演じるのはもうやめます

たくわん

文字の大きさ
1 / 15

1

しおりを挟む
アリシア・ヴァンフリート令嬢の十七歳の誕生日、社交界で最も華やかな舞踏会の一つが開かれていた。ヴァンフリート公爵家の大広間は数百本の蝋燭に照らされ、貴族たちの絹のドレスと宝石が煌めいていた。楽団の優雅な旋律が響き渡る中、アリシアは完璧な微笑みを浮かべて客人たちに挨拶をしていた。

淡いラベンダー色のドレスに身を包んだ彼女は、まるで絵画から抜け出したような美しさだった。しかしその美しさは、どこか人形のような冷たさを帯びていた。一つ一つの仕草が計算され、一言一言が慎重に選ばれている。それは七年間、彼女が完璧に演じ続けてきた「淑女」の姿だった。

「アリシア様、本日は誠におめでとうございます」
「ありがとうございます、伯爵夫人。お越しいただき光栄です」

アリシアの声は柔らかく、表情は穏やかだった。しかしその目には、どこか遠い場所を見つめるような虚ろさがあった。それに気づく者は誰もいなかった。いや、一人だけいた。公爵家の執事セバスチャンである。彼は長年アリシアに仕えており、幼い頃の彼女を知っていた。

舞踏会が最高潮に達した頃、アリシアの婚約者であるヴィクター・エドワード侯爵家の跡息子が彼女に近づいてきた。背が高く端正な顔立ちの青年だったが、その表情には妙な硬さがあった。

「アリシア、少し話がある。庭園に来てくれないか」
「もちろんですわ、ヴィクター様」

アリシアは何も疑わず、ヴィクターに従って人目につかない庭園へと向かった。夜の冷たい空気が肌を刺す。薔薇の香りが漂う庭園は、昼間は美しいが、夜は少し寂しげだった。

月明かりの下、ヴィクターは重々しい口調で切り出した。

「アリシア、俺たちの婚約を解消したい」

アリシアの心臓が一瞬止まった。しかし彼女の表情は完璧なまま、微笑みさえ崩れなかった。それこそが、七年間訓練してきた「完璧な淑女」の証だった。

「…理由を、お聞かせいただけますか?」

ヴィクターは視線を逸らしながら答えた。

「君は完璧すぎるんだ。何をしても完璧で、隙がなくて、一緒にいても面白くない。俺が求めているのは、もっと…刺激のある相手なんだ」
「刺激、ですか」
「マリアンヌ・ロートリンゲン伯爵令嬢を知っているだろう。彼女は君とは違う。感情豊かで、天真爛漫で、一緒にいると飽きないんだ」

アリシアの胸に、何か熱いものが込み上げてきた。それは悲しみでも怒りでもなく、もっと複雑な感情だった。七年間、彼のために自分を殺し続けてきた。彼が好むと聞いた「おしとやかで控えめな淑女」を演じ続けてきた。そして今、その完璧さゆえに捨てられるのだ。

「分かりました。婚約解消に同意いたします」

ヴィクターは驚いたように彼女を見た。おそらく泣いたり、すがったりすることを予想していたのだろう。しかしアリシアは最後まで完璧な淑女だった。

「本当にいいのか?君は…」
「ええ。あなたのお幸せを心よりお祈りしております」

アリシアは優雅に一礼すると、踵を返して屋敷へと戻った。その背中は微塵も揺らいでいなかった。ヴィクターは複雑な表情でその姿を見送った。

舞踏会は夜遅くまで続いた。アリシアは最後まで完璧な笑顔でホスト役を務め上げた。誰も彼女の内面の嵐に気づくことはなかった。

すべての客人が帰り、使用人たちが後片付けを終えた深夜、アリシアはようやく自室に戻った。ドアを閉め、鍵をかける。そして初めて、彼女の仮面が崩れた。

鏡の前に立ち、自分の姿を見つめる。完璧に整えられた髪、上品な化粧、優雅なドレス。それは彼女が七年間演じ続けてきた「他人」だった。

「これが…私?」

アリシアは鏡に映る自分に問いかけた。答えは返ってこない。ただ、胸の奥底から何かが沸き上がってくる。それは長い間押し殺してきた、本当の自分の叫びだった。

突然、アリシアは宝石で飾られたヘアピンを引き抜いた。長い髪が肩に流れ落ちる。次に、ドレスの紐を解く。窮屈なコルセットから解放され、ようやく深く息ができた。

部屋の窓を大きく開け放つ。夜風が部屋に吹き込み、カーテンを揺らした。アリシアは窓辺に立ち、思い切り深呼吸をした。そして、七年ぶりに本当の声で叫んだ。

「もう、うんざりよ!」

その声は夜空に消えていった。誰も聞いていない。でも、それでよかった。これは彼女自身のための叫びだったのだから。

アリシアはベッドに倒れ込むと、天井を見つめながら独り言ちた。

「ヴィクター様、あなたは私が完璧すぎてつまらないと言った。でも知ってる?その完璧は、全部あなたのために作り上げたものなのよ」

涙が頬を伝う。しかしそれは悲しみの涙ではなかった。むしろ、長い眠りから覚めたような、解放の涙だった。

「もう二度と、誰かのために自分を偽ったりしない。これからは、本当の私として生きるわ」

その夜、アリシアは決意を固めた。完璧な淑女の仮面を捨て、本来の自分を取り戻すことを。

翌朝、メイドのエリザベスが部屋に入ってきたとき、彼女は目を疑った。いつもなら早朝から起き、身支度を整えているはずのアリシア嬢が、窓を全開にしたまま、ベッドの上で大の字になって寝ていたのだ。しかも、髪は乱れ、ドレスは脱ぎ散らかされ、まるで嵐が過ぎ去った後のような有様だった。

「お、お嬢様!大丈夫ですか?」

エリザベスの声に、アリシアはゆっくりと目を開けた。そして、メイドが見たこともないような豪快なあくびをした。

「おはよう、エリザベス。いい朝ね」
「お、お嬢様…?」

エリザベスは困惑していた。目の前にいるのは確かにアリシア嬢だが、その雰囲気がまったく違うのだ。いつもの上品で控えめな令嬢ではなく、まるで…子供の頃の、元気いっぱいだった頃のお嬢様のようだった。

アリシアはベッドから飛び降りると、大きく伸びをした。

「ねえエリザベス、今日の予定は?」
「え、ええと…午前中は刺繍のレッスン、午後はピアノの…」
「全部キャンセルして。今日は私、やりたいことがあるの」
「やりたいこと、ですか?」

アリシアは窓の外、厩舎の方を見つめながら答えた。

「ええ。まず、七年ぶりに馬に乗りたいわ。それから、図書室にある商業の本を全部読む。あと、料理長と一緒にお菓子を作りたい。ああ、そうだ。庭師のトムさんにも会いに行かなくちゃ。バラの新しい品種について聞きたいことがあるの」

エリザベスは呆然としていた。これらはすべて、ヴィクター様が「淑女らしくない」として、アリシア様に禁じていた活動だった。

「で、でも、お嬢様。ヴィクター様が…」
「ヴィクター様はもう関係ないわ。昨夜、婚約は解消されたの」

エリザベスは息を呑んだ。しかしアリシアの表情には、悲しみのかけらもなかった。むしろ、まぶしいほどの笑顔が浮かんでいた。

「エリザベス、私ね、やっと気づいたの。七年間、私は生きてなかった。ただ、誰かの理想の人形として存在していただけだった。でももう違う。これからは本当の私として、本当に生きるの」

その言葉を聞いて、エリザベスの目にも涙が浮かんだ。彼女も、幼い頃のアリシア様を知っていた。馬を駆り、木に登り、好奇心旺盛で笑顔が絶えなかった少女を。その姿が、今、目の前に戻ってきたのだ。

「お嬢様…お帰りなさいませ」

アリシアは驚いてエリザベスを見た。そして、二人は抱き合って泣いた。それは悲しみの涙ではなく、再会の喜びの涙だった。

朝食の席で、アリシアの父である公爵は、娘の変化に気づいた。いつもなら背筋を伸ばし、小さな一口ずつ優雅に食事をする娘が、今朝は豪快にパンにかぶりつき、ジャムをたっぷりと塗っている。

「アリシア、お前…」
「おはようございます、お父様。このジャム、本当においしいですね!料理長に作り方を教わりたいわ」

公爵は娘の顔をじっと見つめた。そこには、長い間失われていた輝きがあった。執事のセバスチャンが公爵に近づき、小声で報告する。

「昨夜、ヴィクター様との婚約が解消されたとのことです」

公爵は一瞬険しい表情になったが、娘の笑顔を見て、ゆっくりと頷いた。

「そうか。アリシア、お前は今、幸せか?」

アリシアは父を見つめ、心からの笑顔で答えた。

「ええ、お父様。今が人生で一番幸せかもしれません」

公爵の目が潤んだ。彼は娘が七年間、自分を押し殺していたことを知っていた。そしてそれを止められなかった自分を責めていた。

「そうか。それならば、それでいい。お前がお前らしく生きられるなら、父はそれ以上望むものはない」
「ありがとうございます、お父様」

朝食後、アリシアは厩舎へ向かった。そこには、彼女の愛馬であるアリエスが待っていた。七年間、ほとんど乗られることのなかった栗毛の馬は、アリシアの姿を見ると嬉しそうにいななった。

「アリエス、久しぶりね。ごめんね、ずっと放っておいて」

アリシアは馬の首を撫でた。アリエスは彼女の手に鼻先をこすりつける。

馬丁のジョンが驚いて近づいてきた。

「お嬢様、お一人で?」
「ええ、ジョン。今から走りに行くわ。久しぶりに、全力で」
「で、でも、護衛は…」

アリシアは悪戯っぽく笑った。

「大丈夫。私、昔は誰よりも馬が上手だったのよ。覚えてる?」

ジョンは苦笑した。確かに、幼い頃のアリシア様は、成人男性の騎手顔負けの腕前だった。

アリシアは側鞍ではなく、男性用の鞍に跨った。スカートが邪魔だったが、気にしなかった。そして、合図とともにアリエスが駆け出す。

風が顔を撫でる。髪が乱れる。心臓が高鳴る。これだ。これが生きているという感覚だ。アリシアは声を上げて笑った。その笑い声は、森に響き渡った。

屋敷に戻ったアリシアは、汗だくで土埃にまみれていた。使用人たちは驚愕したが、誰も何も言わなかった。なぜなら、お嬢様の表情があまりにも幸せそうだったから。

その日の午後、アリシアは図書室にこもった。そこには、彼女が長年読みたかった本が並んでいた。商業の本、冒険記、異国の文化についての書物。ヴィクターが「淑女にふさわしくない」として禁じていたものばかりだった。

一冊の本を手に取る。『新興商人の成功術』。ページをめくると、そこには母の筆跡でメモが書き込まれていた。アリシアは驚いて目を見開いた。

母は十年前に亡くなった。アリシアが七歳の時だった。優しく、上品で、完璧な公爵夫人だと思っていた。しかし、この本に残された母の筆跡は、商業に深い関心を持つ女性のものだった。

「お母様も…本当は」

アリシアの目に涙が浮かんだ。母も、自分と同じように、何かを押し殺して生きていたのかもしれない。

その時、図書室のドアが開き、セバスチャンが入ってきた。

「お嬢様、一つお渡ししたいものがございます」

セバスチャンが差し出したのは、古い革装の日記帳だった。

「これは?」
「奥様が亡くなられる直前、私に預けられたものです。『いつかアリシアが、本当の自分を取り戻そうとする日が来たら渡してほしい』と」

アリシアは震える手で日記を受け取った。最初のページを開くと、母の優しい文字が並んでいた。

『愛するアリシアへ。もしあなたがこの日記を読んでいるなら、あなたは自分の人生を取り戻そうとしているのでしょう。お母様は、それをとても嬉しく思います』

アリシアは日記を胸に抱き、窓の外を見つめた。新しい人生が、今、始まろうとしていた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

冷遇妃マリアベルの監視報告書

Mag_Mel
ファンタジー
シルフィード王国に敗戦国ソラリから献上されたのは、"太陽の姫"と讃えられた妹ではなく、悪女と噂される姉、マリアベル。 第一王子の四番目の妃として迎えられた彼女は、王宮の片隅に追いやられ、嘲笑と陰湿な仕打ちに晒され続けていた。 そんな折、「王家の影」は第三王子セドリックよりマリアベルの監視業務を命じられる。年若い影が記す報告書には、ただ静かに耐え続け、死を待つかのように振舞うひとりの女の姿があった。 王位継承争いと策謀が渦巻く王宮で、冷遇妃の運命は思わぬ方向へと狂い始める――。 (小説家になろう様にも投稿しています)

【完結】さよなら私の初恋

山葵
恋愛
私の婚約者が妹に見せる笑顔は私に向けられる事はない。 初恋の貴方が妹を望むなら、私は貴方の幸せを願って身を引きましょう。 さようなら私の初恋。

病弱な幼馴染を守る彼との婚約を解消、十年の恋を捨てて結婚します

佐藤 美奈
恋愛
セフィーナ・グラディウスという貴族の娘が、婚約者であるアルディン・オルステリア伯爵令息との関係に苦悩し、彼の優しさが他の女性に向けられることに心を痛める。 セフィーナは、アルディンが幼馴染のリーシャ・ランスロット男爵令嬢に特別な優しさを注ぐ姿を見て、自らの立場に苦しみながらも、理想的な婚約者を演じ続ける日々を送っていた。 婚約して十年間、心の中で自分を演じ続けてきたが、それももう耐えられなくなっていた。

聞き分けよくしていたら婚約者が妹にばかり構うので、困らせてみることにした

今川幸乃
恋愛
カレン・ブライスとクライン・ガスターはどちらも公爵家の生まれで政略結婚のために婚約したが、お互い愛し合っていた……はずだった。 二人は貴族が通う学園の同級生で、クラスメイトたちにもその仲の良さは知られていた。 しかし、昨年クラインの妹、レイラが貴族が学園に入学してから状況が変わった。 元々人のいいところがあるクラインは、甘えがちな妹にばかり構う。 そのたびにカレンは聞き分けよく我慢せざるをえなかった。 が、ある日クラインがレイラのためにデートをすっぽかしてからカレンは決心する。 このまま聞き分けのいい婚約者をしていたところで状況は悪くなるだけだ、と。 ※ざまぁというよりは改心系です。 ※4/5【レイラ視点】【リーアム視点】の間に、入れ忘れていた【女友達視点】の話を追加しました。申し訳ありません。

私のことを愛していなかった貴方へ

矢野りと
恋愛
婚約者の心には愛する女性がいた。 でも貴族の婚姻とは家と家を繋ぐのが目的だからそれも仕方がないことだと承知して婚姻を結んだ。私だって彼を愛して婚姻を結んだ訳ではないのだから。 でも穏やかな結婚生活が私と彼の間に愛を芽生えさせ、いつしか永遠の愛を誓うようになる。 だがそんな幸せな生活は突然終わりを告げてしまう。 夫のかつての想い人が現れてから私は彼の本心を知ってしまい…。 *設定はゆるいです。

10年前に戻れたら…

かのん
恋愛
10年前にあなたから大切な人を奪った

元平民の義妹は私の婚約者を狙っている

カレイ
恋愛
 伯爵令嬢エミーヌは父親の再婚によって義母とその娘、つまり義妹であるヴィヴィと暮らすこととなった。  最初のうちは仲良く暮らしていたはずなのに、気づけばエミーヌの居場所はなくなっていた。その理由は単純。 「エミーヌお嬢様は平民がお嫌い」だから。  そんな噂が広まったのは、おそらく義母が陰で「あの子が私を母親だと認めてくれないの!やっぱり平民の私じゃ……」とか、義妹が「時々エミーヌに睨まれてる気がするの。私は仲良くしたいのに……」とか言っているからだろう。  そして学園に入学すると義妹はエミーヌの婚約者ロバートへと近づいていくのだった……。

どうぞ、おかまいなく

こだま。
恋愛
婚約者が他の女性と付き合っていたのを目撃してしまった。 婚約者が好きだった主人公の話。

処理中です...