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第三章 忘れても忘れない想い
3-1
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「健さん……健さんっ」
病床に響き渡る橙子の悲痛な声が、その場にいた医師や看護師の耳をつんざくように響いた。
ベッドに横たわる若き橙子の夫——健三がゴホゴホゴホッ、と一際激しい咳をする。医者と看護師がバタバタと動き回り、橙子に「どいてくださいっ!」と叫ぶ。看護師の腕が身体に当たり、橙子はその場に薙ぎ倒されるようにしてしゃがみ込んだ。
「先生、早く!」
看護師が医者をまくし立てるように叫ぶ。医者も医者で激しく咳き込む健三に処置を施そうと一心不乱に駆け回る。が、努力虚しく、健三はごぼごぼと血を吐くと、そのまま意識が混濁するようにすっと目を瞑った。
「健さんっ!!」
橙子が健三の名前を呼ぶが、健三の腕はぴくりとも動かない。結核——健三の身体はあまりに普遍的なその病魔に冒されて、命の灯火が今まさに消えてしまった。発見が遅かったことで入院が遅れ、適切な治療を受けることができなかったのだ。
「嘘……嘘よ……」
目の前で愛する人が亡くなり、橙子の心は絶望で真っ黒に染まっていく。
「午前六時二十五分、ご臨終です」
「健さん……そんな、嘘……」
悲しいぐらい無機質で残酷な判定に、橙子の頭の中は真っ白になった。
誰がなんと言おうと、一緒に幸せになろうと誓ってくれたのに。
二十二歳の頃に駆け落ち同然で結婚をして、まだ四年しか経っていない。
十分新婚と呼べる期間に、一体どうしてこんな残酷なことが起こってしまったのだろうか。
「ううっ……」
大声を上げて泣きたかった。泣ければ良かった。
だが、橙子にはそれができなかった。
受け入れられない現実を前にして、絶望と混沌が心を支配する。この時、人生で一番ショッキングな出来事に、橙子の胸には間違いなく、悲しみの波が押し寄せていた。
「健さん……」
橙子自身、結核に感染していたこともあり、入院してからなかなか健三に近寄ることができなかった。それでも、できるかぎり健三のそばで、一瞬一秒を共に過ごしてきた。
健三が「俺が守っちゃる」と言うたびに、胸が打ち震えるほど嬉しくて、何度も頬擦りした過去を思い出す。何もできない小娘に愛を与え、この先の愛を誓ってくれたのもまだ記憶に新しい。ずっと、健三と歳を重ねていくのだと思っていた。最後はどちらかが先に天国へと旅立つことはもちろん心得ていたが、まさかこんなにも早く、その日が訪れるなんて、結婚した当初は予想もしなかった。
まだほんのりと温かい健三の手を握りしめながら、橙子は思った。
きっと、この先自分は一生他の誰かを愛することはできないだろう。
健三への行き場のない恋情が、自分の胸の中にとどまり続けるだろう。
誰にも触れてほしくないし、自分から触れようとも思わない。
自分は死ぬまで一生、彼のことを背負って生きていくのだ——と。
若き日の橙子の予想通り、橙子はその後、何年、何十年経っても恋をすることはなかった。橙子に言い寄ってくる男はもちろんいた。が、すべて断った。どんなに高価なプレゼントをされても、少しも心が揺れることはなかった。胸の手前で、他人からの好意を無意識に弾いていた。
やがて、そんな橙子の頑なな態度に、誰も橙子を欲しようとしなくなった。
それでいいのだ。
私は健さんのことだけを想って、健さんのことを忘れずに生きていくのだから——。
そう胸に誓い、橙子は何十年も、独り身を貫いてきた。
だが、橙子の記憶がだんだん曖昧になってきたのはここ数年のことだ。最初はほんのちょっとした物忘れ程度だった。それが、昨日食べた食事を思い出せなくなったり、今食事をとったことも忘れてしまったりと、だんだんと程度を増しているような気がしている。
その中でも一番記憶がぼやけてしまっているのは、他でもない健三のことだった。
橙子は健三のことを忘れていた。
かつて、誰かを一心不乱に愛し、死ぬまでその愛を貫こうと思って生きてきた。
しかし、健三を失ったことへの心の傷が長年癒えることなく橙子の心を蝕み、年を取るにつれて、彼のことがどんどん記憶から失われていった。一種の防衛機能かもしれない。橙子の心がこれ以上壊れないように、脳が健三のことを忘れるように指令しているようだった。
そして今。
橙子は、愛する人を探して毎日のように彷徨っている。
忘れてしまったけれど、橙子の胸の中には確かに健三の温もりが残っていて、橙子の心が、健三を求めて止まないのであった。
病床に響き渡る橙子の悲痛な声が、その場にいた医師や看護師の耳をつんざくように響いた。
ベッドに横たわる若き橙子の夫——健三がゴホゴホゴホッ、と一際激しい咳をする。医者と看護師がバタバタと動き回り、橙子に「どいてくださいっ!」と叫ぶ。看護師の腕が身体に当たり、橙子はその場に薙ぎ倒されるようにしてしゃがみ込んだ。
「先生、早く!」
看護師が医者をまくし立てるように叫ぶ。医者も医者で激しく咳き込む健三に処置を施そうと一心不乱に駆け回る。が、努力虚しく、健三はごぼごぼと血を吐くと、そのまま意識が混濁するようにすっと目を瞑った。
「健さんっ!!」
橙子が健三の名前を呼ぶが、健三の腕はぴくりとも動かない。結核——健三の身体はあまりに普遍的なその病魔に冒されて、命の灯火が今まさに消えてしまった。発見が遅かったことで入院が遅れ、適切な治療を受けることができなかったのだ。
「嘘……嘘よ……」
目の前で愛する人が亡くなり、橙子の心は絶望で真っ黒に染まっていく。
「午前六時二十五分、ご臨終です」
「健さん……そんな、嘘……」
悲しいぐらい無機質で残酷な判定に、橙子の頭の中は真っ白になった。
誰がなんと言おうと、一緒に幸せになろうと誓ってくれたのに。
二十二歳の頃に駆け落ち同然で結婚をして、まだ四年しか経っていない。
十分新婚と呼べる期間に、一体どうしてこんな残酷なことが起こってしまったのだろうか。
「ううっ……」
大声を上げて泣きたかった。泣ければ良かった。
だが、橙子にはそれができなかった。
受け入れられない現実を前にして、絶望と混沌が心を支配する。この時、人生で一番ショッキングな出来事に、橙子の胸には間違いなく、悲しみの波が押し寄せていた。
「健さん……」
橙子自身、結核に感染していたこともあり、入院してからなかなか健三に近寄ることができなかった。それでも、できるかぎり健三のそばで、一瞬一秒を共に過ごしてきた。
健三が「俺が守っちゃる」と言うたびに、胸が打ち震えるほど嬉しくて、何度も頬擦りした過去を思い出す。何もできない小娘に愛を与え、この先の愛を誓ってくれたのもまだ記憶に新しい。ずっと、健三と歳を重ねていくのだと思っていた。最後はどちらかが先に天国へと旅立つことはもちろん心得ていたが、まさかこんなにも早く、その日が訪れるなんて、結婚した当初は予想もしなかった。
まだほんのりと温かい健三の手を握りしめながら、橙子は思った。
きっと、この先自分は一生他の誰かを愛することはできないだろう。
健三への行き場のない恋情が、自分の胸の中にとどまり続けるだろう。
誰にも触れてほしくないし、自分から触れようとも思わない。
自分は死ぬまで一生、彼のことを背負って生きていくのだ——と。
若き日の橙子の予想通り、橙子はその後、何年、何十年経っても恋をすることはなかった。橙子に言い寄ってくる男はもちろんいた。が、すべて断った。どんなに高価なプレゼントをされても、少しも心が揺れることはなかった。胸の手前で、他人からの好意を無意識に弾いていた。
やがて、そんな橙子の頑なな態度に、誰も橙子を欲しようとしなくなった。
それでいいのだ。
私は健さんのことだけを想って、健さんのことを忘れずに生きていくのだから——。
そう胸に誓い、橙子は何十年も、独り身を貫いてきた。
だが、橙子の記憶がだんだん曖昧になってきたのはここ数年のことだ。最初はほんのちょっとした物忘れ程度だった。それが、昨日食べた食事を思い出せなくなったり、今食事をとったことも忘れてしまったりと、だんだんと程度を増しているような気がしている。
その中でも一番記憶がぼやけてしまっているのは、他でもない健三のことだった。
橙子は健三のことを忘れていた。
かつて、誰かを一心不乱に愛し、死ぬまでその愛を貫こうと思って生きてきた。
しかし、健三を失ったことへの心の傷が長年癒えることなく橙子の心を蝕み、年を取るにつれて、彼のことがどんどん記憶から失われていった。一種の防衛機能かもしれない。橙子の心がこれ以上壊れないように、脳が健三のことを忘れるように指令しているようだった。
そして今。
橙子は、愛する人を探して毎日のように彷徨っている。
忘れてしまったけれど、橙子の胸の中には確かに健三の温もりが残っていて、橙子の心が、健三を求めて止まないのであった。
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