Blue Moon 〜小さな夜の奇跡〜

葉月 まい

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揺らぐ心

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秋に向かって暑さが和らぐにつれて、小夜の心も落ち着いてくる。
だが想への気持ちに気づいたあの日から、どこか物哀しさを覚えていた。

(私は彼への想いを抱えたまま、この先も一人の時間を過ごすしかないんだ)

そう認めるしかなかった。
そして改めて、あの夜の想の演奏を思い返す。


誠実とはなんと虚しい言葉だろう
誰もがそんなふうには生きられない
と歌った『HONESTY』

ならず者よ いい加減 己に返れ
長い間 心を閉ざしたままだろう?
楽しいことが自分自身を傷つけることだってある
欲しいのは手に入らないものばかり
と歌った『デスペラード』

それでも救いを求めるように、
世界はこんなにも素晴らしい
と語った『What a Wonderful World』

あのバーでの演奏が、想のすべてを物語っている気がした。

「俺にもくれないか? 奇跡みたいな夜を。たったひと晩だけでいい。小さな夜を、俺に……」

その言葉は、彼の悲痛な叫びだったのだと、今ならわかる。

大きな腕に抱きしめられたあの夜の幸せは、今になって小夜の心を切なく締めつけていた。



バーでの週末の演奏。
小夜は馴染みの男性客からリクエストされた『ANGEL』を、まだ弾けずにいた。

弾くとどうしても気持ちがコントロールできず、涙が溢れて止まらなくなるからだ。

「すみません、もう少し待ってくださいね」

そう言って頭を下げると、男性は「いいよ、いいよ。小夜ちゃんのペースで」と笑いかけてくれた。
早く期待に応えたいと、小夜は毎日毎日この曲を練習する。

(彼のことを、遠い昔の思い出にできたらいいのに)

そう願うが、弾けば弾くほど心が想で埋め尽くされ、想いが込み上げてきた。

「小夜」

いつものように閉店後の店内でピアノに向かっていると、光が近づいてきた。
小夜は、こぼれた涙を慌てて指先で拭ってから振り返る。

「なに?」
「……もう弾くな」
「え?」
「小夜を苦しめるだけだ。その曲の思い出も、その男も」

小夜は言葉に詰まって光から目をそらした。

「小夜、俺を見て。目をそらすのは俺からじゃない。その男からだ」

思わずハッとして視線を上げる。
真剣な眼差しの光と目が合った。

「俺だけ見てろ。忘れさせてやるから」

そう言うと光は身をかがめて、小夜をギュッと抱きしめる。

「帰ろう。うちまで送る」

耳元でささやかれて、小夜はなにも考えられず、ただ頷いた。



「秋のミニコンサート、今年は小夜と光くんでやってみない?」

ある日の朝会で、店長がそう切り出した。
毎年芸術の秋にちなんで、11月の週末に店内でちょっとしたイベントを行っている。
楽器フェアとして期間中は楽器を割引価格で販売したり、楽器の体験や相談会、そして店内では一日中ミニコンサートを開催するのだ。

今年もプロの音楽家を招いて、ピアノソロの他にもフルート、ヴァイオリン、弦楽四重奏など、様々なスタイルのコンサートが予定されていた。
そこに自分たちもやるとはどういうことなのだろうと、小夜は光と顔を見合わせる。

「私と光くんで、ですか?」
「そう。小夜はクラシックで光くんはジャズだけど、そういうジャンルにこだわらないで、なにか面白いこと企画できない?」
「面白いこと? って、どういう感じの?」
「それを二人で考えてみて」

ええー?と小夜は眉根を寄せる。
どういうことなのか、まったく想像がつかなかった。

「まあ、深く考えなくていいからさ。好きな曲を弾いてくれればいいの。せっかくだから絡んだら面白そうかなって思っただけよ」

ちょっと考えてみて、と言われて小夜は頷いた。



その日の夜。
閉店作業を終えると早速二人でピアノの前に座り、相談を始める。

「私がクラシックを弾いて、光くんがジャズを弾く。それで絡むってどういうことだろうね?」

小夜の言葉に、光は腕を組んで宙に目をやった。

「セッションっぽく、その場のノリで会話するみたいに演奏するのは?」
「それってジャズでしょ? クラシックでそういうのはやったことないよ」
「じゃあ全部即興はやめて、ある程度流れは決めておこうか。小夜、ちょっとこっち来て」

そう言うと光は、ステージのグランドピアノから離れて楽器の展示コーナーに向かう。
互い違いに並べられたグランドピアノ二台の屋根を開けた。

「小夜、そっちな。俺がこっちに座る」
「うん」

言われた通りにピアノの前に座り、互いに顔を見合わせる。

「取り敢えずやってみよう。そうだな……。小夜、オーソドックスな『きらきら星』弾いてみて」
「え? うん、わかった」

小夜は鍵盤に手を置き、子どもが弾くような簡単な音で『きらきら星』を演奏した。
するとひと呼吸置いてから、光がジャズのリズムで同じメロディを奏でる。

「わあ、オシャレだね。じゃあ、私も」

今度は小夜が華やかな変奏曲にして演奏した。
次は光が変拍子に変えて演奏する。
次々と表情を変える『きらきら星』に、小夜も光も楽しくて止まらなくなった。

「いいな、これ。いつまででもやってられる」
「うん、楽しい!」

するとバックオフィスで事務作業をしていた店長がやって来た。

「いいじゃない! それ、ミニコンサートでやってみて。子どもも弾けそうな簡単な『きらきら星』が、クラシックで華やかになって、ジャズではかっこよくなっていく。すごく興味深いわ。ジャンルを超えて、色んな人に喜ばれそうね」
「はい!」

満面の笑みで返事をする小夜を、光は優しい表情で見つめる。

「光くん。あんまり打ち合わせはしないで、本番のノリに任せて弾いてもいい?」
「もちろん。俺もそっちの方がやりやすい。段取り決めても覚えられないから」
「あはは! なるほどね。じゃあ本番、私たちにとってもお楽しみだね」
「ああ」
「よーし、がんばろう!」

わくわくと明るい気持ちになれたことが、小夜は嬉しかった。
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