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第2話 公爵家の冷たい壁と、一握りの小麦粉
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王城からの帰りの馬車の中は、息が詰まるような沈黙に満ちていた。
シャンデリアの光はなく、窓の外を流れるのは煤けた王都の夜景だけ。父であるヴィルヘルム公爵は、彫像のように押し黙ったまま、一度もフィオナに視線を向けようとはしなかった。その硬直した横顔が、何よりも雄弁に彼の怒りと失望を物語っている。母は、小さな刺繍のハンカチで何度も目元を押さえているが、その嗚咽はフィオナを責めているようにも聞こえた。
(……当然だわ)
フィオナは自嘲気味に唇の端を歪める。ヴィルヘルム公爵家は、王国でも指折りの名門。その長女である自分が、王太子妃となるはずだった自分が、このような形で婚約を破棄され、社交界の物笑いの種となったのだ。家の名誉にどれほどの泥を塗ったことか。
屋敷に到着し、重々しい扉が開かれると、出迎えた使用人たちの視線が痛いほど突き刺さる。好奇、憐憫、そして微かな軽蔑。彼らの囁き声が、広いエントランスホールに不気味に反響しているようだった。
「フィオナ」
自室へ向かおうとしたフィオナの背に、父の低く、押し殺したような声がかかった。振り返ると、父は書斎の扉を指し示している。母は心配そうにフィオナを見たが、父の厳格な視線に何も言えずに俯いた。
書斎の空気は、馬車の中よりもさらに冷え切っていた。暖炉には火が入れられておらず、壁一面の本棚が威圧するように迫ってくる。
「……お前は、我がヴィルヘルム家の名を地に堕とした」
絞り出すような父の言葉。その声には、怒りよりも深い疲労の色が滲んでいた。
「申し訳…ございません」
フィオナは頭を下げる。他に、どんな言葉が見つかるというのだろう。
「しばらくは、屋敷の奥で謹慎していなさい。社交界への出入りは一切禁ずる。いずれ…そうだな、どこか遠方の修道院にでも入るのが、お前にとっても、家にとっても最良の道かもしれん」
修道院。それは実質的な追放宣告にも等しい。フィオナは顔を上げた。その瞳には、もはや涙はなかった。
「お父様」
その声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。いや、落ち着かせようと必死だったのかもしれない。
「私は、修道院には参りません」
「…何だと?」
父の眉が険しく吊り上がる。
「私は、この王都で、自分の力で生きていこうと決めました」
「馬鹿なことを申すな! 婚約破棄された令嬢が、どうやって生きていくというのだ。誰がお前を…」
「パン屋を、開こうと思っております」
一瞬の沈黙。父は、フィオナが何を言っているのか理解できない、という顔をしていた。
「……パン屋、だと? お前が? 正気か、フィオナ」
その声には、呆れと、ほんの少しの戸惑いが混じっていた。
「本気です。小さい頃……お母様が教えてくださった、あのパンを、もう一度……」
フィオナの脳裏には、幼い頃、母と一緒に厨房に立ち、小さな手で小麦粉をこねた記憶が蘇る。母は貴族の出ではなかったが、パン作りがとても上手だった。その時だけは、窮屈な貴族の令嬢ではなく、ただのパン好きの少女でいられた。あの温かい記憶が、今のフィオナを支える唯一の光だった。
父は深いため息をつき、重々しく首を振った。
「お前の好きにはさせん。それはヴィルヘルム家の恥の上塗りだ。いいか、フィオナ。これ以上、私を失望させるな」
その言葉は、有無を言わせぬ決定だった。
自室に戻ったフィオナは、窓辺に立ち、月明かりに照らされた庭を見下ろした。美しく整えられた庭園は、まるで彼女の心を映すかのように静まり返っている。
(好きにはさせない、か……)
父の言葉が重くのしかかる。だが、もう後戻りはできない。あの晩餐会で、ライアス殿下の言葉を聞いた瞬間から、フィオナの中で何かが決定的に変わってしまったのだ。
彼女は小さな書き物机に向かうと、震える手でペンを取った。宛名は、ルーカス・フォン・メルヒェン。幼い頃から何かと気にかけてくれる、数少ない理解者。彼ならば、こんな突拍子もない私の話も、頭ごなしに否定したりはしないだろう。そう信じたかった。
『ルーカス様へ
突然のお手紙、失礼いたします。
実は、あなたにご相談したいことが……』
手紙を書き終えると、次は自分の持参金のリストを広げた。政略結婚のために用意されたそれは、今のフィオナにとっては、新たな人生を始めるための唯一の軍資金だ。だが、公爵家の管理下にあるそれを、どうやって自分の手に?
ふと、部屋の隅に置かれた小さな木箱が目に入った。それは、前世の知識を頼りに、マルセル――ヴィルヘルム家に仕える忠実な執事――に内緒で少しずつ運用し、貯めていたなけなしの資金だった。マルセルは元商人の息子で、数字に明るく、フィオナのささやかな「へそくり」の存在にも薄々気づいていたかもしれないが、何も言わずに見守ってくれていた。
(これだけでは、店の権利金にもならないかもしれないけれど……)
それでも、何もないよりはましだ。フィオナは木箱をそっと開け、中に入っていた数枚の金貨と銀貨を掌に握りしめた。ひんやりとした金属の感触が、妙に心強い。
それはまるで、一握りの小麦粉のようだった。
それだけではパンは焼けない。けれど、水と、酵母と、そして何よりも作り手の情熱があれば、きっと温かくて美味しいパンになるはずだ。
(大丈夫。私には、まだやれることがある)
笑顔を作るのは相変わらず苦手だ。でも、心の中には、焼きたてのパンの香りのような、小さな、けれど確かな希望が灯っていた。
まずは、ルーカスからの返事を待とう。そして、マルセルにもそれとなく協力を仰げないだろうか。
窓の外の月は、いつの間にか雲に隠れていた。だが、フィオナの心の中の灯火は、消えそうにない。
「悪役」と呼ばれた令嬢の、人生やり直しの第一歩は、こうして静かに、しかし確かに踏み出されたのだった。
シャンデリアの光はなく、窓の外を流れるのは煤けた王都の夜景だけ。父であるヴィルヘルム公爵は、彫像のように押し黙ったまま、一度もフィオナに視線を向けようとはしなかった。その硬直した横顔が、何よりも雄弁に彼の怒りと失望を物語っている。母は、小さな刺繍のハンカチで何度も目元を押さえているが、その嗚咽はフィオナを責めているようにも聞こえた。
(……当然だわ)
フィオナは自嘲気味に唇の端を歪める。ヴィルヘルム公爵家は、王国でも指折りの名門。その長女である自分が、王太子妃となるはずだった自分が、このような形で婚約を破棄され、社交界の物笑いの種となったのだ。家の名誉にどれほどの泥を塗ったことか。
屋敷に到着し、重々しい扉が開かれると、出迎えた使用人たちの視線が痛いほど突き刺さる。好奇、憐憫、そして微かな軽蔑。彼らの囁き声が、広いエントランスホールに不気味に反響しているようだった。
「フィオナ」
自室へ向かおうとしたフィオナの背に、父の低く、押し殺したような声がかかった。振り返ると、父は書斎の扉を指し示している。母は心配そうにフィオナを見たが、父の厳格な視線に何も言えずに俯いた。
書斎の空気は、馬車の中よりもさらに冷え切っていた。暖炉には火が入れられておらず、壁一面の本棚が威圧するように迫ってくる。
「……お前は、我がヴィルヘルム家の名を地に堕とした」
絞り出すような父の言葉。その声には、怒りよりも深い疲労の色が滲んでいた。
「申し訳…ございません」
フィオナは頭を下げる。他に、どんな言葉が見つかるというのだろう。
「しばらくは、屋敷の奥で謹慎していなさい。社交界への出入りは一切禁ずる。いずれ…そうだな、どこか遠方の修道院にでも入るのが、お前にとっても、家にとっても最良の道かもしれん」
修道院。それは実質的な追放宣告にも等しい。フィオナは顔を上げた。その瞳には、もはや涙はなかった。
「お父様」
その声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。いや、落ち着かせようと必死だったのかもしれない。
「私は、修道院には参りません」
「…何だと?」
父の眉が険しく吊り上がる。
「私は、この王都で、自分の力で生きていこうと決めました」
「馬鹿なことを申すな! 婚約破棄された令嬢が、どうやって生きていくというのだ。誰がお前を…」
「パン屋を、開こうと思っております」
一瞬の沈黙。父は、フィオナが何を言っているのか理解できない、という顔をしていた。
「……パン屋、だと? お前が? 正気か、フィオナ」
その声には、呆れと、ほんの少しの戸惑いが混じっていた。
「本気です。小さい頃……お母様が教えてくださった、あのパンを、もう一度……」
フィオナの脳裏には、幼い頃、母と一緒に厨房に立ち、小さな手で小麦粉をこねた記憶が蘇る。母は貴族の出ではなかったが、パン作りがとても上手だった。その時だけは、窮屈な貴族の令嬢ではなく、ただのパン好きの少女でいられた。あの温かい記憶が、今のフィオナを支える唯一の光だった。
父は深いため息をつき、重々しく首を振った。
「お前の好きにはさせん。それはヴィルヘルム家の恥の上塗りだ。いいか、フィオナ。これ以上、私を失望させるな」
その言葉は、有無を言わせぬ決定だった。
自室に戻ったフィオナは、窓辺に立ち、月明かりに照らされた庭を見下ろした。美しく整えられた庭園は、まるで彼女の心を映すかのように静まり返っている。
(好きにはさせない、か……)
父の言葉が重くのしかかる。だが、もう後戻りはできない。あの晩餐会で、ライアス殿下の言葉を聞いた瞬間から、フィオナの中で何かが決定的に変わってしまったのだ。
彼女は小さな書き物机に向かうと、震える手でペンを取った。宛名は、ルーカス・フォン・メルヒェン。幼い頃から何かと気にかけてくれる、数少ない理解者。彼ならば、こんな突拍子もない私の話も、頭ごなしに否定したりはしないだろう。そう信じたかった。
『ルーカス様へ
突然のお手紙、失礼いたします。
実は、あなたにご相談したいことが……』
手紙を書き終えると、次は自分の持参金のリストを広げた。政略結婚のために用意されたそれは、今のフィオナにとっては、新たな人生を始めるための唯一の軍資金だ。だが、公爵家の管理下にあるそれを、どうやって自分の手に?
ふと、部屋の隅に置かれた小さな木箱が目に入った。それは、前世の知識を頼りに、マルセル――ヴィルヘルム家に仕える忠実な執事――に内緒で少しずつ運用し、貯めていたなけなしの資金だった。マルセルは元商人の息子で、数字に明るく、フィオナのささやかな「へそくり」の存在にも薄々気づいていたかもしれないが、何も言わずに見守ってくれていた。
(これだけでは、店の権利金にもならないかもしれないけれど……)
それでも、何もないよりはましだ。フィオナは木箱をそっと開け、中に入っていた数枚の金貨と銀貨を掌に握りしめた。ひんやりとした金属の感触が、妙に心強い。
それはまるで、一握りの小麦粉のようだった。
それだけではパンは焼けない。けれど、水と、酵母と、そして何よりも作り手の情熱があれば、きっと温かくて美味しいパンになるはずだ。
(大丈夫。私には、まだやれることがある)
笑顔を作るのは相変わらず苦手だ。でも、心の中には、焼きたてのパンの香りのような、小さな、けれど確かな希望が灯っていた。
まずは、ルーカスからの返事を待とう。そして、マルセルにもそれとなく協力を仰げないだろうか。
窓の外の月は、いつの間にか雲に隠れていた。だが、フィオナの心の中の灯火は、消えそうにない。
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