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第四章 友との約束
◾️九月六日土曜日Ⅰ
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ななみちゃんから意味深な言葉を投げかけられて、山吹先生から心配してもらった月曜日。あのあと、山吹先生は私の母が認知症で施設にいることを知ると、渋い顔をして押し黙った。そして、なんとも言えない気まずい沈黙が流れたあと、『そうですか。それは……なんと言えばいいか』と困っている様子だった。
『お母さんに真相を聞くのが難しくても、たとえば戸籍謄本を見るのはいかがでしょうか』と現実的な提案をされた。
そうだ。戸籍謄本を見れば、私が本当に母の子なのか、養子であるのか分かる。けれど、やっぱり怖いのだ。もし本当に、お母さんが私の実の母親じゃなかったら? これまで母と信じてきたひとが、実は赤の他人だったら? 怖くて、とてもじゃないが自分で戸籍謄本を調べるという一番簡単なやり方さえ、躊躇していた。せめて、母の口から聞くことができたら——そう思うのに、認知症の母から、流産のことや私自身のことを聞き出そうとして、悲しませたり怒らせたりするのも苦しい。どうすればいいか分からない。袋小路の思考に迷い込んだまま、一週間の仕事を終えた。
その間も酒井先生からのいびりは止まらなかった。
一週間働いただけなのに、体力的な疲れとはべつに、精神的な疲れが私を襲いくる。
土曜日、私は友人の皐月と待ち合わせて映画を見た後に一緒にご飯を食べていた。
「映画、面白かったねー。この年になるとさ、単なる恋愛映画より、ああいう夫婦のもつれとかすれ違いとか、あるあるネタを盛り込んだ話のほうが共感できない? 結婚してないけどさ、もし誰かと結婚したら、自分もこんなふうに一般的な夫婦像に集約していくのかなーとか考えちゃって」
「うん……そうだね。結婚したら、こんな感じなんだろうって、私も思ったよ」
皐月が見たいと言って見に行った映画は、学生時代から恋人だった二人が十年の交際期間を経て結婚をするのだが、付き合いたての頃のように新鮮な気持ちでいられない、二人の葛藤を描いた物語だった。
「なんか浮かない顔してるね。もしかしてあれ? 慎二くんと喧嘩でもしたの?」
皐月がビールのジョッキを傾けながら問う。私は今日もお酒は飲まず、ジンジャエールで枝豆をつまんでいた。
私は、皐月に慎二と別れたことを伝えようか散々迷った挙句、素直に白状することにした。
「実は私、慎二とは先月にお別れをしたの」
「え、別れたの!? うそ! 知らなかった」
まさに、鳩が豆鉄砲を食らったように目を丸く膨らませて驚く皐月。
「なんでー? ふたり、めちゃくちゃ仲が良かったじゃん。喧嘩別れ……?」
皐月も慎二も学生時代からの仲なので、二人とも友人同士であり、皐月は私と慎二が交際に至った経緯から、どんなふうに付き合っていたかも知っている。共通の友達というやつだ。
「職場の新入社員の女の子と浮気してるのが発覚して……。向こうから別れようって」
「え、まじか。ちょっと信じらんない。慎二くんってそんなタイプだった? しかも自分が浮気しておいて、自分から別れようって何様のつもりよ」
ぷりぷりと頬を膨らませて怒りだす皐月を見ていると、なんだか自分の代わりに彼に怒ってくれているようで、胸がすっとした。
そうか……私。
ずっと慎二に、怒りたかったんだ。
一方的に浮気されて、一方的に別れを切り出されて、自分の頭の中で整理がつかないうちにどんどん話が進んでしまって。気づかないうちにすべてが終わっていて、彼を好きだった気持ちの置き場を失くして宙を彷徨っているような気分だった。
せめて、張本人に怒りをぶつけられたらいいのに——心の中ではそう思っていたのだ。
「ありがとう、皐月。なんか私、慎二に怒っちゃいけないのかもしれないって思ってたんだ」
「はあ? どういうことよ。あんたは怒っていいでしょ。だって悪いのは100%、向こうじゃん」
「だよね……そうだよね。浮気するほうが悪いよね。私は慎二のこと、今でも好きなのにね。引きずってるの。でもその反面、もうあのひとのことは忘れて、この子を守るために強くならなくちゃいけないって気もしてる」
「この子? もしかしてみよ子、妊娠してるの?」
皐月が店内に響き渡るぐらい大きな声で聞いたものだから、私は慌てて「シッ」と人差し指を立てた。
「病院には行ってないけど、おそらくね。生理も止まってるし、つわりのようなものがあって」
「そうなんだ……。おめでとうって言っていいのかな。相手は慎二なの?」
「たぶん、慎二だと思う。時期的に彼しかいないもん。他に関係を持ったひとなんていない」
「真面目なみよ子のことだからそうだよね。そっか~、そうなんだ。とりあえずおめでとう」
「……ありがとう」
お腹の子どものことを打ち明けて「おめでとう」と言ってくれるのはきっと彼女しかいない。未婚の私が子どもを産み育てていく過程に立ちはだかる壁の分厚さを考えると、誰もが「おめでとう」なんて易々と口にすることはできないだろう。
『お母さんに真相を聞くのが難しくても、たとえば戸籍謄本を見るのはいかがでしょうか』と現実的な提案をされた。
そうだ。戸籍謄本を見れば、私が本当に母の子なのか、養子であるのか分かる。けれど、やっぱり怖いのだ。もし本当に、お母さんが私の実の母親じゃなかったら? これまで母と信じてきたひとが、実は赤の他人だったら? 怖くて、とてもじゃないが自分で戸籍謄本を調べるという一番簡単なやり方さえ、躊躇していた。せめて、母の口から聞くことができたら——そう思うのに、認知症の母から、流産のことや私自身のことを聞き出そうとして、悲しませたり怒らせたりするのも苦しい。どうすればいいか分からない。袋小路の思考に迷い込んだまま、一週間の仕事を終えた。
その間も酒井先生からのいびりは止まらなかった。
一週間働いただけなのに、体力的な疲れとはべつに、精神的な疲れが私を襲いくる。
土曜日、私は友人の皐月と待ち合わせて映画を見た後に一緒にご飯を食べていた。
「映画、面白かったねー。この年になるとさ、単なる恋愛映画より、ああいう夫婦のもつれとかすれ違いとか、あるあるネタを盛り込んだ話のほうが共感できない? 結婚してないけどさ、もし誰かと結婚したら、自分もこんなふうに一般的な夫婦像に集約していくのかなーとか考えちゃって」
「うん……そうだね。結婚したら、こんな感じなんだろうって、私も思ったよ」
皐月が見たいと言って見に行った映画は、学生時代から恋人だった二人が十年の交際期間を経て結婚をするのだが、付き合いたての頃のように新鮮な気持ちでいられない、二人の葛藤を描いた物語だった。
「なんか浮かない顔してるね。もしかしてあれ? 慎二くんと喧嘩でもしたの?」
皐月がビールのジョッキを傾けながら問う。私は今日もお酒は飲まず、ジンジャエールで枝豆をつまんでいた。
私は、皐月に慎二と別れたことを伝えようか散々迷った挙句、素直に白状することにした。
「実は私、慎二とは先月にお別れをしたの」
「え、別れたの!? うそ! 知らなかった」
まさに、鳩が豆鉄砲を食らったように目を丸く膨らませて驚く皐月。
「なんでー? ふたり、めちゃくちゃ仲が良かったじゃん。喧嘩別れ……?」
皐月も慎二も学生時代からの仲なので、二人とも友人同士であり、皐月は私と慎二が交際に至った経緯から、どんなふうに付き合っていたかも知っている。共通の友達というやつだ。
「職場の新入社員の女の子と浮気してるのが発覚して……。向こうから別れようって」
「え、まじか。ちょっと信じらんない。慎二くんってそんなタイプだった? しかも自分が浮気しておいて、自分から別れようって何様のつもりよ」
ぷりぷりと頬を膨らませて怒りだす皐月を見ていると、なんだか自分の代わりに彼に怒ってくれているようで、胸がすっとした。
そうか……私。
ずっと慎二に、怒りたかったんだ。
一方的に浮気されて、一方的に別れを切り出されて、自分の頭の中で整理がつかないうちにどんどん話が進んでしまって。気づかないうちにすべてが終わっていて、彼を好きだった気持ちの置き場を失くして宙を彷徨っているような気分だった。
せめて、張本人に怒りをぶつけられたらいいのに——心の中ではそう思っていたのだ。
「ありがとう、皐月。なんか私、慎二に怒っちゃいけないのかもしれないって思ってたんだ」
「はあ? どういうことよ。あんたは怒っていいでしょ。だって悪いのは100%、向こうじゃん」
「だよね……そうだよね。浮気するほうが悪いよね。私は慎二のこと、今でも好きなのにね。引きずってるの。でもその反面、もうあのひとのことは忘れて、この子を守るために強くならなくちゃいけないって気もしてる」
「この子? もしかしてみよ子、妊娠してるの?」
皐月が店内に響き渡るぐらい大きな声で聞いたものだから、私は慌てて「シッ」と人差し指を立てた。
「病院には行ってないけど、おそらくね。生理も止まってるし、つわりのようなものがあって」
「そうなんだ……。おめでとうって言っていいのかな。相手は慎二なの?」
「たぶん、慎二だと思う。時期的に彼しかいないもん。他に関係を持ったひとなんていない」
「真面目なみよ子のことだからそうだよね。そっか~、そうなんだ。とりあえずおめでとう」
「……ありがとう」
お腹の子どものことを打ち明けて「おめでとう」と言ってくれるのはきっと彼女しかいない。未婚の私が子どもを産み育てていく過程に立ちはだかる壁の分厚さを考えると、誰もが「おめでとう」なんて易々と口にすることはできないだろう。
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