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楽しい時間
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「おはようございます、雨宮さん」
翌朝。
スンとした表情で挨拶する美月に、優吾はしばし無言になる。
「どうかしましたか?」
「いや、なにも」
しばらくすると、朝食が運ばれて来た。
「朝からなんて豪華なの」
焼き魚やだし巻き卵、新鮮なしらすに佃煮や煮物、赤出汁や漬物……
時間を気にせず部屋でのんびりと味わう朝食に、二人で贅沢な気分を満喫した。
「お嬢様、よろしければ大浴場もご利用くださいませ。ただ今のお時間は空いております。お着替えに華やかな柄の浴衣もご用意しておりますよ」
「そうなのですね! 行ってみようかしら」
うかがうようにそっと美月に視線を向けられ、優吾は頷く。
「もちろん、行っておいで」
「はい、では行ってまいります」
その間、優吾はパソコンで仕事をすることにした。
外はしとしとと静かな雨が降り、喧騒を忘れさせてくれる。
しばらくしてコーヒーを淹れようと立ち上がり、ふと思い出してテレビをつける。
ちょうど朝の情報番組が始まったところで、案の定芸能ニュースで友利 健二の話題になった。
コンサートを終えてホールを出て来た友利に、芸能レポーターがマイクを向ける。
スタッフにかばわれて、無言のまま通り過ぎようとした友利だったが「否定しないということは、あの女性は恋人だと認めるのですか?」と問われて立ち止まった。
レポーター達をぐるりと見回す友利に、その場が一気に静まり返る。
「私はなにを言われても構いませんが、あちらは一般の方です。ご迷惑となりますので、どうかそっとしておいていただきますよう、心よりお願い申し上げます」
そう言って深々と頭を下げると、スタッフに促されて再び歩き始めた。
スタジオに映像が切り替わり、コメンテーターが意見を求められて口を開く。
「誠実そうな人だから、つき合っていないというのは本当なんでしょうね。でも友利さんはお相手の方を、とても大切にしているのが分かる。彼女のことが好きなんじゃないでしょうかねえ」
それを聞いて、優吾の胸中は複雑だった。
◇
「戻りました」
しばらくすると美月の声がして、優吾はすぐさまテレビを消す。
部屋に現れた美月は、艶やかな朱色の浴衣姿で、髪もアップにまとめていた。
「お帰り。見違えたな、よく似合ってる」
そう言うと美月は、はにかんだ笑みを浮かべる。
「顔が和風だから、洋服よりしっくりくるって言われます」
「いや、そういう意味じゃない」
「いいんです、ご無理なさらず。それより雨宮さん、館内のワークショップのチラシを見かけて。こちらなんですけど……」
美月が差し出した小さなチラシを、優吾も覗き込んだ。
「へえ、箱根の寄木細工か」
「はい。この寄木細工を使ったからくり箱を作るワークショップがあるそうなんです」
「これを作れるのか? 面白そうだな。やってみるか?」
すると美月は、パッと明るい笑顔を浮かべる。
「はい! やりたいです」
「よし、じゃあ行くか」
「雨宮さん、お仕事は?」
「もともと休暇中だし、どうにでもなるよ。ほら、行こう」
二人でワークショップが行われている宴会場へ向かった。
◇
「二名様ですね、すぐにご体験いただけますよ。どうぞこちらへ」
「はい」
受付を済ませると、二人は職人のおじいさんのいるテーブルに案内された。
「ようこそ起こしくださった。早速ご説明しますね」
おじいさんは二人の前に、見本の箱を並べる。
「江戸時代の後期に誕生したと言われるこのからくり箱は、仕掛けを知る人しか開けることは出来ません。こんなふうに寄木細工が全面に施された箱の側面を、決められた順番通りにスライドさせていくことで箱が開くというからくりです。少ないもので4回のスライド、多いものでは300以上の工程通りにスライドさせなければ開けることが出来ません」
「300も? それはある意味、開かずの箱ですね。どんな鍵をかけるよりも頑丈そうです」
美月がそう言うと、おじいさんも笑顔で頷いた。
「そうですね。中には板をスライドさせるだけでなく、箱を振ったり傾けるといった重力を利用した特殊な仕掛けのものもあります。日本人だからこその技術と、昔の職人達の発想の豊かさには、驚かされるばかりです。ぜひこのからくり箱作りをご体験いただきたい」
「はい、よろしくお願いします」
美月だけでなく優吾も身を乗り出して、おじいさんから説明を受ける。
仕掛けのスライドの回数は、4回、7回、10回、12回の中から選べるとのことで、美月は7回、優吾は12回を選んだ。
「雨宮さん、こういうの得意そうですものね」
「ああ、すごく興味深い」
「ふふっ、楽しみですね」
まずはおじいさんの見本を参考に、6つの木の板を組み立てていく。
「この6枚の板は、前後左右や上下にスライドさせる為の「溝」や、動きを止める為の「突起」を0.1ミリ単位で加工してあります」
「そんなに細かく?」
「はい。木は生きていますので、湿気で膨らんだり乾燥で縮んだりしますから。今日のような雨模様の日は、湿気を吸って膨らみますので、少しゆるめに調整しておきました。どうですか? ちゃんと動きますか?」
6枚の板を組み合て終わると、実際にカチカチと動かしてみた。
「わあ、面白い」
嬉しくなって、美月は優吾に笑いかける。
「そうだな。木の温もりが手に心地いい」
おじいさんも目を細めてから、次の工程を説明した。
「では仕掛けの継ぎ目を隠すように、このズクと呼ばれる千代紙のような模様シートを貼っていきます。これは木を組み合わせて模様を作った種木を、カンナで薄く削ったもので、もちろん本物の寄木細工です」
「とっても薄いのですね」
「はい。厚みはわずか0.15ミリです。この薄さだからこそ、角を曲げても割れずに密着します。さあ、ではお好きな模様のズクを選んでください」
「まあ、なんて綺麗なの」
チェスボードのような市松模様。
六角形の星が繋がったような麻の葉模様。
穏やかな波が重なるような青海波
色んな模様がパッチワークのように交わる小寄木
天然の木が作り出す色合いと温かみ、そして職人の手によって生み出された美しい模様に、美月は感嘆のため息をつく。
「どれも素敵で選べないわ」
「でしたら、ズクを貼ってから乾くのを待つ間に、無垢材でコースター作りをやってみませんか? 実際に木を組み合わせて、ご自分で模様を作り出せます」
「そうなのですね、ぜひ!」
コースターを市松模様にすることにして、からくり箱の模様は美月は麻の葉、優吾は青海波を選んだ。
箱をぐるりと覆うようにズクを貼り付け、乾燥させる間に無垢材のコースター作りを体験する。
箱根の山の豊かな樹種を活かし、色味の違う無垢材を交互に並べて模様を作る工程は楽しく、美月も優吾も夢中になった。
「出来た! すごく綺麗」
濃淡のコントラストが美しい市松模様のコースターを、美月は目の高さに掲げて魅入る。
「では最後に、からくり箱の仕上げをしますよ。このままでは仕掛けの板が動かないので、断ち切りと言って、ズクに切り込みを入れていきます」
おじいさんは、木の板のわずかな隙間を指の感覚だけで探し当て、カッターでズクをスッと切り離していく。
「すごい、神業ですね」
美月がそっと優吾にささやくと、優吾も頷いた。
「そうだな。切り口が目立たないから、仕掛けがバレないんだ。継ぎ目も見えず、模様も美しいままだ」
表面にヤスリをかけてなめらかにし、ツヤ出しを終えると、いよいよ完成。
「世界で1つの宝箱ですね。嬉しい!」
満面の笑みを浮かべる美月に、優吾も優しく微笑んだ。
◇
部屋に戻ってお茶を飲みながら休憩すると、いつの間にか雨は上がっていた。
「昼食は1階の和食のお店だったな。そろそろ行くか」
「はい」
部屋食ばかりというのも味気なく、昼食は庭園が見えるお店で食べることにしていた。
「見事な日本庭園ですね」
席に着くなり、美月は窓の外の美しい庭園に目をやる。
「紫陽花がとても綺麗」
「そうだな。あとで散歩しないか」
「ええ、ぜひ」
ゆっくりと食事を味わってから、二人は下駄に履き替えて外に出た。
カランコロンと軽やかな足音を立てながら庭園を見て回り、美月は笑みを浮かべて紫陽花に顔を寄せる。
その横顔に、優吾は目を奪われた。
美しいものを見つめる眼差しこそ、美しい。
綺麗な花を愛でる心こそ、純粋で清らか。
(まさに奥ゆかしい日本女性そのもの)
そんなふうに思いながら、優吾はいつまでも美月から目を離せずにいた。
◇
部屋の露天風呂を再び満喫し、和菓子と抹茶を茶室で味わう。
部屋で夕食を食べ終えると、今度は裏庭で手持ち花火を楽しんだ。
「とっても贅沢な2日間でした。雨宮さん、本当にありがとうございました」
綺麗な長い指で線香花火を手にし、美月は改めて優吾にお礼を言う。
「どういたしまして。こちらこそ楽しかった。俺の休暇につき合ってくれてありがとう」
「いえ、そんな……。夢みたいな時間でした。現実なのか、まだ信じられないくらい」
パチパチとかすかに弾ける線香花火を見つめて、美月は小さく呟く。
やがてポトリと火が落ちると、名残惜しむような、切なげな笑みを浮かべた。
その表情に、優吾は胸が締めつけられる。
「もとの生活に……戻れるかな」
「え?」
我に返って聞き返すと、美月は「なんでもありません」と笑って首を振った。
◇
部屋へと戻る途中で手もみ処の前を通りかかり、「いかがですか?」とスタッフに誘われる。
「お部屋にうかがってマッサージすることも出来ますよ」
「え、お部屋で?」
「はい。今なら空いてますので、お二人同時に承れます」
目を輝かせる美月にクスッと笑って、優吾は「ではお願いします」と頼んだ。
「かしこまりました。それでは10分後にまいります。和室にお布団を敷いてお待ちいただけますか?」
「はい! 分かりました」
美月はいそいそと部屋に戻ると、早速布団を2組並べて敷く。
やって来た男女のスタッフに施術コースを聞かれて、優吾は90分コースを頼んだ。
「90分も!?」
驚きつつも嬉しそうな美月に、優吾はまたしても笑いをこらえる。
「それでは90分の全身マッサージを始めます。力加減など、痛かったらすぐに教えてくださいね。まずはうつ伏せでお願いします」
美月には女性スタッフ、優吾には男性スタッフがついた。
「……あー、気持ちいい」
「あら、肩周りかなり凝ってますね」
「そうなんです、もうガチガチで……。はあ、なんて、気持ちがいいの。あなたの指使い、すごい……!」
艶めかしい美月の口調に、隣で優吾はなんとも気恥ずかしくなる。
「もう、身体が、とろけそう……。最高に、気持ちいい。ああ、そこ! 今の、いい!」
それは結構だが、どうにか黙ってくれないだろうか、と優吾は気が気でない。
チラリと視線を上げると、スタッフは二人とも苦笑いを浮かべていた。
しばらくしてようやく静かになったと思ったら、スーッと寝息が聞こえてきた。
「彼女さん、眠ってしまいましたね」
女性スタッフが、美月の顔を覗き込んで小声で言う。
「よほど気持ちが良かったみたいで」
「ふふっ、喜んでいただけて私も嬉しいです。まだお時間少し残ってますが、起こさないように、軽くもみほぐす程度にしておきますね」
「はい、お願いします」
優吾も目を閉じて、マッサージの心地良さに身を委ねる。
終わったら美月をベッドに運ぼうか、それとも自分が移動しようか。
そんなことを考えているうちに、優吾もいつの間にか眠ってしまっていた。
◇
(んー、気持ちいい)
少しずつ浮上する意識の中、優吾は両腕で掛け布団を手繰り寄せた。
ギュッと胸に抱えると、なぜだが温かくて抱き心地がいい。
思わず頬ずりしてから、え……?と固まった。
(なんだこれ。布団と一緒に、なにかを抱えている?)
恐る恐る目を開けると、すぐ目の前に美月の顔があって、慌てて身体を離した。
状況を確かめるように辺りを見回す。
布団の上に、二人並んで横たわっていた。
(待て、これは一体? もしや、一夜の過ちを?)
心臓をバクバクさせながら、必死で頭を働かせる。
気持ち良さそうに眠っている美月の寝顔はあどけなく、わずかに開いた唇はふっくらと色っぽい。
(落ち着け、己の理性を信じろ。俺はやっていない。その証拠に、ほら、ちゃんと浴衣を着ている。彼女だって……)
美月に目を向けると、少しはだけた胸元から真っ白な素肌が目に飛び込んできて、優吾は真っ赤になった。
目をそらし、口元を手で覆って気持ちを落ち着かせる。
(このままではいかん)
優吾はわざと顔をそむけながら、掛け布団に手を伸ばし、美月の身体にそっとかけた。
肩までしっかりかぶせて整え、よしと頷いたその時、美月がパチっと目を開く。
「……え」
「あ、いや! これは違うんだ」
「ええ!?」
驚いたように勢い良くガバッと身体を起こした美月の頭が、優吾の額をゴツンと突き上げた。
「イッテ!」
「あ、ごめんなさい!」
「いや、大丈夫。俺こそごめん」
「いえ、あの。すみません、私、ここで眠ってしまったのですね」
「ああ、マッサージ中にね」
落ち着きを取り戻して、美月が頭を下げる。
「失礼しました。マッサージがあまりに気持ち良くて……」
「俺も眠ってしまったんだ。君を隣の部屋に運ぼうと思っていたのに、ごめん」
「いえ、そんな。重いので無理ですよ」
「そんなことはない。それより、朝食の前に露天風呂入って来たら? 10時にはチェックアウトするから」
「そうですね。では最後に満喫させていただきます。雨宮さんも、あとで入ってくださいね」
「ああ。ごゆっくり」
美月がウッドデッキに出ると、優吾はホッとして大きくため息をつく。
(なんか、ちょっと……。今更ながら、軽率だったな)
最近は恋愛からも遠ざかっていたし、美月がお堅い雰囲気だということもあって、まるで意識していなかった。
そうなるような気配もなかったが、よく考えればお互い20代の男女なのだ。
どう考えてもつき合っているカップルにしか見えないだろう。
(浅はかだった。彼女にも悪いことをしたな)
だが、それも今日で終わり。
宿を出れば、車で自宅マンションまで送り届けるだけだ。
(そうだ、それで全て終わり。なにもなかったし、これからもない)
優吾は自分にそう言い聞かせた。
◇
運ばれて来た朝食を食べ終わると、優吾は最後に露天風呂に浸かり、服を着替える。
帰り支度を済ませた美月と一緒に部屋を出て、チェックアウトを済ませた。
なぜだか妙に意識してしまい、車内ではあまり会話もしないまま美月のマンションに着く。
「君はこのまま少し待ってて。様子を見てくる」
優吾は先に車を降りて、マンションのエントランス付近を見て回った。
不審な人は見かけず、大丈夫そうだと胸をなで下ろす。
車に戻って美月に手を指し伸べると、車を降りた美月は改めて優吾に頭を下げた。
「雨宮さん、本当にありがとうございました。なんとお礼を申し上げれば良いのか……。ご恩は決して忘れません。必ず後日お返しいたします」
「そんなことはいい。それより、本当に明日から出勤して大丈夫なのか?」
「はい。電話で館長に確認したところ、もう私をたずねてくる人もいないし、マスコミもいなくなったそうですから」
「そうか。でもくれぐれも気をつけて」
「はい。本当になにからなにまで、お世話になりました」
じゃあ、と手を挙げて優吾は車に乗り込む。
美月は車が見えなくなるまでお辞儀をして見送った。
翌朝。
スンとした表情で挨拶する美月に、優吾はしばし無言になる。
「どうかしましたか?」
「いや、なにも」
しばらくすると、朝食が運ばれて来た。
「朝からなんて豪華なの」
焼き魚やだし巻き卵、新鮮なしらすに佃煮や煮物、赤出汁や漬物……
時間を気にせず部屋でのんびりと味わう朝食に、二人で贅沢な気分を満喫した。
「お嬢様、よろしければ大浴場もご利用くださいませ。ただ今のお時間は空いております。お着替えに華やかな柄の浴衣もご用意しておりますよ」
「そうなのですね! 行ってみようかしら」
うかがうようにそっと美月に視線を向けられ、優吾は頷く。
「もちろん、行っておいで」
「はい、では行ってまいります」
その間、優吾はパソコンで仕事をすることにした。
外はしとしとと静かな雨が降り、喧騒を忘れさせてくれる。
しばらくしてコーヒーを淹れようと立ち上がり、ふと思い出してテレビをつける。
ちょうど朝の情報番組が始まったところで、案の定芸能ニュースで友利 健二の話題になった。
コンサートを終えてホールを出て来た友利に、芸能レポーターがマイクを向ける。
スタッフにかばわれて、無言のまま通り過ぎようとした友利だったが「否定しないということは、あの女性は恋人だと認めるのですか?」と問われて立ち止まった。
レポーター達をぐるりと見回す友利に、その場が一気に静まり返る。
「私はなにを言われても構いませんが、あちらは一般の方です。ご迷惑となりますので、どうかそっとしておいていただきますよう、心よりお願い申し上げます」
そう言って深々と頭を下げると、スタッフに促されて再び歩き始めた。
スタジオに映像が切り替わり、コメンテーターが意見を求められて口を開く。
「誠実そうな人だから、つき合っていないというのは本当なんでしょうね。でも友利さんはお相手の方を、とても大切にしているのが分かる。彼女のことが好きなんじゃないでしょうかねえ」
それを聞いて、優吾の胸中は複雑だった。
◇
「戻りました」
しばらくすると美月の声がして、優吾はすぐさまテレビを消す。
部屋に現れた美月は、艶やかな朱色の浴衣姿で、髪もアップにまとめていた。
「お帰り。見違えたな、よく似合ってる」
そう言うと美月は、はにかんだ笑みを浮かべる。
「顔が和風だから、洋服よりしっくりくるって言われます」
「いや、そういう意味じゃない」
「いいんです、ご無理なさらず。それより雨宮さん、館内のワークショップのチラシを見かけて。こちらなんですけど……」
美月が差し出した小さなチラシを、優吾も覗き込んだ。
「へえ、箱根の寄木細工か」
「はい。この寄木細工を使ったからくり箱を作るワークショップがあるそうなんです」
「これを作れるのか? 面白そうだな。やってみるか?」
すると美月は、パッと明るい笑顔を浮かべる。
「はい! やりたいです」
「よし、じゃあ行くか」
「雨宮さん、お仕事は?」
「もともと休暇中だし、どうにでもなるよ。ほら、行こう」
二人でワークショップが行われている宴会場へ向かった。
◇
「二名様ですね、すぐにご体験いただけますよ。どうぞこちらへ」
「はい」
受付を済ませると、二人は職人のおじいさんのいるテーブルに案内された。
「ようこそ起こしくださった。早速ご説明しますね」
おじいさんは二人の前に、見本の箱を並べる。
「江戸時代の後期に誕生したと言われるこのからくり箱は、仕掛けを知る人しか開けることは出来ません。こんなふうに寄木細工が全面に施された箱の側面を、決められた順番通りにスライドさせていくことで箱が開くというからくりです。少ないもので4回のスライド、多いものでは300以上の工程通りにスライドさせなければ開けることが出来ません」
「300も? それはある意味、開かずの箱ですね。どんな鍵をかけるよりも頑丈そうです」
美月がそう言うと、おじいさんも笑顔で頷いた。
「そうですね。中には板をスライドさせるだけでなく、箱を振ったり傾けるといった重力を利用した特殊な仕掛けのものもあります。日本人だからこその技術と、昔の職人達の発想の豊かさには、驚かされるばかりです。ぜひこのからくり箱作りをご体験いただきたい」
「はい、よろしくお願いします」
美月だけでなく優吾も身を乗り出して、おじいさんから説明を受ける。
仕掛けのスライドの回数は、4回、7回、10回、12回の中から選べるとのことで、美月は7回、優吾は12回を選んだ。
「雨宮さん、こういうの得意そうですものね」
「ああ、すごく興味深い」
「ふふっ、楽しみですね」
まずはおじいさんの見本を参考に、6つの木の板を組み立てていく。
「この6枚の板は、前後左右や上下にスライドさせる為の「溝」や、動きを止める為の「突起」を0.1ミリ単位で加工してあります」
「そんなに細かく?」
「はい。木は生きていますので、湿気で膨らんだり乾燥で縮んだりしますから。今日のような雨模様の日は、湿気を吸って膨らみますので、少しゆるめに調整しておきました。どうですか? ちゃんと動きますか?」
6枚の板を組み合て終わると、実際にカチカチと動かしてみた。
「わあ、面白い」
嬉しくなって、美月は優吾に笑いかける。
「そうだな。木の温もりが手に心地いい」
おじいさんも目を細めてから、次の工程を説明した。
「では仕掛けの継ぎ目を隠すように、このズクと呼ばれる千代紙のような模様シートを貼っていきます。これは木を組み合わせて模様を作った種木を、カンナで薄く削ったもので、もちろん本物の寄木細工です」
「とっても薄いのですね」
「はい。厚みはわずか0.15ミリです。この薄さだからこそ、角を曲げても割れずに密着します。さあ、ではお好きな模様のズクを選んでください」
「まあ、なんて綺麗なの」
チェスボードのような市松模様。
六角形の星が繋がったような麻の葉模様。
穏やかな波が重なるような青海波
色んな模様がパッチワークのように交わる小寄木
天然の木が作り出す色合いと温かみ、そして職人の手によって生み出された美しい模様に、美月は感嘆のため息をつく。
「どれも素敵で選べないわ」
「でしたら、ズクを貼ってから乾くのを待つ間に、無垢材でコースター作りをやってみませんか? 実際に木を組み合わせて、ご自分で模様を作り出せます」
「そうなのですね、ぜひ!」
コースターを市松模様にすることにして、からくり箱の模様は美月は麻の葉、優吾は青海波を選んだ。
箱をぐるりと覆うようにズクを貼り付け、乾燥させる間に無垢材のコースター作りを体験する。
箱根の山の豊かな樹種を活かし、色味の違う無垢材を交互に並べて模様を作る工程は楽しく、美月も優吾も夢中になった。
「出来た! すごく綺麗」
濃淡のコントラストが美しい市松模様のコースターを、美月は目の高さに掲げて魅入る。
「では最後に、からくり箱の仕上げをしますよ。このままでは仕掛けの板が動かないので、断ち切りと言って、ズクに切り込みを入れていきます」
おじいさんは、木の板のわずかな隙間を指の感覚だけで探し当て、カッターでズクをスッと切り離していく。
「すごい、神業ですね」
美月がそっと優吾にささやくと、優吾も頷いた。
「そうだな。切り口が目立たないから、仕掛けがバレないんだ。継ぎ目も見えず、模様も美しいままだ」
表面にヤスリをかけてなめらかにし、ツヤ出しを終えると、いよいよ完成。
「世界で1つの宝箱ですね。嬉しい!」
満面の笑みを浮かべる美月に、優吾も優しく微笑んだ。
◇
部屋に戻ってお茶を飲みながら休憩すると、いつの間にか雨は上がっていた。
「昼食は1階の和食のお店だったな。そろそろ行くか」
「はい」
部屋食ばかりというのも味気なく、昼食は庭園が見えるお店で食べることにしていた。
「見事な日本庭園ですね」
席に着くなり、美月は窓の外の美しい庭園に目をやる。
「紫陽花がとても綺麗」
「そうだな。あとで散歩しないか」
「ええ、ぜひ」
ゆっくりと食事を味わってから、二人は下駄に履き替えて外に出た。
カランコロンと軽やかな足音を立てながら庭園を見て回り、美月は笑みを浮かべて紫陽花に顔を寄せる。
その横顔に、優吾は目を奪われた。
美しいものを見つめる眼差しこそ、美しい。
綺麗な花を愛でる心こそ、純粋で清らか。
(まさに奥ゆかしい日本女性そのもの)
そんなふうに思いながら、優吾はいつまでも美月から目を離せずにいた。
◇
部屋の露天風呂を再び満喫し、和菓子と抹茶を茶室で味わう。
部屋で夕食を食べ終えると、今度は裏庭で手持ち花火を楽しんだ。
「とっても贅沢な2日間でした。雨宮さん、本当にありがとうございました」
綺麗な長い指で線香花火を手にし、美月は改めて優吾にお礼を言う。
「どういたしまして。こちらこそ楽しかった。俺の休暇につき合ってくれてありがとう」
「いえ、そんな……。夢みたいな時間でした。現実なのか、まだ信じられないくらい」
パチパチとかすかに弾ける線香花火を見つめて、美月は小さく呟く。
やがてポトリと火が落ちると、名残惜しむような、切なげな笑みを浮かべた。
その表情に、優吾は胸が締めつけられる。
「もとの生活に……戻れるかな」
「え?」
我に返って聞き返すと、美月は「なんでもありません」と笑って首を振った。
◇
部屋へと戻る途中で手もみ処の前を通りかかり、「いかがですか?」とスタッフに誘われる。
「お部屋にうかがってマッサージすることも出来ますよ」
「え、お部屋で?」
「はい。今なら空いてますので、お二人同時に承れます」
目を輝かせる美月にクスッと笑って、優吾は「ではお願いします」と頼んだ。
「かしこまりました。それでは10分後にまいります。和室にお布団を敷いてお待ちいただけますか?」
「はい! 分かりました」
美月はいそいそと部屋に戻ると、早速布団を2組並べて敷く。
やって来た男女のスタッフに施術コースを聞かれて、優吾は90分コースを頼んだ。
「90分も!?」
驚きつつも嬉しそうな美月に、優吾はまたしても笑いをこらえる。
「それでは90分の全身マッサージを始めます。力加減など、痛かったらすぐに教えてくださいね。まずはうつ伏せでお願いします」
美月には女性スタッフ、優吾には男性スタッフがついた。
「……あー、気持ちいい」
「あら、肩周りかなり凝ってますね」
「そうなんです、もうガチガチで……。はあ、なんて、気持ちがいいの。あなたの指使い、すごい……!」
艶めかしい美月の口調に、隣で優吾はなんとも気恥ずかしくなる。
「もう、身体が、とろけそう……。最高に、気持ちいい。ああ、そこ! 今の、いい!」
それは結構だが、どうにか黙ってくれないだろうか、と優吾は気が気でない。
チラリと視線を上げると、スタッフは二人とも苦笑いを浮かべていた。
しばらくしてようやく静かになったと思ったら、スーッと寝息が聞こえてきた。
「彼女さん、眠ってしまいましたね」
女性スタッフが、美月の顔を覗き込んで小声で言う。
「よほど気持ちが良かったみたいで」
「ふふっ、喜んでいただけて私も嬉しいです。まだお時間少し残ってますが、起こさないように、軽くもみほぐす程度にしておきますね」
「はい、お願いします」
優吾も目を閉じて、マッサージの心地良さに身を委ねる。
終わったら美月をベッドに運ぼうか、それとも自分が移動しようか。
そんなことを考えているうちに、優吾もいつの間にか眠ってしまっていた。
◇
(んー、気持ちいい)
少しずつ浮上する意識の中、優吾は両腕で掛け布団を手繰り寄せた。
ギュッと胸に抱えると、なぜだが温かくて抱き心地がいい。
思わず頬ずりしてから、え……?と固まった。
(なんだこれ。布団と一緒に、なにかを抱えている?)
恐る恐る目を開けると、すぐ目の前に美月の顔があって、慌てて身体を離した。
状況を確かめるように辺りを見回す。
布団の上に、二人並んで横たわっていた。
(待て、これは一体? もしや、一夜の過ちを?)
心臓をバクバクさせながら、必死で頭を働かせる。
気持ち良さそうに眠っている美月の寝顔はあどけなく、わずかに開いた唇はふっくらと色っぽい。
(落ち着け、己の理性を信じろ。俺はやっていない。その証拠に、ほら、ちゃんと浴衣を着ている。彼女だって……)
美月に目を向けると、少しはだけた胸元から真っ白な素肌が目に飛び込んできて、優吾は真っ赤になった。
目をそらし、口元を手で覆って気持ちを落ち着かせる。
(このままではいかん)
優吾はわざと顔をそむけながら、掛け布団に手を伸ばし、美月の身体にそっとかけた。
肩までしっかりかぶせて整え、よしと頷いたその時、美月がパチっと目を開く。
「……え」
「あ、いや! これは違うんだ」
「ええ!?」
驚いたように勢い良くガバッと身体を起こした美月の頭が、優吾の額をゴツンと突き上げた。
「イッテ!」
「あ、ごめんなさい!」
「いや、大丈夫。俺こそごめん」
「いえ、あの。すみません、私、ここで眠ってしまったのですね」
「ああ、マッサージ中にね」
落ち着きを取り戻して、美月が頭を下げる。
「失礼しました。マッサージがあまりに気持ち良くて……」
「俺も眠ってしまったんだ。君を隣の部屋に運ぼうと思っていたのに、ごめん」
「いえ、そんな。重いので無理ですよ」
「そんなことはない。それより、朝食の前に露天風呂入って来たら? 10時にはチェックアウトするから」
「そうですね。では最後に満喫させていただきます。雨宮さんも、あとで入ってくださいね」
「ああ。ごゆっくり」
美月がウッドデッキに出ると、優吾はホッとして大きくため息をつく。
(なんか、ちょっと……。今更ながら、軽率だったな)
最近は恋愛からも遠ざかっていたし、美月がお堅い雰囲気だということもあって、まるで意識していなかった。
そうなるような気配もなかったが、よく考えればお互い20代の男女なのだ。
どう考えてもつき合っているカップルにしか見えないだろう。
(浅はかだった。彼女にも悪いことをしたな)
だが、それも今日で終わり。
宿を出れば、車で自宅マンションまで送り届けるだけだ。
(そうだ、それで全て終わり。なにもなかったし、これからもない)
優吾は自分にそう言い聞かせた。
◇
運ばれて来た朝食を食べ終わると、優吾は最後に露天風呂に浸かり、服を着替える。
帰り支度を済ませた美月と一緒に部屋を出て、チェックアウトを済ませた。
なぜだか妙に意識してしまい、車内ではあまり会話もしないまま美月のマンションに着く。
「君はこのまま少し待ってて。様子を見てくる」
優吾は先に車を降りて、マンションのエントランス付近を見て回った。
不審な人は見かけず、大丈夫そうだと胸をなで下ろす。
車に戻って美月に手を指し伸べると、車を降りた美月は改めて優吾に頭を下げた。
「雨宮さん、本当にありがとうございました。なんとお礼を申し上げれば良いのか……。ご恩は決して忘れません。必ず後日お返しいたします」
「そんなことはいい。それより、本当に明日から出勤して大丈夫なのか?」
「はい。電話で館長に確認したところ、もう私をたずねてくる人もいないし、マスコミもいなくなったそうですから」
「そうか。でもくれぐれも気をつけて」
「はい。本当になにからなにまで、お世話になりました」
じゃあ、と手を挙げて優吾は車に乗り込む。
美月は車が見えなくなるまでお辞儀をして見送った。
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