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クリスマスコンサート
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十二月二十四日。
バーでのクリスマスコンサートの日がやって来た。
小夜と光は、楽器店での仕事を終えるとすぐにバーに向かう。
マスターと最終打ち合わせをしてから、控え室で軽く食事をして準備をした。
「おおー、光くんかっこいいね」
いつものラフな雰囲気ではなく、黒のタキシードをビシッと着こなした光を、小夜はまじまじと見つめる。
出逢った頃は金髪だったが、今は本来の黒髪に戻っていた。
光は鏡に向かいながらスプレーで髪型もフォーマルに整える。
「どうよ? 惚れ直したか?」
そう言って小夜を振り返ると、光は気取ってポーズを取った。
「ううん、惚れてないから惚れ直さない」
ガクッと光はうなだれる。
「じゃあ今惚れろ」
「今、惚れろー? なにそれ。初めて聞いた、そんな言い回し」
軽く笑い飛ばしながら、小夜は髪型をハーフアップにする。
今夜は若いカップルのお客様も多いので、セクシーな感じにならないように気をつけた。
(もともと、どうがんばってもセクシーにはならないから、余計な心配だけど)
心の中で苦笑いしながらヘアセットを終えると、鏡越しに光と目が合った。
「どうかした?」
「いや。今すぐどっかに連れて行こうかなと思って」
「は? なに言ってんの。これから演奏でしょ?」
「じゃあ、そのあとな。ほら、小夜も早く衣装に着替えなよ。手伝ってやるから」
「バカ! またそんなこと言って」
「だって俺、この格好で店に戻る訳にいかないだろ? ここから動けない」
「光くんがソロで弾いてる時に着替えるわよ」
ふふんと勝ち誇ったように顎を上げてそう言うと、光はニヤリと笑う。
「じゃあ本番終わったら、脱がせるのを手伝うから」
「ちょ、変態!」
小夜は思わず両腕を交差して身をよじった。
「いいだろ? どうせそのうち、裸のつき合いになるんだし」
「なりません! 温泉友だちみたいに言わないでよ」
「ああ、いいね。混浴? それとも貸切り風呂?」
「もうほんとにバカ! これから演奏するのよ? ちょっとは気を引き締めてよ」
「はいはい。俺の演奏で小夜をコロッと惚れさせてみせるよ」
そう言って自信ありげに横目で視線を送る光は、今まで見たことないほど男の魅力に溢れていた。
◇
時間になり、冗談は封印して小夜は光を送り出す。
「行ってらっしゃい」
「ああ、あとでな」
光はスッと背筋を伸ばして颯爽と控え室を出ていった。
店内から拍手の音が聞こえてくる。
小夜は少しだけ控え室のドアを開けて、そっと様子をうかがった。
キャンドルの灯りが揺れる店内は、二人掛けのテーブルが配置され、カップルが笑顔でお酒を楽しんでいる。
その間を縫って、光はピアノに向かった。
今夜は特別に、グランドピアノをもう一台レンタルし、二台を互い違いに並べている。
そのうちの一台の前に立つと、光は微笑みながらお辞儀をした。
椅子に座ると拍手が止み、店内は静寂に包まれる。
皆が注目する中、光はおもむろに鍵盤に手を載せた。
まるで流れ星が流れるように、高い音から低い音へとグリッサンドで指を滑らせてから、ロマンチックなメロディを奏で始める。
『星に願いを』
女の子たちが嬉しそうに彼に微笑みかけるのがわかった。
光は敢えて低い音域を使い、大人のムードでゆったりと味わい深く演奏する。
馴染みのある旋律は、徐々に雰囲気を変え、シンコペーションのリズムにジャズの要素が色濃くなってきた。
(わあ、大人っぽい。素敵……)
店内でじっくりと聴きたくなる気持ちを抑え、小夜はドアの隙間からうっとりと光の演奏に酔いしれていた。
続いての曲は、ジャズでもよく演奏される『White Christmas』
聴き惚れていた小夜は、拍手の音でハッと我に返り、慌てて控え室のドアを閉めた。
(いけない、着替えないと)
衣装カバーのファスナーを開けて、中から赤いドレスを取り出す。
オフショルダーの七部袖で、スカートは張りがあり、ふわりとしたシルエットのドレスだった。
(うん、クリスマスっぽい)
着替えると、鏡で全身をチェックする。
胸元にはチョーカーを、髪飾りは白いファーをつけた。
ステージメイクを終えると、再びドアを開いて様子をうかがう。
窓から月明かりが射し込む中、ライトを浴びて演奏する光の姿に、思わずドキッとする。
先程よりも一層店内はロマンチックムードで、恋人たちから感嘆のため息が聞こえる気がした。
光のソロのラストナンバーは『いつか王子様が』
耳馴染みのある曲が、まるで初めて聴く曲のように、魅惑的に艶っぽく演奏される。
(はあ……、もうとろけそう)
やがて余韻をたっぷり残して演奏が終わる。
静寂が戻ってきても、名残惜しむように観客は表情を変えない。
ようやく拍手が起き、光は笑顔で立ち上がった。
小夜も一番後ろから拍手を贈る。
深々とお辞儀をしてから、光は右手を小夜の方に差し伸べた。
観客に一斉に振り返られ、小夜は笑みを浮かべながら光のもとへ向かう。
光はステージの段差を上がる小夜の手を取ると、そのままグッと抱き寄せた。
「どう、惚れた?」
耳元でささやいてくる光に、小夜は正面を向いたまま答える。
「音にはね」
「ふっ、じゃああとちょいだな」
なにを言ってんだか、と思いながら、小夜は光と並んでお辞儀をする。
そしてそれぞれピアノに向かって座った。
なにが始まるのだろう?
客席からのそんな視線を感じながら、小夜は気持ちを整えて光と見つめ合う。
小さく光が頷き、頷き返した小夜は鍵盤に両手を置いた。
光が鳴らすスレイベルに合わせて、誰もが知る『ジングルベル』を、まずはオーソドックスに弾く。
次に光が、シャッフルビートを加えたスウィングで、ジャズ風の『ジングルベル』に変えた。
次は小夜が、厳かでクラシカルなロシア風に。
続いて光が、柔らかいワルツアレンジでフランスのシャンソン風に。
二人の手で『ジングルベル』が世界を巡る。
観客のボルテージが上がり、わくわくした様子で聴き入っているのがわかった。
小夜が、ゆったりと余白を活かした和風にすると、今度は光が躍動感溢れるブラジルのサンバ風に。
キレのあるアルゼンチンタンゴのあとは、エキゾチックな音階を使ったアラビア風に。
ラストはゴスペルクワイアのように、二人でノリ良くセッションすると、客席も手拍子で加わる。
やがてテンポを緩め、静かに静かに小夜が『ジングルベル』を奏で、最後の音に光がウインドチャイムを重ねた。
シャランと綺麗な音が空気に溶け込み、ほうっと客席からため息がもれる。
そして割れんばかりの拍手に包まれた。
二人で立ち上がり、何度もお辞儀をして拍手に応える。
光は小夜に笑顔で頷くと、左手で観客の注目を小夜に促してからステージを降りた。
次は小夜のソロステージだ。
仕切り直すように、小夜は深呼吸してから椅子に座った。
おもむろに手を載せて奏で始めたのは、華やかな編曲の『もろびとこぞりて』
続いてはシューベルトの『アヴェ・マリア』
クラシカルな雰囲気を意識して、光とは違ったピアノの魅力を披露した。
そして『生命いのちの奇跡』
女性が涙ぐむ姿が見え、思わず小夜も胸が詰まり、涙が込み上げてきた。
一人で弾いている時には感じることがなかった感動が、聴いてくれる人によって小夜自身にも与えられる。
観客との対話で作り出される、この場限りの音楽。
(なんて幸せで、なんて切ないのだろう)
それは想との思い出に似ている。
小夜はそう感じながら、胸を打ち震わせてピアノを奏でていた。
◇
コンサートの最後は、アンコールに応えて再び光も登場する。
『All I Want for Christmas Is You』を二人で明るくゴージャスに弾き、観客も手拍子で盛り上がった。
「とっても楽しかったです!」
笑顔で帰っていくカップルたちをカウンターの横で見送っていると、口々に感想を伝えてくれる。
晴れ晴れとした表情で、仲良く腕を組んで店をあとにするカップルに、小夜も嬉しくなった。
「小夜ちゃん、今夜はまたひと味もふた味も違った演奏で、素晴らしかったよ」
最後に、カウンター席にいた馴染みの男性客たちが近づいてきた。
「カップルに紛れて聴きに来てよかった」
「これからも楽しみにしてるよ」
ありがとうございますと笑顔で答えていた小夜は、『ANGEL』をリクエストしてくれた男性客とふと目が合った。
小夜の顔から笑顔が消える。
「小夜、どうかした?」
隣の光が心配そうに顔を覗き込む。
小夜はうつむいてじっと考えてから顔を上げ、カウンターにいたマスターに尋ねた。
「マスター。あと一曲だけ弾かせてもらえませんか?」
「え? それはいいけど」
「ありがとうございます」
どうしたのかと言わんばかりの皆の視線を受け、小夜は頭を下げる。
「皆様、よかったらもう一曲だけおつき合いいただけませんか?」
そう言うと、顔を見合わせる皆に背を向けて、小夜はピアノに向かった。
椅子に座ると両手を握りしめ、小夜は大きく息を吸う。
(弾こう、あの曲を。彼の演奏を聴いた時と同じ、この場所で)
小さく頷くと、ゆっくりと鍵盤に両手を載せて奏で始めた。
Sarah McLachlanの『ANGEL』
あの時、想はどんな気持ちでこの曲を弾いていたのだろう。
そう思いながら、小夜はピアノに心を委ねる。
どうにもならない孤独と辛さ。
想はそれを静かに受け止め、この曲に気持ちを乗せたのだろうか。
言葉では言い表せない想い。
誰にも打ち明けられない心の内。
それらをすべて、ピアノの音に込めて。
そんな演奏にどうしようもなく惹かれて、心を奪われた。
だからあの夜を一緒に過ごしたのだ。
互いの魂が引き寄せ合うように。
(私はあの夜、一生分の恋をした。あなたとの思い出さえあれば、この先も幸せに生きていける)
ふと視線を上げると、窓の外に月明かりが見えた。
(あの夜のブルームーンは、たとえひとときでも彼を幸せにしてくれた?)
そうだといい。
小夜は願うように心の中で歌詞を呟いた。
May you find some comfort here……
バーでのクリスマスコンサートの日がやって来た。
小夜と光は、楽器店での仕事を終えるとすぐにバーに向かう。
マスターと最終打ち合わせをしてから、控え室で軽く食事をして準備をした。
「おおー、光くんかっこいいね」
いつものラフな雰囲気ではなく、黒のタキシードをビシッと着こなした光を、小夜はまじまじと見つめる。
出逢った頃は金髪だったが、今は本来の黒髪に戻っていた。
光は鏡に向かいながらスプレーで髪型もフォーマルに整える。
「どうよ? 惚れ直したか?」
そう言って小夜を振り返ると、光は気取ってポーズを取った。
「ううん、惚れてないから惚れ直さない」
ガクッと光はうなだれる。
「じゃあ今惚れろ」
「今、惚れろー? なにそれ。初めて聞いた、そんな言い回し」
軽く笑い飛ばしながら、小夜は髪型をハーフアップにする。
今夜は若いカップルのお客様も多いので、セクシーな感じにならないように気をつけた。
(もともと、どうがんばってもセクシーにはならないから、余計な心配だけど)
心の中で苦笑いしながらヘアセットを終えると、鏡越しに光と目が合った。
「どうかした?」
「いや。今すぐどっかに連れて行こうかなと思って」
「は? なに言ってんの。これから演奏でしょ?」
「じゃあ、そのあとな。ほら、小夜も早く衣装に着替えなよ。手伝ってやるから」
「バカ! またそんなこと言って」
「だって俺、この格好で店に戻る訳にいかないだろ? ここから動けない」
「光くんがソロで弾いてる時に着替えるわよ」
ふふんと勝ち誇ったように顎を上げてそう言うと、光はニヤリと笑う。
「じゃあ本番終わったら、脱がせるのを手伝うから」
「ちょ、変態!」
小夜は思わず両腕を交差して身をよじった。
「いいだろ? どうせそのうち、裸のつき合いになるんだし」
「なりません! 温泉友だちみたいに言わないでよ」
「ああ、いいね。混浴? それとも貸切り風呂?」
「もうほんとにバカ! これから演奏するのよ? ちょっとは気を引き締めてよ」
「はいはい。俺の演奏で小夜をコロッと惚れさせてみせるよ」
そう言って自信ありげに横目で視線を送る光は、今まで見たことないほど男の魅力に溢れていた。
◇
時間になり、冗談は封印して小夜は光を送り出す。
「行ってらっしゃい」
「ああ、あとでな」
光はスッと背筋を伸ばして颯爽と控え室を出ていった。
店内から拍手の音が聞こえてくる。
小夜は少しだけ控え室のドアを開けて、そっと様子をうかがった。
キャンドルの灯りが揺れる店内は、二人掛けのテーブルが配置され、カップルが笑顔でお酒を楽しんでいる。
その間を縫って、光はピアノに向かった。
今夜は特別に、グランドピアノをもう一台レンタルし、二台を互い違いに並べている。
そのうちの一台の前に立つと、光は微笑みながらお辞儀をした。
椅子に座ると拍手が止み、店内は静寂に包まれる。
皆が注目する中、光はおもむろに鍵盤に手を載せた。
まるで流れ星が流れるように、高い音から低い音へとグリッサンドで指を滑らせてから、ロマンチックなメロディを奏で始める。
『星に願いを』
女の子たちが嬉しそうに彼に微笑みかけるのがわかった。
光は敢えて低い音域を使い、大人のムードでゆったりと味わい深く演奏する。
馴染みのある旋律は、徐々に雰囲気を変え、シンコペーションのリズムにジャズの要素が色濃くなってきた。
(わあ、大人っぽい。素敵……)
店内でじっくりと聴きたくなる気持ちを抑え、小夜はドアの隙間からうっとりと光の演奏に酔いしれていた。
続いての曲は、ジャズでもよく演奏される『White Christmas』
聴き惚れていた小夜は、拍手の音でハッと我に返り、慌てて控え室のドアを閉めた。
(いけない、着替えないと)
衣装カバーのファスナーを開けて、中から赤いドレスを取り出す。
オフショルダーの七部袖で、スカートは張りがあり、ふわりとしたシルエットのドレスだった。
(うん、クリスマスっぽい)
着替えると、鏡で全身をチェックする。
胸元にはチョーカーを、髪飾りは白いファーをつけた。
ステージメイクを終えると、再びドアを開いて様子をうかがう。
窓から月明かりが射し込む中、ライトを浴びて演奏する光の姿に、思わずドキッとする。
先程よりも一層店内はロマンチックムードで、恋人たちから感嘆のため息が聞こえる気がした。
光のソロのラストナンバーは『いつか王子様が』
耳馴染みのある曲が、まるで初めて聴く曲のように、魅惑的に艶っぽく演奏される。
(はあ……、もうとろけそう)
やがて余韻をたっぷり残して演奏が終わる。
静寂が戻ってきても、名残惜しむように観客は表情を変えない。
ようやく拍手が起き、光は笑顔で立ち上がった。
小夜も一番後ろから拍手を贈る。
深々とお辞儀をしてから、光は右手を小夜の方に差し伸べた。
観客に一斉に振り返られ、小夜は笑みを浮かべながら光のもとへ向かう。
光はステージの段差を上がる小夜の手を取ると、そのままグッと抱き寄せた。
「どう、惚れた?」
耳元でささやいてくる光に、小夜は正面を向いたまま答える。
「音にはね」
「ふっ、じゃああとちょいだな」
なにを言ってんだか、と思いながら、小夜は光と並んでお辞儀をする。
そしてそれぞれピアノに向かって座った。
なにが始まるのだろう?
客席からのそんな視線を感じながら、小夜は気持ちを整えて光と見つめ合う。
小さく光が頷き、頷き返した小夜は鍵盤に両手を置いた。
光が鳴らすスレイベルに合わせて、誰もが知る『ジングルベル』を、まずはオーソドックスに弾く。
次に光が、シャッフルビートを加えたスウィングで、ジャズ風の『ジングルベル』に変えた。
次は小夜が、厳かでクラシカルなロシア風に。
続いて光が、柔らかいワルツアレンジでフランスのシャンソン風に。
二人の手で『ジングルベル』が世界を巡る。
観客のボルテージが上がり、わくわくした様子で聴き入っているのがわかった。
小夜が、ゆったりと余白を活かした和風にすると、今度は光が躍動感溢れるブラジルのサンバ風に。
キレのあるアルゼンチンタンゴのあとは、エキゾチックな音階を使ったアラビア風に。
ラストはゴスペルクワイアのように、二人でノリ良くセッションすると、客席も手拍子で加わる。
やがてテンポを緩め、静かに静かに小夜が『ジングルベル』を奏で、最後の音に光がウインドチャイムを重ねた。
シャランと綺麗な音が空気に溶け込み、ほうっと客席からため息がもれる。
そして割れんばかりの拍手に包まれた。
二人で立ち上がり、何度もお辞儀をして拍手に応える。
光は小夜に笑顔で頷くと、左手で観客の注目を小夜に促してからステージを降りた。
次は小夜のソロステージだ。
仕切り直すように、小夜は深呼吸してから椅子に座った。
おもむろに手を載せて奏で始めたのは、華やかな編曲の『もろびとこぞりて』
続いてはシューベルトの『アヴェ・マリア』
クラシカルな雰囲気を意識して、光とは違ったピアノの魅力を披露した。
そして『生命いのちの奇跡』
女性が涙ぐむ姿が見え、思わず小夜も胸が詰まり、涙が込み上げてきた。
一人で弾いている時には感じることがなかった感動が、聴いてくれる人によって小夜自身にも与えられる。
観客との対話で作り出される、この場限りの音楽。
(なんて幸せで、なんて切ないのだろう)
それは想との思い出に似ている。
小夜はそう感じながら、胸を打ち震わせてピアノを奏でていた。
◇
コンサートの最後は、アンコールに応えて再び光も登場する。
『All I Want for Christmas Is You』を二人で明るくゴージャスに弾き、観客も手拍子で盛り上がった。
「とっても楽しかったです!」
笑顔で帰っていくカップルたちをカウンターの横で見送っていると、口々に感想を伝えてくれる。
晴れ晴れとした表情で、仲良く腕を組んで店をあとにするカップルに、小夜も嬉しくなった。
「小夜ちゃん、今夜はまたひと味もふた味も違った演奏で、素晴らしかったよ」
最後に、カウンター席にいた馴染みの男性客たちが近づいてきた。
「カップルに紛れて聴きに来てよかった」
「これからも楽しみにしてるよ」
ありがとうございますと笑顔で答えていた小夜は、『ANGEL』をリクエストしてくれた男性客とふと目が合った。
小夜の顔から笑顔が消える。
「小夜、どうかした?」
隣の光が心配そうに顔を覗き込む。
小夜はうつむいてじっと考えてから顔を上げ、カウンターにいたマスターに尋ねた。
「マスター。あと一曲だけ弾かせてもらえませんか?」
「え? それはいいけど」
「ありがとうございます」
どうしたのかと言わんばかりの皆の視線を受け、小夜は頭を下げる。
「皆様、よかったらもう一曲だけおつき合いいただけませんか?」
そう言うと、顔を見合わせる皆に背を向けて、小夜はピアノに向かった。
椅子に座ると両手を握りしめ、小夜は大きく息を吸う。
(弾こう、あの曲を。彼の演奏を聴いた時と同じ、この場所で)
小さく頷くと、ゆっくりと鍵盤に両手を載せて奏で始めた。
Sarah McLachlanの『ANGEL』
あの時、想はどんな気持ちでこの曲を弾いていたのだろう。
そう思いながら、小夜はピアノに心を委ねる。
どうにもならない孤独と辛さ。
想はそれを静かに受け止め、この曲に気持ちを乗せたのだろうか。
言葉では言い表せない想い。
誰にも打ち明けられない心の内。
それらをすべて、ピアノの音に込めて。
そんな演奏にどうしようもなく惹かれて、心を奪われた。
だからあの夜を一緒に過ごしたのだ。
互いの魂が引き寄せ合うように。
(私はあの夜、一生分の恋をした。あなたとの思い出さえあれば、この先も幸せに生きていける)
ふと視線を上げると、窓の外に月明かりが見えた。
(あの夜のブルームーンは、たとえひとときでも彼を幸せにしてくれた?)
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小夜は願うように心の中で歌詞を呟いた。
May you find some comfort here……
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