優しい雨が降る夜は

葉月 まい

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突然の騒動

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いつもの日常が過ぎていく。
6月になると、気温が高い日が続いた。

「美月ちゃん、こんにちは」
「こんにちは、タキさん。蒸し暑くなってきたけど、お元気かしら?」
「なんとかね。うちにいるより、ここに来た方が涼しくていいわ」
「それなら良かった。どうぞごゆっくり」
「ありがとね」

本読み会の日、メンバーに連れられてやって来た車椅子のタキさんを、美月がエレベーターで2階の和室に案内する。

タキさんと同居している息子夫婦は、高齢で出歩くタキさんを心配しているのだが、「なにかあったらすぐにご連絡しますから」と美月は伝えていた。

(タキさんにとっては、本読み会が日々の楽しみなんだもの。この場所がそのお役に立てるなら、こんなに嬉しいことはないわ)

美月はタキさんを案内する度にそう感じていた。

週末には大ホールでコンサートが催され、詩音達アルバイトの子が手伝いに集まる。

「美月さーん、この雑誌見ました?」
「なあに、詩音ちゃん」
「これです! ピアノの雑誌なんですけど、見てください。友利 健二のインタビューが載ってるんです」
「そうなの?」

詩音が開いたページを覗き込むと、笑顔の友利の写真の上に『期待の若手ピアニスト、独占インタビュー!』という見出しが躍る記事があった。

「へえ、すごいね。芸能人みたい」
「ピアノの世界ではまさにそんな感じですよ。追っかけもいるし、コンサートを開けばチケットはすぐに完売! SNSのフォロワーもすごい数なんですよ」
「そうなんだ」
「美月さん、これから休憩ですか? 良かったらこの雑誌、読んで来てください」
「いいの? ありがとう、詩音ちゃん」

美月はお弁当と雑誌を手に休憩室に向かった。



(ふうん。友利さん、全国ツアーをやるんだ。すごい人気ね)

お弁当を食べたあと、美月はお茶を飲みながら雑誌をめくる。
そこにはツアーの日程がズラリと書かれ、来年の3月まで続いていた。

(あれ? ファンレターの宛先はこちらって、もしかしてマネージメント会社と契約したのかしら。それはそうよね、一人でコンサートを企画したり、プログラムやチラシを作ったりするなんて、到底無理だもの。ファンクラブも、すぐに出来そうね)

もう一度ページをめくり直し、インタビューの記事をじっくり読んでみる。

『凱旋公演を振り返っていかがですか?』という質問に、長文で答えていた。

『とても良い時間でした。初めは、果たして自分のリサイタルに来てくださる方はいらっしゃるのかと不安でしたが、どこに行ってもみなさんが温かく迎えてくださって。なによりも一番の収穫は、人との出会いです。これまでずっと練習室でひたすらピアノに向かう生活でしたが、リサイタルを開くとありがたいことに直接感想を伝えていただけます。もちろん、ピアノの技術的なことについてお言葉をいただくのも嬉しいのですか、ピアノに詳しくない方、曲名を知らずに私の演奏で初めてその曲を聴いてくださった方のお言葉は、新鮮でとても嬉しいものでした』

曲名を知らずにって、私のことみたい、と苦笑いしながら読み進めると、まさにそのことについて書かれていた。

『具体的には、あるエチュードをアンコールで弾いた時です。曲名でも技巧についてでもなく、ただ私の演奏を聴いて感じたことを真っ直ぐに伝えてくださった方がいました。私が演奏で表現したかったイメージを感じ取り、目をキラキラさせながら話してくださったその人の言葉は、今でも私の心の中の宝物です』

え……と、美月は思わず両手で頬を押さえる。

(待って、これって私のことじゃないよね?)

あの時、確かに自分は友利に感想を話したが、ここまで感激されるようなことを言った覚えはなかった。

(誰か別の人が、同じように曲名を知らずに素敵な感想を話したのよ。うん、そうに違いない)

そう言い聞かせて頷くと、美月は雑誌を閉じて立ち上がった。



それからしばらく経ったある日のこと。

「館長、おはようございます」

いつものように出勤して挨拶すると、館長は美月の顔を見るなり慌てて近づいて来た。

「風間さん、ちょっとこっちへ」
「え? どうかしましたか?」
「いいから、早く」

いつになく真剣な表情の館長に気圧され、美月は黙ってあとをついて行く。

バックオフィスに入ると、館長はドアを閉めてから美月に尋ねた。

「風間さん。ピアニストの友利さんと、最近会ったりした?」

は?と、美月は声を上ずらせる。

「友利さんと、ですか? いいえ、全く。ここでリサイタルを開いた時にお会いしただけです」
「やっぱりそうだよね」
「あの、友利さんがどうかしましたか?」
「うん、それが。風間さんって、SNSやってる?」
「いいえ、なにも」
「そうか。実は今、この写真が話題になってるんだ」

そう言うと館長は、ポケットからスマートフォンを取り出して、美月に画面を見せた。

「この写真なんだけど……。これって、友利さんと風間さんじゃないかな?」

え?と、美月は画面に目を凝らす。
花束を手に笑顔を浮かべている友利と、彼に向かい合っている誰かの背中が写っていた。

暗くて不鮮明な写真だが、背景はここのホールで、二人の横にはタクシーが止まっている。

背中しか写っていないが、背格好と着ている制服から、自分に間違いないと美月は思った。

「はい、友利さんと私です。リサイタルのあと、友利さんに贈られた花束やプレゼントを半分持って、タクシーまでお見送りしました。その時に撮られたのだと思います」
「やっぱりそうか……」
「館長、この写真は誰がなんの為に撮ったのですか? どこかに掲載されているのでしょうか」
「それがね、恐らくリサイタルを聴きに来た人だと思うんだけど、自分のSNSに何気なく投稿したらしい。友利 健二の写真を撮ったと、自慢したかっただけみたいなんだが、それが徐々に引用されて広がって。そのうちに誰かが、友利が恋人に花束を贈った場面を押さえたって書き込みをしたんだ。そこから爆発的に話題になって、場所がうちのホールだということもバレてしまって……」

美月は話の途中から、目を見開いて言葉を失った。

「私もまさかそんな騒ぎになっているとは知らなかったんだけど、今朝数人の女性がここに押しかけて来てね。この写真の女は誰だ? って。私が、なんのことやら分からないと答えたら、事の経緯を説明されたんだ。とにかくこの写真の人に心当たりはないからと言って、なんとか今日のところは帰ってもらったけど、またいつやって来るか分からない。風間さん、念の為しばらくはカウンターにいない方がいい。バックオフィスで仕事をしてくれないか?」
「そんな、あの……。ずっとバックオフィスで、ですか? いつまででしょう」
「うーん、明日や明後日になっても誰も来なければ大丈夫かもしれない。とにかく2、3日は様子を見よう」

美月は仕方なく頷く。

「分かりました。館長、ご迷惑をおかけします」
「いや、君が謝ることなんてなにもないよ。こちらこそごめんね。だけど、君の身になにかあってからでは遅いから」
「はい、ありがとうございます」

そして美月は、1日中バックオフィスにこもることになった。



(はあ、まだ1時間しか経ってない)

美月は時計を見上げてため息をつく。

誰にも会わず、誰ともしゃべらずにひたすらパソコン作業をしていると、時間が経つのがやたらと遅く感じた。

(予約状況の確認と、ホームページの更新。あとはイベントのチラシを作って……。ああもう! やることはたくさんあるはずなのに、どうしてこうも集中出来ないの?)

思わずため息ついて頭を抱える。

(私って気の利いたことが言えないから、人との会話は苦手だと思ってたけど、実は何気なくおしゃべりするのが好きだったんだな)

顔見知りの利用者や、館長や同僚。 
軽い挨拶だけだとしても、誰かと言葉を交わせるのは幸せなことなのだと気づいた。

(早くカウンターに戻りたい。大丈夫、きっともう誰も私のことなんて聞きに来ないから。明後日には戻れるよね)

そう自分に言い聞かせた時だった。

「美月ちゃん、いる?」

ノックの音と共に、パートの桑原の声がした。

「はい、います」

返事をすると、ドアを開けて桑原が顔を覗かせる。  

「良かった、無事ね」

ホッとしたような桑原の様子に、美月は首をひねった。

「どうかしたんですか? 桑原さん」
「うん、それがね。今カウンターに女性の三人組が来て、『この写真の人を呼んで』って館長に詰め寄ってるのよ」

えっ!と、美月は驚いて立ち上がる。

「今ですか?」
「そう。館長が必死に『そんな人はここにはいません。他の方のご迷惑になりますからお引き取りください』って説得してるんだけどね。とにかく美月ちゃんが見つからないようにと思って、声かけに来たの。美月ちゃん、ここから出たらだめよ」
「そんな、館長が大変なのに」
「あなたが出て行ったらもっと大変なことになるわ。いい? ここから動かないでね。私も館長と一緒に、なんとか説得してみるから」

そう言うと、桑原は急いで部屋を出て行った。



(どうしてこんなことに?)

美月はバックオフィスで一人、組んだ両手に顔を伏せて涙を堪える。

自分が追い込まれた状況も辛いが、館長や桑原を大変な目に遭わせてしまっていることに心が傷んだ。

(なんとかしたい。だけど私が出て行ったら? 大騒ぎになって、利用者さん達にも迷惑をかけてしまう)

ここにいるしかないのだと、懸命に自分に言い聞かせた。

(お願い、もう来ないで。噂なんて早く消えて)

だが美月の願いに反して、次の日も、その次の日も、美月を出せと数人がやって来た。

「すみません、館長。桑原さんも」

頭を下げる美月に、館長も桑原も笑顔で手を振る。

「風間さんはなにも悪くないよ。むしろ被害者だ」
「そうよ。それに私もだてにおばちゃんじゃないからね。何度聞かれても知りませーんって、すっとぼける面の厚さよ。あはは!」

二人の優しさに、美月は涙が込み上げてきた。

慌てて指先で目尻を拭う美月の背中を、桑原がそっとさする。

「美月ちゃん、しばらく休んだらどう?」
「え?」
「バックオフィスに閉じこもってたら、気分が滅入っちゃうでしょ。普段忙しくしてる分、ゆっくり羽伸ばして来たら?」

すると館長も頷いた。

「それがいいよ。風間さん、有休もたくさん残ってるんだし」

美月は少し考えを巡らせる。
出勤しても大して役に立てず、むしろ迷惑をかけてしまう今のこの状況では、来ない方がいいだろう。

そう思い、5日間休ませてもらうことにした。
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