笑顔が苦手な元公爵令嬢ですが、路地裏のパン屋さんで人生やり直し中です。~「悪役」なんて、もう言わせない!~

虹湖🌈

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陽だまりのアトリエと、小さな麦の穂 〜守り神と育む、家族のレシピ〜

第76話 陽だまりと、喪失の影

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「――アルト、だめよ。その子は、まだ、ねむたいって」

 朝の光が、小麦粉の粒子をきらきらと踊らせる。路地裏のパン工房「アトリエ・フィオナ」の厨房。フィオナは、柔らかな笑みで、自分より小さなパン職人を見下ろした。 息子のアルトは、三歳になった。彼は、母親の真似をして小さなエプロンをつけ、発酵前のパン生地が並んだ木箱に、一生懸命よじ登ろうとしている。

「んー……ぱん、さん? おきてー?」 アルトは、ぷくぷくとした小さな指先で、一番端の、まだ膨らんでいない生地に、そっと触れた。 その瞬間。 まるでアルトの体温に呼び覚まされたかのように、冷たく沈黙していた生地が、ふわり、と。命を吹き込まれたように、かすかに膨らんだ。

「まあ」 フィオナは、何度見ても慣れないその奇跡に、目を細める。 この子には、聞こえるのだ。酵母が歌う、か細い声が。生命が芽吹く、その瞬間の音が。

「きゅう」

 そのアルトの足元に、黄金色の毛玉が、音もなくすり寄った。 聖獣ホズネ。このアトリEの、もう一人の守り神。 アルトが、きゃっきゃと笑い声を上げる。その幼子の純粋な喜びに呼応して、ホズネの全身の毛――黄金色の麦の穂――が、陽光を吸い込んだかのように、温かく、淡い光を放った。 ホズネは、アルトがよろけて落ちないよう、その小さな背中を、自らのもふもふとした体で、優しく支えている。最強のベビーシッターであり、アルトの言葉にならない言葉を理解する、唯一無二の「兄」だった。

「……おい。二人とも、粉まみれじゃねえか」 低い、不器用な声が飛ぶ。厨房の入り口で、大男――ルーカスが、腕を組んで立っていた。その顔は父親のそれだ。かつて最強の傭兵と恐れられた男の視線は、今や、息子(と聖獣)に注がれる蜂蜜よりも甘く溶けている。 「ルーカス。おはようございます」 「ああ……。アルト、ママの邪魔すんじゃねえぞ。ほら、ホズネもだ。お前は、そいつが窯に近づかねえように見張ってろよ」 「きゅう!(訳:言われなくとも)」 「ぱぱー!」

 この光景が、フィオナの全てだった。 国を救っただの、伝説のパン職人だの、そんな称号はどうでもよかった。愛する夫がいて、愛する息子がいて、そして、不思議な家族(もふもふ)がいる。この陽だまりの厨房で、彼らのためにパンを焼けること。それこそが、彼女が長い旅の果てにようやく手に入れた、「幸せ」そのものの形だった。

 カラン、と。 その日の午後、店のドアベルが、来客を告げた。 店は、フィオナのパンと、エリィの笑顔、そしてマルセルの知的な会話を求める常連客で賑わっていた。 しかし、入ってきた男は、その誰とも違っていた。

 年は三十代半ばだろうか。使い込まれた革の鞄を肩にかけ、柔らかそうな亜麻色の髪を無造作に束ねている。旅の画家だ、と一目で分かった。その人懐っこい笑顔は、警戒心を抱かせない、不思議な魅力を持っていた。

「……素晴らしい」 男は、カウンターに並んだパンには目もくれず、厨房の奥――窓からの光を浴びてパン生地と戯れるアルトと、その傍らで丸くなるホズネの姿に、釘付けになっていた。 「まるで、古い詩画の一場面だ。光と、命と、そして……守護者。なんと、満たされた光景だろうか」 彼の呟きは、純粋な感動のように聞こえた。

「いらっしゃいませ。パンをお探しですか?」 フィオナが声をかけると、男ははっとしたように振り返り、慌てて人の良い笑みを浮かべた。 「あ、いえ、失礼。あまりに美しい光景だったので、つい見惚れてしまって。私はグレイ。しがない旅の画家です」 グレイと名乗った男は、フィオナに深く頭を下げた。 「もし……もし、ご迷惑でなければ、数日、このお店に通わせてはいただけないでしょうか。あなた方の、その……『家族』の風景を、ぜひ、私の絵に残したいのです」

「絵、ですか?」 「はい。私は、世界中の『失われた光』を探して旅をしています。ですが、こんなにも……こんなにも温かい『今、ここにある光』に出会ったのは、初めてだ」 その言葉に、嘘はないように思えた。

 だが、フィオナは、無意識に、アルトの前に一歩踏み出していた。 ルーカスも、カウンターの奥から、値踏みするような鋭い視線をグレイに送っている。 (……この人) フィオナは、目の前の男の瞳の奥に、違和感を覚えていた。 人懐っこく、優しそうに細められた、その瞳。しかし、その奥には、全てを諦めたかのような、あるいは、全てを「失ってしまった」かのような、凍てつくほどに深い、底なしの「喪失」の影が、淀んでいた。 それは、あまりに悲しい色だった。

「……構いませんよ」 フィオナは、自分でも気づかないうちに、そう答えていた。 その「喪失」の影が、かつて笑顔を失っていた自分と、どこかで重なる気がしたからかもしれない。 「わあ、画家さん! 素敵! だったら、私も描いてくださいね!」 エリィが、無邪気に手を叩く。

「ありがとうございます、奥様」 グレイは、心の底から嬉しそうに、もう一度、深く頭を下げた。 「決して、皆様のお邪魔にはなりませんから」

 男は、本当に嬉しそうに笑っていた。 だが、その笑顔を向けられたルーカスは、喉の奥で小さく唸った。 (……なんだ、こいつ) (目が、笑ってねえ)

 陽だまりのアトリエに、一滴のインクが落ちた。 それは、あまりに静かで、あまりに優しげな顔をしていたため、そのインクが、彼らの幸せな日常全てを塗りつぶすほどの「闇」を連れてきたことになど、まだ、誰一人気づくはずもなかった。
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