演じるのはもうやめます

たくわん

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アリシア・ヴァンフリート令嬢の十七歳の誕生日、社交界で最も華やかな舞踏会の一つが開かれていた。ヴァンフリート公爵家の大広間は数百本の蝋燭に照らされ、貴族たちの絹のドレスと宝石が煌めいていた。楽団の優雅な旋律が響き渡る中、アリシアは完璧な微笑みを浮かべて客人たちに挨拶をしていた。

淡いラベンダー色のドレスに身を包んだ彼女は、まるで絵画から抜け出したような美しさだった。しかしその美しさは、どこか人形のような冷たさを帯びていた。一つ一つの仕草が計算され、一言一言が慎重に選ばれている。それは七年間、彼女が完璧に演じ続けてきた「淑女」の姿だった。

「アリシア様、本日は誠におめでとうございます」
「ありがとうございます、伯爵夫人。お越しいただき光栄です」

アリシアの声は柔らかく、表情は穏やかだった。しかしその目には、どこか遠い場所を見つめるような虚ろさがあった。それに気づく者は誰もいなかった。いや、一人だけいた。公爵家の執事セバスチャンである。彼は長年アリシアに仕えており、幼い頃の彼女を知っていた。

舞踏会が最高潮に達した頃、アリシアの婚約者であるヴィクター・エドワード侯爵家の跡息子が彼女に近づいてきた。背が高く端正な顔立ちの青年だったが、その表情には妙な硬さがあった。

「アリシア、少し話がある。庭園に来てくれないか」
「もちろんですわ、ヴィクター様」

アリシアは何も疑わず、ヴィクターに従って人目につかない庭園へと向かった。夜の冷たい空気が肌を刺す。薔薇の香りが漂う庭園は、昼間は美しいが、夜は少し寂しげだった。

月明かりの下、ヴィクターは重々しい口調で切り出した。

「アリシア、俺たちの婚約を解消したい」

アリシアの心臓が一瞬止まった。しかし彼女の表情は完璧なまま、微笑みさえ崩れなかった。それこそが、七年間訓練してきた「完璧な淑女」の証だった。

「…理由を、お聞かせいただけますか?」

ヴィクターは視線を逸らしながら答えた。

「君は完璧すぎるんだ。何をしても完璧で、隙がなくて、一緒にいても面白くない。俺が求めているのは、もっと…刺激のある相手なんだ」
「刺激、ですか」
「マリアンヌ・ロートリンゲン伯爵令嬢を知っているだろう。彼女は君とは違う。感情豊かで、天真爛漫で、一緒にいると飽きないんだ」

アリシアの胸に、何か熱いものが込み上げてきた。それは悲しみでも怒りでもなく、もっと複雑な感情だった。七年間、彼のために自分を殺し続けてきた。彼が好むと聞いた「おしとやかで控えめな淑女」を演じ続けてきた。そして今、その完璧さゆえに捨てられるのだ。

「分かりました。婚約解消に同意いたします」

ヴィクターは驚いたように彼女を見た。おそらく泣いたり、すがったりすることを予想していたのだろう。しかしアリシアは最後まで完璧な淑女だった。

「本当にいいのか?君は…」
「ええ。あなたのお幸せを心よりお祈りしております」

アリシアは優雅に一礼すると、踵を返して屋敷へと戻った。その背中は微塵も揺らいでいなかった。ヴィクターは複雑な表情でその姿を見送った。

舞踏会は夜遅くまで続いた。アリシアは最後まで完璧な笑顔でホスト役を務め上げた。誰も彼女の内面の嵐に気づくことはなかった。

すべての客人が帰り、使用人たちが後片付けを終えた深夜、アリシアはようやく自室に戻った。ドアを閉め、鍵をかける。そして初めて、彼女の仮面が崩れた。

鏡の前に立ち、自分の姿を見つめる。完璧に整えられた髪、上品な化粧、優雅なドレス。それは彼女が七年間演じ続けてきた「他人」だった。

「これが…私?」

アリシアは鏡に映る自分に問いかけた。答えは返ってこない。ただ、胸の奥底から何かが沸き上がってくる。それは長い間押し殺してきた、本当の自分の叫びだった。

突然、アリシアは宝石で飾られたヘアピンを引き抜いた。長い髪が肩に流れ落ちる。次に、ドレスの紐を解く。窮屈なコルセットから解放され、ようやく深く息ができた。

部屋の窓を大きく開け放つ。夜風が部屋に吹き込み、カーテンを揺らした。アリシアは窓辺に立ち、思い切り深呼吸をした。そして、七年ぶりに本当の声で叫んだ。

「もう、うんざりよ!」

その声は夜空に消えていった。誰も聞いていない。でも、それでよかった。これは彼女自身のための叫びだったのだから。

アリシアはベッドに倒れ込むと、天井を見つめながら独り言ちた。

「ヴィクター様、あなたは私が完璧すぎてつまらないと言った。でも知ってる?その完璧は、全部あなたのために作り上げたものなのよ」

涙が頬を伝う。しかしそれは悲しみの涙ではなかった。むしろ、長い眠りから覚めたような、解放の涙だった。

「もう二度と、誰かのために自分を偽ったりしない。これからは、本当の私として生きるわ」

その夜、アリシアは決意を固めた。完璧な淑女の仮面を捨て、本来の自分を取り戻すことを。

翌朝、メイドのエリザベスが部屋に入ってきたとき、彼女は目を疑った。いつもなら早朝から起き、身支度を整えているはずのアリシア嬢が、窓を全開にしたまま、ベッドの上で大の字になって寝ていたのだ。しかも、髪は乱れ、ドレスは脱ぎ散らかされ、まるで嵐が過ぎ去った後のような有様だった。

「お、お嬢様!大丈夫ですか?」

エリザベスの声に、アリシアはゆっくりと目を開けた。そして、メイドが見たこともないような豪快なあくびをした。

「おはよう、エリザベス。いい朝ね」
「お、お嬢様…?」

エリザベスは困惑していた。目の前にいるのは確かにアリシア嬢だが、その雰囲気がまったく違うのだ。いつもの上品で控えめな令嬢ではなく、まるで…子供の頃の、元気いっぱいだった頃のお嬢様のようだった。

アリシアはベッドから飛び降りると、大きく伸びをした。

「ねえエリザベス、今日の予定は?」
「え、ええと…午前中は刺繍のレッスン、午後はピアノの…」
「全部キャンセルして。今日は私、やりたいことがあるの」
「やりたいこと、ですか?」

アリシアは窓の外、厩舎の方を見つめながら答えた。

「ええ。まず、七年ぶりに馬に乗りたいわ。それから、図書室にある商業の本を全部読む。あと、料理長と一緒にお菓子を作りたい。ああ、そうだ。庭師のトムさんにも会いに行かなくちゃ。バラの新しい品種について聞きたいことがあるの」

エリザベスは呆然としていた。これらはすべて、ヴィクター様が「淑女らしくない」として、アリシア様に禁じていた活動だった。

「で、でも、お嬢様。ヴィクター様が…」
「ヴィクター様はもう関係ないわ。昨夜、婚約は解消されたの」

エリザベスは息を呑んだ。しかしアリシアの表情には、悲しみのかけらもなかった。むしろ、まぶしいほどの笑顔が浮かんでいた。

「エリザベス、私ね、やっと気づいたの。七年間、私は生きてなかった。ただ、誰かの理想の人形として存在していただけだった。でももう違う。これからは本当の私として、本当に生きるの」

その言葉を聞いて、エリザベスの目にも涙が浮かんだ。彼女も、幼い頃のアリシア様を知っていた。馬を駆り、木に登り、好奇心旺盛で笑顔が絶えなかった少女を。その姿が、今、目の前に戻ってきたのだ。

「お嬢様…お帰りなさいませ」

アリシアは驚いてエリザベスを見た。そして、二人は抱き合って泣いた。それは悲しみの涙ではなく、再会の喜びの涙だった。

朝食の席で、アリシアの父である公爵は、娘の変化に気づいた。いつもなら背筋を伸ばし、小さな一口ずつ優雅に食事をする娘が、今朝は豪快にパンにかぶりつき、ジャムをたっぷりと塗っている。

「アリシア、お前…」
「おはようございます、お父様。このジャム、本当においしいですね!料理長に作り方を教わりたいわ」

公爵は娘の顔をじっと見つめた。そこには、長い間失われていた輝きがあった。執事のセバスチャンが公爵に近づき、小声で報告する。

「昨夜、ヴィクター様との婚約が解消されたとのことです」

公爵は一瞬険しい表情になったが、娘の笑顔を見て、ゆっくりと頷いた。

「そうか。アリシア、お前は今、幸せか?」

アリシアは父を見つめ、心からの笑顔で答えた。

「ええ、お父様。今が人生で一番幸せかもしれません」

公爵の目が潤んだ。彼は娘が七年間、自分を押し殺していたことを知っていた。そしてそれを止められなかった自分を責めていた。

「そうか。それならば、それでいい。お前がお前らしく生きられるなら、父はそれ以上望むものはない」
「ありがとうございます、お父様」

朝食後、アリシアは厩舎へ向かった。そこには、彼女の愛馬であるアリエスが待っていた。七年間、ほとんど乗られることのなかった栗毛の馬は、アリシアの姿を見ると嬉しそうにいななった。

「アリエス、久しぶりね。ごめんね、ずっと放っておいて」

アリシアは馬の首を撫でた。アリエスは彼女の手に鼻先をこすりつける。

馬丁のジョンが驚いて近づいてきた。

「お嬢様、お一人で?」
「ええ、ジョン。今から走りに行くわ。久しぶりに、全力で」
「で、でも、護衛は…」

アリシアは悪戯っぽく笑った。

「大丈夫。私、昔は誰よりも馬が上手だったのよ。覚えてる?」

ジョンは苦笑した。確かに、幼い頃のアリシア様は、成人男性の騎手顔負けの腕前だった。

アリシアは側鞍ではなく、男性用の鞍に跨った。スカートが邪魔だったが、気にしなかった。そして、合図とともにアリエスが駆け出す。

風が顔を撫でる。髪が乱れる。心臓が高鳴る。これだ。これが生きているという感覚だ。アリシアは声を上げて笑った。その笑い声は、森に響き渡った。

屋敷に戻ったアリシアは、汗だくで土埃にまみれていた。使用人たちは驚愕したが、誰も何も言わなかった。なぜなら、お嬢様の表情があまりにも幸せそうだったから。

その日の午後、アリシアは図書室にこもった。そこには、彼女が長年読みたかった本が並んでいた。商業の本、冒険記、異国の文化についての書物。ヴィクターが「淑女にふさわしくない」として禁じていたものばかりだった。

一冊の本を手に取る。『新興商人の成功術』。ページをめくると、そこには母の筆跡でメモが書き込まれていた。アリシアは驚いて目を見開いた。

母は十年前に亡くなった。アリシアが七歳の時だった。優しく、上品で、完璧な公爵夫人だと思っていた。しかし、この本に残された母の筆跡は、商業に深い関心を持つ女性のものだった。

「お母様も…本当は」

アリシアの目に涙が浮かんだ。母も、自分と同じように、何かを押し殺して生きていたのかもしれない。

その時、図書室のドアが開き、セバスチャンが入ってきた。

「お嬢様、一つお渡ししたいものがございます」

セバスチャンが差し出したのは、古い革装の日記帳だった。

「これは?」
「奥様が亡くなられる直前、私に預けられたものです。『いつかアリシアが、本当の自分を取り戻そうとする日が来たら渡してほしい』と」

アリシアは震える手で日記を受け取った。最初のページを開くと、母の優しい文字が並んでいた。

『愛するアリシアへ。もしあなたがこの日記を読んでいるなら、あなたは自分の人生を取り戻そうとしているのでしょう。お母様は、それをとても嬉しく思います』

アリシアは日記を胸に抱き、窓の外を見つめた。新しい人生が、今、始まろうとしていた。
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