演じるのはもうやめます

たくわん

文字の大きさ
2 / 15

2

しおりを挟む
婚約破棄の噂は、一夜にして社交界中に広まった。午前中には、ヴァンフリート公爵家の門前に複数の新聞記者が詰めかけ、午後には貴族たちの社交サロンでこの話題で持ちきりとなった。

「完璧なアリシア様が捨てられたなんて」
「やはり完璧すぎると、男性は退屈に感じるのかしら」
「マリアンヌ嬢のような天真爛漫な娘の方が、若い男性には魅力的なのでしょうね」

人々の反応はさまざまだった。同情する声もあれば、密かに喜ぶ声もあった。完璧なアリシアに嫉妬していた令嬢たちも少なくなかったのだ。

しかし当の本人は、そんな噂などまるで気にしていなかった。アリシアは母の日記を読み耽っていた。

『私も若い頃は、アリシアのように活発で好奇心旺盛な娘でした。しかし結婚後、公爵夫人として求められる姿を演じるうちに、本当の自分を見失っていきました』

母の言葉が、ページを追うごとに胸に突き刺さる。

『でも、私には密かな楽しみがありました。商業への投資です。夫には内緒で、信頼できる商人たちと取引をし、利益を慈善事業に使っていました。それが、私が私であり続けるための、唯一の方法だったのです』

日記には、母が取引していた商人たちの名前や、投資先の詳細が記されていた。その中に、港町の貿易商「トーマス商会」の名前を見つけたアリシアは、心を決めた。

「行こう。母が信頼していた人に会いに」

翌日、アリシアは護衛のガルドを連れて港町へと向かった。公爵は心配したが、娘の決意の固さを見て、最終的には許可した。

「無理はするな。お前は私の大切な娘だ」
「ありがとう、お父様。必ず無事に帰ります」

港町は王都とはまったく違う世界だった。商人たちの威勢のいい声、荷物を運ぶ労働者たちの活気、異国の香辛料の香り。アリシアは目を輝かせながら、その光景を見つめた。

「ガルド、活気があって素敵な場所ね」
「お嬢様、あまりはしゃぎすぎませんように。ここは王都ほど治安が良くありませんので」

トーマス商会は港の近くにあった。古びた建物だが、しっかりとした造りで、中からは活気ある声が聞こえてくる。

アリシアが扉を開けると、中にいた初老の男性が驚いて立ち上がった。

「これは…まさか、アリシア様?」
「トーマスさんですか?」

男性の目に涙が浮かんだ。

「奥様にそっくりだ…本当に、そっくりだ」

トーマスは奥の応接室にアリシアを案内した。そこで彼は、母との思い出を語り始めた。

「奥様は素晴らしい方でした。商才があり、人を見る目があり、そして何より、誠実でした。私が破産寸前だった時、奥様が投資してくださったおかげで、今の商会があるのです」

アリシアは母の日記を見せた。トーマスは懐かしそうにページをめくる。

「奥様は、いつも『いつかアリシアも商売に興味を持つかもしれない』とおっしゃっていました。その日が来たのですね」
「ええ。遅すぎたかもしれないけれど、今なら母の気持ちが分かる気がします」

トーマスはアリシアに商会の帳簿を見せてくれた。最初は遠慮していたアリシアだったが、数字を追ううちに、彼女の目が鋭くなっていく。

「トーマスさん、この項目ですが、仕入れ値が高すぎませんか?」
「ほう、お気づきになりましたか」
「ええ。もし直接東方の商人と取引できれば、中間業者を通さずに済むので、コストを三割は削減できるはずです」

トーマスは驚いて目を見開いた。

「アリシア様…まさか、商業の勉強を?」
「ヴィクター様の家計を管理するために、密かに経済学を学んでいたのです。まさかこんな形で役立つとは思いませんでしたが」

アリシアは続ける。

「それに、この交易ルートですが、もし南回りではなく、北回りにすれば、時間は少しかかりますが、海賊のリスクを減らせます。保険料も安くなるはずです」

トーマスは感動で声を震わせた。

「奥様の娘であることを、今、確信しました。アリシア様、もしよろしければ、我が商会の顧問になっていただけませんか?」
「顧問?」
「ええ。あなたの知恵と、奥様から受け継いだ資金を使えば、商会をさらに大きくできます。そして利益は、奥様のように慈善事業に使うこともできる」

アリシアは少し考えてから答えた。

「条件があります」
「なんなりと」
「私は、ただの出資者ではなく、実際に経営に関わりたい。現場を見て、商人たちと話し、自分の手で商売をしたいのです」

トーマスは驚いたが、すぐに笑顔になった。

「奥様もきっと、そう望まれるでしょう。では、まずは港を案内させてください。商売の基本は、現場を知ることですから」

その日、アリシアは港で様々な商人たちと出会った。東方の絹を扱う商人、香辛料を運ぶ船乗り、宝石を売る行商人。みな個性的で、話を聞くだけで刺激的だった。

夕方、トーマスはアリシアを港の酒場に連れて行った。ガルドは不安そうだったが、アリシアは気にしなかった。

「お嬢様、こんな場所は…」
「大丈夫よ、ガルド。本当の商人の世界を知るには、こういう場所も大切なの」

酒場では商人たちが食事をしながら、商談をしていた。アリシアはその雰囲気に圧倒されながらも、興味津々で周りを見回した。

「トーマスの旦那、そちらの綺麗なお嬢さんは?」

一人の商人が声をかけてきた。トーマスが答える前に、アリシアが自ら答えた。

「アリシアと申します。トーマスさんの商会で、商売を学ばせていただいています」
「ほう、お嬢さんが商売を?珍しいな」
「ええ、でも本気です。もしよろしければ、あなたの商売についても教えていただけませんか?」

商人たちは最初は戸惑ったが、アリシアの真剣な眼差しを見て、徐々に心を開いていった。彼らは自分たちの商売の苦労や喜びを語り、アリシアは一つ一つに耳を傾けた。

その中で、ある商人が東方の新しい飲み物について話した。

「紅茶っていうんだ。東の国では、貴族も庶民も飲んでいる。香りがよくて、味も独特でね」
「紅茶…」

アリシアは興味を持った。

「どんな味なのですか?」
「ちょうど持っている。飲んでみるかい?」

商人は小さな袋から茶葉を取り出し、お湯を注いだ。数分後、美しい琥珀色の液体ができあがった。

アリシアは恐る恐る一口飲んだ。そして、目を見開いた。

「これは…素晴らしい」

繊細で複雑な味わい。上品な香り。これなら、社交界の貴族たちも喜ぶはずだ。

「トーマスさん、この紅茶を輸入できませんか?」
「紅茶ですか?まだこの国ではあまり知られていませんが…」
「だからこそ、チャンスなのです。新しい文化を持ち込めば、必ず流行します」

アリシアの目は輝いていた。彼女の頭の中には、すでに具体的なビジネスプランが描かれていた。

その夜、屋敷に戻ったアリシアは、父に今日の出来事を報告した。

「お父様、私、商売を始めたいのです」
「商売を?」
「ええ。母が築いた基盤を活かして、新しい事業を。これは私が本当にやりたいことなんです」

公爵は娘の顔を見つめた。そこには、かつて見たことのない決意と情熱があった。

「お前が本当にそう望むなら、私は反対しない。ただし、無理はするな。そして、困ったときはいつでも頼りなさい」
「ありがとうございます、お父様」

その夜、アリシアは自室で新しいノートを開いた。そこに『ビジネスプラン:紅茶サロン』と書き、具体的なアイデアを書き出していく。

社交界の知識と、商人の世界の知識。この二つを組み合わせれば、今までにない新しいビジネスができるはずだ。

窓の外では月が輝いていた。七年間の眠りから覚めたアリシアにとって、すべてが新鮮で、すべてが可能性に満ちていた。

翌朝、社交界では新しい噂が広まり始めていた。

「アリシア様が港町に行ったらしいわよ」
「まあ、本当に?一体何のために?」
「商人と会っていたという話よ。もしかして、婚約破棄のショックで…」

人々は様々な憶測を口にしたが、誰も真実を知らなかった。アリシア・ヴァンフリートは、もう「完璧な淑女」ではない。彼女は今、新しい道を歩み始めた、一人の商人なのだ。

一方、ヴィクター・エドワード侯爵は、新しい婚約者マリアンヌとティーパーティーに出席していた。マリアンヌは楽しそうに笑い、周りの人々を和ませていた。しかし、社交の場での気配りや、複雑な会話についていくことができず、ヴィクターはフォローに追われていた。

「マリアンヌ、それは違う。伯爵夫人に対しては、もっと敬意を示さないと」
「ごめんなさい、ヴィクター様。私、そういうの苦手で…」

ヴィクターは内心ため息をついた。アリシアなら、こんなことで悩むことはなかった。彼女は常に完璧に立ち回り、社交界での評判を上げてくれていた。

しかし、それは退屈だったのだ。刺激がなかったのだ。そう自分に言い聞かせながら、ヴィクターはマリアンヌの手を取った。

だが、心の奥底で、小さな疑問が芽生え始めていた。自分は本当に正しい選択をしたのだろうか、と。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

旦那様。私が悪女ならば、愛人の女は何になるのかしら?

白雲八鈴
恋愛
 我が公爵家主催の夜会の最中。夫が愛人を連れてやってきたのです。そして、私を悪女という理由で離縁を突きつけてきました。  離縁して欲しいというのであれば、今まで支援してきた金額を全額返済していただけません?  あら?愛人の貴女が支払ってくれると?お優しいわね。  私が悪女というのであれば、妻のいる夫の愛人に収まっている貴女は何なのかしら?

あなたがそのつもりなら

素亭子
恋愛
リリアーナはランス侯爵からの求婚をうけて結婚したが、わずか一年で夫は愛人を持った。リリアーナの仕返しの話です

「義妹に譲れ」と言われたので、公爵家で幸せになります!

恋せよ恋
恋愛
「しっかり者の姉なら、婚約者を妹に譲ってあげなさい」 「そうだよ、バネッサ。君なら、わかるだろう」 十五歳の冬。父と婚約者パトリックから放たれた無慈悲な言葉。 再婚相手の連れ子・ナタリアの図々しさに耐えてきたバネッサは、 その瞬間に決意した。 「ええ、喜んで差し上げますわ」 将来性のない男も、私を軽んじる家族も、もういらない。 跡継ぎの重責から解放されたバネッサは、その類まれなる知性を見込まれ、 王国の重鎮・ヴィンセント公爵家へ嫁ぐことに。 「私は、私を一番に愛してくれる場所で幸せになります!」 聡明すぎる令嬢による、自立と逆転のハッピーエンド。 🔶登場人物・設定は筆者の創作によるものです。 🔶不快に感じられる表現がありましたらお詫び申し上げます。 🔶誤字脱字・文の調整は、投稿後にも随時行います。 🔶今後もこの世界観で物語を続けてまいります。 🔶 『エール📣』『いいね❤️』励みになります!

婚約破棄から50年後

あんど もあ
ファンタジー
王立学園の卒業パーティーで、王子が婚約者に婚約破棄を宣言した。王子は真に愛する女性と結ばれ、めでたしめでたし。 そして50年後、王子の孫の王子は、婚約破棄された女性の孫と婚約する事に。そこで明かされた婚約破棄の真実とは。

お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます

菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。 嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。 「居なくていいなら、出ていこう」 この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし

人生の全てを捨てた王太子妃

八つ刻
恋愛
突然王太子妃になれと告げられてから三年あまりが過ぎた。 傍目からは“幸せな王太子妃”に見える私。 だけど本当は・・・ 受け入れているけど、受け入れられない王太子妃と彼女を取り巻く人々の話。 ※※※幸せな話とは言い難いです※※※ タグをよく見て読んでください。ハッピーエンドが好みの方(一方通行の愛が駄目な方も)はブラウザバックをお勧めします。 ※本編六話+番外編六話の全十二話。 ※番外編の王太子視点はヤンデレ注意報が発令されています。

悲報!地味系令嬢、学園一のモテ男に「嘘の告白」をされる。

恋せよ恋
恋愛
「君のひたむきさに心打たれた」 学園の王子様、マーロン侯爵令息から突然の告白。 けれどそれは、退屈な優等生である彼が仕掛けた「罰ゲーム」だった。 ターゲットにされたのは、地味で貧乏な子爵令嬢・サブリナ。 彼女は震える声で告白を受け入れるが――眼鏡の奥の瞳は、冷徹に利益を計算していた。 (侯爵家の独占契約……手に入れたも同然だわ!) 実は、サブリナの正体は王都で話題の「エアハート商会」を率いる敏腕マネージャー。 「嘘の告白」をした男と、「嘘の快諾」をした女。 互いに利用し合うつもりが、いつの間にか本気に……? お互いの本性を隠したまま進む、腹黒×腹黒の騙し合いラブコメディ! 🔶登場人物・設定は筆者の創作によるものです。 🔶不快に感じられる表現がありましたらお詫び申し上げます。 🔶誤字脱字・文の調整は、投稿後にも随時行います。 🔶今後もこの世界観で物語を続けてまいります。 🔶 『エール📣』『いいね❤️』励みになります!

弁えすぎた令嬢

ねこまんまときみどりのことり
ファンタジー
 元公爵令嬢のコロネ・ワッサンモフは、今は市井の食堂の2階に住む平民暮らしをしている。彼女が父親を亡くしてからの爵位は、叔父(父親の弟)が管理してくれていた。  彼女には亡き父親の決めた婚約者がいたのだが、叔父の娘が彼を好きだと言う。  彼女は思った。 (今の公爵は叔父なのだから、その娘がこの家を継ぐ方が良いのではないか)と。  今後は彼らの世話にならず、一人で生きていくことにしよう。そんな気持ちで家を出たコロネだった。  小説家になろうさん、カクヨムさんにも載せています。

処理中です...