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第3話 一通の手紙と、埃まみれの希望
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ルーカスからの返信は、驚くほど速やかに届いた。
それは簡素な羊皮紙に、彼らしい飾り気のない、それでいて力強い筆跡でこう記されていた。
『明日の午後、いつもの東屋で。話くらいは聞いてやる』
「……話くらいは、ね」
フィオナは思わず苦笑した。ぶっきらぼうな文面だが、行間には彼なりの気遣いが滲んでいる。幼い頃、厳格な家庭教師から逃げ出しては泣いていたフィオナを、いつも見つけて慰めてくれたのはルーカスだった。彼ならば、きっと。
翌日の午後、フィオナは侍女の目を盗み、屋敷の庭の片隅にある古い東屋へと向かった。そこには既に、少しばかり居心地悪そうに腕を組んで佇むルーカスの姿があった。彼はフィオナに気づくと、軽く片手を上げる。
「で、相談とやらは何だ? まさか、本当に修道院にでも行かされることになったのか?」
開口一番、心配を隠そうともしない言葉。フィオナは小さく首を横に振った。
「それよりも……もっと、途方もないことかもしれないわ」
そして、婚約破棄の夜から考えていた計画――パン屋を開きたいという突拍子もない夢を、フィオナは訥々と、しかし熱を込めて語り始めた。
ルーカスは最初、眉間に皺を寄せ、信じられないという顔で聞いていた。やがて、その表情は呆れに変わり、しまいにはこめかみを押さえて深いため息をついた。
「……正気か、フィオナ。君が、パン屋? あのヴィルヘルム公爵令嬢が? 冗談にもほどがあるぞ」
「本気よ。私には、もうこれしか……ううん、これこそがやりたいことなの」
フィオナの真剣な眼差しに、ルーカスは言葉を失ったようだった。彼はしばらくフィオナの顔をじっと見つめていたが、やがて諦めたように肩をすくめた。
「……分かった。君がそこまで言うなら、止めはしない。だが、茨の道どころか、獣道ですらない、崖っぷちを進むようなものだと覚悟はできているんだろうな?」
「ええ」
力強く頷くフィオナに、ルーカスはもう一度大きなため息をつき、そして、悪戯っぽく笑った。
「まあ、いいさ。どうせ君のことだ、一度言い出したら聞かないだろうしな。少しばかり心当たりがある。手伝ってやらんこともない」
その言葉に、フィオナの強張っていた頬が、ほんの少しだけ緩んだ気がした。笑顔には、まだ遠いけれど。
次なる壁は、マルセルだった。
その日の夕食後、フィオナは意を決してマルセルの部屋を訪ねた。彼はいつものように冷静沈着な様子でフィオナを迎えたが、彼女の口から「パン屋を開きたい」という言葉が出た瞬間、その鉄仮面のような表情が僅かに揺らいだ。
「……お嬢様。それは、本気で仰せでしょうか?」
「ええ、マルセル。私のなけなしの財産は、あの小さな木箱に入っているものが全て。それでも、諦めたくないの」
フィオナは、前世の知識で資金を運用していたこと、そしてその僅かな利益をパン屋の開業資金に充てたいことを正直に打ち明けた。
マルセルは驚いたように目を見張り、そして、ゆっくりと息を吐いた。
「……お嬢様が、そのような才覚をお持ちだったとは、このマルセル、不明を恥じるばかりです。そして、その固いご決意……」
彼はしばし黙考した後、静かに頭を下げた。
「分かりました。ヴィルヘルム家の執事としてではなく、このマルセル個人として、お嬢様のその途方もない挑戦を、及ばずながら支援させていただきます。私の父は商人でした。その知識と人脈が、少しはお役に立てるやもしれません」
その言葉は、何よりも心強い後押しとなった。
翌日から、フィオナの「パン屋開業」に向けた具体的な日々が始まった。
ルーカスの案内で、王都の裏通りや庶民が暮らす地区を歩き回った。そこは、フィオナがこれまで知っていた華やかな貴族街とはまるで違う世界だった。活気はあるものの、どこか雑然としていて、道行く人々の服装も言葉遣いも、何もかもが新鮮で、同時に戸惑いの連続だった。
紹介される店舗候補は、家賃が高すぎて手が出ないものか、そうでなければ薄暗く、とてもパンを焼く気にはなれないような場所ばかり。マルセルも独自に情報を集めてくれたが、状況は芳しくなかった。
「やはり、無謀だったのかしら……」
何度も心が折れそうになる。そのたびに、フィオナは前世のパンの温かい香りを思い出し、自分を奮い立たせた。笑顔は作れなくても、パンへの想いだけは本物なのだと。
そんなある日、ルーカスが少し興奮した面持ちでフィオナを訪ねてきた。
「とっておきの場所を見つけたぞ、フィオナ! ただし……まあ、見てからのお楽しみだ」
彼に連れられてやって来たのは、王都の喧騒から少し離れた、忘れられたような石畳の小路。その突き当りに、一軒の古びた建物がひっそりと佇んでいた。かつては酒場だったらしいその建物は、窓ガラスは割れ、壁は蔦に覆われ、扉は傾き、見るからに廃墟に近い。埃とカビの匂いが鼻をついた。
「……ここが、とっておきの場所?」
フィオナは呆然と呟く。隣でルーカスが苦笑いしている。
「家賃は破格だ。何しろ、もう何年も借り手がつかなかったらしいからな。だが……見ての通り、お化け屋敷状態だ」
確かに、お世辞にもパン屋を開けるような状態ではない。改装するにも、莫大な費用と手間がかかるだろう。フィオナのなけなしの資金では、到底足りそうになかった。
目の前にそびえ立つのは、まさしく新たな、そして巨大な壁だった。
しかし、不思議とフィオナの心は暗くならなかった。むしろ、埃とカビの匂いの奥に、なぜか微かに、焼きたてのパンの香りがするような気がしたのだ。
彼女は、傾いた扉にそっと手を触れた。
(ここから、私のパン屋が始まるのかもしれない)
その瞳には、困難を前にしても怯まない、静かで力強い光が宿っていた。問題は山積みだ。それでも、一歩ずつ進むしかない。
「ルーカス、マルセル。ここを……見せていただけるかしら」
フィオナの声には、確かな決意が込められていた。彼女の人生やり直しの舞台は、この埃まみれの廃墟から始まるのかもしれない。
それは簡素な羊皮紙に、彼らしい飾り気のない、それでいて力強い筆跡でこう記されていた。
『明日の午後、いつもの東屋で。話くらいは聞いてやる』
「……話くらいは、ね」
フィオナは思わず苦笑した。ぶっきらぼうな文面だが、行間には彼なりの気遣いが滲んでいる。幼い頃、厳格な家庭教師から逃げ出しては泣いていたフィオナを、いつも見つけて慰めてくれたのはルーカスだった。彼ならば、きっと。
翌日の午後、フィオナは侍女の目を盗み、屋敷の庭の片隅にある古い東屋へと向かった。そこには既に、少しばかり居心地悪そうに腕を組んで佇むルーカスの姿があった。彼はフィオナに気づくと、軽く片手を上げる。
「で、相談とやらは何だ? まさか、本当に修道院にでも行かされることになったのか?」
開口一番、心配を隠そうともしない言葉。フィオナは小さく首を横に振った。
「それよりも……もっと、途方もないことかもしれないわ」
そして、婚約破棄の夜から考えていた計画――パン屋を開きたいという突拍子もない夢を、フィオナは訥々と、しかし熱を込めて語り始めた。
ルーカスは最初、眉間に皺を寄せ、信じられないという顔で聞いていた。やがて、その表情は呆れに変わり、しまいにはこめかみを押さえて深いため息をついた。
「……正気か、フィオナ。君が、パン屋? あのヴィルヘルム公爵令嬢が? 冗談にもほどがあるぞ」
「本気よ。私には、もうこれしか……ううん、これこそがやりたいことなの」
フィオナの真剣な眼差しに、ルーカスは言葉を失ったようだった。彼はしばらくフィオナの顔をじっと見つめていたが、やがて諦めたように肩をすくめた。
「……分かった。君がそこまで言うなら、止めはしない。だが、茨の道どころか、獣道ですらない、崖っぷちを進むようなものだと覚悟はできているんだろうな?」
「ええ」
力強く頷くフィオナに、ルーカスはもう一度大きなため息をつき、そして、悪戯っぽく笑った。
「まあ、いいさ。どうせ君のことだ、一度言い出したら聞かないだろうしな。少しばかり心当たりがある。手伝ってやらんこともない」
その言葉に、フィオナの強張っていた頬が、ほんの少しだけ緩んだ気がした。笑顔には、まだ遠いけれど。
次なる壁は、マルセルだった。
その日の夕食後、フィオナは意を決してマルセルの部屋を訪ねた。彼はいつものように冷静沈着な様子でフィオナを迎えたが、彼女の口から「パン屋を開きたい」という言葉が出た瞬間、その鉄仮面のような表情が僅かに揺らいだ。
「……お嬢様。それは、本気で仰せでしょうか?」
「ええ、マルセル。私のなけなしの財産は、あの小さな木箱に入っているものが全て。それでも、諦めたくないの」
フィオナは、前世の知識で資金を運用していたこと、そしてその僅かな利益をパン屋の開業資金に充てたいことを正直に打ち明けた。
マルセルは驚いたように目を見張り、そして、ゆっくりと息を吐いた。
「……お嬢様が、そのような才覚をお持ちだったとは、このマルセル、不明を恥じるばかりです。そして、その固いご決意……」
彼はしばし黙考した後、静かに頭を下げた。
「分かりました。ヴィルヘルム家の執事としてではなく、このマルセル個人として、お嬢様のその途方もない挑戦を、及ばずながら支援させていただきます。私の父は商人でした。その知識と人脈が、少しはお役に立てるやもしれません」
その言葉は、何よりも心強い後押しとなった。
翌日から、フィオナの「パン屋開業」に向けた具体的な日々が始まった。
ルーカスの案内で、王都の裏通りや庶民が暮らす地区を歩き回った。そこは、フィオナがこれまで知っていた華やかな貴族街とはまるで違う世界だった。活気はあるものの、どこか雑然としていて、道行く人々の服装も言葉遣いも、何もかもが新鮮で、同時に戸惑いの連続だった。
紹介される店舗候補は、家賃が高すぎて手が出ないものか、そうでなければ薄暗く、とてもパンを焼く気にはなれないような場所ばかり。マルセルも独自に情報を集めてくれたが、状況は芳しくなかった。
「やはり、無謀だったのかしら……」
何度も心が折れそうになる。そのたびに、フィオナは前世のパンの温かい香りを思い出し、自分を奮い立たせた。笑顔は作れなくても、パンへの想いだけは本物なのだと。
そんなある日、ルーカスが少し興奮した面持ちでフィオナを訪ねてきた。
「とっておきの場所を見つけたぞ、フィオナ! ただし……まあ、見てからのお楽しみだ」
彼に連れられてやって来たのは、王都の喧騒から少し離れた、忘れられたような石畳の小路。その突き当りに、一軒の古びた建物がひっそりと佇んでいた。かつては酒場だったらしいその建物は、窓ガラスは割れ、壁は蔦に覆われ、扉は傾き、見るからに廃墟に近い。埃とカビの匂いが鼻をついた。
「……ここが、とっておきの場所?」
フィオナは呆然と呟く。隣でルーカスが苦笑いしている。
「家賃は破格だ。何しろ、もう何年も借り手がつかなかったらしいからな。だが……見ての通り、お化け屋敷状態だ」
確かに、お世辞にもパン屋を開けるような状態ではない。改装するにも、莫大な費用と手間がかかるだろう。フィオナのなけなしの資金では、到底足りそうになかった。
目の前にそびえ立つのは、まさしく新たな、そして巨大な壁だった。
しかし、不思議とフィオナの心は暗くならなかった。むしろ、埃とカビの匂いの奥に、なぜか微かに、焼きたてのパンの香りがするような気がしたのだ。
彼女は、傾いた扉にそっと手を触れた。
(ここから、私のパン屋が始まるのかもしれない)
その瞳には、困難を前にしても怯まない、静かで力強い光が宿っていた。問題は山積みだ。それでも、一歩ずつ進むしかない。
「ルーカス、マルセル。ここを……見せていただけるかしら」
フィオナの声には、確かな決意が込められていた。彼女の人生やり直しの舞台は、この埃まみれの廃墟から始まるのかもしれない。
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