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会社を出ると、花穂はひたすら大地の背中を追いかけて歩く。
5分ほどで小さなビルにたどり着いた。
大地がエレベーターのボタンを押して花穂を促し、7階で降りる。
「ここは?」
特に看板もない小さなドアに手をかける大地に尋ねた。
「俺の行きつけのダイニングバー。穴場だからSNSに上げるなよ」
「大丈夫です。私、SNSやってませんから」
「へえ、今どき珍し」
呟きながら大地がドアを開ける。
「素敵! 星空の中に迷い込んだみたい」
目の前に広がる空間に、花穂は感激する。
ダークブルーの照明と、シックな色合いの内装や家具。
そして大きな窓の外に広がる空。
無数の小さなシーリングライトが、まるで夜空に輝く星のようだった。
「なんて綺麗なの……」
両手を組んでうっとり見とれている花穂を見て、マスターが大地に声をかける。
「いらっしゃいませ。今夜は窓際のテーブル席になさいますか?」
「ええ、そうですね」
「ご案内いたします。どうぞ」
「ほら、行くぞ」
大地は、ぽーっと夢見心地の花穂を振り返った。
「そこ、段差あるから……って、おい!」
「わっ」
足を踏み外してよろめいた花穂を、大地が抱き寄せる。
「危ないな。ちゃんと下見て歩け」
「すみません。雲の上にいる気分になっちゃって。このお店の雰囲気、とっても素敵ですね」
「空間デザイナーの職業病はあとにして、ほら、メニュー選べ」
席に着くと大地は花穂にメニューを渡し、「俺はいつものでお願いします」とマスターにオーダーする。
「それなら私もそうします」
花穂がそう言うと、大地は露骨に顔をしかめた。
「おい、いつものってなんだ?」
「さあ? なにが来るのか、お楽しみにしようと思って」
「…………」
大地はもはやモアイ像のような顔で固まる。
「浅倉さん? どうしました?」
「俺、日本語が分からない」
「えっ、大丈夫ですか?」
すると黙って聞いていたマスターが、クスッと笑みをもらしてから口を開く。
「オーダー承りました。浅倉様のいつものお酒とお食事を、お二人分ご用意いたします。それでは」
うやうやしく頭を下げてからマスターが去って行くと、大地はようやくピンと来たように顔を上げた。
「あ、そういうことか」
「ん? 浅倉さん、一周回って日本語戻ってきました?」
「ああ」
「よかったですね」
花穂は、ふふっと大地に笑いかける。
グラスでお酒が運ばれてくると「今日もお疲れ様でした」と小さく乾杯した。
「んー、大人の味。これ、ウイスキーですか?」
「ああ。結構強いけど、大丈夫か?」
「どうでしょうね?」
大地は困り果てたような表情を浮かべる。
「なあ、現代の20代女子って何語しゃべってるんだ?」
「え? それはいつの時代も母国語じゃないですか?」
「そうじゃなくて! 日本語が進化したのか? ギャル語の法則とか?」
「……ちょっとなに言ってるか分からないです」
「こちらこそだよ!」
その時、苦笑いを浮かべながらマスターが料理を運んできた。
「お待たせいたしました。浅倉様のお気入りのお食事をお二人分お持ちしました。トマトとモッツァレラチーズのカプレーゼ、スモークサーモンとブルーチーズのサラダ、梅しそ竜田揚げにアヒージョ、それからピンチョスの盛り合わせでございます。お嬢様、どうぞご賞味くださいませ」
「ありがとうございます。わあ、美味しそう。いただきます」
パクパクと頬張っては「美味しい!」と目を輝かせる花穂を、大地はひたすら怪訝そうに見つめていた。
♣♣♣
「私ねー、織江さんと別れてから、ひとりでがんばってるんですよー。でもねー、やっぱり寂しくて」
3杯目のウイスキーのグラスを傾けながら、呂律の回らない口調で花穂が話し出す。
頬は赤く、目もトロンとしていて、どう見ても酔っ払っていた。
「青山、その辺にしとけ」
そう言って大地はマスターに目配せし、ミネラルウォーターを頼んだ。
「ほら、飲めるか?」
「はい」
花穂は素直にミネラルウォーターを飲んだが、そのあとにまたウイスキーをグイッとあおる。
「あっ、こら」
手元からグラスを取り上げたが、時すでに遅し、中身は空っぽだった。
「織江さんはねー、私の心の支えだったんです。辛い時も嬉しい時も、いつも織江さんと一緒だった。フィオーレのプロジェクトも、織江さんとやりたかったな。がんばってるねって、頭をポンポンしてもらいたかった」
「じゃあそれは、恋人に頼んだらどうだ?」
「ポンポンを? えー、お願いしたらやってくれるかなー? でも恋人じゃないからだめかも」
ん?と大地は首をひねる。
(まだ恋人ではなく、片思いの相手がいるってことか?)
すると花穂が続けた。
「4年前はポンポンしてくれたから、またやってくれるかな?」
4年前?
そんなに長い間、片思いをしているのだろうか。
「思い切って告白してみたらどうだ?」
「なんて?」
「それはまあ、ストレートに。あなたが好きですって」
「あなたが、好きです……?」
花穂は小さく呟くと、いきなりズイッと顔を寄せてきた。
「わっ、なんだ?」
「浅倉さん」
「え……」
大地の胸がドキッと跳ねる。
(もしや、俺に……?)
次に花穂が口にする言葉を、ドキドキしながら待った。
「私はあなたが好きです……って、すごく難しい文法の日本語なんですよ」
「…………は?」
思い切り声が裏返る。
大地の思考回路は完全に固まった。
(な、なにを言っている?)
花穂は人差し指を立てて、じっと大地を見つめる。
「いいですか? 『私はあなたが好きです』って、主語は『私』、『好きです』が述語なんです。で、『あなた』は目的語だと思うじゃないですか。でも違うんです!」
「は、はあ」
「なんと、この場合の『あなた』は、中の構文の主語に当たるって説があるんですよ。すごくないですか?」
「そ、そうですね」
「だから告白するなら、もっと別の言い方がおすすめですよ」
「そうですか。ではなんと?」
「ずばり『私はあなたを愛しています』。これなら『あなた』は目的語になりますから、非常にシンプルなんです」
「なるほど」
「難しいですよね、日本語って。『あなたが好きです』だとちゃんとした告白になるのに『あなたが愛しています』だと、誰を? ってなるんですよ」
もはや内容は全く頭に入ってこない。
逆に、よく酔っ払いながらこんな話ができるなと感心した。
「承知しました。告白する時は『好きです』ではなく、『愛しています』を使えばいいんですね?」
「おっしゃる通り! でもね、もっとシンプルに言ってもいいんですよ」
「なんて?」
「アイラブユーって」
ガクッと大地は肩透かしを食らう。
「それ、もはや日本語じゃないだろ」
「いいんです! 伝わればそれで。大事なのは心ですから」
「まあ、そうだな。じゃあ青山も伝えてみたら? 4年間ずっと好きだった人に」
「好き、だった人?」
花穂は小さく呟いてうつむく。
「そんなひとことでは済ませられません。だって、私をデザイナーにしてくれた人だから」
へえ、と大地は興味を惹かれた。
「その人は、どうやって青山をデザイナーにしてくれたんだ?」
「それは、えっと。頭ポンポンして、ひよこちゃんって……」
「……は?」
「やだ! もう、言わせないでくださいよ」
花穂は真っ赤になった頬を両手で押さえて身悶える。
大地はポカンとしながら頭の中を整理した。
(なんだ? 4年前に頭をポンポンされて、どうやったらデザイナーになるんだ? しかもひよこちゃんって?)
しばし考え込んだあと、大地はハッとした。
(4年前って、まさか、あの?)
自分にとって大きな自信につながった銀座のジュエリーブランドを手がけたのが、確か4年前だ。
(そうだ。オープン前日の夜、食い入るように店内を覗き込んでいた美大生の女の子。俺のデザインの良さを熱く語るあの子に、もう既にデザイナーとしての素質が備わっていると思った。だから俺は言ったんだ。デザイナーの卵じゃなく、ひよこだと)
信じられないとばかりに、大地は花穂に目を向ける。
(あの子が青山だったのか。もしや、俺のデザインを見て同じ会社に入ろうとチェレスタに?)
ほわーんとした表情で窓の外を見ている花穂を、まじまじと見つめた。
(え、でも待てよ。今の話の流れだと、青山はあの時声をかけたのが俺だと気づいていないってことか)
そう思った途端、ガクッと頭を垂れた。
(そうか。きっと青山の思い出の中で美化されてるんだろうな)
気づかれなくて当然だ。
なぜなら今の自分は、あの頃とはガラリと雰囲気が変わったと自覚しているから。
(4年前は俺も今の青山みたいに、ただ良い演出を考えるのに夢中だったな。面白くてやりがいがあって、純粋に仕事を楽しめていた)
だが今はもう、そんな気持ちにはなれない。
ライバルと競い、自分のプランニングをけなされ、スランプに陥ってからそうなった。
クライアントに認められる仕事、今はただそれだけを考えている。
人と明るく笑顔で接することも、いつの間にか忘れていた。
(青山にとって今の俺は、ただ冷たくて怖い印象だろうな。4年前の人が俺だとは思いもしないのが当然だ)
このまま黙っておく方がいいだろう。
自分だと伝えて幻滅させたくない。
(彼女にとっても、いい思い出として残しておいた方がいいだろうし。いや、でも待てよ。4年間も片思いしたままというのが本当なら、きっぱり気持ちを絶ち切らないと次の恋愛に向かえないか)
あの時の男は俺だ。どうだ?幻滅しただろう。さっさと別の相手を探せ、と伝えるべきか。
うーん、と腕を組んで頭を悩ませていると、花穂がうとうととまどろんでいるのに気づいた。
「青山? おい、寝るなよ」
「んー……」
花穂は目を閉じたまま、気だるげに返事をする。
これはマズイなと、大地はマスターに目配せしてカードで支払いを済ませた。
「青山、ほら。立てるか?」
身体を支えて立ち上がらせると、花穂は目を閉じたままフラフラと歩き出す。
「マスター、ごちそうさまでした」
「ご来店ありがとうございました。今、下にタクシーを呼びましたので、よろしければ」
にこやかにサラリとつけ加えるマスターに脱帽し、ありがたく利用させてもらった。
運転手に、花穂のマンションの場所を思い出しながら説明する。
走り出した車内で、花穂はスーッと気持ち良さそうに大地の肩にもたれて眠っていた。
(やれやれ。なんだか色々あったな、今夜は)
織江が退職したあと、花穂の様子には気をつけるようにしていたが、ホテル フィオーレのプロジェクトではなかなかいい案を出してくれて、先方にも喜ばれた。
花穂の為にも、プロジェクトは必ず成功させてみせる。
(とにかくひとりで無理させないようにしなければ)
そう思い、毎日花穂がきちんと退社しているか、気にかけていた。
今夜も22時にクリエイティブ部のオフィスを覗くと、花穂のデスクの横にはまだかばんが置いてあり、もしやと思って会議室に行ってみた。
案の定、時間も忘れて花びらを作っている花穂の姿があり、半ば強引に食事に連れ出した。
そこでまさか、あんな話の展開になろうとは……。
大地は、そっと花穂の横顔を覗き込む。
長いまつ毛とほんのり赤い頬、そしてふっくらと艷やかな唇に目を奪われた。
思わず手を伸ばし、サラリと花穂の前髪をよける。
綺麗なフェイスラインと形の良い額に目が離せなくなった。
(あの時の子が、こんなに綺麗に……)
4年前の花穂は目を輝かせて興奮気味に話す姿が印象的だったが、今こうして見ると美しい女性の魅力に溢れている。
(俺とほんの少し交わした会話で、チェレスタに入社しようと思ってくれたのか?空間デザイナーになった今も、ずっと俺との思い出を忘れないでいてくれたのか? 4年もの間、ずっと)
そう思った途端、愛おしさが込み上げてきた。
これからもデザイナーとして生き生きと羽ばたいてほしい。
スランプなんて味わうことなく、楽しんで仕事を続けてほしい。
ずっと笑顔で、たくさんの素晴らしいデザインを生み出してほしい。
そしていつか、女性としての幸せも掴んでほしい。
心からそう願った。
(だがそれには、4年前の俺を忘れてくれなければ。美化した幻想に囚われたままではいけない。誰かいないのか? 彼女が心奪われて、4年前の思い出なんて消し去ってしまうくらいのいい男は)
うーん、と考えを巡らせる。
そもそも花穂の好きなタイプが分からない。
(あ、あれか! 国語の文法の話ができる相手)
主語と述語がどうのこうのという話についていけるなら、彼女との会話も弾むだろう。
(ってことは、文系の男か。文学部出身……、俺の周りにはいないな。いっそのこと、作家とかは? いやいや、それこそ心当たりはない。合コンとか、マッチングサイトで探す? いかん! 純粋なこの子が見ず知らずの相手と会うのは危険すぎる)
もはや自分の立ち位置も分からない。
まるで保護者か教師のような心境だった。
そうこうしているうちに、タクシーは花穂のマンションに着く。
「青山、着いたぞ」
「んー……。あ、はい」
花穂は、ほわんとした表情でかろうじて目を開けた。
「えっと、今お支払いしますね」
そう言ってかばんから財布を取り出そうとする。
「寝ぼけてるのに律儀なやつだな。そんなことはいいから降りろ」
「あ、そうですね。浅倉さん、タクシーの運転手さんに、器の小せえ男だなって思われたくないんでしたよね」
「ちょっ、でっかい声で言うな」
運転手が笑いをこらえているのがミラー越しに分かり、大地は焦る。
「ほら、もういいからさっさと降りろ」
「はい。ではまた会社でお会いした時に……、あっ!」
「びっくりした。今度はなんだ?」
「前回のタクシー代もまだでしたね。まとめてお渡しします。あ、バーの支払いは?」
「いい! もう全部いいから! とにかく降りろ」
「はい、それではまた会社で。今夜はありがとうございました。おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
ようやく花穂が降り、タクシーは再び走り出す。
(はあ。なんか俺、振り回されっぱなしだな)
思えば女の子と二人で食事をしたのは、かなり久しぶりだ。
仕事が楽しめなくなった時期から恋愛も上手くいかなくなり、そこからは誰ともつき合っていない。
ビジネスの場では女性に失礼のないよう振る舞うが、プライベートでの女の子との会話の仕方はすっかり忘れてしまった。
(デートとかどうやってたんだろう? もう俺、恋愛できない体質になったな)
急に自分の人生がちっぽけなものに思えて、大地は窓の外に流れる景色を見ながらため息をついた。
翌日。
打ち合わせの時間に会議室に行くと、花穂がすぐさま近づいてきた。
「浅倉さん、お疲れ様です。夕べはありがとうございました。これ、タクシー代と食事代です」
そう言って白い封筒を差し出す。
「いい。気にするな」
「ですが、散々お世話になりましたし……」
「職場の後輩なんだから、これくらい当たり前だ。それより大森に見つかったらやっかいだ。早く仕舞え」
「あ、はい。それではお言葉に甘えて……。色々と本当にありがとうございました」
「ああ」
花穂は封筒を書類ケースに仕舞ってから、そっと視線を上げて再び話しかけてきた。
「あの、浅倉さん」
「なんだ?」
「私、実は夕べの記憶が定かではなくて……。お食事が美味しかったことと、タクシーで送っていただいたことは覚えてますが、その……、私なにか変なこと言いませんでしたか?」
心配そうに上目遣いでそう聞いてきた。
(そうか、『頭ポンポンひよこちゃん男』の話は覚えてないのか。それならよかった)
なにがどうよかったのか、よく分からないが、とにかく大地はホッとする。
「別に。他愛もない話をしただけだ」
ぶっきらぼうに返すと、花穂もホッとしたように頬を緩めた。
「そうでしたか」
その時、大森がいつもの調子で「ちはーっす!」と現れる。
「よし、じゃあ打ち合わせ始めるぞ」
「はい」
花穂はキリッと表情を変えて頷いた。
5分ほどで小さなビルにたどり着いた。
大地がエレベーターのボタンを押して花穂を促し、7階で降りる。
「ここは?」
特に看板もない小さなドアに手をかける大地に尋ねた。
「俺の行きつけのダイニングバー。穴場だからSNSに上げるなよ」
「大丈夫です。私、SNSやってませんから」
「へえ、今どき珍し」
呟きながら大地がドアを開ける。
「素敵! 星空の中に迷い込んだみたい」
目の前に広がる空間に、花穂は感激する。
ダークブルーの照明と、シックな色合いの内装や家具。
そして大きな窓の外に広がる空。
無数の小さなシーリングライトが、まるで夜空に輝く星のようだった。
「なんて綺麗なの……」
両手を組んでうっとり見とれている花穂を見て、マスターが大地に声をかける。
「いらっしゃいませ。今夜は窓際のテーブル席になさいますか?」
「ええ、そうですね」
「ご案内いたします。どうぞ」
「ほら、行くぞ」
大地は、ぽーっと夢見心地の花穂を振り返った。
「そこ、段差あるから……って、おい!」
「わっ」
足を踏み外してよろめいた花穂を、大地が抱き寄せる。
「危ないな。ちゃんと下見て歩け」
「すみません。雲の上にいる気分になっちゃって。このお店の雰囲気、とっても素敵ですね」
「空間デザイナーの職業病はあとにして、ほら、メニュー選べ」
席に着くと大地は花穂にメニューを渡し、「俺はいつものでお願いします」とマスターにオーダーする。
「それなら私もそうします」
花穂がそう言うと、大地は露骨に顔をしかめた。
「おい、いつものってなんだ?」
「さあ? なにが来るのか、お楽しみにしようと思って」
「…………」
大地はもはやモアイ像のような顔で固まる。
「浅倉さん? どうしました?」
「俺、日本語が分からない」
「えっ、大丈夫ですか?」
すると黙って聞いていたマスターが、クスッと笑みをもらしてから口を開く。
「オーダー承りました。浅倉様のいつものお酒とお食事を、お二人分ご用意いたします。それでは」
うやうやしく頭を下げてからマスターが去って行くと、大地はようやくピンと来たように顔を上げた。
「あ、そういうことか」
「ん? 浅倉さん、一周回って日本語戻ってきました?」
「ああ」
「よかったですね」
花穂は、ふふっと大地に笑いかける。
グラスでお酒が運ばれてくると「今日もお疲れ様でした」と小さく乾杯した。
「んー、大人の味。これ、ウイスキーですか?」
「ああ。結構強いけど、大丈夫か?」
「どうでしょうね?」
大地は困り果てたような表情を浮かべる。
「なあ、現代の20代女子って何語しゃべってるんだ?」
「え? それはいつの時代も母国語じゃないですか?」
「そうじゃなくて! 日本語が進化したのか? ギャル語の法則とか?」
「……ちょっとなに言ってるか分からないです」
「こちらこそだよ!」
その時、苦笑いを浮かべながらマスターが料理を運んできた。
「お待たせいたしました。浅倉様のお気入りのお食事をお二人分お持ちしました。トマトとモッツァレラチーズのカプレーゼ、スモークサーモンとブルーチーズのサラダ、梅しそ竜田揚げにアヒージョ、それからピンチョスの盛り合わせでございます。お嬢様、どうぞご賞味くださいませ」
「ありがとうございます。わあ、美味しそう。いただきます」
パクパクと頬張っては「美味しい!」と目を輝かせる花穂を、大地はひたすら怪訝そうに見つめていた。
♣♣♣
「私ねー、織江さんと別れてから、ひとりでがんばってるんですよー。でもねー、やっぱり寂しくて」
3杯目のウイスキーのグラスを傾けながら、呂律の回らない口調で花穂が話し出す。
頬は赤く、目もトロンとしていて、どう見ても酔っ払っていた。
「青山、その辺にしとけ」
そう言って大地はマスターに目配せし、ミネラルウォーターを頼んだ。
「ほら、飲めるか?」
「はい」
花穂は素直にミネラルウォーターを飲んだが、そのあとにまたウイスキーをグイッとあおる。
「あっ、こら」
手元からグラスを取り上げたが、時すでに遅し、中身は空っぽだった。
「織江さんはねー、私の心の支えだったんです。辛い時も嬉しい時も、いつも織江さんと一緒だった。フィオーレのプロジェクトも、織江さんとやりたかったな。がんばってるねって、頭をポンポンしてもらいたかった」
「じゃあそれは、恋人に頼んだらどうだ?」
「ポンポンを? えー、お願いしたらやってくれるかなー? でも恋人じゃないからだめかも」
ん?と大地は首をひねる。
(まだ恋人ではなく、片思いの相手がいるってことか?)
すると花穂が続けた。
「4年前はポンポンしてくれたから、またやってくれるかな?」
4年前?
そんなに長い間、片思いをしているのだろうか。
「思い切って告白してみたらどうだ?」
「なんて?」
「それはまあ、ストレートに。あなたが好きですって」
「あなたが、好きです……?」
花穂は小さく呟くと、いきなりズイッと顔を寄せてきた。
「わっ、なんだ?」
「浅倉さん」
「え……」
大地の胸がドキッと跳ねる。
(もしや、俺に……?)
次に花穂が口にする言葉を、ドキドキしながら待った。
「私はあなたが好きです……って、すごく難しい文法の日本語なんですよ」
「…………は?」
思い切り声が裏返る。
大地の思考回路は完全に固まった。
(な、なにを言っている?)
花穂は人差し指を立てて、じっと大地を見つめる。
「いいですか? 『私はあなたが好きです』って、主語は『私』、『好きです』が述語なんです。で、『あなた』は目的語だと思うじゃないですか。でも違うんです!」
「は、はあ」
「なんと、この場合の『あなた』は、中の構文の主語に当たるって説があるんですよ。すごくないですか?」
「そ、そうですね」
「だから告白するなら、もっと別の言い方がおすすめですよ」
「そうですか。ではなんと?」
「ずばり『私はあなたを愛しています』。これなら『あなた』は目的語になりますから、非常にシンプルなんです」
「なるほど」
「難しいですよね、日本語って。『あなたが好きです』だとちゃんとした告白になるのに『あなたが愛しています』だと、誰を? ってなるんですよ」
もはや内容は全く頭に入ってこない。
逆に、よく酔っ払いながらこんな話ができるなと感心した。
「承知しました。告白する時は『好きです』ではなく、『愛しています』を使えばいいんですね?」
「おっしゃる通り! でもね、もっとシンプルに言ってもいいんですよ」
「なんて?」
「アイラブユーって」
ガクッと大地は肩透かしを食らう。
「それ、もはや日本語じゃないだろ」
「いいんです! 伝わればそれで。大事なのは心ですから」
「まあ、そうだな。じゃあ青山も伝えてみたら? 4年間ずっと好きだった人に」
「好き、だった人?」
花穂は小さく呟いてうつむく。
「そんなひとことでは済ませられません。だって、私をデザイナーにしてくれた人だから」
へえ、と大地は興味を惹かれた。
「その人は、どうやって青山をデザイナーにしてくれたんだ?」
「それは、えっと。頭ポンポンして、ひよこちゃんって……」
「……は?」
「やだ! もう、言わせないでくださいよ」
花穂は真っ赤になった頬を両手で押さえて身悶える。
大地はポカンとしながら頭の中を整理した。
(なんだ? 4年前に頭をポンポンされて、どうやったらデザイナーになるんだ? しかもひよこちゃんって?)
しばし考え込んだあと、大地はハッとした。
(4年前って、まさか、あの?)
自分にとって大きな自信につながった銀座のジュエリーブランドを手がけたのが、確か4年前だ。
(そうだ。オープン前日の夜、食い入るように店内を覗き込んでいた美大生の女の子。俺のデザインの良さを熱く語るあの子に、もう既にデザイナーとしての素質が備わっていると思った。だから俺は言ったんだ。デザイナーの卵じゃなく、ひよこだと)
信じられないとばかりに、大地は花穂に目を向ける。
(あの子が青山だったのか。もしや、俺のデザインを見て同じ会社に入ろうとチェレスタに?)
ほわーんとした表情で窓の外を見ている花穂を、まじまじと見つめた。
(え、でも待てよ。今の話の流れだと、青山はあの時声をかけたのが俺だと気づいていないってことか)
そう思った途端、ガクッと頭を垂れた。
(そうか。きっと青山の思い出の中で美化されてるんだろうな)
気づかれなくて当然だ。
なぜなら今の自分は、あの頃とはガラリと雰囲気が変わったと自覚しているから。
(4年前は俺も今の青山みたいに、ただ良い演出を考えるのに夢中だったな。面白くてやりがいがあって、純粋に仕事を楽しめていた)
だが今はもう、そんな気持ちにはなれない。
ライバルと競い、自分のプランニングをけなされ、スランプに陥ってからそうなった。
クライアントに認められる仕事、今はただそれだけを考えている。
人と明るく笑顔で接することも、いつの間にか忘れていた。
(青山にとって今の俺は、ただ冷たくて怖い印象だろうな。4年前の人が俺だとは思いもしないのが当然だ)
このまま黙っておく方がいいだろう。
自分だと伝えて幻滅させたくない。
(彼女にとっても、いい思い出として残しておいた方がいいだろうし。いや、でも待てよ。4年間も片思いしたままというのが本当なら、きっぱり気持ちを絶ち切らないと次の恋愛に向かえないか)
あの時の男は俺だ。どうだ?幻滅しただろう。さっさと別の相手を探せ、と伝えるべきか。
うーん、と腕を組んで頭を悩ませていると、花穂がうとうととまどろんでいるのに気づいた。
「青山? おい、寝るなよ」
「んー……」
花穂は目を閉じたまま、気だるげに返事をする。
これはマズイなと、大地はマスターに目配せしてカードで支払いを済ませた。
「青山、ほら。立てるか?」
身体を支えて立ち上がらせると、花穂は目を閉じたままフラフラと歩き出す。
「マスター、ごちそうさまでした」
「ご来店ありがとうございました。今、下にタクシーを呼びましたので、よろしければ」
にこやかにサラリとつけ加えるマスターに脱帽し、ありがたく利用させてもらった。
運転手に、花穂のマンションの場所を思い出しながら説明する。
走り出した車内で、花穂はスーッと気持ち良さそうに大地の肩にもたれて眠っていた。
(やれやれ。なんだか色々あったな、今夜は)
織江が退職したあと、花穂の様子には気をつけるようにしていたが、ホテル フィオーレのプロジェクトではなかなかいい案を出してくれて、先方にも喜ばれた。
花穂の為にも、プロジェクトは必ず成功させてみせる。
(とにかくひとりで無理させないようにしなければ)
そう思い、毎日花穂がきちんと退社しているか、気にかけていた。
今夜も22時にクリエイティブ部のオフィスを覗くと、花穂のデスクの横にはまだかばんが置いてあり、もしやと思って会議室に行ってみた。
案の定、時間も忘れて花びらを作っている花穂の姿があり、半ば強引に食事に連れ出した。
そこでまさか、あんな話の展開になろうとは……。
大地は、そっと花穂の横顔を覗き込む。
長いまつ毛とほんのり赤い頬、そしてふっくらと艷やかな唇に目を奪われた。
思わず手を伸ばし、サラリと花穂の前髪をよける。
綺麗なフェイスラインと形の良い額に目が離せなくなった。
(あの時の子が、こんなに綺麗に……)
4年前の花穂は目を輝かせて興奮気味に話す姿が印象的だったが、今こうして見ると美しい女性の魅力に溢れている。
(俺とほんの少し交わした会話で、チェレスタに入社しようと思ってくれたのか?空間デザイナーになった今も、ずっと俺との思い出を忘れないでいてくれたのか? 4年もの間、ずっと)
そう思った途端、愛おしさが込み上げてきた。
これからもデザイナーとして生き生きと羽ばたいてほしい。
スランプなんて味わうことなく、楽しんで仕事を続けてほしい。
ずっと笑顔で、たくさんの素晴らしいデザインを生み出してほしい。
そしていつか、女性としての幸せも掴んでほしい。
心からそう願った。
(だがそれには、4年前の俺を忘れてくれなければ。美化した幻想に囚われたままではいけない。誰かいないのか? 彼女が心奪われて、4年前の思い出なんて消し去ってしまうくらいのいい男は)
うーん、と考えを巡らせる。
そもそも花穂の好きなタイプが分からない。
(あ、あれか! 国語の文法の話ができる相手)
主語と述語がどうのこうのという話についていけるなら、彼女との会話も弾むだろう。
(ってことは、文系の男か。文学部出身……、俺の周りにはいないな。いっそのこと、作家とかは? いやいや、それこそ心当たりはない。合コンとか、マッチングサイトで探す? いかん! 純粋なこの子が見ず知らずの相手と会うのは危険すぎる)
もはや自分の立ち位置も分からない。
まるで保護者か教師のような心境だった。
そうこうしているうちに、タクシーは花穂のマンションに着く。
「青山、着いたぞ」
「んー……。あ、はい」
花穂は、ほわんとした表情でかろうじて目を開けた。
「えっと、今お支払いしますね」
そう言ってかばんから財布を取り出そうとする。
「寝ぼけてるのに律儀なやつだな。そんなことはいいから降りろ」
「あ、そうですね。浅倉さん、タクシーの運転手さんに、器の小せえ男だなって思われたくないんでしたよね」
「ちょっ、でっかい声で言うな」
運転手が笑いをこらえているのがミラー越しに分かり、大地は焦る。
「ほら、もういいからさっさと降りろ」
「はい。ではまた会社でお会いした時に……、あっ!」
「びっくりした。今度はなんだ?」
「前回のタクシー代もまだでしたね。まとめてお渡しします。あ、バーの支払いは?」
「いい! もう全部いいから! とにかく降りろ」
「はい、それではまた会社で。今夜はありがとうございました。おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
ようやく花穂が降り、タクシーは再び走り出す。
(はあ。なんか俺、振り回されっぱなしだな)
思えば女の子と二人で食事をしたのは、かなり久しぶりだ。
仕事が楽しめなくなった時期から恋愛も上手くいかなくなり、そこからは誰ともつき合っていない。
ビジネスの場では女性に失礼のないよう振る舞うが、プライベートでの女の子との会話の仕方はすっかり忘れてしまった。
(デートとかどうやってたんだろう? もう俺、恋愛できない体質になったな)
急に自分の人生がちっぽけなものに思えて、大地は窓の外に流れる景色を見ながらため息をついた。
翌日。
打ち合わせの時間に会議室に行くと、花穂がすぐさま近づいてきた。
「浅倉さん、お疲れ様です。夕べはありがとうございました。これ、タクシー代と食事代です」
そう言って白い封筒を差し出す。
「いい。気にするな」
「ですが、散々お世話になりましたし……」
「職場の後輩なんだから、これくらい当たり前だ。それより大森に見つかったらやっかいだ。早く仕舞え」
「あ、はい。それではお言葉に甘えて……。色々と本当にありがとうございました」
「ああ」
花穂は封筒を書類ケースに仕舞ってから、そっと視線を上げて再び話しかけてきた。
「あの、浅倉さん」
「なんだ?」
「私、実は夕べの記憶が定かではなくて……。お食事が美味しかったことと、タクシーで送っていただいたことは覚えてますが、その……、私なにか変なこと言いませんでしたか?」
心配そうに上目遣いでそう聞いてきた。
(そうか、『頭ポンポンひよこちゃん男』の話は覚えてないのか。それならよかった)
なにがどうよかったのか、よく分からないが、とにかく大地はホッとする。
「別に。他愛もない話をしただけだ」
ぶっきらぼうに返すと、花穂もホッとしたように頬を緩めた。
「そうでしたか」
その時、大森がいつもの調子で「ちはーっす!」と現れる。
「よし、じゃあ打ち合わせ始めるぞ」
「はい」
花穂はキリッと表情を変えて頷いた。
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