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一月九日
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(鳥…、鳥が鳴いてる?)
美桜はぼんやりとした頭で考えた。
かすかに鳥のさえずりが聞こえてくる。
(もう朝か。起きなきゃ)
ゆっくりと目を開けると、見慣れない高い天井が見えた。
顔に触れる空気の質も違う。
(あれ?なんだっけ、ここ)
しばらくしてから、ようやく昨日の記憶が蘇ってきた。
(そうだ!イギリスに来たんだ。夕べとっても楽しかったなあ)
自然と笑みが浮かぶ。
美桜はそのまま勢い良く起き上がった。
まだ外は明るくない。
枕元の時計を見ると、六時にもなっていなかった。
隣のベッドを見ると、絵梨はぐっすり眠っている。
それはそうだろう。
仕事があるからと、十時くらいに引き上げるアレンに続いて、美桜も早めに部屋に戻って眠った。
仁と絵梨は、きっとその後も真夜中まで飲んでいたに違いない。
(どうしようかな、もう一度寝ようかな)
一瞬そう思ったが、美桜はこのまま起きることにした。
絵梨を起こさないよう、そっと隣のドレッシングルームに行くと、洗顔や着替えを済ませて部屋を出た。
二人が泊まっている部屋は、廊下側からドアを開けると、まず小さな待合室のようなスペースがある。
そこから更にドアが二つ並んでおり、左のドアはベッドルーム、右のドアはドレッシングルームに繋がっている。
つまり、ドアを開けた時にたまたま廊下を通りかかった人に部屋の中を見られる心配もないし、今のようにベッドルームを通らずドレッシングルームから直接廊下に出ることも出来る。
さてと、これからどうしようと美桜は少し考えた。
(ダイニングルームのドリンクコーナーは、いつでも使えるって仁くんは言ってたけど、こんなに朝早いとどうかな?)
とにかく行ってみることにした。
(あ!ちゃんと用意されてる!)
二十四時間使えるように、きっと夜中も補充に来てくれているのだろう。
美桜は有難くコーヒーをもらうことにした。
ミルクを多めにして、クッキーをひとつソーサーに載せる。
なんだかそれが自分の中の決まりになってきたみたいで、美桜はふふっと笑った。
迷うことなくソファに向かい、カップをテーブルに置く。
と、少し窓のカーテンが揺れ、冷たい空気が入ってきたのに気付く。
(扉開いてる?換気でもしてるのかな?)
それにしてもこのままだと寒すぎる。
扉を閉めようとした時、美桜は外の人影に気付いた。
「アレン!どうしたの?こんなところで」
思わず大きな声を出してしまった。
アレンはバルコニーの手すりに両手を載せて、そこに顔を突っ伏していたのだ。
その後ろ姿は、なんだかとても寂しげに見える。
「びっくりした…。美桜?」
一瞬体をびくっとさせてから、アレンはゆっくりとこちらを振り返った。
「ごめん、びっくりさせちゃった。どうしたの?こんな朝早くに」
「ああ、うん。何でもないよ。ちょっと考え事」
「なにもこんな寒いところで。風邪引いちゃうよ。さ、中に入ろう」
そう言ってアレンの腕を取った美桜は、アレンの顔色が良くないことに気付く。
「アレン。ひょっとして、寝てないの?」
「あーうん。そうかな」
「そうかなって!ちょっと!」
美桜は急いでアレンを部屋の中に入れ、扉を閉めてからソファに座らせる。
「徹夜した上に寒空の下で考え事なんて!体壊すよ」
ブランケットをアレンの背中から掛けると、そのままドリンクコーナーに向かい、温かいココアとクッキーを持って戻る。
「さあ、これ飲んで。体、温めないと」
アレンは気分が乗らないような素振りを見せたが、美桜は仁王立ちで有無を言わせない。
諦めたように仕方なく受け取り、ふうと少し息を吹きかけてからゆっくりとココアを飲んだアレンは、いくらかほっとしたようだ。
「あったかいね」
アレンが力なく笑う。
「あったかいねじゃないよ、もう」
半分呆れたように言って美桜は腕を組んだ。
(そういえば、夕べ仁くんと真剣にお仕事の話してたっけ。考え事って、そのことかな)
たとえそうでも、体は大事にしないと!
美桜は自分に頷くと、アレンに説教混じりに言う。
「アレン、どんなに忙しくても寝なきゃダメよ。徹夜したって頭も体も動かなくなるばかりなんだから。いい?睡眠はきちんと取ること!」
人差し指を立てながら美桜が言うと、アレンは叱られた子どものように小さく頷いた。
分かったのなら良し、とばかりに美桜も頷く。
(なんだか夕べのやり取りみたい。あの時と立場が逆ね)
美桜は思い出してクスッと笑うと、再び真顔に戻った。
「どうする?今からでも少し眠る?」
「いや、それは。仕事に戻らないといけないし…」
「うーん、じゃあお昼寝でもいいから、時間見つけて体休めてね。とりあえず今は朝食しっかり食べましょ」
そう言うと、アレンはあからさまに嫌そうな顔をした。
「えー、食欲ないよ」
「ダーメ!少しでもいいから食べないと」
美桜はもう一度ドリンクコーナーに行き、フルーツを選び始めた。
と、ふいにダイニングテーブルの横の壁から、コンコンとノックの音が聞こえた。
「はい」
美桜がそちらを見ると、壁の一部が扉になっているそこから、グレッグが現れた。
「おはようございます、美桜様」
「おはようございます。ごめんなさい、物音で起してしまったかしら」
「いえ、とんでもない。隣の部屋で朝食の準備をしておりました。美桜様、少し早いですが召し上がりますか?」
「ええ!ちょうど良かった。今アレンにも何か食べさせなくちゃと思ってたの」
そう言うと、グレッグは意外そうな顔をした。
「坊ちゃま、何か召し上がるのですか?」
「そう。夕べ寝てないんですって。だからせめて少しでもお腹に入れないとって、今ココアを飲んでいるところ」
そう言って美桜がソファの方に目を向けるとグレッグもそちらを振り返り、アレンの姿をまじまじと見た。
「なんと、坊ちゃまが朝食を!それでは早速準備致します」
急いで踵を返すグレッグを、美桜は少し不思議そうに見送る。
(なに?アレンが朝食を食べるのって珍しいのかしら)
おいしそうな焼きたてのパンを手に戻って来たグレッグにそう聞いてみる。
「ええ、坊ちゃまはいつも、どんなに勧めても食事をあまり召し上がらないのです。特に朝食は。食欲がないと仰って。しっかり眠れば朝も食べられるようになると思うのですが」
「ええ?徹夜するのもいつものことなの?」
美桜が驚くと、左様でございますと困ったように頷き溜息をつく。
と、それまで黙っていたアレンが急に口を開く。
「グレッグ、その坊ちゃまっていうのはやめろ。何度も言って…」
そこで言葉を止めたのは、美桜の視線に気付いたからだ。
怒っている。とても怒っている。
慌ててアレンは目を伏せてココアを口に運んだ。
「アレン、こっちに座って」
ウッとうめき声を上げてからゆっくり立ち上がって、ダイニングテーブルへ向かう。
向かい合って座ると、美桜は
「さあ、いただきましょう」
と手を合わせた。
グレッグは、さっとアレンの前にクロワッサンを載せたお皿を差し出す。
ふうと小さく溜息をついた後、ゆっくりと食べ始めたアレンを満足そうに眺めてから、グレッグが美桜に聞いてきた。
「美桜様、卵料理はいかがいたしましょう?スクランブルエッグ、オムレツ、ボイルドエッグなど、どれがよろしいですか?」
「ええ?選んでいいの?どうしよう、迷うな。んー、じゃあオムレツで!」
「かしこまりました。プレーンがよろしいですか?それともチーズ、ハム、マッシュルームなど入れましょうか?」
「ええ?中身も選べるの?そうだな、じゃあチーズで!」
「かしこまりました。では付け合せのポテトはいかがいたしましょう?マッシュドポテト、ハッシュブラウン、フレンチフライも出来ますが」
「ええ?ポテトも?そうね、朝だし、マッシュドポテトにしておこうかな」
そう答えながら、美桜はアレンに目を向ける。
さっきからどうも様子がおかしい。
下を向いて肩を震わせている。
「かしこまりました。スープはいかがでしょう?ミネストローネ、コーンスープ、オニオンスープなど」
「ええ?スープ、そうねえ、どれもおいしそうだけど、じゃあミネストローネで!」
そのとたん、もう我慢出来ないといったように、アレンが吹き出して笑い始めた。
「あはは!美桜ってば、おかしくってもう」
「何よ急に?」
ねえ?とグレッグと顔を見合わせる。
「だって、いちいち真剣に。ははは、卵とかポテト、朝からそんなに悩む?あはは」
「もう!何よ!だって豪華な朝食作ってもらえるのよ?そりゃ真剣に悩むわよ」
まったくアレンは。いつも贅沢に囲まれて有難さを分かってないわ!とぶつぶつ呟きながら、美桜は運ばれてきたオムレツやポテトを切り分けて、アレンの前にお皿を差し出す。
「はい!これも食べてね」
「ええー?パンだけでもう無理だよ」
「いいからほら、少しでも食べる!」
まるで笑われたことのお返しとばかりに、美桜は語気を強める。
しぶしぶアレンが食べ始めると、グレッグは嬉しそうに目を細めてアレンと美桜の二人を眺めていた。
◇
「少し空も明るくなってきましたね。カーテンを開けておきます」
そう言ってグレッグは、ソファに場所を移して食後のコーヒーを飲んでいたアレンと美桜の横のカーテンを、丁寧に開けた。
ありがとうと窓の外に目を向けた美桜が、急に手を止め、ん?と首を傾げる。
「何?どうかした?」
アレンは不思議そうに美桜の目線を追う。
「あれって、お庭?」
緑の木々が少し見えるのだが、そんな単純なものではないような気がする。
美桜は立ち上がると、扉を開けてバルコニーに出た。
手すりのところまで進むと、眼下には緑の木々によって作り出された綺麗な模様が、まるで絵画のように浮かび上がっている。
夕べもさっきも、暗くて気が付かなかったのだ。
「うわー、すごい!芸術的ね」
美桜の感嘆の声を聞いて、隣に並んだアレンが説明する。
「ああ。フランス式の庭園だよ。左右対称だったり、幾何学的に配置するのが特徴かな。模様に合わせて、植栽も人工的に整形される」
「フランス式なのね。そういえば世界史の資料集で見た気がする。ヴェルサイユ宮殿とかの庭園もそう?」
「うん、そうだね。あとはロワール渓谷のヴィランドリー城なんかも有名」
「へえ、そうなんだ。色々な所にあるのね。それぞれ城主が庭園の造りや豪華さを競い合っていたとか?」
「まさにそうだよ。権力の象徴みたいにね。そんな人工的な庭園に反して、自然の景観とか風景を生かしながら、そのままの美しさを大事にしたのが英国式庭園なんだ」
「あ!イングリッシュガーデンね。日本でも行ったことある。バラが咲き乱れて綺麗だったなあ」
美桜はもう一度目の前の庭園をしみじみと眺めた。
「庭園一つとっても、違う国同士影響を受け合っているのね。そう思うと日本は、独自のものが多いわよね。日本式の庭園も他では見ないし。影響されながら進化していくものと、独自のスタイルをずっと貫くもの…。どちらも素晴らしいことよね。文化や芸術って」
なんだか神妙な面持ちの美桜を覗き込むようにして、アレンがクスッと笑った。
「美桜がここまで庭園に熱心だとは知らなかったよ。良かったらこれから一緒にうちに来る?これよりもう少し大きいフランス式の庭園と、あとイングリッシュガーデンもあるよ」
「え!ほんと?うわー見てみたい!いいの?」
美桜の顔がぱっと明るくなる。
(決まりだな)
嬉しそうな美桜を見て、アレンはもう一度クスッと笑った。
◇
コンコンとノックの音がして、美桜はドアの方を見た。
「はーい。どうぞ」
「おはようございます。美桜様」
そう言って、メアリーがさわやかな笑顔を浮かべながらドレッシングルームに入ってきた。
「おはよう!メアリー。絵梨ちゃんはまだ寝てるの」
「ええ、そう思いましてベッドルームではなくこちらのドアをノックしましたの」
(おお!さすが。仕事が出来るわ)
ドレッサーに座って髪を乾かしていた美桜の後ろを通り、メアリーは手に持っていたたくさんの荷物をクローゼットにしまっていく。
「夕べブティックでクリーニングに出したお二人のお洋服が戻ってきましたわ。引き出しに入れておきますね。あと、衣裳も少しお持ちしました。いつでも使って下さいね」
クローゼットに次々とハンガーをかけていくメアリーにありがとうと言ってから、美桜は髪をとかし始める。
「グレッグから、美桜様はもう朝食をすませられたと聞きましたわ」
「うん、そうなの。朝食おいしかったー。さっきバスルームで湯船にも浸かってね、優雅な気分よ」
バスローブ姿でちょっとのけ反ってみせると、メアリーは、まあ、と笑う。
「でね、これからアレンのうちに一緒に行くことになったの」
その途端、メアリーの顔からすっと笑みが消えた。
「なんですって!パレスに?まあ、大変!」
(は?パレス?なに、パレスって)
声をかけようとしたが、すでにメアリーはバタバタと慌ただしく動き始めて聞くに聞けない。
「美桜様、鏡の方を向いて下さい」
「は、はい」
圧倒されておとなしく従う。
メアリーは、ドレッサーの引き出しから大きなメイク道具を取り出すと、美桜の髪を手際よく分けながらクリップで留めていく。
さらにドレッサーの上の化粧水や乳液などをじっくり美桜の顔に沁み込ませると、クリームを手早く塗り始めた。
「すごいわねえ。メアリー、ヘアメイクも出来るのね」
「これくらいは当然ですわ。それより、ご出発は何時ですの?」
「えっとね、八時半にエントランスで待ち合わせなの」
「なんですって!あと四十分しかないですわ!」
「ご、ごめんなさい」
勢いに負けて、なぜだか美桜は謝る。
メアリーはもう何も耳に届かないようで、ものすごい集中力で手を動かし続ける。
メイクが終わると、すかさず今度は髪を結い始めた。
左右二つに分けて編み込んでいく。
まず右側を編み終えると、毛先を左耳の後ろで留める。
同じように左側を編み終えると、毛先を右耳の後ろの髪に押し込みながら留めた。
(おお、なんだかちょっと清楚な感じね)
美桜が鏡の中を覗き込んでいる間に、メアリーはクローゼットからなにやら取り出していた。
「美桜様、さあ、こちらにお着替えを」
「は、はい」
再びメアリーの勢いに呑まれて美桜は立ちがる。
メアリーが用意してくれたのは、サーモンピンクのドレスだった。
着てみると、丈は床より少し上なので、歩きやすそうだ。
美桜が足元を見ながら裾をつまんだりしていると、まあ!とメアリーが驚きの声を上げた。
どうしたのかと顔を上げると、鏡の中の美桜を見たまま、メアリーは両頬に手を当てて固まっている。
「メアリー、どうかした?」
「あ、いいえ。なんでもありませんの。さ、ではエントランスに向かいましょう」
腕時計を確認してから、メアリーはクローゼットの靴を選んで美桜に履かせ、廊下に出た。
「なんとか間に合いそうですわ」
「うん。ごめんね、急がせてしまって。ありがとう」
エントランスへの道を急ぎながら美桜はお礼を言う。
「とんでもない!私の方こそ、ばたばたとお見苦しくてすみませんでした。パレスにいらっしゃると聞いて、つい焦ってしまって」
「あ、そうだ、その、パレスって…」
「まあ。もうアレン様がお待ちですわ!」
(うっ、また聞きそびれちゃった)
階段の上から下を見ると、ちょうど入口の前で、グレッグが広げたコートにアレンが片腕を通すところだった。
「お待たせして申し訳ありません。美桜様のお支度整いました」
美桜より先に階段を下り終えたメアリーが声をかけると、アレンとグレッグは同時にこちらを見上げた。
と、そのとたん、中途半端な格好のままピタリと二人の動きが止まる。
(あら、どうしたのかしら。アレンったらコートに左腕だけ入れて固まってるし)
その滑稽さに、もしかして本当に時が止まっているのかと、美桜はパチパチ瞬きした。
「あの、二人ともどうかした?」
「あ、いや。別に」
二人は同時に動き出し、ようやくアレンはコートをきちんと着る。
「さあ、美桜様もこれを。外は寒いですわ」
「ありがとう」
メアリーに真っ白なコートを着せてもらい、出口に控えていたメイソンに挨拶して外に出ると、今度は美桜が動きを止めた。
「わあ!すごい」
メイソンの後ろにあるのは、車ではなく馬車だったのだ。
おずおずと近づいてみると、思ったよりずいぶん高い。
先頭には綺麗な毛並みの白馬が二頭、おとなしく待っている。
「さ、行こう」
感激している美桜をよそに、アレンはさっさと反対側に回って乗り込んだ。
美桜も、高い位置の手すりを掴んで足を引き上げる。
と、いきなり横にいたメイソンが両手を組んで差し出してきて、思わず踏みそうになった美桜は慌てて足を下ろした。
すると今度はメイソンが面食らったような顔をする。
どうやら、美桜の足を手で支えるつもりだったらしい。
「大丈夫よ」
そう言うと美桜は両手に力を込め、足を上に高く引き上げてはしご状の足載せにかけると、そのまま一気に体を引き上げて乗り込んだ。
メイソンが慌てふためいて妙な動きになるのを見て、美桜はふふふと笑う。
やれやれと言わんばかりに肩で溜息をついた後、メイソンは御者台へ回った。
向かい側に座っているアレンが、どうかした?というように首を傾げてきたが、ううんと美桜は首を振る。
アレンはまだ不思議そうにしながら、いつの間に持っていたのか、分厚い書類に目を落とし、それきり仕事モードに入ったようだった。
やがて短い掛け声とともに、メイソンが手綱をさばく音がした。
美桜はわくわくして前に身を乗り出して覗いてみる。
メイソンとグレッグが座る前方に、白馬がゆっくり歩き出すのが見えた。
ガコンと最初は衝撃があったが、やがて軽快な足並みになると、リズミカルな振動が美桜達にも伝わってくる。
(わー!楽しい。馬車で移動なんて素敵)
美桜は、行ってらっしゃいませ!と見送ってくれるメアリーに笑顔で手を振った。
半円を描きながらアプローチの端まで来ると、馬車は一旦停止した後左へ曲がる。
窓の外には、のどかな田舎の風景が広がっていた。
(そう言えば、外の景色を見るの初めてかも)
空港からここまではぐっすり眠っていたし、到着も夜だったことから、この辺りがどんな場所なのかまだ知らなかった美桜は、ぴたりと窓に顔を付けそうな勢いで、夢中で外を眺めた。
道はとても広々としていて、今馬車が進んでいるのは車道の横、土のまま塗装されていない部分だった。
しばらくは遠くに木々が見えるだけの風景だったが、やがて両側に家が見え始めた。
ひとつ、ふたつ、と数えていたら、その後はぽつぽつと家や店が並び、やがて活気付いた街並みに変わっていった。
朝の市場だろうか、何人かがテントの下で野菜や果物を並べているのが見える。
(小さめのカラフルな屋根、可愛いな。どこのおうちも窓辺やポーチにお花を飾ってるのね。お母さんと子ども達、一緒に市場で買い物かしら。着ている服も可愛い)
アレンの邪魔にならないように、一人心の中で興奮している美桜だった。
小さな男の子がこちらに気付き、隣の母親に声をかけながら馬車を見上げて指を差している。
美桜は、バイバーイと小さく呟いて手を振った。
しばらくするとまたもとののどかな風景に戻り、美桜はひたすら遠くを眺める。
向かい側のアレンといえば、全く周りのことなど気にしていない様子で、熱心に書類を読みながら何かを考えているようだった。
どれくらい経ったのだろう。
ずっと真っ直ぐ進んでいた馬車が、さっきようやく右に曲がったのだが、そこからは全くと言っていいほど景色が変わらない。
さすがに退屈になってきた美桜が、控えめに声をかける。
「ねえ、アレン。あとどのくらいで着きそう?」
ん?と言って外の景色を確認してから、
「もうじき着くよ。もう敷地内には入ってるから」
そう言うとアレンは再び視線を書類に落とす。
(え?敷地内?どういうこと?)
聞き返したかったが我慢して、美桜は外を見ながら考える。
(さっき馬車が右に曲がった時、大きな門をくぐったけど、もしかしてそこからってこと?)
思い出してみれば、その時門の横で敬礼していた衛兵さんの様な格好の人がいたっけ。
(じゃあやっぱりそこからアレンのおうち、というか敷地なの?)
まさかそんなことは…、と考えを打ち消そうとした時、着いたよ、とアレンがふいに言う。
え?と慌てて窓から外を見ると、ゆっくり右にカーブを描きながらスピードを落とす馬車の左側に、大きな建物が見えてきた。
(何これ、博物館?いや、美術館とか?)
窓がずらっと並んだ三階建ての建物は、とにかく横に広く、大きな噴水を右手に見ながらようやく馬車が止まったところには、これまた大きなエントランスがあった。
「さ、降りて」
そう言い残してアレンはサッと飛び降りた。
「あ、ちょっと待って」
慌てて美桜も続こうと足を踏み出すと、メイソンが下で待ち構えているのが分かる。
「大丈夫だってば」
美桜はそう言うと、わざと遠くの方に飛び降りる。
メイソンはまたしても、妙な動きをしただけだった。
メイソンを振り返りふふっと笑っていると、アレンに名前を呼ばれ、美桜は急いで後を追う。
グレッグが開けてくれているその巨大な扉から中に入ると、美桜は上を見上げて思わず息を呑んだ。
二階まで吹き抜けになっているその天井には、煌びやかなシャンデリアが三つ、そしてその下には幅の広い大きな階段があり、まるでどこかの宮殿のようだった。
(あ!だからパレスなのか!)
ようやく腑に落ちたとばかりに美桜が頷いていると、
「ようこそパレスへお越し下さいました」
隣から誰かが声をかけてきた。
白いブラウスに紺のロングスカート、深々と丁寧なお辞儀をする身のこなしから、よほど経験の長いメイドさんなのだろうと分かる。
「あ、初めまして。美桜と申します」
つられて美桜も神妙に頭を下げる。
やがてゆっくりと顔を上げたベテランらしきその女性は、美桜の顔を見るととたんに、今まで浮かべていた柔らかい笑みから一転、驚きの表情に変わった。
(あれ?まただ。デジャヴ?)
どうして今日は、こうもみんなに驚かれてしまうのだろうと、美桜は笑顔を浮かべつつ困惑する。
するとはっとしたように慌てて彼女は頭を下げる。
「申し訳ありません。失礼いたしました」
「あ、いえいえそんな。大丈夫ですから」
美桜が急いで声をかけていると、その様子を見ていたアレンがふいに呟いた。
「へえ、クレアもそうなのか」
なんのことだろうと美桜が振り返ると、アレンの隣でグレッグも頷いている。
はて?ますます分からない。
「美桜、申し訳ないんだけど、俺はこれから仕事があって庭園に行けそうにないんだ。代わりにクレアが案内するから、好きなだけ見ていって。帰りはメイソンが送っていく」
「うん、分かった。ありがとう」
美桜がそう言うとアレンはじゃあと手を挙げ、グレッグと何やら話しながら階段を上り終えると、やがて右側の通路へと姿を消した。
「あの、美桜様、改めて先程は失礼いたしました。私は長年このパレスに勤めるクレアと申します」
気付けば二人きりになっており、美桜は再びよろしくお願いしますと頭を下げた。
クレアは、自分達よりも二回り、いや三回りほど年上に見える、恰幅の良い女性だった。
頼りがいのある、それでいて親しみやすい笑顔を浮かべた、優しいおばあちゃんのような雰囲気だ。
(なんだか仲良くなれそう)
美桜は直感的にそう感じた。
◇
(明るい陽射したっぷり。気持ちいいなあ、このお部屋)
庭園をご案内する前に、まずはお茶を用意致しますねとクレアは言いながら、美桜をこの部屋に案内してくれた。
エントランスの階段を上り、アレン達とは反対側の左に進むと、すぐまた階段を上がる。
そこから長い廊下を歩いてようやく着いた部屋は、ある程度想像していたとはいえ、やはり広さと豪華さに目を奪われた。
廊下と反対側の壁は一面窓になっており、直接バルコニーに出られるようになっている。
部屋の中央には大きなテーブル、そして両端には立派なソファがそれぞれ置かれている。
かといって、重々しい雰囲気ではなく、明るく気持ちの良い空間だ。
きっと壁紙や家具の色合いがそうさせるのだろう。
「さあ!美桜様、そちらのソファへどうぞ」
「ありがとう」
促されて座ると、クレアは次から次へと綺麗なカップやお皿、ポットを並べ始める。
いったい何が始まるのかと思うほどの数だ。
「え、あの…」
戸惑う美桜をよそに、クレアはワゴンを押してきて嬉しそうに言う。
「私もう嬉しくって。だってお客様をおもてなしするなんて、久しぶりで久しぶりで。朝、連絡を受けてから、それはもうウキウキしていましたの」
そんな大げさな、と美桜は心の中で呟いたが、クレアは心底楽しそうだ。
「さあ、どうぞ!」
そう言って、大きな楕円形のプレートを美桜の前に置く。
「うわー、おいしそう!」
一口サイズのケーキやクッキー、ゼリーやムースなどが、まるで宝石箱のように綺麗に並べられている。
「まだまだありますわよ、こちらもどうぞ!」
そう言ってクレアが張り切って見せてくれた別のプレートには、スコーンやサンドイッチ、フルーツが豪華に盛られている。
「こちらのホイップクリームやジャムを添えてお召し上がり下さいね」
「ちょ、ちょっと待って!」
たまらず美桜はストップをかける。
「あの、一人でこんなにたくさんは…。良かったらクレアさんも一緒にいかがですか?」
とたんにクレアは戸惑いの表情を浮かべる。
「ええ?まさかそんな。お客様とご一緒になんて」
「だって誰かと一緒に食べた方がおいしいでしょう?それに私、お客様ではなくてアレンの友人ってだけだし」
「そう仰られても…。メイドがご一緒になんていけませんわ」
「大丈夫よ。だって他に誰もいないし。ね?さあ」
美桜はクレアの腕を引いて強引に隣に座らせると、いくつかケーキやスコーンを取り分けた。
「じゃあいただきましょう!」
小さなイチゴのショートケーキを一口で頬張ると、おいしい!と美桜はクレアに笑顔を向ける。
ほら、と促されてクレアもおずおずと口に入れた。
「まあ、本当においしいですわ!」
でしょ?となぜか美桜が得意気に言い、二人で顔を見合わせて笑い出した。
◇
「ひとつ質問してもいいかしら?」
すっかり仲良く打ち解けておしゃべりしながらケーキを楽しんだ後、二人は紅茶で一息ついていた。
「ええ、なんでしょう?」
クレアがカップをソーサーに戻しながら美桜を見る。
「みなさん、どうしてそんなに日本語がお上手なんですか? 普通に話せるどころか敬語までちゃんとしているし」
日本に行かれたことあるんですか?と付け加えると、クレアは笑って首を振った。
「いいえ、私達だれも日本に行ったことはありません。行ってみたいですけれど」
「じゃあ、どうやって日本語を?」
クレアは少し考えた後、ゆっくり話し始めた。
「美桜様、アレン坊ちゃまのお母様のことはご存じですか?」
「ええ、確か日本の方なのよね?」
アレンが日本の高校に編入して来た時、皆が一番に聞いたのが、どうしてそんなに日本語が話せるのか、という質問だった。
母親が日本人なんだ、と答えるアレンは、こう続けた。
子どもの頃に亡くなったんだけどね。
それきり皆、その話題には触れていない。
クレアは小さく頷くと、懐かしむような顔をした。
「私達みんな、ゆりえ様のことが大好きだったのですわ」
ゆりえというお名前なのね、と美桜はその時初めて知った。
日本人と結婚するとアレンの父親が言った時、ウォーリング家で働く人は皆困惑したらしい。
誰も日本語は話せず、ましてや日本の文化やしきたりも分からない。
日本から来る花嫁をどうお世話すればいいのか…
「最初は手探りでしたわ。ゆりえ様は英語でお話して下さって。私達は、簡単な英語で済むようにと、いつも短い言葉でやり取りしていました。今思えば他人行儀な雰囲気でしたわ。ですがゆりえ様は、どんなささやかなことにも私達にお礼を言って下さり、その笑顔はまるでお花が咲いたようにぱっと周りを明るくして下さいました。立ち居振る舞いもとても美しくて。私達はいつしか、ゆりえ様に少しでも喜んで頂きたいと日本語を勉強し始めました」
とは言っても、最初は簡単な挨拶、
「おはようございます」「おやすみなさい」という程度だったらしい。
「それでもゆりえ様は喜んで下さって。私達は競うように、もっと話せるようになりたいと、古い映画を日本語の吹き替えで観たりして勉強しましたの」
そうそう、一つ面白い事が…と、クレアが思い出し笑いをしながら続ける。
「グレッグったら、時代劇とかサムライ映画を観て勉強したんですの。そしたら、ふふ、すっかりサムライのような言葉使いになって。拙者に全てお任せ下され、なんて言ってましたわ。ゆりえ様は、それはそれは面白そうに笑ってらして。私も今ならその面白さが分かりますわ」
確かにそれは面白いと、美桜も想像しながら笑ってしまった。
けれど良く考えてみれば、ここまで上達するには相当の努力が必要だっただろう。
そう言うとクレアは首を横に振った。
「いいえ、私達は楽しんで勉強しましたわ。だってゆりえ様が喜んで下さるから。誰も辛い思いをしながら覚えた訳ではないのです」
それだけみんなに慕われていたという事なのだろう、アレンのお母様は。
「ゆりえ様との思い出は決して忘れません。あれからもう十二年ですわね。私達、その後も日本語を話す癖が抜けなくて。さらに上達しましたわ」
そう言って、クレアは少し笑う。
あれから十二年、ということは、アレンは当時まだ十歳だったのか。
辛かっただろうな。
そんなにも優しいお母様がいなくなって。
美桜は思わず手元の紅茶に視線を落とした。
と、ふいにクレアが話しかける。
「美桜様、今日の美桜様のお支度はメアリーが整えたのですね?」
「ええそう。時間がない中、急いでヘアメイクをしてくれたの」
そうですか、とクレアは頷きながら、またどこか遠い目をした。
「メアリーは、坊ちゃまの五つ上なのですが、もうずいぶん長くここにお仕えしているのです」
「そう言えば、メアリーも日本語すごく上手だものね。あれ?でもアレンのお母様がいらした時は、メアリーはまだ…」
そうなんです、とクレアは言って、長い話を聞かせてくれた。
アレンがまだ三歳だった頃、ウォーリング家で働きたいと若い女性が訪ねてきた。
そういったことは珍しくなく、実際にそのまま働き始めるメイドも多い。
だが、彼女は少し違っていた。
八歳の女の子の手を引いてやって来たからだ。
「あ、その女の子がメアリー?」
美桜の言葉にクレアは頷いて話を続けた。
その女性、メアリーの母親は夫を亡くし、困り果てて住み込みで働けるところを探していたのだ。
だが、ウォーリング家に住み込みで働く者に子連れはいない。
クレアやグレッグ達は、どうしたものかと戸惑ったらしい。
「偶然そこにゆりえ様が通りかかられ、事情をお話しすると、すぐにこう仰いましたわ。今日にでもここに越して来なさい。もちろん娘さんも一緒に、と」
メアリーの母親は感激し、精一杯お仕えしますと何度も頭を下げたらしい。
そうしてメアリーも一緒に、パレスの離れにあるメイドの住まいに越して来た。
「そこまでは良かったのですが、なにせ子連れのメイドが初めてだったものですから、母親の仕事中どうすればいいのか困ってしまって。学校から帰ったら、とにかく部屋でおとなしく過ごすように言うしかなかったのですわ。ですが、ゆりえ様はその事にもすぐにお気付きになって、メアリ―も一緒にパレスに連れていらっしゃいと仰いました。せっかくアレンの良いお友達が近くにいるのだからと。私達は、さすがにそんなことは、と反対しましたわ。メイドの子とご子息を一緒に遊ばせるなんてと」
アレンの母はそんなクレア達の言葉を気にせず、やって来たメアリーに、アレンの遊び相手になってくれる?と聞いたのだそう。
あなたの方が少し年上だから、お姉さん代わりになってやってと。
「メアリーは目を輝かせて頷いていました。それから毎日、坊ちゃまとお庭を走ったりお花を摘んだり。危ない事やお行儀の悪い事をしそうになると、それはいけませんとメアリ―がお止めしました。ゆりえ様は、こういうことは大人が注意するよりも、メアリーから言われた方が良いわね、と笑ってご覧になっていました。そんなゆりえ様のことを、メアリーもとてもお慕いしていましたわ。やがて大きくなると、ゆりえ様の身の回りのお手伝いもするようになりましたの。ゆりえ様も喜んでいらして。特にメアリーのヘアメイクはとても上手と褒めていらっしゃいました」
そこまで話すと、クレアはまじまじと美桜を見つめた。
「美桜様の今日の髪型は、メアリーがよくゆりえ様に結って差し上げたスタイルなんです。それにそのドレスの色、温かいサーモンピンクの色合いも、ゆりえ様のお気に入りでした」
えっ…、と驚く美桜に、クレアは優しい笑顔を浮かべた。
「そうなんですの。ですから私、今朝初めて美桜様を拝見した時びっくりしてしまって。一瞬ゆりえ様かと思ってしまいましたわ。お顔が似ていらっしゃる訳ではないので、不思議ですが。でも、そうですか、メアリーが。きっと時間がなくて焦る中、無意識のうちにそうしたのでしょう」
納得したようにクレアは言った。
(そうだったんだ。だからあの時メアリーは鏡の中の私に驚いたのかな。アレン達も)
なんだかしんみりとした雰囲気になったのに気付き、クレアは明るく切り出した。
「さあ!美桜様。庭園に参りましょう。どうぞお好きなだけご覧になって下さいね」
◇
「うーむ…」
目を通していた書類を机に置くと、ジョージ・グレイ・ウォーリングは椅子の背もたれに体を預けて腕を組んだ。
そばに立って父の様子を見ていたアレンは、背筋を伸ばして身構える。
何を言われるかは分かっていた。
「アレン、これではダメだ。いいか、我がウォーリング家が昔から大事にしてきた二年に一度の式典だぞ。各国からお客様をお招きするのだ。華々しく、明るいイベントでなくてはいけない。なのにお前のこの企画書は、まるで年間の業務報告のようだ。決してお客様に喜んで頂けるものではないぞ」
「はい。仰る通りです」
アレンは、かしこまって言う。
たとえ家族であっても、いや家族だからこそ、仕事中の言葉使いには気を付けろと父に常日頃言われている。
パレスの二階にある書斎には、アレンとジョージ、グレッグの三人しかいない。
たいがいその三人で仕事をするのだが、それでも決して気を抜いてはいけない、と。
「父上、企画内容は改めて考え直します。ですが、式典まであと四か月足らず。そろそろ準備に取り掛からなければいけないのも事実かと思います」
「うむ、だが内容がはっきり決まっていないのに何を準備すると言うのか?」
「確かにその通りです。ひとつご提案なのですが、式典の日程を遅らせるというのは?」
「それはいかん。代々式典は五月一日と決まっておる。お客様もそのつもりで日程を調整して下さっているのだぞ。招待状ももう発送する時期だろう?グレッグ」
ふいに話を振られたが、入口付近の机で庶務をしていたグレッグは、もちろん常に耳は二人を意識しており、すぐに返事をする。
「はい。いつでも発送出来ます」
ジョージは頷くと立ち上がり、窓の外を見ながら話を続けた。
「いいか、アレン。ウォーリング家がここ数年衰え始めてきたことは否定出来ない。すでに取引先などに気付かれている気配もある。次の式典は、そんな不穏な空気など一掃するくらい豪華でなくてはならん。ウォーリング家は大丈夫なのか?という噂を、まだまだ安泰だな、より一層栄えていくだろうという噂に変えなくてはならん。それには…、ん?」
神妙に聞いていたアレンは、途中で言葉を止めたジョージを不思議に思って顔を上げた。
「どうかした?親父」
思わず言ってしまってから、まずいと首をすくめる。
仕事中だぞ!といつものごとくたしなめられると思いきや、ジョージは窓の外を見つめるばかりだ。
「ゴホン。どうかしましたか?父上」
しれっと言い直しながら隣に立って、何を見ているのかとその目線を追う。
眼下に広がる庭園の真ん中、噴水の近くに美桜とクレアの姿が見えた。
約束通りクレアが案内しているのだろう。
二人は時折顔を見合わせて笑い、楽しそうな様子が伝わってくる。
(それにしても美桜ってジェスチャー大きいなあ。子どもみたい)
アレンが思わず笑みをこぼす横で、ジョージはこわ張った声を出した。
「おい、アレン。これはいったいどういう事だ?あの人はいったい…」
「ああ、彼女はですね」
「…ゆりえ?」
アレンはぎょっとして、窓に張り付いたままのジョージを見た。
(ええ?まさか親父まで見間違うとは)
もう一度美桜に目を向ける。今まで一度も美桜が母に似ていると思ったことはなかった。
なのに今日の美桜は、誰の目にも母を思い起こさせるようだ。
(そう言えば顔の輪郭とかが似てるのかな?いや、雰囲気とか佇まいとか、そういうのも似てるのかも)
あれこれ考えを巡らせていたアレンは、隣で返事を待っているジョージの視線にようやく我に返った。
「ああ、えっと、彼女は高校時代の友人です。仁達と一緒に日本から来て、今フォレストガーデンに泊まっています」
「なんと!日本から?お前なぜパレスに泊まってもらわないんだ?」
「え?いや、だって、単なる友人ですし…」
「こうしちゃおれん!グレッグ!今すぐお客様との食事の準備を!」
「はっ!」
「いやいや、ちょっと待てって。親父、グレッグ!」
アレンの引き留める声もむなしく、二人はいそいそと部屋を出て行った。
◇
「はあ、素敵ね。まるで不思議の国のアリスになった気分」
「まあ、美桜様ったら」
噴水の淵に腰かけてうっとり見上げる美桜の隣で、クレアは楽しそうに笑う。
「だって見て!この庭園の模様。こうやって近くで見るとまるで迷路に迷い込んだみたい」
「確かにそうですわね。木々は大人の背より高いですもの」
「でしょう?私、あっちの端から無事に出て来られるかやってみようかしら。ぐるぐる巻きになってる所とか、難しそう。ん?アレン!」
いつの間にかアレンがこちらに向かって来るのが見えた。
「え?まあ、坊ちゃま!」
そう言うとクレアは、すぐさま少し離れてアレンと美桜の様子を見守る。
「どうしたの?アレン。お仕事は?」
「ああ、うん。まあね。まだ途中なんだけど」
アレンは言葉を止めて少し考える素振りをした。
「どうかした?何かあったの?」
美桜がちょっと心配そうに覗き込む。
「いや、なんでもないよ。あのさ、美桜。これから親父が一緒に食事したいって言ってるんだけど…。いいかな?」
「まあ!旦那様が?それは大変ですわ!」
美桜が答えるより先にクレアがそう言うと、失礼しますと慌てて立ち去って行く。
「え?クレア?何、えっとお食事?」
「うん、そう。急にごめん。それにまだ十一時前だし。いいかな?」
「それはもちろん、構わないけど」
クレアのあの慌てようが気にはなるものの、美桜は頷いてアレンと部屋に戻った。
「いやーこれはこれは!ようこそパレスへ!」
外階段を上がってバルコニーから部屋に戻ると、急ににこやかで人の良さそうな笑顔の男性が握手を求めてきた。
「あ、こ、こちらこそ。お邪魔しています」
びっくりして怯みそうになりつつも、なんとか冷静を装う。
(えっと、この方がアレンのお父様?)
ぶんぶんと握った手を強く揺さぶられながら、美桜はまじまじと見つめ直す。
背は、お世辞にもスラッとしているとは言えず、どちらかと言うと小柄でぽっちゃり気味の、なんとも愛嬌のある感じだ。
(絵本に出てくる王様みたいに可愛らしい感じ、なんて言ったら怒られるわね)
予想とは違ったけれど、近寄りがたい雰囲気などまるでなく、美桜はほっとした。
「あの、初めまして。吉野美桜と申します。急にお邪魔して申し訳ありません。今、フォレストガーデンに泊まらせて頂いてます。とても素敵なところで。本当にありがとうございます」
改まって頭を下げる。
「いやいやそんな。いつでも大歓迎ですよ。私はアレンの父のジョージです。さあテーブルの方へどうぞ」
ジョージの向かい側にアレンと並んで座ると、ようやく落ち着いた。
クレアやグレッグが、手早く食器を並べてくれる。
「いやー、アレンにこんな素敵なお嬢さんがいたとはねえ」
「は?親父、何か勘違いしてない?」
「美桜ちゃんと言いましたね。いやー、嬉しい!嬉しい限りですよ。なあアレン」
「なあって。いや、親父、聞いてる?」
「高校が一緒だったってことは、美桜ちゃんもS学園?今も?」
「あ、はい、そうです。大学の四年生です」
「そうですか、うんうん。さあまずは乾杯しましょう」
乾杯の後はおいしいランチを頂く。
一方でジョージの話は止まらない。
「実は私もね、昔S学園大学に留学していたんですよ。二年ほどね」
「え?そうなんですか?」
美桜は驚いてアレンを見た。そんな話は聞いたことがなかった。
「そうなんです。もともと日本に興味があって。いつか、写真で見るような風景や神社を実際に見に行きたいとずっと思ってました。大学に進む時に、ふっと思いついたんです。日本の大学に行きたいと。親には最初反対されてね。日本とは縁もゆかりもないからと。でも私は一度決めたらやり通す性格なんです。自分で手配すると言ってあらゆる大学からパンフレットを取り寄せました。たくさんある中で、S学園のパンフレットだけが目に飛び込んできたんです。絶対ここがいい!って」
「うちの学園のパンフレットって…。ひょっとして桜、ですか?」
美桜が聞くと、ジョージは大きく頷いた。
「パンフレットの表紙の、あの満開の桜。実際に入学式の日に見た時は、それはそれは感激しました。校門を入ってすぐ、その木が見えると、私は一歩も動けなくなってただ圧倒されて眺めていました。誰かと待ち合わせしているらしい女の子が立っていてね。ちょうどその時風が吹いて、桜の花びらがふわっと一気に舞い落ちたんです。桜吹雪の中で、髪を押さえながら花びらに手を伸ばしていたその女の子が目に焼き付いてね。それから毎日その子を探しました。もう一度桜の木の下で見かけた時は、思い切って声をかけました。まだ覚えたての日本語でね。ははっ」
照れたように笑い、なつかしいなあと呟く。
「その桜の彼女と私は、五年後に結婚しました」
わあ!と美桜が思わず両手を口に当てて驚くよりも、さらに大きな声が部屋のあちこちで上がった。
「ええー?」
「なんと!」
「んまあっ!」
アレン、グレッグ、クレアも、皆一様に驚きのあまり固まっている。
「おお、いかんいかん。ついうっかり話してしまったな。それじゃあ美桜ちゃん、私はこれで失礼するよ。この後もどうぞごゆっくり」
「あ、はい。ありがとうございます」
慌てて美桜も立ち上がり、もう一度握手する。
「じゃあ、俺も…」
「いや。お前はまだ美桜ちゃんのお相手をして差し上げなさい」
アレンにそう言い残すと、ジョージは陽気に、じゃあねーと手を振りながら出て行った。
と、ふうと誰からともなく溜息が漏れる。
「初めて聞きましたわ、その…、旦那様と」
「ああ、私もです。ゆりえ様との…」
「うん、俺も聞いたことなかった」
(どうやらお二人の馴れ初めは、ずっと秘密にしてこられたのね)
美桜はそう思いながら、先程の話を想像してみた。
「とってもロマンチックな出会いだったのね」
美桜の言葉に、そこにいる誰もが頷いた。
◇
「さあ、ではお待ちかねのイングリッシュガーデンへご案内しますわ」
「やったー!楽しみ」
クレアと並んで廊下を進みながら、美桜はいくつか気になることを思い出していた。
食事を終えてアレンが仕事に戻ると、美桜はソファでデザートをふるまってもらった。
フレディと名乗るシェフ自らが、テーブルでバーナーを使って仕上げをしてくれたクレームブリュレは最高においしく、美桜は幸せな気分に浸っていた。
そしてようやく、すぐ近くに大きなグランドピアノがあることに気付いた。
綺麗な掛け布がしてあり、けれどどこか寂しげで、きっと長い間使われていないのではないかと思ったのだ。
「ええ、あのピアノはゆりえ様がよく弾いていらっしゃったものです。幼い頃の坊ちゃまも、少し教わってご一緒に弾かれたりしてましたわ。でも今はまったく」
うつむき加減でクレアが答えてくれた。
(きっとお母様を思い出してしまうからなのね)
美桜はそう思いつつ、もう一つ気になったことを聞いてみる。
「ピアノの横に、楽譜が並んだ棚があったけれど、そこにおいてあった横長の楽器ケース、もしかしてフルートかしら」
「ええ、ゆりえ様のフルートです。でもよくお分かりになりましたわね」
「私、吹奏楽部でフルートを吹いていたから」
「まあ、そうなんですね。ゆりえ様の演奏はとても美しくて、私は仕事の手を止めていつも聴き入っていましたわ」
懐かしそうに言うクレアは、やはりどこか寂しさも感じているようだった。
それきり言葉もなく歩く二人だったが、クレアはやがて立ち止まり、わざと明るい声で言った。
「さあ美桜様。着きましたわ」
「あ、え?ここ?」
顔を上げた美桜は思わず聞き返す。
「だってここ、まだ廊下の途中じゃ…」
「開けますわよ。準備はよろしいですか?」
美桜の戸惑いをよそに、クレアは廊下の壁に突如現れた大きな扉を開けた。
「ええー!何、ここ。すごい…」
まさに緑あふれるガーデンが、一瞬で目の前に広がったのだ。
「どういうことなの?だってまだ外に出ていないのに」
驚きのあまり声がかすれる美桜に、クレアが丁寧に説明してくれた。
パレスは四つの棟で出来ており、長方形を描くように並んだ棟の中央の空間が、このガーデンなのだと。
言わば学校の中庭のような感じだが、大きな特徴は、ガーデン全体が温室であること、そして天井がガラスになっていることだった。
広さは、それこそ学校の校庭くらいあるだろう。
そこが一面、色とりどりの花や緑で溢れている。
天井は、二階部分まであるだろうか。
降り注ぐ太陽の光に目を細めながら見上げると、ガラス屋根は大きな三角形になっていて、ガーデンの隅々までキラキラと明るさをもたらしている。
「こんなふうになっていたなんて。全く気が付かなかったわ」
「ええ。ここはプライベート空間として目に付かないように、廊下からはすりガラスやステンドグラスで見えないようになっています」
なるほどと納得しながら、美桜はおずおずと歩み出した。
温室特有の温かく湿った空気、そして何と言っても花や緑のみずみずしさを感じ、思わず深呼吸する。
「なんて素敵なところなの」
そう言うのが精いっぱい、あとはただ言葉も忘れてひたすらガーデンを見て回る。
ところどころに小川やため池があり、覗き込むと小さな魚が泳いでいる。
飛び石をわざと大きく飛んで渡ると、美桜は楽しさのあまりクレアを振り返って笑った。
その様子にクレアも思わず微笑む。
ガーデンのちょうど真ん中は少し小高くなっており、ベンチやテーブルなどもあった。
「ここでケーキやお茶も召し上がれますよ」
「ああ、それとっても素敵ね」
クレアの言葉に美桜はうっとりする。
「もうなんだったら、私ここに泊まりたいわ」
「ええ?まあ、美桜様ったら」
冗談ととらえたのか、クレアが可笑しそうに笑う。
「本当よ。だって想像してみて。夜になったら月の光が降り注ぐでしょう?その中で眠るのよ。そして朝日を浴びて目が覚めるの。そんな素敵なことある?」
「それは確かにそうですわね」
クレアは真顔に戻って頷いた。
「でしょう?あー、寝袋持ってきたーい」
「まあ、それはさすがに」
苦笑してからクレアはもう少し先まで美桜を案内した。
「このガーデンは、色々な花が植えてありますけれど、一番多いのはバラです。ありとあらゆる種類のバラを育てています。旦那様が提案してこのガーデンを作らせたのですわ。ゆりえ様のために。ゆりえ様はとても喜んでいらして、毎日ここで何時間もお過ごしでした。ローズガーデンと呼んでいらして」
「ローズガーデン!ここにぴったりね」
「ええ。もう少しすると、たくさんのバラが咲き始めますわ」
その頃にも見てみたいなあと思いながら、美桜はもう一度じっくり見渡してみた。
(アレンのお母様はきっと、音楽と花に溢れた幸せな日々をここで過ごされたのだろうな)
ふと、小鳥のさえずりまで聞こえてきて、空耳かと思っていたら、すぐ近くを飛んでいてびっくりする。
「小鳥までいるのね?」
「そうなんですの。ゆりえ様は動物もお好きでしたから」
ふふっと優しげに笑うクレアに、なんだか美桜の心も温かくなる気がした。
◇
「美桜ちゃん、パレスに行ったんだって?」
仁が大きなサラダボウルから、美桜と絵梨の分を取り分けながら聞く。
「うん、そうなの。ガーデンを見せてもらっって。あ、ありがとう」
仁からお皿を受け取りながら美桜が答える。
あの後フォレストガーデンに戻ってから、絵梨と美桜は改めて仁に館内を案内してもらった。
ブティックまでしか知らなかったが、その先には大きな丸い円柱の吹き抜けがあり、周りをドーナツ型に取り囲むようにして様々な店が並んでいた。
活気があって賑やかだ。
「ざっくり言うと一階がレストラン、二階がデパート、三階がスポーツジムやアミューズメント施設、四階が図書室やカフェってとこかな」
あまりの規模に驚いて仁の言葉がすんなり入ってこなかったが、絵梨も美桜もたくさんの豪華な施設にテンションは上がりっぱなしだった。
「バーは最上階ね。映画館もあるよ。あと、運動するなら三階のクラタスポーツへどうぞ」
「クラタスポーツ?」
「え、それって仁の?」
「そ!我が倉田グループが出資してるんだ。ウエイトトレーニングの他にもテニスコートやパターゴルフ、卓球とかスケボーなんかも出来るよ。もちろん道具やウエアもレンタル無料!」
話を聞くうちに、ようやくこのフォレストガーデンのことが分かってきた。
要するに世界中の色んな企業が出資しているから、全て無料で楽しむことが出来るという訳らしい。
「そういうこと。もちろん土台はウォーリング家と懇意にしていることだけどね。その上で、フォレストガーデンの趣旨に賛同して出資してるんだ。まあ、自社の宣伝にもなるし、ここをいつでも利用できるメリットもある」
なるほど、と絵梨と美桜は頷いた。
「それからここで働くスタッフは、皆ウォーリング家からお給料をもらっている。つまり地元の人は職探しに困らずに済むんだ」
「そうなんだ。地域の人に働く場も提供してるのね。アレンは優しい地主さんてところ?」
絵梨の言葉に、仁はうーんと少し考える。
「そうかもね。あ、でもちょっと違うか。あいつのおじいさんの、そのまたおじいさん、いや、違ったかな?」
「…何言ってるの?」
絵梨が冷めた目で見ていると、とにかく!と仁は語気を強めた。
「あいつの先祖は伯爵だったんだよ。今は違うけど、地元の人達は今でもウォーリング家を讃えてる。だから今は、慕われてる大地主ってとこかな」
思わぬ話の展開に、ええーっと驚きの声を上げる絵梨と美桜だったが、仁は気にする様子もなく、お、ここにしようぜ。エスニック料理食べたかったんだ。と店内にスタスタ入って行った。
大皿で次々出てくる料理を、仁は手早く取リ分けてくれる。
ナシゴレンや生春巻きなど、どれもこれもとてもおいしかった。
美桜がパレスのことを聞かれたのは、ちょうどサラダのおかわりを仁が渡してくれた時だった。
「どうだった?パレス。ジョージパパにも会った?」
「やだ、仁くん。ジョージパパって」
(でもその呼び方は合ってる気がする)
美桜は思わずクスッと笑った。
「あ、そうだ。さっきアレンから連絡あってさ。明日、四人で出かけないかって」
「え、どこどこ?行きたーい!」
まだ行先も聞かないうちに絵梨が答える。
「まあ、行ってからのお楽しみかな」
仁の言葉に、わーい!楽しみと絵梨が喜ぶ。
「絵梨ちゃんったら、気が早いね」
そう言いつつ、美桜もなんだかわくわくしてきた。
(四人でお出かけかあ。うん、楽しみ!)
美桜はぼんやりとした頭で考えた。
かすかに鳥のさえずりが聞こえてくる。
(もう朝か。起きなきゃ)
ゆっくりと目を開けると、見慣れない高い天井が見えた。
顔に触れる空気の質も違う。
(あれ?なんだっけ、ここ)
しばらくしてから、ようやく昨日の記憶が蘇ってきた。
(そうだ!イギリスに来たんだ。夕べとっても楽しかったなあ)
自然と笑みが浮かぶ。
美桜はそのまま勢い良く起き上がった。
まだ外は明るくない。
枕元の時計を見ると、六時にもなっていなかった。
隣のベッドを見ると、絵梨はぐっすり眠っている。
それはそうだろう。
仕事があるからと、十時くらいに引き上げるアレンに続いて、美桜も早めに部屋に戻って眠った。
仁と絵梨は、きっとその後も真夜中まで飲んでいたに違いない。
(どうしようかな、もう一度寝ようかな)
一瞬そう思ったが、美桜はこのまま起きることにした。
絵梨を起こさないよう、そっと隣のドレッシングルームに行くと、洗顔や着替えを済ませて部屋を出た。
二人が泊まっている部屋は、廊下側からドアを開けると、まず小さな待合室のようなスペースがある。
そこから更にドアが二つ並んでおり、左のドアはベッドルーム、右のドアはドレッシングルームに繋がっている。
つまり、ドアを開けた時にたまたま廊下を通りかかった人に部屋の中を見られる心配もないし、今のようにベッドルームを通らずドレッシングルームから直接廊下に出ることも出来る。
さてと、これからどうしようと美桜は少し考えた。
(ダイニングルームのドリンクコーナーは、いつでも使えるって仁くんは言ってたけど、こんなに朝早いとどうかな?)
とにかく行ってみることにした。
(あ!ちゃんと用意されてる!)
二十四時間使えるように、きっと夜中も補充に来てくれているのだろう。
美桜は有難くコーヒーをもらうことにした。
ミルクを多めにして、クッキーをひとつソーサーに載せる。
なんだかそれが自分の中の決まりになってきたみたいで、美桜はふふっと笑った。
迷うことなくソファに向かい、カップをテーブルに置く。
と、少し窓のカーテンが揺れ、冷たい空気が入ってきたのに気付く。
(扉開いてる?換気でもしてるのかな?)
それにしてもこのままだと寒すぎる。
扉を閉めようとした時、美桜は外の人影に気付いた。
「アレン!どうしたの?こんなところで」
思わず大きな声を出してしまった。
アレンはバルコニーの手すりに両手を載せて、そこに顔を突っ伏していたのだ。
その後ろ姿は、なんだかとても寂しげに見える。
「びっくりした…。美桜?」
一瞬体をびくっとさせてから、アレンはゆっくりとこちらを振り返った。
「ごめん、びっくりさせちゃった。どうしたの?こんな朝早くに」
「ああ、うん。何でもないよ。ちょっと考え事」
「なにもこんな寒いところで。風邪引いちゃうよ。さ、中に入ろう」
そう言ってアレンの腕を取った美桜は、アレンの顔色が良くないことに気付く。
「アレン。ひょっとして、寝てないの?」
「あーうん。そうかな」
「そうかなって!ちょっと!」
美桜は急いでアレンを部屋の中に入れ、扉を閉めてからソファに座らせる。
「徹夜した上に寒空の下で考え事なんて!体壊すよ」
ブランケットをアレンの背中から掛けると、そのままドリンクコーナーに向かい、温かいココアとクッキーを持って戻る。
「さあ、これ飲んで。体、温めないと」
アレンは気分が乗らないような素振りを見せたが、美桜は仁王立ちで有無を言わせない。
諦めたように仕方なく受け取り、ふうと少し息を吹きかけてからゆっくりとココアを飲んだアレンは、いくらかほっとしたようだ。
「あったかいね」
アレンが力なく笑う。
「あったかいねじゃないよ、もう」
半分呆れたように言って美桜は腕を組んだ。
(そういえば、夕べ仁くんと真剣にお仕事の話してたっけ。考え事って、そのことかな)
たとえそうでも、体は大事にしないと!
美桜は自分に頷くと、アレンに説教混じりに言う。
「アレン、どんなに忙しくても寝なきゃダメよ。徹夜したって頭も体も動かなくなるばかりなんだから。いい?睡眠はきちんと取ること!」
人差し指を立てながら美桜が言うと、アレンは叱られた子どものように小さく頷いた。
分かったのなら良し、とばかりに美桜も頷く。
(なんだか夕べのやり取りみたい。あの時と立場が逆ね)
美桜は思い出してクスッと笑うと、再び真顔に戻った。
「どうする?今からでも少し眠る?」
「いや、それは。仕事に戻らないといけないし…」
「うーん、じゃあお昼寝でもいいから、時間見つけて体休めてね。とりあえず今は朝食しっかり食べましょ」
そう言うと、アレンはあからさまに嫌そうな顔をした。
「えー、食欲ないよ」
「ダーメ!少しでもいいから食べないと」
美桜はもう一度ドリンクコーナーに行き、フルーツを選び始めた。
と、ふいにダイニングテーブルの横の壁から、コンコンとノックの音が聞こえた。
「はい」
美桜がそちらを見ると、壁の一部が扉になっているそこから、グレッグが現れた。
「おはようございます、美桜様」
「おはようございます。ごめんなさい、物音で起してしまったかしら」
「いえ、とんでもない。隣の部屋で朝食の準備をしておりました。美桜様、少し早いですが召し上がりますか?」
「ええ!ちょうど良かった。今アレンにも何か食べさせなくちゃと思ってたの」
そう言うと、グレッグは意外そうな顔をした。
「坊ちゃま、何か召し上がるのですか?」
「そう。夕べ寝てないんですって。だからせめて少しでもお腹に入れないとって、今ココアを飲んでいるところ」
そう言って美桜がソファの方に目を向けるとグレッグもそちらを振り返り、アレンの姿をまじまじと見た。
「なんと、坊ちゃまが朝食を!それでは早速準備致します」
急いで踵を返すグレッグを、美桜は少し不思議そうに見送る。
(なに?アレンが朝食を食べるのって珍しいのかしら)
おいしそうな焼きたてのパンを手に戻って来たグレッグにそう聞いてみる。
「ええ、坊ちゃまはいつも、どんなに勧めても食事をあまり召し上がらないのです。特に朝食は。食欲がないと仰って。しっかり眠れば朝も食べられるようになると思うのですが」
「ええ?徹夜するのもいつものことなの?」
美桜が驚くと、左様でございますと困ったように頷き溜息をつく。
と、それまで黙っていたアレンが急に口を開く。
「グレッグ、その坊ちゃまっていうのはやめろ。何度も言って…」
そこで言葉を止めたのは、美桜の視線に気付いたからだ。
怒っている。とても怒っている。
慌ててアレンは目を伏せてココアを口に運んだ。
「アレン、こっちに座って」
ウッとうめき声を上げてからゆっくり立ち上がって、ダイニングテーブルへ向かう。
向かい合って座ると、美桜は
「さあ、いただきましょう」
と手を合わせた。
グレッグは、さっとアレンの前にクロワッサンを載せたお皿を差し出す。
ふうと小さく溜息をついた後、ゆっくりと食べ始めたアレンを満足そうに眺めてから、グレッグが美桜に聞いてきた。
「美桜様、卵料理はいかがいたしましょう?スクランブルエッグ、オムレツ、ボイルドエッグなど、どれがよろしいですか?」
「ええ?選んでいいの?どうしよう、迷うな。んー、じゃあオムレツで!」
「かしこまりました。プレーンがよろしいですか?それともチーズ、ハム、マッシュルームなど入れましょうか?」
「ええ?中身も選べるの?そうだな、じゃあチーズで!」
「かしこまりました。では付け合せのポテトはいかがいたしましょう?マッシュドポテト、ハッシュブラウン、フレンチフライも出来ますが」
「ええ?ポテトも?そうね、朝だし、マッシュドポテトにしておこうかな」
そう答えながら、美桜はアレンに目を向ける。
さっきからどうも様子がおかしい。
下を向いて肩を震わせている。
「かしこまりました。スープはいかがでしょう?ミネストローネ、コーンスープ、オニオンスープなど」
「ええ?スープ、そうねえ、どれもおいしそうだけど、じゃあミネストローネで!」
そのとたん、もう我慢出来ないといったように、アレンが吹き出して笑い始めた。
「あはは!美桜ってば、おかしくってもう」
「何よ急に?」
ねえ?とグレッグと顔を見合わせる。
「だって、いちいち真剣に。ははは、卵とかポテト、朝からそんなに悩む?あはは」
「もう!何よ!だって豪華な朝食作ってもらえるのよ?そりゃ真剣に悩むわよ」
まったくアレンは。いつも贅沢に囲まれて有難さを分かってないわ!とぶつぶつ呟きながら、美桜は運ばれてきたオムレツやポテトを切り分けて、アレンの前にお皿を差し出す。
「はい!これも食べてね」
「ええー?パンだけでもう無理だよ」
「いいからほら、少しでも食べる!」
まるで笑われたことのお返しとばかりに、美桜は語気を強める。
しぶしぶアレンが食べ始めると、グレッグは嬉しそうに目を細めてアレンと美桜の二人を眺めていた。
◇
「少し空も明るくなってきましたね。カーテンを開けておきます」
そう言ってグレッグは、ソファに場所を移して食後のコーヒーを飲んでいたアレンと美桜の横のカーテンを、丁寧に開けた。
ありがとうと窓の外に目を向けた美桜が、急に手を止め、ん?と首を傾げる。
「何?どうかした?」
アレンは不思議そうに美桜の目線を追う。
「あれって、お庭?」
緑の木々が少し見えるのだが、そんな単純なものではないような気がする。
美桜は立ち上がると、扉を開けてバルコニーに出た。
手すりのところまで進むと、眼下には緑の木々によって作り出された綺麗な模様が、まるで絵画のように浮かび上がっている。
夕べもさっきも、暗くて気が付かなかったのだ。
「うわー、すごい!芸術的ね」
美桜の感嘆の声を聞いて、隣に並んだアレンが説明する。
「ああ。フランス式の庭園だよ。左右対称だったり、幾何学的に配置するのが特徴かな。模様に合わせて、植栽も人工的に整形される」
「フランス式なのね。そういえば世界史の資料集で見た気がする。ヴェルサイユ宮殿とかの庭園もそう?」
「うん、そうだね。あとはロワール渓谷のヴィランドリー城なんかも有名」
「へえ、そうなんだ。色々な所にあるのね。それぞれ城主が庭園の造りや豪華さを競い合っていたとか?」
「まさにそうだよ。権力の象徴みたいにね。そんな人工的な庭園に反して、自然の景観とか風景を生かしながら、そのままの美しさを大事にしたのが英国式庭園なんだ」
「あ!イングリッシュガーデンね。日本でも行ったことある。バラが咲き乱れて綺麗だったなあ」
美桜はもう一度目の前の庭園をしみじみと眺めた。
「庭園一つとっても、違う国同士影響を受け合っているのね。そう思うと日本は、独自のものが多いわよね。日本式の庭園も他では見ないし。影響されながら進化していくものと、独自のスタイルをずっと貫くもの…。どちらも素晴らしいことよね。文化や芸術って」
なんだか神妙な面持ちの美桜を覗き込むようにして、アレンがクスッと笑った。
「美桜がここまで庭園に熱心だとは知らなかったよ。良かったらこれから一緒にうちに来る?これよりもう少し大きいフランス式の庭園と、あとイングリッシュガーデンもあるよ」
「え!ほんと?うわー見てみたい!いいの?」
美桜の顔がぱっと明るくなる。
(決まりだな)
嬉しそうな美桜を見て、アレンはもう一度クスッと笑った。
◇
コンコンとノックの音がして、美桜はドアの方を見た。
「はーい。どうぞ」
「おはようございます。美桜様」
そう言って、メアリーがさわやかな笑顔を浮かべながらドレッシングルームに入ってきた。
「おはよう!メアリー。絵梨ちゃんはまだ寝てるの」
「ええ、そう思いましてベッドルームではなくこちらのドアをノックしましたの」
(おお!さすが。仕事が出来るわ)
ドレッサーに座って髪を乾かしていた美桜の後ろを通り、メアリーは手に持っていたたくさんの荷物をクローゼットにしまっていく。
「夕べブティックでクリーニングに出したお二人のお洋服が戻ってきましたわ。引き出しに入れておきますね。あと、衣裳も少しお持ちしました。いつでも使って下さいね」
クローゼットに次々とハンガーをかけていくメアリーにありがとうと言ってから、美桜は髪をとかし始める。
「グレッグから、美桜様はもう朝食をすませられたと聞きましたわ」
「うん、そうなの。朝食おいしかったー。さっきバスルームで湯船にも浸かってね、優雅な気分よ」
バスローブ姿でちょっとのけ反ってみせると、メアリーは、まあ、と笑う。
「でね、これからアレンのうちに一緒に行くことになったの」
その途端、メアリーの顔からすっと笑みが消えた。
「なんですって!パレスに?まあ、大変!」
(は?パレス?なに、パレスって)
声をかけようとしたが、すでにメアリーはバタバタと慌ただしく動き始めて聞くに聞けない。
「美桜様、鏡の方を向いて下さい」
「は、はい」
圧倒されておとなしく従う。
メアリーは、ドレッサーの引き出しから大きなメイク道具を取り出すと、美桜の髪を手際よく分けながらクリップで留めていく。
さらにドレッサーの上の化粧水や乳液などをじっくり美桜の顔に沁み込ませると、クリームを手早く塗り始めた。
「すごいわねえ。メアリー、ヘアメイクも出来るのね」
「これくらいは当然ですわ。それより、ご出発は何時ですの?」
「えっとね、八時半にエントランスで待ち合わせなの」
「なんですって!あと四十分しかないですわ!」
「ご、ごめんなさい」
勢いに負けて、なぜだか美桜は謝る。
メアリーはもう何も耳に届かないようで、ものすごい集中力で手を動かし続ける。
メイクが終わると、すかさず今度は髪を結い始めた。
左右二つに分けて編み込んでいく。
まず右側を編み終えると、毛先を左耳の後ろで留める。
同じように左側を編み終えると、毛先を右耳の後ろの髪に押し込みながら留めた。
(おお、なんだかちょっと清楚な感じね)
美桜が鏡の中を覗き込んでいる間に、メアリーはクローゼットからなにやら取り出していた。
「美桜様、さあ、こちらにお着替えを」
「は、はい」
再びメアリーの勢いに呑まれて美桜は立ちがる。
メアリーが用意してくれたのは、サーモンピンクのドレスだった。
着てみると、丈は床より少し上なので、歩きやすそうだ。
美桜が足元を見ながら裾をつまんだりしていると、まあ!とメアリーが驚きの声を上げた。
どうしたのかと顔を上げると、鏡の中の美桜を見たまま、メアリーは両頬に手を当てて固まっている。
「メアリー、どうかした?」
「あ、いいえ。なんでもありませんの。さ、ではエントランスに向かいましょう」
腕時計を確認してから、メアリーはクローゼットの靴を選んで美桜に履かせ、廊下に出た。
「なんとか間に合いそうですわ」
「うん。ごめんね、急がせてしまって。ありがとう」
エントランスへの道を急ぎながら美桜はお礼を言う。
「とんでもない!私の方こそ、ばたばたとお見苦しくてすみませんでした。パレスにいらっしゃると聞いて、つい焦ってしまって」
「あ、そうだ、その、パレスって…」
「まあ。もうアレン様がお待ちですわ!」
(うっ、また聞きそびれちゃった)
階段の上から下を見ると、ちょうど入口の前で、グレッグが広げたコートにアレンが片腕を通すところだった。
「お待たせして申し訳ありません。美桜様のお支度整いました」
美桜より先に階段を下り終えたメアリーが声をかけると、アレンとグレッグは同時にこちらを見上げた。
と、そのとたん、中途半端な格好のままピタリと二人の動きが止まる。
(あら、どうしたのかしら。アレンったらコートに左腕だけ入れて固まってるし)
その滑稽さに、もしかして本当に時が止まっているのかと、美桜はパチパチ瞬きした。
「あの、二人ともどうかした?」
「あ、いや。別に」
二人は同時に動き出し、ようやくアレンはコートをきちんと着る。
「さあ、美桜様もこれを。外は寒いですわ」
「ありがとう」
メアリーに真っ白なコートを着せてもらい、出口に控えていたメイソンに挨拶して外に出ると、今度は美桜が動きを止めた。
「わあ!すごい」
メイソンの後ろにあるのは、車ではなく馬車だったのだ。
おずおずと近づいてみると、思ったよりずいぶん高い。
先頭には綺麗な毛並みの白馬が二頭、おとなしく待っている。
「さ、行こう」
感激している美桜をよそに、アレンはさっさと反対側に回って乗り込んだ。
美桜も、高い位置の手すりを掴んで足を引き上げる。
と、いきなり横にいたメイソンが両手を組んで差し出してきて、思わず踏みそうになった美桜は慌てて足を下ろした。
すると今度はメイソンが面食らったような顔をする。
どうやら、美桜の足を手で支えるつもりだったらしい。
「大丈夫よ」
そう言うと美桜は両手に力を込め、足を上に高く引き上げてはしご状の足載せにかけると、そのまま一気に体を引き上げて乗り込んだ。
メイソンが慌てふためいて妙な動きになるのを見て、美桜はふふふと笑う。
やれやれと言わんばかりに肩で溜息をついた後、メイソンは御者台へ回った。
向かい側に座っているアレンが、どうかした?というように首を傾げてきたが、ううんと美桜は首を振る。
アレンはまだ不思議そうにしながら、いつの間に持っていたのか、分厚い書類に目を落とし、それきり仕事モードに入ったようだった。
やがて短い掛け声とともに、メイソンが手綱をさばく音がした。
美桜はわくわくして前に身を乗り出して覗いてみる。
メイソンとグレッグが座る前方に、白馬がゆっくり歩き出すのが見えた。
ガコンと最初は衝撃があったが、やがて軽快な足並みになると、リズミカルな振動が美桜達にも伝わってくる。
(わー!楽しい。馬車で移動なんて素敵)
美桜は、行ってらっしゃいませ!と見送ってくれるメアリーに笑顔で手を振った。
半円を描きながらアプローチの端まで来ると、馬車は一旦停止した後左へ曲がる。
窓の外には、のどかな田舎の風景が広がっていた。
(そう言えば、外の景色を見るの初めてかも)
空港からここまではぐっすり眠っていたし、到着も夜だったことから、この辺りがどんな場所なのかまだ知らなかった美桜は、ぴたりと窓に顔を付けそうな勢いで、夢中で外を眺めた。
道はとても広々としていて、今馬車が進んでいるのは車道の横、土のまま塗装されていない部分だった。
しばらくは遠くに木々が見えるだけの風景だったが、やがて両側に家が見え始めた。
ひとつ、ふたつ、と数えていたら、その後はぽつぽつと家や店が並び、やがて活気付いた街並みに変わっていった。
朝の市場だろうか、何人かがテントの下で野菜や果物を並べているのが見える。
(小さめのカラフルな屋根、可愛いな。どこのおうちも窓辺やポーチにお花を飾ってるのね。お母さんと子ども達、一緒に市場で買い物かしら。着ている服も可愛い)
アレンの邪魔にならないように、一人心の中で興奮している美桜だった。
小さな男の子がこちらに気付き、隣の母親に声をかけながら馬車を見上げて指を差している。
美桜は、バイバーイと小さく呟いて手を振った。
しばらくするとまたもとののどかな風景に戻り、美桜はひたすら遠くを眺める。
向かい側のアレンといえば、全く周りのことなど気にしていない様子で、熱心に書類を読みながら何かを考えているようだった。
どれくらい経ったのだろう。
ずっと真っ直ぐ進んでいた馬車が、さっきようやく右に曲がったのだが、そこからは全くと言っていいほど景色が変わらない。
さすがに退屈になってきた美桜が、控えめに声をかける。
「ねえ、アレン。あとどのくらいで着きそう?」
ん?と言って外の景色を確認してから、
「もうじき着くよ。もう敷地内には入ってるから」
そう言うとアレンは再び視線を書類に落とす。
(え?敷地内?どういうこと?)
聞き返したかったが我慢して、美桜は外を見ながら考える。
(さっき馬車が右に曲がった時、大きな門をくぐったけど、もしかしてそこからってこと?)
思い出してみれば、その時門の横で敬礼していた衛兵さんの様な格好の人がいたっけ。
(じゃあやっぱりそこからアレンのおうち、というか敷地なの?)
まさかそんなことは…、と考えを打ち消そうとした時、着いたよ、とアレンがふいに言う。
え?と慌てて窓から外を見ると、ゆっくり右にカーブを描きながらスピードを落とす馬車の左側に、大きな建物が見えてきた。
(何これ、博物館?いや、美術館とか?)
窓がずらっと並んだ三階建ての建物は、とにかく横に広く、大きな噴水を右手に見ながらようやく馬車が止まったところには、これまた大きなエントランスがあった。
「さ、降りて」
そう言い残してアレンはサッと飛び降りた。
「あ、ちょっと待って」
慌てて美桜も続こうと足を踏み出すと、メイソンが下で待ち構えているのが分かる。
「大丈夫だってば」
美桜はそう言うと、わざと遠くの方に飛び降りる。
メイソンはまたしても、妙な動きをしただけだった。
メイソンを振り返りふふっと笑っていると、アレンに名前を呼ばれ、美桜は急いで後を追う。
グレッグが開けてくれているその巨大な扉から中に入ると、美桜は上を見上げて思わず息を呑んだ。
二階まで吹き抜けになっているその天井には、煌びやかなシャンデリアが三つ、そしてその下には幅の広い大きな階段があり、まるでどこかの宮殿のようだった。
(あ!だからパレスなのか!)
ようやく腑に落ちたとばかりに美桜が頷いていると、
「ようこそパレスへお越し下さいました」
隣から誰かが声をかけてきた。
白いブラウスに紺のロングスカート、深々と丁寧なお辞儀をする身のこなしから、よほど経験の長いメイドさんなのだろうと分かる。
「あ、初めまして。美桜と申します」
つられて美桜も神妙に頭を下げる。
やがてゆっくりと顔を上げたベテランらしきその女性は、美桜の顔を見るととたんに、今まで浮かべていた柔らかい笑みから一転、驚きの表情に変わった。
(あれ?まただ。デジャヴ?)
どうして今日は、こうもみんなに驚かれてしまうのだろうと、美桜は笑顔を浮かべつつ困惑する。
するとはっとしたように慌てて彼女は頭を下げる。
「申し訳ありません。失礼いたしました」
「あ、いえいえそんな。大丈夫ですから」
美桜が急いで声をかけていると、その様子を見ていたアレンがふいに呟いた。
「へえ、クレアもそうなのか」
なんのことだろうと美桜が振り返ると、アレンの隣でグレッグも頷いている。
はて?ますます分からない。
「美桜、申し訳ないんだけど、俺はこれから仕事があって庭園に行けそうにないんだ。代わりにクレアが案内するから、好きなだけ見ていって。帰りはメイソンが送っていく」
「うん、分かった。ありがとう」
美桜がそう言うとアレンはじゃあと手を挙げ、グレッグと何やら話しながら階段を上り終えると、やがて右側の通路へと姿を消した。
「あの、美桜様、改めて先程は失礼いたしました。私は長年このパレスに勤めるクレアと申します」
気付けば二人きりになっており、美桜は再びよろしくお願いしますと頭を下げた。
クレアは、自分達よりも二回り、いや三回りほど年上に見える、恰幅の良い女性だった。
頼りがいのある、それでいて親しみやすい笑顔を浮かべた、優しいおばあちゃんのような雰囲気だ。
(なんだか仲良くなれそう)
美桜は直感的にそう感じた。
◇
(明るい陽射したっぷり。気持ちいいなあ、このお部屋)
庭園をご案内する前に、まずはお茶を用意致しますねとクレアは言いながら、美桜をこの部屋に案内してくれた。
エントランスの階段を上り、アレン達とは反対側の左に進むと、すぐまた階段を上がる。
そこから長い廊下を歩いてようやく着いた部屋は、ある程度想像していたとはいえ、やはり広さと豪華さに目を奪われた。
廊下と反対側の壁は一面窓になっており、直接バルコニーに出られるようになっている。
部屋の中央には大きなテーブル、そして両端には立派なソファがそれぞれ置かれている。
かといって、重々しい雰囲気ではなく、明るく気持ちの良い空間だ。
きっと壁紙や家具の色合いがそうさせるのだろう。
「さあ!美桜様、そちらのソファへどうぞ」
「ありがとう」
促されて座ると、クレアは次から次へと綺麗なカップやお皿、ポットを並べ始める。
いったい何が始まるのかと思うほどの数だ。
「え、あの…」
戸惑う美桜をよそに、クレアはワゴンを押してきて嬉しそうに言う。
「私もう嬉しくって。だってお客様をおもてなしするなんて、久しぶりで久しぶりで。朝、連絡を受けてから、それはもうウキウキしていましたの」
そんな大げさな、と美桜は心の中で呟いたが、クレアは心底楽しそうだ。
「さあ、どうぞ!」
そう言って、大きな楕円形のプレートを美桜の前に置く。
「うわー、おいしそう!」
一口サイズのケーキやクッキー、ゼリーやムースなどが、まるで宝石箱のように綺麗に並べられている。
「まだまだありますわよ、こちらもどうぞ!」
そう言ってクレアが張り切って見せてくれた別のプレートには、スコーンやサンドイッチ、フルーツが豪華に盛られている。
「こちらのホイップクリームやジャムを添えてお召し上がり下さいね」
「ちょ、ちょっと待って!」
たまらず美桜はストップをかける。
「あの、一人でこんなにたくさんは…。良かったらクレアさんも一緒にいかがですか?」
とたんにクレアは戸惑いの表情を浮かべる。
「ええ?まさかそんな。お客様とご一緒になんて」
「だって誰かと一緒に食べた方がおいしいでしょう?それに私、お客様ではなくてアレンの友人ってだけだし」
「そう仰られても…。メイドがご一緒になんていけませんわ」
「大丈夫よ。だって他に誰もいないし。ね?さあ」
美桜はクレアの腕を引いて強引に隣に座らせると、いくつかケーキやスコーンを取り分けた。
「じゃあいただきましょう!」
小さなイチゴのショートケーキを一口で頬張ると、おいしい!と美桜はクレアに笑顔を向ける。
ほら、と促されてクレアもおずおずと口に入れた。
「まあ、本当においしいですわ!」
でしょ?となぜか美桜が得意気に言い、二人で顔を見合わせて笑い出した。
◇
「ひとつ質問してもいいかしら?」
すっかり仲良く打ち解けておしゃべりしながらケーキを楽しんだ後、二人は紅茶で一息ついていた。
「ええ、なんでしょう?」
クレアがカップをソーサーに戻しながら美桜を見る。
「みなさん、どうしてそんなに日本語がお上手なんですか? 普通に話せるどころか敬語までちゃんとしているし」
日本に行かれたことあるんですか?と付け加えると、クレアは笑って首を振った。
「いいえ、私達だれも日本に行ったことはありません。行ってみたいですけれど」
「じゃあ、どうやって日本語を?」
クレアは少し考えた後、ゆっくり話し始めた。
「美桜様、アレン坊ちゃまのお母様のことはご存じですか?」
「ええ、確か日本の方なのよね?」
アレンが日本の高校に編入して来た時、皆が一番に聞いたのが、どうしてそんなに日本語が話せるのか、という質問だった。
母親が日本人なんだ、と答えるアレンは、こう続けた。
子どもの頃に亡くなったんだけどね。
それきり皆、その話題には触れていない。
クレアは小さく頷くと、懐かしむような顔をした。
「私達みんな、ゆりえ様のことが大好きだったのですわ」
ゆりえというお名前なのね、と美桜はその時初めて知った。
日本人と結婚するとアレンの父親が言った時、ウォーリング家で働く人は皆困惑したらしい。
誰も日本語は話せず、ましてや日本の文化やしきたりも分からない。
日本から来る花嫁をどうお世話すればいいのか…
「最初は手探りでしたわ。ゆりえ様は英語でお話して下さって。私達は、簡単な英語で済むようにと、いつも短い言葉でやり取りしていました。今思えば他人行儀な雰囲気でしたわ。ですがゆりえ様は、どんなささやかなことにも私達にお礼を言って下さり、その笑顔はまるでお花が咲いたようにぱっと周りを明るくして下さいました。立ち居振る舞いもとても美しくて。私達はいつしか、ゆりえ様に少しでも喜んで頂きたいと日本語を勉強し始めました」
とは言っても、最初は簡単な挨拶、
「おはようございます」「おやすみなさい」という程度だったらしい。
「それでもゆりえ様は喜んで下さって。私達は競うように、もっと話せるようになりたいと、古い映画を日本語の吹き替えで観たりして勉強しましたの」
そうそう、一つ面白い事が…と、クレアが思い出し笑いをしながら続ける。
「グレッグったら、時代劇とかサムライ映画を観て勉強したんですの。そしたら、ふふ、すっかりサムライのような言葉使いになって。拙者に全てお任せ下され、なんて言ってましたわ。ゆりえ様は、それはそれは面白そうに笑ってらして。私も今ならその面白さが分かりますわ」
確かにそれは面白いと、美桜も想像しながら笑ってしまった。
けれど良く考えてみれば、ここまで上達するには相当の努力が必要だっただろう。
そう言うとクレアは首を横に振った。
「いいえ、私達は楽しんで勉強しましたわ。だってゆりえ様が喜んで下さるから。誰も辛い思いをしながら覚えた訳ではないのです」
それだけみんなに慕われていたという事なのだろう、アレンのお母様は。
「ゆりえ様との思い出は決して忘れません。あれからもう十二年ですわね。私達、その後も日本語を話す癖が抜けなくて。さらに上達しましたわ」
そう言って、クレアは少し笑う。
あれから十二年、ということは、アレンは当時まだ十歳だったのか。
辛かっただろうな。
そんなにも優しいお母様がいなくなって。
美桜は思わず手元の紅茶に視線を落とした。
と、ふいにクレアが話しかける。
「美桜様、今日の美桜様のお支度はメアリーが整えたのですね?」
「ええそう。時間がない中、急いでヘアメイクをしてくれたの」
そうですか、とクレアは頷きながら、またどこか遠い目をした。
「メアリーは、坊ちゃまの五つ上なのですが、もうずいぶん長くここにお仕えしているのです」
「そう言えば、メアリーも日本語すごく上手だものね。あれ?でもアレンのお母様がいらした時は、メアリーはまだ…」
そうなんです、とクレアは言って、長い話を聞かせてくれた。
アレンがまだ三歳だった頃、ウォーリング家で働きたいと若い女性が訪ねてきた。
そういったことは珍しくなく、実際にそのまま働き始めるメイドも多い。
だが、彼女は少し違っていた。
八歳の女の子の手を引いてやって来たからだ。
「あ、その女の子がメアリー?」
美桜の言葉にクレアは頷いて話を続けた。
その女性、メアリーの母親は夫を亡くし、困り果てて住み込みで働けるところを探していたのだ。
だが、ウォーリング家に住み込みで働く者に子連れはいない。
クレアやグレッグ達は、どうしたものかと戸惑ったらしい。
「偶然そこにゆりえ様が通りかかられ、事情をお話しすると、すぐにこう仰いましたわ。今日にでもここに越して来なさい。もちろん娘さんも一緒に、と」
メアリーの母親は感激し、精一杯お仕えしますと何度も頭を下げたらしい。
そうしてメアリーも一緒に、パレスの離れにあるメイドの住まいに越して来た。
「そこまでは良かったのですが、なにせ子連れのメイドが初めてだったものですから、母親の仕事中どうすればいいのか困ってしまって。学校から帰ったら、とにかく部屋でおとなしく過ごすように言うしかなかったのですわ。ですが、ゆりえ様はその事にもすぐにお気付きになって、メアリ―も一緒にパレスに連れていらっしゃいと仰いました。せっかくアレンの良いお友達が近くにいるのだからと。私達は、さすがにそんなことは、と反対しましたわ。メイドの子とご子息を一緒に遊ばせるなんてと」
アレンの母はそんなクレア達の言葉を気にせず、やって来たメアリーに、アレンの遊び相手になってくれる?と聞いたのだそう。
あなたの方が少し年上だから、お姉さん代わりになってやってと。
「メアリーは目を輝かせて頷いていました。それから毎日、坊ちゃまとお庭を走ったりお花を摘んだり。危ない事やお行儀の悪い事をしそうになると、それはいけませんとメアリ―がお止めしました。ゆりえ様は、こういうことは大人が注意するよりも、メアリーから言われた方が良いわね、と笑ってご覧になっていました。そんなゆりえ様のことを、メアリーもとてもお慕いしていましたわ。やがて大きくなると、ゆりえ様の身の回りのお手伝いもするようになりましたの。ゆりえ様も喜んでいらして。特にメアリーのヘアメイクはとても上手と褒めていらっしゃいました」
そこまで話すと、クレアはまじまじと美桜を見つめた。
「美桜様の今日の髪型は、メアリーがよくゆりえ様に結って差し上げたスタイルなんです。それにそのドレスの色、温かいサーモンピンクの色合いも、ゆりえ様のお気に入りでした」
えっ…、と驚く美桜に、クレアは優しい笑顔を浮かべた。
「そうなんですの。ですから私、今朝初めて美桜様を拝見した時びっくりしてしまって。一瞬ゆりえ様かと思ってしまいましたわ。お顔が似ていらっしゃる訳ではないので、不思議ですが。でも、そうですか、メアリーが。きっと時間がなくて焦る中、無意識のうちにそうしたのでしょう」
納得したようにクレアは言った。
(そうだったんだ。だからあの時メアリーは鏡の中の私に驚いたのかな。アレン達も)
なんだかしんみりとした雰囲気になったのに気付き、クレアは明るく切り出した。
「さあ!美桜様。庭園に参りましょう。どうぞお好きなだけご覧になって下さいね」
◇
「うーむ…」
目を通していた書類を机に置くと、ジョージ・グレイ・ウォーリングは椅子の背もたれに体を預けて腕を組んだ。
そばに立って父の様子を見ていたアレンは、背筋を伸ばして身構える。
何を言われるかは分かっていた。
「アレン、これではダメだ。いいか、我がウォーリング家が昔から大事にしてきた二年に一度の式典だぞ。各国からお客様をお招きするのだ。華々しく、明るいイベントでなくてはいけない。なのにお前のこの企画書は、まるで年間の業務報告のようだ。決してお客様に喜んで頂けるものではないぞ」
「はい。仰る通りです」
アレンは、かしこまって言う。
たとえ家族であっても、いや家族だからこそ、仕事中の言葉使いには気を付けろと父に常日頃言われている。
パレスの二階にある書斎には、アレンとジョージ、グレッグの三人しかいない。
たいがいその三人で仕事をするのだが、それでも決して気を抜いてはいけない、と。
「父上、企画内容は改めて考え直します。ですが、式典まであと四か月足らず。そろそろ準備に取り掛からなければいけないのも事実かと思います」
「うむ、だが内容がはっきり決まっていないのに何を準備すると言うのか?」
「確かにその通りです。ひとつご提案なのですが、式典の日程を遅らせるというのは?」
「それはいかん。代々式典は五月一日と決まっておる。お客様もそのつもりで日程を調整して下さっているのだぞ。招待状ももう発送する時期だろう?グレッグ」
ふいに話を振られたが、入口付近の机で庶務をしていたグレッグは、もちろん常に耳は二人を意識しており、すぐに返事をする。
「はい。いつでも発送出来ます」
ジョージは頷くと立ち上がり、窓の外を見ながら話を続けた。
「いいか、アレン。ウォーリング家がここ数年衰え始めてきたことは否定出来ない。すでに取引先などに気付かれている気配もある。次の式典は、そんな不穏な空気など一掃するくらい豪華でなくてはならん。ウォーリング家は大丈夫なのか?という噂を、まだまだ安泰だな、より一層栄えていくだろうという噂に変えなくてはならん。それには…、ん?」
神妙に聞いていたアレンは、途中で言葉を止めたジョージを不思議に思って顔を上げた。
「どうかした?親父」
思わず言ってしまってから、まずいと首をすくめる。
仕事中だぞ!といつものごとくたしなめられると思いきや、ジョージは窓の外を見つめるばかりだ。
「ゴホン。どうかしましたか?父上」
しれっと言い直しながら隣に立って、何を見ているのかとその目線を追う。
眼下に広がる庭園の真ん中、噴水の近くに美桜とクレアの姿が見えた。
約束通りクレアが案内しているのだろう。
二人は時折顔を見合わせて笑い、楽しそうな様子が伝わってくる。
(それにしても美桜ってジェスチャー大きいなあ。子どもみたい)
アレンが思わず笑みをこぼす横で、ジョージはこわ張った声を出した。
「おい、アレン。これはいったいどういう事だ?あの人はいったい…」
「ああ、彼女はですね」
「…ゆりえ?」
アレンはぎょっとして、窓に張り付いたままのジョージを見た。
(ええ?まさか親父まで見間違うとは)
もう一度美桜に目を向ける。今まで一度も美桜が母に似ていると思ったことはなかった。
なのに今日の美桜は、誰の目にも母を思い起こさせるようだ。
(そう言えば顔の輪郭とかが似てるのかな?いや、雰囲気とか佇まいとか、そういうのも似てるのかも)
あれこれ考えを巡らせていたアレンは、隣で返事を待っているジョージの視線にようやく我に返った。
「ああ、えっと、彼女は高校時代の友人です。仁達と一緒に日本から来て、今フォレストガーデンに泊まっています」
「なんと!日本から?お前なぜパレスに泊まってもらわないんだ?」
「え?いや、だって、単なる友人ですし…」
「こうしちゃおれん!グレッグ!今すぐお客様との食事の準備を!」
「はっ!」
「いやいや、ちょっと待てって。親父、グレッグ!」
アレンの引き留める声もむなしく、二人はいそいそと部屋を出て行った。
◇
「はあ、素敵ね。まるで不思議の国のアリスになった気分」
「まあ、美桜様ったら」
噴水の淵に腰かけてうっとり見上げる美桜の隣で、クレアは楽しそうに笑う。
「だって見て!この庭園の模様。こうやって近くで見るとまるで迷路に迷い込んだみたい」
「確かにそうですわね。木々は大人の背より高いですもの」
「でしょう?私、あっちの端から無事に出て来られるかやってみようかしら。ぐるぐる巻きになってる所とか、難しそう。ん?アレン!」
いつの間にかアレンがこちらに向かって来るのが見えた。
「え?まあ、坊ちゃま!」
そう言うとクレアは、すぐさま少し離れてアレンと美桜の様子を見守る。
「どうしたの?アレン。お仕事は?」
「ああ、うん。まあね。まだ途中なんだけど」
アレンは言葉を止めて少し考える素振りをした。
「どうかした?何かあったの?」
美桜がちょっと心配そうに覗き込む。
「いや、なんでもないよ。あのさ、美桜。これから親父が一緒に食事したいって言ってるんだけど…。いいかな?」
「まあ!旦那様が?それは大変ですわ!」
美桜が答えるより先にクレアがそう言うと、失礼しますと慌てて立ち去って行く。
「え?クレア?何、えっとお食事?」
「うん、そう。急にごめん。それにまだ十一時前だし。いいかな?」
「それはもちろん、構わないけど」
クレアのあの慌てようが気にはなるものの、美桜は頷いてアレンと部屋に戻った。
「いやーこれはこれは!ようこそパレスへ!」
外階段を上がってバルコニーから部屋に戻ると、急ににこやかで人の良さそうな笑顔の男性が握手を求めてきた。
「あ、こ、こちらこそ。お邪魔しています」
びっくりして怯みそうになりつつも、なんとか冷静を装う。
(えっと、この方がアレンのお父様?)
ぶんぶんと握った手を強く揺さぶられながら、美桜はまじまじと見つめ直す。
背は、お世辞にもスラッとしているとは言えず、どちらかと言うと小柄でぽっちゃり気味の、なんとも愛嬌のある感じだ。
(絵本に出てくる王様みたいに可愛らしい感じ、なんて言ったら怒られるわね)
予想とは違ったけれど、近寄りがたい雰囲気などまるでなく、美桜はほっとした。
「あの、初めまして。吉野美桜と申します。急にお邪魔して申し訳ありません。今、フォレストガーデンに泊まらせて頂いてます。とても素敵なところで。本当にありがとうございます」
改まって頭を下げる。
「いやいやそんな。いつでも大歓迎ですよ。私はアレンの父のジョージです。さあテーブルの方へどうぞ」
ジョージの向かい側にアレンと並んで座ると、ようやく落ち着いた。
クレアやグレッグが、手早く食器を並べてくれる。
「いやー、アレンにこんな素敵なお嬢さんがいたとはねえ」
「は?親父、何か勘違いしてない?」
「美桜ちゃんと言いましたね。いやー、嬉しい!嬉しい限りですよ。なあアレン」
「なあって。いや、親父、聞いてる?」
「高校が一緒だったってことは、美桜ちゃんもS学園?今も?」
「あ、はい、そうです。大学の四年生です」
「そうですか、うんうん。さあまずは乾杯しましょう」
乾杯の後はおいしいランチを頂く。
一方でジョージの話は止まらない。
「実は私もね、昔S学園大学に留学していたんですよ。二年ほどね」
「え?そうなんですか?」
美桜は驚いてアレンを見た。そんな話は聞いたことがなかった。
「そうなんです。もともと日本に興味があって。いつか、写真で見るような風景や神社を実際に見に行きたいとずっと思ってました。大学に進む時に、ふっと思いついたんです。日本の大学に行きたいと。親には最初反対されてね。日本とは縁もゆかりもないからと。でも私は一度決めたらやり通す性格なんです。自分で手配すると言ってあらゆる大学からパンフレットを取り寄せました。たくさんある中で、S学園のパンフレットだけが目に飛び込んできたんです。絶対ここがいい!って」
「うちの学園のパンフレットって…。ひょっとして桜、ですか?」
美桜が聞くと、ジョージは大きく頷いた。
「パンフレットの表紙の、あの満開の桜。実際に入学式の日に見た時は、それはそれは感激しました。校門を入ってすぐ、その木が見えると、私は一歩も動けなくなってただ圧倒されて眺めていました。誰かと待ち合わせしているらしい女の子が立っていてね。ちょうどその時風が吹いて、桜の花びらがふわっと一気に舞い落ちたんです。桜吹雪の中で、髪を押さえながら花びらに手を伸ばしていたその女の子が目に焼き付いてね。それから毎日その子を探しました。もう一度桜の木の下で見かけた時は、思い切って声をかけました。まだ覚えたての日本語でね。ははっ」
照れたように笑い、なつかしいなあと呟く。
「その桜の彼女と私は、五年後に結婚しました」
わあ!と美桜が思わず両手を口に当てて驚くよりも、さらに大きな声が部屋のあちこちで上がった。
「ええー?」
「なんと!」
「んまあっ!」
アレン、グレッグ、クレアも、皆一様に驚きのあまり固まっている。
「おお、いかんいかん。ついうっかり話してしまったな。それじゃあ美桜ちゃん、私はこれで失礼するよ。この後もどうぞごゆっくり」
「あ、はい。ありがとうございます」
慌てて美桜も立ち上がり、もう一度握手する。
「じゃあ、俺も…」
「いや。お前はまだ美桜ちゃんのお相手をして差し上げなさい」
アレンにそう言い残すと、ジョージは陽気に、じゃあねーと手を振りながら出て行った。
と、ふうと誰からともなく溜息が漏れる。
「初めて聞きましたわ、その…、旦那様と」
「ああ、私もです。ゆりえ様との…」
「うん、俺も聞いたことなかった」
(どうやらお二人の馴れ初めは、ずっと秘密にしてこられたのね)
美桜はそう思いながら、先程の話を想像してみた。
「とってもロマンチックな出会いだったのね」
美桜の言葉に、そこにいる誰もが頷いた。
◇
「さあ、ではお待ちかねのイングリッシュガーデンへご案内しますわ」
「やったー!楽しみ」
クレアと並んで廊下を進みながら、美桜はいくつか気になることを思い出していた。
食事を終えてアレンが仕事に戻ると、美桜はソファでデザートをふるまってもらった。
フレディと名乗るシェフ自らが、テーブルでバーナーを使って仕上げをしてくれたクレームブリュレは最高においしく、美桜は幸せな気分に浸っていた。
そしてようやく、すぐ近くに大きなグランドピアノがあることに気付いた。
綺麗な掛け布がしてあり、けれどどこか寂しげで、きっと長い間使われていないのではないかと思ったのだ。
「ええ、あのピアノはゆりえ様がよく弾いていらっしゃったものです。幼い頃の坊ちゃまも、少し教わってご一緒に弾かれたりしてましたわ。でも今はまったく」
うつむき加減でクレアが答えてくれた。
(きっとお母様を思い出してしまうからなのね)
美桜はそう思いつつ、もう一つ気になったことを聞いてみる。
「ピアノの横に、楽譜が並んだ棚があったけれど、そこにおいてあった横長の楽器ケース、もしかしてフルートかしら」
「ええ、ゆりえ様のフルートです。でもよくお分かりになりましたわね」
「私、吹奏楽部でフルートを吹いていたから」
「まあ、そうなんですね。ゆりえ様の演奏はとても美しくて、私は仕事の手を止めていつも聴き入っていましたわ」
懐かしそうに言うクレアは、やはりどこか寂しさも感じているようだった。
それきり言葉もなく歩く二人だったが、クレアはやがて立ち止まり、わざと明るい声で言った。
「さあ美桜様。着きましたわ」
「あ、え?ここ?」
顔を上げた美桜は思わず聞き返す。
「だってここ、まだ廊下の途中じゃ…」
「開けますわよ。準備はよろしいですか?」
美桜の戸惑いをよそに、クレアは廊下の壁に突如現れた大きな扉を開けた。
「ええー!何、ここ。すごい…」
まさに緑あふれるガーデンが、一瞬で目の前に広がったのだ。
「どういうことなの?だってまだ外に出ていないのに」
驚きのあまり声がかすれる美桜に、クレアが丁寧に説明してくれた。
パレスは四つの棟で出来ており、長方形を描くように並んだ棟の中央の空間が、このガーデンなのだと。
言わば学校の中庭のような感じだが、大きな特徴は、ガーデン全体が温室であること、そして天井がガラスになっていることだった。
広さは、それこそ学校の校庭くらいあるだろう。
そこが一面、色とりどりの花や緑で溢れている。
天井は、二階部分まであるだろうか。
降り注ぐ太陽の光に目を細めながら見上げると、ガラス屋根は大きな三角形になっていて、ガーデンの隅々までキラキラと明るさをもたらしている。
「こんなふうになっていたなんて。全く気が付かなかったわ」
「ええ。ここはプライベート空間として目に付かないように、廊下からはすりガラスやステンドグラスで見えないようになっています」
なるほどと納得しながら、美桜はおずおずと歩み出した。
温室特有の温かく湿った空気、そして何と言っても花や緑のみずみずしさを感じ、思わず深呼吸する。
「なんて素敵なところなの」
そう言うのが精いっぱい、あとはただ言葉も忘れてひたすらガーデンを見て回る。
ところどころに小川やため池があり、覗き込むと小さな魚が泳いでいる。
飛び石をわざと大きく飛んで渡ると、美桜は楽しさのあまりクレアを振り返って笑った。
その様子にクレアも思わず微笑む。
ガーデンのちょうど真ん中は少し小高くなっており、ベンチやテーブルなどもあった。
「ここでケーキやお茶も召し上がれますよ」
「ああ、それとっても素敵ね」
クレアの言葉に美桜はうっとりする。
「もうなんだったら、私ここに泊まりたいわ」
「ええ?まあ、美桜様ったら」
冗談ととらえたのか、クレアが可笑しそうに笑う。
「本当よ。だって想像してみて。夜になったら月の光が降り注ぐでしょう?その中で眠るのよ。そして朝日を浴びて目が覚めるの。そんな素敵なことある?」
「それは確かにそうですわね」
クレアは真顔に戻って頷いた。
「でしょう?あー、寝袋持ってきたーい」
「まあ、それはさすがに」
苦笑してからクレアはもう少し先まで美桜を案内した。
「このガーデンは、色々な花が植えてありますけれど、一番多いのはバラです。ありとあらゆる種類のバラを育てています。旦那様が提案してこのガーデンを作らせたのですわ。ゆりえ様のために。ゆりえ様はとても喜んでいらして、毎日ここで何時間もお過ごしでした。ローズガーデンと呼んでいらして」
「ローズガーデン!ここにぴったりね」
「ええ。もう少しすると、たくさんのバラが咲き始めますわ」
その頃にも見てみたいなあと思いながら、美桜はもう一度じっくり見渡してみた。
(アレンのお母様はきっと、音楽と花に溢れた幸せな日々をここで過ごされたのだろうな)
ふと、小鳥のさえずりまで聞こえてきて、空耳かと思っていたら、すぐ近くを飛んでいてびっくりする。
「小鳥までいるのね?」
「そうなんですの。ゆりえ様は動物もお好きでしたから」
ふふっと優しげに笑うクレアに、なんだか美桜の心も温かくなる気がした。
◇
「美桜ちゃん、パレスに行ったんだって?」
仁が大きなサラダボウルから、美桜と絵梨の分を取り分けながら聞く。
「うん、そうなの。ガーデンを見せてもらっって。あ、ありがとう」
仁からお皿を受け取りながら美桜が答える。
あの後フォレストガーデンに戻ってから、絵梨と美桜は改めて仁に館内を案内してもらった。
ブティックまでしか知らなかったが、その先には大きな丸い円柱の吹き抜けがあり、周りをドーナツ型に取り囲むようにして様々な店が並んでいた。
活気があって賑やかだ。
「ざっくり言うと一階がレストラン、二階がデパート、三階がスポーツジムやアミューズメント施設、四階が図書室やカフェってとこかな」
あまりの規模に驚いて仁の言葉がすんなり入ってこなかったが、絵梨も美桜もたくさんの豪華な施設にテンションは上がりっぱなしだった。
「バーは最上階ね。映画館もあるよ。あと、運動するなら三階のクラタスポーツへどうぞ」
「クラタスポーツ?」
「え、それって仁の?」
「そ!我が倉田グループが出資してるんだ。ウエイトトレーニングの他にもテニスコートやパターゴルフ、卓球とかスケボーなんかも出来るよ。もちろん道具やウエアもレンタル無料!」
話を聞くうちに、ようやくこのフォレストガーデンのことが分かってきた。
要するに世界中の色んな企業が出資しているから、全て無料で楽しむことが出来るという訳らしい。
「そういうこと。もちろん土台はウォーリング家と懇意にしていることだけどね。その上で、フォレストガーデンの趣旨に賛同して出資してるんだ。まあ、自社の宣伝にもなるし、ここをいつでも利用できるメリットもある」
なるほど、と絵梨と美桜は頷いた。
「それからここで働くスタッフは、皆ウォーリング家からお給料をもらっている。つまり地元の人は職探しに困らずに済むんだ」
「そうなんだ。地域の人に働く場も提供してるのね。アレンは優しい地主さんてところ?」
絵梨の言葉に、仁はうーんと少し考える。
「そうかもね。あ、でもちょっと違うか。あいつのおじいさんの、そのまたおじいさん、いや、違ったかな?」
「…何言ってるの?」
絵梨が冷めた目で見ていると、とにかく!と仁は語気を強めた。
「あいつの先祖は伯爵だったんだよ。今は違うけど、地元の人達は今でもウォーリング家を讃えてる。だから今は、慕われてる大地主ってとこかな」
思わぬ話の展開に、ええーっと驚きの声を上げる絵梨と美桜だったが、仁は気にする様子もなく、お、ここにしようぜ。エスニック料理食べたかったんだ。と店内にスタスタ入って行った。
大皿で次々出てくる料理を、仁は手早く取リ分けてくれる。
ナシゴレンや生春巻きなど、どれもこれもとてもおいしかった。
美桜がパレスのことを聞かれたのは、ちょうどサラダのおかわりを仁が渡してくれた時だった。
「どうだった?パレス。ジョージパパにも会った?」
「やだ、仁くん。ジョージパパって」
(でもその呼び方は合ってる気がする)
美桜は思わずクスッと笑った。
「あ、そうだ。さっきアレンから連絡あってさ。明日、四人で出かけないかって」
「え、どこどこ?行きたーい!」
まだ行先も聞かないうちに絵梨が答える。
「まあ、行ってからのお楽しみかな」
仁の言葉に、わーい!楽しみと絵梨が喜ぶ。
「絵梨ちゃんったら、気が早いね」
そう言いつつ、美桜もなんだかわくわくしてきた。
(四人でお出かけかあ。うん、楽しみ!)
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