を握りしめた。「それは、結局、美食家同盟と同じ、『独占』しようという考えではありませんか」 「独占ではない、秩序だよ」 男は、静かに首を振った。 「君のように、無秩序な善意で奇跡を分け与えれば、どうなる? 今の王都がそうだ。奇跡のパンを求める者と、得られぬ者の間で、新たな不平等と嫉妬が生まれている。だが、我々が管理すれば、その力は『選ばれた者』にのみ、公平に分配される。命とは資源だ。価値あるものは、価値ある者が管理すべきなのだよ」
「……お断りします」 フィオナは、きっぱりと言い放った。 「ホズネは、資源ではありません。私の、大切な『家族』です。誰にも渡しません」
その言葉に、男の理知的な目が、初めて冷たい光を宿した。 「……そうか。残念だ」 男は、カウンターに金貨を数枚置いた。 「では、力尽くで理解してもらうしかないようだね。君は、大切な家族を、その手で弱らせていることに、まだ気づいていないらしい」 男は、不気味な言葉を残して、店を出ていった。
「あいつら……!」ルーカスが、すぐに後を追おうとする。 「待って、ルーカス!」マルセルが、その腕を掴んだ。「今のは、ただの警告だ。だが、最後の言葉が気になる。『家族を、その手で弱らせている』……?」
その瞬間、フィオナは全てを理解した。 「……水……」 彼女は、厨房の洗い場に置かれた、水差しを、震える手で掴んだ。 「水よ! あの毒(廃液)は、ホズネを弱らせるために……! そして、私は、何も知らずに、その水で……ホズネのパンを……!」 自分が毎日、愛する家族に、毒を与え続けていた。その恐ろしい事実に、フィオナは立っていられなくなり、その場に崩れ落ちそうになった。
「きゅう……」 そのフィオナの足元に、弱々しい足取りで、ホズネがすり寄ってきた。 しおれた尻尾。乾いた毛並み。 ホズネは、フィオナのせいではないと分かっている。だが、その琥珀色の瞳は、あの夢で見た日と同じ、深い絶望の色に染まっていた。 (やはり、ダメだ) (このニンゲンも、同じだ) (ワタシがいれば、このニンゲンも、周りの者も、不幸になる) (ワタシの力は、争いしか生まない)
ホズネは、フィオナの足から、ふらりと身を離した。そして、彼女が止める間もなく、厨房の小さな窓枠へと飛び乗ると、ためらうように一度だけフィオナを振り返った。 その瞳は、はっきりとこう告げていた。 『さようなら』
「ホズネ! 待って!!」 フィオナの悲鳴が響くより早く、黄金色の小さな影は、夕暮れの路地裏へと、消えていった。
「陽光の酵母」の奇跡は続き、パンを求める行列は絶えない。だが、フィオナは決してパンを増産しなかった。 「ホズネの力は、ホズネの命そのものです。それを無理強いすることは、あの商人と同じになってしまうから」 彼女は、ホズネが自ら胞子を落とした生地だけを「お守りのパン」として、本当に助けを必要とする病気の人や、心の疲れた人にだけ、そっと分け与えていた。
そのフィオナの「分け合う」姿勢こそが、皮肉にも、王都の暗部に潜む者たちの神経を逆撫でしていた。
異変に最初に気づいたのは、マルセルだった。 「……おかしい」 彼は、厨房の片隅で、王都の井戸から汲んできた水を入れた試験管と、古い文献を睨みつけていた。 「フィオナ、エリィ。最近、どうも体の調子が悪くないか? 例えば、軽い眩暈(めまい)がするとか、疲れが取れにくいとか」 「え? ああ、そう言われてみれば……」エリィが首をかしげる。「最近、お客さんもみんな『夏バテかしら』って、顔色が悪い人が多いかも?」 「これは夏バテなどではない」 マルセルは、試験管の水をフィオナの前に差し出した。 「王都の水脈に、ごく微量だが、未知の重金属と、穀物の成長を阻害する菌類が混入している。……誰かが、意図的に『毒』を流しているんだ」
その言葉に、フィオナの血の気が引いた。 (水が、毒されている……? だから、最近、ホズネの元気が……) フィオナは、足元の寝床で丸くなるホズネに目をやった。あれほど艶やかだった黄金色の毛並みが、ここ数日、また少しずつ乾燥し、しおれ始めていることに、彼女は気づいていた。
その日の午後。 店が一段落した頃、カラン、とドアベルが鳴った。 入ってきたのは、今までの客とは明らかに雰囲気の違う、二人組の男だった。一人は学者風の、理知的な目をした初老の男。もう一人は、その助手らしき、感情の読めない目をした青年。
「いらっしゃいませ……」 フィオナが声をかけると、初老の男は、店内に並んだパンには目もくれず、まっすぐにフィオナを見据えた。 「……素晴らしい。噂には聞いていたが、これほどとは」 「と、仰いますと?」 「この店を満たしている、生命力の香りだよ。君は、貴重な『触媒』を手に入れたようだね」 男の言葉に、フィオナは息を呑んだ。この男、ホズネの正体を知っている。
男は、懐から小さな黒いフラスコを取り出し、カウンターに置いた。 「我々は『黒いフラスコ』。美食家同盟が捨て置いた『食による世界の平定』という理想を、科学の力で実現しようとしている者たちだ」 男は、まるで講義でもするかのように、静かに、しかし狂気をはらんだ熱量で語り始めた。 「我々の目的は、君の持つ『触媒(ホズネ)』を解析し、その『陽光の酵母』を人工的に培養、量産することだ。そうすれば、この世界から飢餓はなくなる。病に苦しむ人々もいなくなる。我らの手によって管理された、完璧な世界が訪れるのだ」
「……管理、ですか」フィオナは、冷たくなっていく指先を握りしめた。「それは、結局、美食家同盟と同じ、『独占』しようという考えではありませんか」 「独占ではない、秩序だよ」 男は、静かに首を振った。 「君のように、無秩序な善意で奇跡を分け与えれば、どうなる? 今の王都がそうだ。奇跡のパンを求める者と、得られぬ者の間で、新たな不平等と嫉妬が生まれている。だが、我々が管理すれば、その力は『選ばれた者』にのみ、公平に分配される。命とは資源だ。価値あるものは、価値ある者が管理すべきなのだよ」
「……お断りします」 フィオナは、きっぱりと言い放った。 「ホズネは、資源ではありません。私の、大切な『家族』です。誰にも渡しません」
その言葉に、男の理知的な目が、初めて冷たい光を宿した。 「……そうか。残念だ」 男は、カウンターに金貨を数枚置いた。 「では、力尽くで理解してもらうしかないようだね。君は、大切な家族を、その手で弱らせていることに、まだ気づいていないらしい」 男は、不気味な言葉を残して、店を出ていった。
「あいつら……!」ルーカスが、すぐに後を追おうとする。 「待って、ルーカス!」マルセルが、その腕を掴んだ。「今のは、ただの警告だ。だが、最後の言葉が気になる。『家族を、その手で弱らせている』……?」
その瞬間、フィオナは全てを理解した。 「……水……」 彼女は、厨房の洗い場に置かれた、水差しを、震える手で掴んだ。 「水よ! あの毒(廃液)は、ホズネを弱らせるために……! そして、私は、何も知らずに、その水で……ホズネのパンを……!」 自分が毎日、愛する家族に、毒を与え続けていた。その恐ろしい事実に、フィオナは立っていられなくなり、その場に崩れ落ちそうになった。
「きゅう……」 そのフィオナの足元に、弱々しい足取りで、ホズネがすり寄ってきた。 しおれた尻尾。乾いた毛並み。 ホズネは、フィオナのせいではないと分かっている。だが、その琥珀色の瞳は、あの夢で見た日と同じ、深い絶望の色に染まっていた。 (やはり、ダメだ) (このニンゲンも、同じだ) (ワタシがいれば、このニンゲンも、周りの者も、不幸になる) (ワタシの力は、争いしか生まない)
ホズネは、フィオナの足から、ふらりと身を離した。そして、彼女が止める間もなく、厨房の小さな窓枠へと飛び乗ると、ためらうように一度だけフィオナを振り返った。 その瞳は、はっきりとこう告げていた。 『さようなら』
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