花咲くように 微笑んで 【書籍化】

葉月 まい

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挫折と葛藤

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 ある日の22時。
 みなと医療センター内、ERのホットラインが鳴る。
 急患の受け入れ要請だった。

 「あと5分で着くそうだ。行くぞ」
 「はい」

 颯真達、夜勤のドクターやナースの皆で救急車の到着を待つ。
 運ばれてくるのは、車にはねられた40代くらいの男性と、高校生らしき女の子。

 救急救命士の話では、二人とも心肺停止、外傷や出血も酷く、状態はかなり厳しいとのことだった。

 気を引き締めて待っていた颯真は、やがて到着した救急車から降ろされる患者を見て目を見開く。

 女の子は想像以上に外傷があり出血多量、内蔵もかなり損傷しているのがうかがえた。
 男性は心肺停止とはいえ、外傷はそれ程酷くはない。

 トリアージの観点から、優先すべきは男性の方だと誰もが思った。

 「宮瀬、そっちのストレッチャーでStraddling CPR頼む」 
 「はい」

 指導医の塚本に返事をした颯真は、左手をついてストレッチャーに飛び乗ると、救急隊員に「代わります」と告げ、男性にまたがって胸骨圧迫を始める。

 ストレッチャーはそのまま院内に運び込まれた。

 すぐに二人の処置が始まる。

 「人定は取れてるの?」
 塚本の問いに「まだです」とナースが答える。

 (身元はまだ不明か。親子じゃないのか?)

 颯真は処置をしながら、二人の顔を見比べる。
 年齢からすると父親と娘では?と思ったが、まだ断定は出来ない。

 とにかく皆で懸命に処置に当たった。

 「よし!戻ったぞ。バイタルも安定」

 何度目かの電気ショックで、男性の心臓が動き出した。
 出血箇所も特定出来て、縫合も完了。

 あとは他のドクターに任せて、颯真は女の子の処置に加わった。

 だが、もはやどこからどう手をつければいいのか分からない程、容体は悪い。

 と、一人のナースが駆け寄って来た。

 「女の子の父親と連絡取れました。長距離ドライバーで、今岡山にいるとのことです。父子家庭で家族は父親だけです」
 「なに?!」

 (この男性と親子じゃなかったのか。今、岡山…。ここに到着するのはいつになるのか)

 そう思っていると、救急救命士が新たな情報を伝えた。

 「目撃者の証言取れました。道端でこの男性がしつこく女の子に言い寄って抱きついていたそうです。嫌がって逃げ出した女の子が、そのまま車道にはみ出してしまったと…」
 「なんだって?!」

 塚本が、信じられないとばかりに声を荒らげる。

 「くそっ!せめて父親が到着するまでは…」

 その言葉に、その場にいる皆は悟った。
 この女の子は、もう…

 大量に輸血し、心臓にショックを与え、マッサージを続ける。

 だが、女の子は全く反応しない。 
 やがてドクター達は、静かに手を下ろす。

 塚本が腕時計に目をやった時だった。
 颯真が皆をかき分けるように近づくと、女の子の胸骨を圧迫し始める。

 「宮瀬、もう…」
 塚本が声をかけるが、颯真は必死で力を加え続けた。

 「宮瀬、もう止めろ。宮瀬!」
 グイッと女の子から引き離され、颯真は荒い息を繰り返しながら両手の拳を握りしめた。

 怒り、悲しみ、悔しさ、虚しさ。
 言葉には出来ない程の感情の渦が押し寄せ、胸が張り裂けそうになる。

 塚本がゆっくりと腕時計に目を落とし、静かに時間を告げた。
 「23時55分」
 その場にいる全員が、深々と頭を垂れた。



 「みなさん、こんにちは!」
 「こんにちはー!」
 「これからおはなし会を始めます。今日のおはなしは、これ。『まあくんとママのおまじない』です。どんなおはなしなのかな?それでは、はじまりはじまり…」

 菜乃花の明るく優しい声。
 子ども達のキラキラと輝く瞳。

 颯真は、少し離れたベンチに座ってその様子を眺めていた。

 「…おともだちと、ケンカをしてしまったまあくん。おうちに帰ってからも、かなしくてしょんぼり。『あした、ごめんなさいって言えるかな』つぶやくまあくんに、ママが言います。『じゃあ、とっておきのおまじない。まあくん。こっちにおいで』まあくんが近づくと、ママはまあくんをぎゅっと抱きしめました。まあくんの背中を優しくトントンしながら、ほっぺとほっぺを合わせておまじないをささやきます。『だいじょうぶ。きっときっと、だいじょうぶ』まあくんの心はほんわか、お顔はにっこり大変身。『ほらね。おまじない、きいたでしょう?』『うん!あした、ちゃんとごめんなさいって言えるよ』『そう。仲直りできるといいね』そして二人でもう一度、おまじないをつぶやきます。『だいじょうぶ。きっときっと、だいじょうぶ』…おしまい」

 菜乃花が本を閉じると、わあ…と子ども達に笑顔が広がった。

 「どう?素敵なおはなしだったね。みんなもママにおまじない、やってもらおうか」
 「うん!」

 子ども達はママを振り返り、ぎゅっと抱きつく。
 ママは優しく我が子をトントンしながら、頬をくっつけて囁く。

 「だいじょうぶ。きっときっと、だいじょうぶ」

 皆の間に笑顔が溢れる。
 幸せで温かい光景。

 (きっとあの女の子にも、こんな時代があったんだ。そして数年後には、こうして我が子と幸せそうに笑っているはずだったんだ)

 颯真は唇を噛みしめると、込み上げる涙をグッと堪えていた。



 「なのかおねえさん、さようなら」 
 「さようなら。気をつけて帰ってね」

 最後の親子を見送ると、菜乃花はちらりと奥のベンチに目をやった。

 膝に両肘をついて座り、組んだ手に顔を伏せてじっとうつむいている颯真に、菜乃花は小さくため息をついてから立ち上がる。

 カウンターに行くと、館長と谷川に声をかけた。

 「館長、谷川さん、すみません。もし業務が大丈夫なら、私、今日は半休を取らせていただいてもよろしいでしょうか?」
 「ん?どこか具合が悪いの?」
 「いえ、そういう訳ではないのですが」

 すると館長も谷川も、笑顔で頷いた。

 「それなら良かった。今日はもういいから、帰りなさい」
 「そうよ。菜乃花ちゃん、休みの日もボランティアしてるんでしょ?たまにはゆっくり、自分の時間を楽しんでね」
 「ありがとうございます。それではお言葉に甘えて、お先に失礼いたします」
 「はーい、気をつけてね」

 菜乃花は荷物をまとめると、颯真のもとへと行く。

 おはなし会の間、思い詰めた表情で話を聞いていた颯真に気づいていた。

 今もじっとうつむいたままの颯真からは、ただならぬ悲壮感が伝わってくる。

 「宮瀬さん」

 菜乃花は控えめに声をかけた。

 ぴくりと肩を震わせると、颯真は親指と人差し指でぎゅっと目頭を押さえてから、ゆっくりと顔を上げる。

 「こんにちは」と微笑む菜乃花に、颯真は少し照れたように笑った。

 「こんにちは。ごめん、不審者に見えたかな?」
 「いいえ。誰よりもおまじないが必要な人に見えました」

 え?と颯真は首を傾げる。

 「宮瀬さん、外に出ませんか?」

 そう言うと菜乃花はくるりと向きを変え、スタスタと歩き始めた。

 颯真は一瞬呆気に取られてから、鞄を手に立ち上がり、あとを追った。

 「うわ、綺麗だな」
 「ええ。ちょうど今、満開ですね」

 図書館に隣接する公園に行くと、小高い丘の上に見頃を迎えた菜の花畑が広がっていた。

 「半分どうぞ」

 近くのベンチに座ると、菜乃花は颯真にお弁当を差し出す。

 朝、家で作ってきた手鞠おにぎりが4つと、ほうれん草のお浸しや卵焼きなどが詰めてある。

 「え、君のお昼ご飯でしょ?もらえないよ」
 「宮瀬さん。最後に食事したのはいつですか?」
 「食事?えっと…いつだろう」

 夕べは夜勤に備えて早めに夕食を取ろうと思っていたのだが、ICUの人手が足りずに勤務前に手伝うことになった。
 そのまま夜勤に入り、あの女の子達が運ばれてきて…。

 夜勤が明けてからも、食事をする気も仮眠を取る気にもなれなかった。
 マンションに帰るにも気が重く、まるで気持ちのやり場を探すように、ふらふらと図書館にやって来たのだった。

 「宮瀬さん。医学的に考えたら、私と宮瀬さんのどちらが今これを食べるべきだと思いますか?」
 「それは、その…」
 「身体が元気にならなければ、心も元気になれませんよ。少しだけでも食べてください。私の手作りが不味そうで食べられないなら、何か買ってきますけど」
 「まさか!そんな」
 「それなら、どうぞ」

 颯真はおずおずと手を伸ばし、小さな丸い手鞠おにぎりを手にする。

 「いただきます」
 「はい。召し上がれ」

 ゆっくりとラップをめくると、桜でんぶと錦糸卵で飾られた可愛いおにぎりを口に運ぶ。

 「…美味しい」
 「良かったです」

 菜乃花はステンレスボトルから温かいお茶をコップに注ぐと、颯真に手渡した。

 噛みしめるようにおにぎりを味わい、お茶を飲んでホッとひと息つく。

 そんな颯真を見て少し微笑むと、菜乃花もおにぎりを食べ始めた。

 「卵焼きも、半分どうぞ」
 「ありがとう」

 二人で一つのお弁当を分け合う。
 食べ終わると、ご馳走様でした、と颯真は菜乃花に頭を下げた。

 「なんてのどかなんだろう」

 菜の花畑を見ながら、颯真がぽつりと呟く。

 「まるで別の世界に来た気がする。こんなに穏やかな時間が流れてるなんて」

 颯真の言葉に、菜乃花はお茶を飲む手を止めて視線を落とす。

 何かあったに違いない。
 だが、何があったのか?と聞くのもはばかられた。
 それ程、今日の颯真の様子はいつもと違っていた。

 「おはなし会、いつから聞いていたんですか?」

 菜乃花は、全く違う話を振った。

 「ん?ああ。ちょうど始まるところから」
 「そうでしたか」
 「とても良い雰囲気だったね。お母さんや子ども達、みんなの笑顔が溢れて幸せが広がっていた。見ているだけで癒やされたよ」

 そう言って菜乃花に微笑んだ次の瞬間、颯真はクッと顔を歪めた。
 その目がみるみるうちに涙で潤んでいく。

 「ごめん、俺、つい…」

 うつむいて、必死に涙を堪える。

 肩を震わせながら拳を握りしめて身体を固くする颯真に、菜乃花はそっと両手を伸ばした。

 ふわりと風に包まれるような感覚を覚えた颯真は、思わず顔を上げる。

 菜乃花が優しく自分の身体を抱きしめていた。

 「だいじょうぶ。きっときっと、だいじょうぶ」

 耳元で囁く菜乃花の声に、颯真の心がじわりと温かくなる。

 どういう現象なのだろう?
 どうすればこんなにも心が安らぎ、身体が温かくなり、気持ちが救われるのだろう。

 投薬された訳でも医療行為でもないのに。
 どうして彼女はこんなにも自分を救ってくれるのだろう。

 医師である自分は、あれ程医療行為を尽くしても、あの女の子を救えなかったというのに…。

 颯真は菜乃花の肩を借りて顔を伏せ、しばらくその温もりに癒やされていた。



 「夕べ、急患が運ばれてきたんだ。40代の男性と女子高校生」

 やがて、ぽつりぽつりと颯真は菜乃花に話し出す。

 あのあとドクターとナースが集まり、デブリーフィングが行われた。

 女の子は、おそらく即死の状態だったこと。
 男性はCTなど詳しい検査の結果、足と腕の骨折以外は問題なく、順調に回復するだろうということ。

 女の子は男性と面識はなく、塾の帰り道にたまたま通りかかった男性に言い寄られ、抱きつかれ、嫌がって逃げ出そうとして車道にはみ出してしまったこと。

 聞けば聞く程、颯真の感情はかき乱された。

 すぐに病院に駆けつけた妻に、助かって良かったと手を握りしめられる男性。

 そして…。
 明け方にようやく病院に到着した女の子の父親は、変わり果てた娘をかき抱いてむせび泣いた。
 あの時の父親の慟哭は、恐らく一生自分の心に焼きついたままだろう。

 「俺は、女の子を死に追いやった男の命を助けたんだ。何も悪くない女の子を。幼い頃に母親を失くして、父子家庭で育った女の子を。大切な妻を失くし、長距離ドライバーとして必死に娘を育てていた父親から、またしても大切な命を奪ったんだ。俺は、医師なのに、何も…。輝かしい未来ある命を救えなかった。俺が救ったのは、憎い男の命。どうしてだ?これが医師のすべきことなのか?命は真に平等なのか?犯人の命も、被害者の命も、等しく平等だと言えるのか?俺は一体、何をしたんだ…」

 肩を震わせ、まるで心の悲鳴のように声を振り絞って話す颯真を、菜乃花は黙って抱きしめ続けていた。




 颯真のマンションに着くと、菜乃花はとにかく颯真を寝室へと促した。

 あの状態の颯真を一人には出来ず、菜乃花は半ば強引に颯真のマンションまでついて来た。

 明日も日勤だという颯真を、まずはゆっくり休ませなくては。

 その間に、菜乃花は食事を作ることにした。

 ちょうどマンションの向かいに小さなスーパーマーケットがあり、野菜や果物を中心に多めに買って戻ると、キッチンを借りて料理を始める。

 煮物やお浸し、和え物、豚汁などを作ると、ラップをして冷蔵庫に入れ、次に野菜とお肉たっぷりのシチューを煮込んだ。

 サラダや果物も用意し、いつでも食べられる状態にすると、今度はお風呂を掃除してお湯を沸かす。

 数時間経った頃、寝室から颯真が出て来た。

 「良く眠れましたか?」
 「ああ。横になった瞬間、寝落ちしたって感じ」
 「ふふ、良かったです。夕食とお風呂も用意しておきました。あとで食べてくださいね。それと、冷蔵庫に常備菜と豚汁も入れてありますから」
 「え、そんなに?何から何まで、本当にありがとう」
 「いえ。それでは、私はこれで」
 「あ、じゃあ車で送るよ」

 颯真がジャケットを羽織ろうとすると、菜乃花は首を振った。

 「いえ、一人で帰ります。宮瀬さんにゆっくり休んで欲しいから来たのに、送らせてしまったら元も子もありませんから」
 「でも…。じゃあ、せめて少し休憩していって。今、コーヒーを淹れるから」

 その申し出にはありがたく頷いて、菜乃花はソファに座った。

 「はい、どうぞ。ミルクとお砂糖は?」
 「ミルクだけで。ありがとうございます」

 二人でソファに並んで座り、ゆっくりとコーヒーを味わう。

 ふと菜乃花は、壁に備えつけられた高さのある本棚に目をやった。
 ずらりと並ぶ医学書に、さすがはお医者様だなと感心する。

 と、見覚えのある背表紙に、菜乃花は思わず身を乗り出した。

 「ん?どうかした?」
 「いえ、あの。心理学の本があるなって思って」
 「ああ、そうか。君は心理学専攻だったんだよね。卒論のテーマは?何を書いたの?」
 「主に児童心理学についてです。育った環境や後天的な要素で子どもの性格や成長にどんな影響があるか、例えば、同じ家庭で育ったきょうだいの性格の違いとか。ひいては、性善説と性悪説についても」
 「へえ、興味深いな。読ませてもらえない?」
 「は?!いやいや、ダメです。絶対ダメ!」

 菜乃花は声をうわずらせて必死に首を振る。

 「ええー、どうして?じゃあ俺の卒論も見せるから」
 「いえいえ結構です!ドクターの卒論なんて、1ミリも理解出来ませんから!」
 「そんなことないよ。それに君の論文なら、絶対良いものに決まってる。読んでみたい」
 「良いものになんて決まってません!」
 「いいや、決まってる。春樹も言ってたじゃないか。君なら絶対いい心理士になれたって」

 すると急に菜乃花はうつむいて小声になった。

 「でも、私はなれなかったんです。心理士に」

 え?と颯真は菜乃花の横顔を見つめる。

 「春樹先輩の言う通り、私は大学院に進んで心理士になるつもりでした。でも、逃げ出したんです。ずっと目指していたその道から、尻尾を巻いて逃げたんです」

 じっと手元に目を落としたまま話す菜乃花に、颯真は言葉を失う。

 (逃げ出した?どうしてそんな言い方を?)

 沈黙を破って、菜乃花が思い切ったように話し出した。

 「大学3年生の時、ゼミで色々な施設に研修に行かせていただきました。精神科病棟や刑務所なども。分かっていたつもりでしたが、現場は想像以上でした。叫び声や手足を拘束された人達の異様な雰囲気、今でも頭から離れません。案内してくれた職員の方は、まず何よりも自分達のメンタルを日々大切にしていますとお話してくれました。そんな研修の合間に、犯罪心理学の講義があったんです。いつものように、教授の話に合わせてテキストのページをめくろうとした時、ふと1ページ目に書かれていた言葉が目に入ったんです。今までめくったことのなかった最初のページに書かれた言葉。それは、ドイツの哲学者、ニーチェの言葉でした」

 (ニーチェの言葉、犯罪心理学…)

 そこまで考えて、颯真は思いついた。

 「ひょっとして、善悪の彼岸?」

 コクリと菜乃花が頷く。

 ユングやフロイト、アドラーといった心理学の権威にも影響を与えたと言われるニーチェが『善悪の彼岸』という著書に残した言葉。
 それは…

 『汝が深淵を覗き込む時、深淵もまた汝を等しく覗き返しているのだ』

 怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返しているのだ、という意味合いで、犯人と対峙する際の警告とも言える言葉だった。

 「その言葉を読んだ途端、凍りつきました。時間がぴたりと止まったように、何も考えられなくなって。目に焼き付いた恐怖が蘇ってきて、どうしようもなく怖くなりました。そして私は、心理学の道から逃げ出したんです」

 そう言うと、菜乃花はぎゅっと両手を握りしめる。
 その手がかすかに震えているのに気づき、颯真はそっと自分の手を重ねた。

 「君は逃げ出したんじゃない」

 え…?と菜乃花が小さく呟いて顔を上げる。

 「君は心理士として人を癒やし、救いたかったんだろう?でも今、心理士ではなくても、君は人を癒やして救っている。たくさんの子ども達や母親を笑顔にし、幸せにしている。そして俺にも…。君は俺を癒やして救ってくれた」

 強さを宿した瞳でじっと見つめられ、菜乃花は何も考えられなくなる。

 「大切なのは、心理士になることじゃない。人を思いやり、痛みに寄り添い、心を尽くすこと。君が今していることこそが、一番大切なことなんだ。資格とか職業なんか関係ない。君は君自身で立派に志を果たしているんだ」

 菜乃花の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
 心が震え、痛みが消え、身体中が温かくなる。

 ずっと頭の中にこびりついていた影がぽろぽろと剥がれ落ち、何年も抱えていた暗い気持ちが軽くなる。

 しゃくり上げて静かに泣き続ける菜乃花を、颯真はそっと抱きしめていた。
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