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第三章 忘れても忘れない想い
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六月も下旬に差し掛かり、毎日のように梅雨の雨がしとしとと降り続いている。
この時期、『はつ恋おわらせ屋』の前の路地を通りかかる人間は少ない。近くに屋根付きの川端商店街があるので、わざわざ屋根のない道を通ろうという人はいないのだろう。
六月二十七日土曜日。
今日も当たり前のようにお店に居座る姫華が、最近アニメ化してファンの数が急上昇している漫画、『路地裏探偵R』を読み耽っている。姫華はその漫画がアニメ化する前から熱烈なファンのようで、凪の前で、よれた表紙を何度も開いていた。
「なんかさー、アニメ化だの映画化だのって言ったら急に増えるにわかファンおるやん。古参ファンも、にわかファンに見えるのが嫌なんよ。昨日も学校でさ、男子に揶揄われたけんね。『東雲って案外ミーハーやな』って。違うって、ミーハーなのはむしろお前だろって言い返したかった」
「ミーハーねえ……」
凪は基本的に、姫華のオタク談義を聞くのが好きだった。
凪には分からない世界のことを、きらきらと目を輝かせて語ってくれる彼女の姿を見ていると、癒されるからだ。凪が実際に姫華の“推し”の漫画を読むことはないが、それでも好きなことに夢中になる姫華は純粋に可愛いと思うし、輝いて見えた。
だから、普段はどんなに興味がない話でも、きちんと姫華の話を聞いて相槌を打つのが凪のモットーだ。それなのに、今日は——というか、光一が店を訪れてから、凪は心に隙間が空いているような感覚に襲われていた。SNSでの批判を見たせいではない。原因は、光一の初恋の記憶を見たことだった。
(あの時、光一の過去の話を自分ごとのように感じてしまった。なんでだろう。私は光一のことも相手の瞳のことも知らないはずなのに)
堂々巡りの疑問が心の中で渦巻く。
凪がずっと悩んでいることを、姫華もなんとなく察している様子だった。
「てか凪さん、今日も心ここにあらず? もしかして、恋?」
予想の斜め上からとんでもない質問をぶつけてくる姫華に、凪は思わず「ないない」と右手を横に振った。
「そっかー。あやかしだもんね。あやかしが恋愛するって聞いたことないわ」
姫華はどこか納得したふうに頷く。
いや、納得ポイントはそこなのか、と凪は突っ込みたくなったが、やめておいた。
姫華がまた漫画を読むのを再開し、凪が今月の帳簿をつけている最中、不意に店の扉がコンコンとノックされた。姫華がはっと漫画から扉のほうへ視線を移す。
「お客さんかな?」
姫華の疑問の声を聞いた凪は、ゆっくりと扉のほうへと近づいた。
「いらっしゃいませ」
心ここにあらずの状態の凪でも、お客さんが来たとなればはりきって接客するしかない。無理やりつくった笑顔を浮かべて扉を開いた。
「こんにちは。町内会のもんですけど」
現れたのは、五十代ぐらいのいかつい顔をしたおじさん二人だった。ぱっと見で自然と身体が萎縮してしまう。着物姿で赤目の凪は、男臭い二人からすれば稀有な存在なんだろう。凪の姿をじろじろと見つめ、それから店の奥に座っている姫華のことも一瞥した。
「町内会……?」
あまり口にすることのない言葉が頭を素通りする。『はつ恋おわらせ屋』の路地に立ち並ぶ店は基本的に一つの町内会に入っているのだが、凪は入会の連絡をしてから、ほとんど関わりを持たなかった。会費の支払いは定期的にしているものの、地域の美化活動や防災活動など、積極的に参加してこなかった。
だから正直、凪にとってはほとんど馴染みのない団体である。
「はい。白石さんですよね。私は会長の牧原。こっちは副会長の原本。突然押しかけてすみませんね」
「すみません」と言いつつも「いえ」としか答えようがないぐらい、会長と副会長の二人から醸し出されるオーラには圧のようなものを感じられた。
「あの、会長さんと副会長さん、何の用? 会費ならちゃんと毎月払っとるよね?」
凪はいつどんな人に対しても敬語は使わない。後ろで会話を聞いていた姫華は内心ひやひやしていたが、男性二人が凪の口調について咎めるようなことはなかった。
「会費のことじゃないんですよー。町内会からご相談……というか、お願いがあって来ました」
「はあ、お願いってなんの?」
「実はですね……大変言いにくいのですが、白石さんところの店をしばらくお休みしていただけないかというお願いです」
「休む?」
先に反応したのは姫華だった。不穏なワードに、居ても立ってもいられなくなった姫華は椅子から立ち上がり、凪の隣に立つ。
「休むってどういうことですか?」
咄嗟に返事ができない凪に代わり、姫華が食い気味に町内会の二人に訊く。
「しばらく営業を休止してほしい、ということですわ」
遠回しな表現をしたら伝わらないと思ったのか、会長がはっきりと凪たちに要望を伝えた。愕然とする姫華。凪はパチパチと瞬きを繰り返し、どういうことなのか、理解しようと努める。が、言葉通りに受け取る以外、他の解釈をする余地は残っていなかった。
六月も下旬に差し掛かり、毎日のように梅雨の雨がしとしとと降り続いている。
この時期、『はつ恋おわらせ屋』の前の路地を通りかかる人間は少ない。近くに屋根付きの川端商店街があるので、わざわざ屋根のない道を通ろうという人はいないのだろう。
六月二十七日土曜日。
今日も当たり前のようにお店に居座る姫華が、最近アニメ化してファンの数が急上昇している漫画、『路地裏探偵R』を読み耽っている。姫華はその漫画がアニメ化する前から熱烈なファンのようで、凪の前で、よれた表紙を何度も開いていた。
「なんかさー、アニメ化だの映画化だのって言ったら急に増えるにわかファンおるやん。古参ファンも、にわかファンに見えるのが嫌なんよ。昨日も学校でさ、男子に揶揄われたけんね。『東雲って案外ミーハーやな』って。違うって、ミーハーなのはむしろお前だろって言い返したかった」
「ミーハーねえ……」
凪は基本的に、姫華のオタク談義を聞くのが好きだった。
凪には分からない世界のことを、きらきらと目を輝かせて語ってくれる彼女の姿を見ていると、癒されるからだ。凪が実際に姫華の“推し”の漫画を読むことはないが、それでも好きなことに夢中になる姫華は純粋に可愛いと思うし、輝いて見えた。
だから、普段はどんなに興味がない話でも、きちんと姫華の話を聞いて相槌を打つのが凪のモットーだ。それなのに、今日は——というか、光一が店を訪れてから、凪は心に隙間が空いているような感覚に襲われていた。SNSでの批判を見たせいではない。原因は、光一の初恋の記憶を見たことだった。
(あの時、光一の過去の話を自分ごとのように感じてしまった。なんでだろう。私は光一のことも相手の瞳のことも知らないはずなのに)
堂々巡りの疑問が心の中で渦巻く。
凪がずっと悩んでいることを、姫華もなんとなく察している様子だった。
「てか凪さん、今日も心ここにあらず? もしかして、恋?」
予想の斜め上からとんでもない質問をぶつけてくる姫華に、凪は思わず「ないない」と右手を横に振った。
「そっかー。あやかしだもんね。あやかしが恋愛するって聞いたことないわ」
姫華はどこか納得したふうに頷く。
いや、納得ポイントはそこなのか、と凪は突っ込みたくなったが、やめておいた。
姫華がまた漫画を読むのを再開し、凪が今月の帳簿をつけている最中、不意に店の扉がコンコンとノックされた。姫華がはっと漫画から扉のほうへ視線を移す。
「お客さんかな?」
姫華の疑問の声を聞いた凪は、ゆっくりと扉のほうへと近づいた。
「いらっしゃいませ」
心ここにあらずの状態の凪でも、お客さんが来たとなればはりきって接客するしかない。無理やりつくった笑顔を浮かべて扉を開いた。
「こんにちは。町内会のもんですけど」
現れたのは、五十代ぐらいのいかつい顔をしたおじさん二人だった。ぱっと見で自然と身体が萎縮してしまう。着物姿で赤目の凪は、男臭い二人からすれば稀有な存在なんだろう。凪の姿をじろじろと見つめ、それから店の奥に座っている姫華のことも一瞥した。
「町内会……?」
あまり口にすることのない言葉が頭を素通りする。『はつ恋おわらせ屋』の路地に立ち並ぶ店は基本的に一つの町内会に入っているのだが、凪は入会の連絡をしてから、ほとんど関わりを持たなかった。会費の支払いは定期的にしているものの、地域の美化活動や防災活動など、積極的に参加してこなかった。
だから正直、凪にとってはほとんど馴染みのない団体である。
「はい。白石さんですよね。私は会長の牧原。こっちは副会長の原本。突然押しかけてすみませんね」
「すみません」と言いつつも「いえ」としか答えようがないぐらい、会長と副会長の二人から醸し出されるオーラには圧のようなものを感じられた。
「あの、会長さんと副会長さん、何の用? 会費ならちゃんと毎月払っとるよね?」
凪はいつどんな人に対しても敬語は使わない。後ろで会話を聞いていた姫華は内心ひやひやしていたが、男性二人が凪の口調について咎めるようなことはなかった。
「会費のことじゃないんですよー。町内会からご相談……というか、お願いがあって来ました」
「はあ、お願いってなんの?」
「実はですね……大変言いにくいのですが、白石さんところの店をしばらくお休みしていただけないかというお願いです」
「休む?」
先に反応したのは姫華だった。不穏なワードに、居ても立ってもいられなくなった姫華は椅子から立ち上がり、凪の隣に立つ。
「休むってどういうことですか?」
咄嗟に返事ができない凪に代わり、姫華が食い気味に町内会の二人に訊く。
「しばらく営業を休止してほしい、ということですわ」
遠回しな表現をしたら伝わらないと思ったのか、会長がはっきりと凪たちに要望を伝えた。愕然とする姫華。凪はパチパチと瞬きを繰り返し、どういうことなのか、理解しようと努める。が、言葉通りに受け取る以外、他の解釈をする余地は残っていなかった。
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