笑顔が苦手な元公爵令嬢ですが、路地裏のパン屋さんで人生やり直し中です。~「悪役」なんて、もう言わせない!~

虹湖🌈

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陽だまりのアトリエと、小さな麦の穂 〜守り神と育む、家族のレシピ〜

第77話 眠たいパンと、笑わない瞳

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 旅の画家、グレイが「アトリエ・フィオナ」に通い始めて、数日が過ぎた。 彼は約束通り、店の隅で小さなイーゼルを立て、客の邪魔にならないよう、ただ静かに鉛筆を走らせていた。その人当たりの良い笑みと柔らかな物腰は、すっかり路地裏の風景に溶け込んでいた。

「わあ、グレイさん、すごい! まるで生きているみたい!」 エリィが、グレイのスケッチブックを覗き込んで歓声を上げる。そこには、陽光の中でパン生地を捏ねるフィオナと、その足元でじゃれ合うアルトとホズネの姿が、驚くほど温かいタッチで描かれていた。 「はは、光栄です、エリィさん。この店の『陽だまり』を描かせてもらえるだけで、私は本当に幸せですよ」 グレイは、人の良さそうな笑顔で応える。

 だが、その「陽だまり」の中心である厨房では、小さな異変が起きていた。 「……あれ?」 フィオナは、その日仕込んだパン生地の鉢を、首をかしげて見つめていた。 (おかしいわ。昨日と同じ分量、同じ温度のはずなのに……酵母の元気が、ない?) 生地の膨らみが、明らかにいつもより鈍い。まるで、冬の日のように、かたくなに縮こまっている。

「ママ?」 そのフィオの足元で、アルトが、パン生地の入った鉢を、心配そうにじっと見つめていた。そして、小さな指で鉢の縁をちょん、と突いた。 「……ぱんさん、ねむい。ねむい、って」 「え?」 「かわいそう……って、いってる」 アルトは、まるで熱を出した友達を心配するかのように、その小さな眉を寄せた。

「……!?」 フィオナは、慌てて生地の状態を確かめ直した。温度計を差し込み、香りを嗅ぐ。アルトの言う通りだ。酵母が、まるで活動を放棄したかのように弱々しくなっている。このままでは、石のように硬いパンが焼き上がってしまう。 (どうして……? 昨日まで、あんなに元気だったのに)

「……素晴らしい」

 その時、背後から、抑揚のない、しかし熱を帯びた声がした。 グレイだった。彼は、いつの間にか厨房の入り口に立ち、アルトと「眠たいパン生地」のやり取りを、絵筆を持つ手が止まるのも構わず、凝視していた。 その瞳は、もはや画家のそれではない。未知の現象を発見した科学者のような、鋭い「探求」の光を宿していた。 「……坊や。君には、その生地が、本当に『眠って』いるように見えるのかい?」 グレイは、初めて、アルトに直接話しかけた。その声は、子供に語りかけるには、あまりに理知的で、冷たかった。

「きゅう!」 ホズネが、アルトの前に立ちはだかるように、低い唸り声を上げた。 「あっ、グレイさん、ごめんなさい! 厨房は……」 「おっと、失礼」 グレイは、はっとしたように我に返ると、いつもの人懐っこい笑顔に戻った。 「いやはや、あまりに可愛らしい会話だったので、つい。本当に、不思議なお子さんだ」 彼はそう言って、何事もなかったかのように、自分の席へと戻っていった。

 その夜。店が閉まったアトリエで、ルーカスが、低い声でフィオナに切り出した。 「おい、フィオナ。あの画家、いつまで店に置いとく気だ」 「え? グレイさんのこと? 優しい人じゃない。絵も、とても素敵だし……」 「……俺は、気に食わねえ」 ルーカスは、窓の外、グレイが去っていった暗い路地を睨みつけた。 「アイツの笑顔、目だけ笑ってねえんだよ。まるで、完璧な仮面を被ってるみてえだ。それに……」 彼は、言葉を区切った。 「……アイツが来てから、ホズネが、やけにピリピリしてる。まるで、縄張りを脅かす別の獣でも来たみてえに」

「それは……考えすぎじゃ……」 フィオナが戸惑っていると、店の奥からマルセルが顔を出した。 「ルーカスの勘は、あながち間違っていないかもしれないね」 「マルセルさん?」 「例の画家、グレイ殿の経歴を、少し調べてみたんだが……奇妙なほどに『空白』が多い。特に、ここ数年、彼がどこで何をしていたのか、一切の記録が出てこない」 マルセルは、眼鏡の奥の目を鋭く光らせた。 「そして、たった一つ見つけた古い記録によれば……彼はかつて、王立アカデミーで『生命の循環と錬金術』を研究していた学者だったらしい」 「錬金術……」 フィオナの胸に、あの「黒いフラスコ」との戦いの記憶が、冷たく蘇った。

 その頃、アトリエの屋根の上。 アルトが眠る子供部屋の窓を見上げながら、ホズネは、一人、月明かりの下で静かにたたずんでいた。 (……この子の声は) ホズネは、琥珀色の瞳を、遠い空に向けた。 (……大地の奥まで響く。ワタシが、ずっと昔、あの村で……守れなかった、あの小さな命の声に、あまりにも、よく似ている……)

 守護神の瞳から、金色の涙が一筋、こぼれ落ちた。 それは、今度こそ守り抜きたいという強い決意の涙か。それとも、再び同じ悲劇が繰り返されるのではないかという、深い孤独な恐怖の涙か。路地裏の陽だまりに、確実に、影が落ち始めていた。
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