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伝説のパン職人と、麦畑の守り神 ~陽だまりのアトリエと、古代酵母の約束~
第72話 夜の攻防と、遠い日の「約束」
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「待って! ホズネ!!」
フィオナの悲痛な叫びは、冷たい雨音に掻き消された。黄金色の小さな影は、もうどこにも見えない。 厨房に立ち尽くすフィオナの足元には、飲み干されることのなかった、毒された水の入った器だけが、虚しく転がっていた。
「……私のせいだわ」 フィオナの膝が、がくりと折れた。 「私が……私が、ホズネを……信じさせると約束したのに、また裏切って……!」 「フィオナ! しっかりしろ!」
店のカウンターを乗り越えてきたエリィが、泣きながらフィオナの肩を揺さぶる。 「フィオナのせいじゃない! 悪いのはあいつらよ! ねえ、ルーカス!」 「チッ……!」
ルーカスは、背負っていた大剣を、凄まじい音と共に床に突き立てた。 「あのクソ野郎どもが……! 俺が今すぐ王都中のドブネズミを叩き斬って、ホズネを見つけ出してやる!」 彼が怒りに任せて店の外へ飛び出そうとした、その時だった。
「待て、ルーカス! 闇雲に動くな!」 マルセルが、血相を変えて厨房に駆け込んできた。その手には、王都の水脈図が握られている。 「奴らも、今この瞬間、ホズネを探しているはずだ! 我々より先に、弱ったホズネが見つかってしまったら……今度こそ、終わりだぞ!」 「じゃあ、どうしろってんだ!」 「二手に分かれる!」マルセルは即座に決断した。「ルーカス、君は裏路地を。僕は水脈の上流を辿り、毒の発生源を叩く! 王都そのものが死ぬ前に!」
二人が嵐の中へ飛び出していく。残されたのは、フィオナとエリィだけだった。 厨房は、絶望的なほど静かだった。
「フィオナ……」エリィが、不安そうに師を見上げる。「私たち、どうしたら……」 「……」 フィオナは、ホズネがいつも寝床にしていた、空っぽの毛布を、震える手で握りしめた。 (ホズネは、私を信じてくれなかった。私が行っても、きっと、また逃げてしまう……) (でも……) (もし、あの子が……万が一、帰ってきたら?)
フィオナは、顔を上げた。その瞳には、涙ではなく、師匠としての、そして、この「家」の主としての、静かな決意が宿っていた。 「……エリィ。私たちは、ここに居ましょう」 「え……?」 「もしホズネが、最後の力を振り絞って『家』に帰ろうとした時、この場所が暗かったら……あの子は、本当に絶望してしまうわ」 フィオナは、固く閉ざされた石窯へと向き直った。 「私は、パンを焼きます」 「で、でも、フィオナ! 毒された水じゃ……!」 「ええ。きっと、膨らまないでしょうね」 フィオナは、自嘲気味に笑った。 「それでも、焼くの。たとえ、石ころのようなパンしか焼けなくても……この厨房に火を灯し続けて、『私たちは、あなたを待っている』と、この香りで知らせるために」 それは、パン職人としての、彼女の最後の戦いだった。
その夜。嵐は、まるで何かの始まりを告げるかのように、さらに激しくなっていた。 フィオナが、膨らむことのない絶望的な生地を捏ねていると、店の表のドアが、乱暴に叩かれた。 「フィオナ殿。開けていただこう」 あの学者風の男――「黒いフラスコ」の幹部、Dr.ヴァレリウスの声だった。
エリィが、慌てて内側から鍵をかける。 「……お断りします! ここは、私たちの家です!」 「無駄ですよ」 ヴァレリウスの冷たい声が、ドア越しに響く。 「その聖獣は、もう君のパンを信じてはいない。我々が、彼を『保護』する。それが、彼にとっても、世界にとっても、最も合理的な選択だ」
次の瞬間、店の窓ガラスが、派手な音を立てて割られた! 「きゃあああっ!」 黒装束の男たちが、錬金術の煙幕と共に店内に侵入してくる。 「フィオナ、下がれ!」 物陰から飛び出してきたルーカスが、大剣で黒装束たちを迎え撃つ。 「くそっ、待ち伏せか! 数が多すぎやがる……!」 敵は、金属を腐食させる液体や、視界を奪う閃光弾を使い、巧みにルーカスを分断する。
ついに、ヴァレリウスが、割れた窓枠から、ゆっくりと店内に足を踏み入れた。 「さあ、聖獣を渡していただこう。抵抗しなければ、命までは取らない」 「ホズネは、ここにはいないわ!」 フィオナが、エリィを庇いながら叫ぶ。 「ほう。本当にそうかな?」 ヴァレリウスは、歪んだ笑みを浮かべた。 「聖獣は、弱ると本能的に、最も安全な『聖域(サンクチュアリ)』に戻る習性がある。すなわち……」 男の視線が、フィオナが火を灯した、石窯の裏手へと向けられた。
そこには、積み上げられた薪の陰で、泥だらけになったホズネが、息も絶え絶えに隠れていた。 (……ごめんなさい、フィオナ……) (でも、もう、行く場所が、ここしか、なかった……) 彼は、最後の力を振り絞り、この温かい場所に戻ってきてしまっていたのだ。
「見つけた」 ヴァレリウスの助手が、ホズネの首根っこを無造作に掴み上げる。 「きゅ……ぅ……」 ホズネの、か細い悲鳴。 「やめてーーーーっ!!」 フィオナが叫び、ルーカスが敵を振り払おうと猛る。 だが、万事休すだった。
その時だった。 「――師匠のパンの味が、急に『絶望』の味がしたからよ!!」
店の、もう一つのドア――厨房へと続く勝手口が、内側から爆発するように開け放たれた! そこに立っていたのは、ずぶ濡れになった、三人の頼もしい姿。
「間に合ったぜ、師匠!」 砂漠の風をまとったアシュラフが、短剣を構える。 「下劣な輩どもめ! 我が師の聖域を荒らすとは、万死に値する!」 王家の剣技を学んだセオドアが、細剣の切っ先をヴァレリウスに向ける。 「あなたたちが……この土地の水を……殺したんですね……!」 森の怒りを瞳に宿したリリナが、麻痺毒を塗った吹き矢を構える。
旅に出ていた三人の弟子たちが、師匠の危機を、パンの味の変化で察知し、嵐の中を駆け戻ってきたのだ。
「……みんな……!」 フィオナの瞳に、涙が溢れる。
「……面白い」 ヴァレリウスは、集結した仲間たちを見回し、初めてその冷たい表情を、楽しそうに歪めた。 「『分け合う』という、非合理な感傷が、これだけの戦力を集めるとは。だが、それもここまでだ」
アトリエ・フィオナという小さな「家」で、大切な家族(ホズネ)を懸けた、最後の戦いの火蓋が、今、切って落とされた。
フィオナの悲痛な叫びは、冷たい雨音に掻き消された。黄金色の小さな影は、もうどこにも見えない。 厨房に立ち尽くすフィオナの足元には、飲み干されることのなかった、毒された水の入った器だけが、虚しく転がっていた。
「……私のせいだわ」 フィオナの膝が、がくりと折れた。 「私が……私が、ホズネを……信じさせると約束したのに、また裏切って……!」 「フィオナ! しっかりしろ!」
店のカウンターを乗り越えてきたエリィが、泣きながらフィオナの肩を揺さぶる。 「フィオナのせいじゃない! 悪いのはあいつらよ! ねえ、ルーカス!」 「チッ……!」
ルーカスは、背負っていた大剣を、凄まじい音と共に床に突き立てた。 「あのクソ野郎どもが……! 俺が今すぐ王都中のドブネズミを叩き斬って、ホズネを見つけ出してやる!」 彼が怒りに任せて店の外へ飛び出そうとした、その時だった。
「待て、ルーカス! 闇雲に動くな!」 マルセルが、血相を変えて厨房に駆け込んできた。その手には、王都の水脈図が握られている。 「奴らも、今この瞬間、ホズネを探しているはずだ! 我々より先に、弱ったホズネが見つかってしまったら……今度こそ、終わりだぞ!」 「じゃあ、どうしろってんだ!」 「二手に分かれる!」マルセルは即座に決断した。「ルーカス、君は裏路地を。僕は水脈の上流を辿り、毒の発生源を叩く! 王都そのものが死ぬ前に!」
二人が嵐の中へ飛び出していく。残されたのは、フィオナとエリィだけだった。 厨房は、絶望的なほど静かだった。
「フィオナ……」エリィが、不安そうに師を見上げる。「私たち、どうしたら……」 「……」 フィオナは、ホズネがいつも寝床にしていた、空っぽの毛布を、震える手で握りしめた。 (ホズネは、私を信じてくれなかった。私が行っても、きっと、また逃げてしまう……) (でも……) (もし、あの子が……万が一、帰ってきたら?)
フィオナは、顔を上げた。その瞳には、涙ではなく、師匠としての、そして、この「家」の主としての、静かな決意が宿っていた。 「……エリィ。私たちは、ここに居ましょう」 「え……?」 「もしホズネが、最後の力を振り絞って『家』に帰ろうとした時、この場所が暗かったら……あの子は、本当に絶望してしまうわ」 フィオナは、固く閉ざされた石窯へと向き直った。 「私は、パンを焼きます」 「で、でも、フィオナ! 毒された水じゃ……!」 「ええ。きっと、膨らまないでしょうね」 フィオナは、自嘲気味に笑った。 「それでも、焼くの。たとえ、石ころのようなパンしか焼けなくても……この厨房に火を灯し続けて、『私たちは、あなたを待っている』と、この香りで知らせるために」 それは、パン職人としての、彼女の最後の戦いだった。
その夜。嵐は、まるで何かの始まりを告げるかのように、さらに激しくなっていた。 フィオナが、膨らむことのない絶望的な生地を捏ねていると、店の表のドアが、乱暴に叩かれた。 「フィオナ殿。開けていただこう」 あの学者風の男――「黒いフラスコ」の幹部、Dr.ヴァレリウスの声だった。
エリィが、慌てて内側から鍵をかける。 「……お断りします! ここは、私たちの家です!」 「無駄ですよ」 ヴァレリウスの冷たい声が、ドア越しに響く。 「その聖獣は、もう君のパンを信じてはいない。我々が、彼を『保護』する。それが、彼にとっても、世界にとっても、最も合理的な選択だ」
次の瞬間、店の窓ガラスが、派手な音を立てて割られた! 「きゃあああっ!」 黒装束の男たちが、錬金術の煙幕と共に店内に侵入してくる。 「フィオナ、下がれ!」 物陰から飛び出してきたルーカスが、大剣で黒装束たちを迎え撃つ。 「くそっ、待ち伏せか! 数が多すぎやがる……!」 敵は、金属を腐食させる液体や、視界を奪う閃光弾を使い、巧みにルーカスを分断する。
ついに、ヴァレリウスが、割れた窓枠から、ゆっくりと店内に足を踏み入れた。 「さあ、聖獣を渡していただこう。抵抗しなければ、命までは取らない」 「ホズネは、ここにはいないわ!」 フィオナが、エリィを庇いながら叫ぶ。 「ほう。本当にそうかな?」 ヴァレリウスは、歪んだ笑みを浮かべた。 「聖獣は、弱ると本能的に、最も安全な『聖域(サンクチュアリ)』に戻る習性がある。すなわち……」 男の視線が、フィオナが火を灯した、石窯の裏手へと向けられた。
そこには、積み上げられた薪の陰で、泥だらけになったホズネが、息も絶え絶えに隠れていた。 (……ごめんなさい、フィオナ……) (でも、もう、行く場所が、ここしか、なかった……) 彼は、最後の力を振り絞り、この温かい場所に戻ってきてしまっていたのだ。
「見つけた」 ヴァレリウスの助手が、ホズネの首根っこを無造作に掴み上げる。 「きゅ……ぅ……」 ホズネの、か細い悲鳴。 「やめてーーーーっ!!」 フィオナが叫び、ルーカスが敵を振り払おうと猛る。 だが、万事休すだった。
その時だった。 「――師匠のパンの味が、急に『絶望』の味がしたからよ!!」
店の、もう一つのドア――厨房へと続く勝手口が、内側から爆発するように開け放たれた! そこに立っていたのは、ずぶ濡れになった、三人の頼もしい姿。
「間に合ったぜ、師匠!」 砂漠の風をまとったアシュラフが、短剣を構える。 「下劣な輩どもめ! 我が師の聖域を荒らすとは、万死に値する!」 王家の剣技を学んだセオドアが、細剣の切っ先をヴァレリウスに向ける。 「あなたたちが……この土地の水を……殺したんですね……!」 森の怒りを瞳に宿したリリナが、麻痺毒を塗った吹き矢を構える。
旅に出ていた三人の弟子たちが、師匠の危機を、パンの味の変化で察知し、嵐の中を駆け戻ってきたのだ。
「……みんな……!」 フィオナの瞳に、涙が溢れる。
「……面白い」 ヴァレリウスは、集結した仲間たちを見回し、初めてその冷たい表情を、楽しそうに歪めた。 「『分け合う』という、非合理な感傷が、これだけの戦力を集めるとは。だが、それもここまでだ」
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