優しい雨が降る夜は

葉月 まい

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温泉へ

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翌朝、美月が着替えてリビングに行くと、優吾はソファで眠っていた。

(申し訳なかったな)

結局昨夜はオンラインミーティングが始まってしまい、美月は仕方なく寝室を使わせてもらっていた。

静かにキッチンで朝食の作り始め、最後にドリップコーヒーを淹れていると、優吾が「んっ……」と身じろぎして目を覚ます。

「……いい香り」

ポツリと呟く優吾に、美月はキッチンから声をかけた。

「おはようございます。すみません、起こしてしまいましたか?」
「おはよう。いや、いい目覚めだ」

起き上がると、優吾は腕を上げて伸びをする。

「身体、寝違えたりしてませんか?」
「大丈夫。それに今日と明日はリフレッシュ出来そうだ。いい宿が取れたよ」
「え? それって……」
「夕べ話してた温泉宿。箱根にしたんだ。部屋に露天風呂もついてて、食事も部屋食。雲隠れにはいいだろ?」

そう言って美月にふっと笑いかけると、優吾は立ち上がってダイニングテーブルに歩み寄った。

「おっ、フレンチトースト? うまそう。食べてもいいか?」
「あ、はい! もちろん。今、コーヒーもお持ちしますね」

美月は我に返って、再び手を動かす。

「サラダとヨーグルトとフルーツもどうぞ」
「ありがとう、いただきます」

二人で食べ始めるが、美月はまだ半信半疑だった。

(本当に温泉に行くのかしら?)

だが優吾は食べ終わると、着替えを済ませてから当然のように美月に尋ねた。

「もう荷物まとめた?」
「ま、まだです! すみません、すぐに!」
「準備出来たら行こう」
「はい! かしこまりました」

美月は大急ぎで荷物をまとめた。



1時間半のドライブで到着したのは、和モダンな雰囲気の高級な温泉宿だった。

(えっ、私こんな服装なのに)

いつものように、ラフなジーンズとカットソーを着てきた美月は恥ずかしくなる。

だが部屋に案内される途中で見かけた宿泊客は皆、浴衣に羽織姿で、それなら良かったと胸をなで下ろした。

「こちらでございます、どうぞ」
「はい、ありがとうございます」

開かれた扉から部屋に入り、美月は思わず息を呑む。

客室の奥にある大きな窓から、目の前に迫る芦ノ湖と綺麗にそびえ立つ富士山が、パノラマ写真のように目に飛び込んできた。

「すごい、なんて美しいの」

感嘆のため息をもらすと、優吾も隣に並んで頷く。

「ああ、これは絶景だな」
「雨宮さん、見て! ウッドデッキに露天風呂がある! この景色を見ながらお風呂に入れるの?」

興奮のあまり、美月は優吾の袖を引っ張って顔を覗き込んだ。

「ん? ああ、そうだよ」
「よもやこの世に、こんなところがあったなんて……」
「ははっ、大げさだな」

スタッフがお茶を淹れてから、にこやかに説明を始める。

「館内は全て浴衣でご利用いただけます。こちらのお部屋は和洋室となっておりまして、あちらのドアがツインベッドの洋室に繋がっております。奥にはバスルームもございますし、館内の大浴場もご利用いただけますので、露天風呂とあわせてお楽しみくださいませ。お食事はお部屋食と承っております。19時にこちらの和室にご用意させていただいてよろしいでしょうか?」

優吾が「はい、お願いします」と答えると、「それでは、ごゆっくり」とスタッフは退室して行った。



「はあ……。幸せが、ある日いきなりやって来て、気づけば私は、夢の世界に」

お茶を飲みながらうっとりと呟く美月に、優吾は苦笑いした。

「まだ言ってる。いつ戻って来るの?」
「願わくば 今宵ひと夜は  夢のまにまに」
「はいはい。じゃあ夢見心地で露天風呂入っておいで。俺は仕事を片付けてくる」

そう言うと、優吾はパソコンを手に隣の洋室に向かった。

「いいのかな、入っちゃうよ? 露天風呂」

浴衣を手に、美月はそっとドアをスライドしてウッドデッキに出る。

爽やかな初夏の風が心地良く、目を閉じて深呼吸した。

それだけで心がほぐれ、笑みがこぼれた。

髪を結ってゴムで留めると服を脱ぎ、かけ湯をしてからゆっくりと湯舟に浸かる。

「はあ、極楽……」

ため息と共に、美月は身体を伸ばして力を抜いた。

湯舟の縁に両腕を置いて顔を載せる。

キラキラと輝く湖の水面と、その奥に美しくそびえる富士山に、言葉もなく見とれた。

ここ最近の辛く悲しい気持ちが癒やされ、心も身体も温かくなる。

まるで別世界に来たように、時間の流れもゆったりと感じられた。

(いつもなら、バタバタと仕事に追われてる頃なのに。こんなところで寛いでていいのかな?)

館長や桑原のことを考えると気が引けるが、それでも今この瞬間が幸せでたまらない。

すると、ふいに涙が込み上げてきた。

(辛いことがあったけど、それ以上に皆さんの優しさが嬉しい。館長や桑原さん、そして誰よりも、雨宮さん)

どうすれば恩返しが出来るだろう? 
元気になって、元の生活を取り戻せたら、必ずなにかお返しがしたい。

そう思いながら、美月はいつまでも景色に見とれ、幸せを噛みしめていた。



「わあ、なんて豪華なんでしょう」

時間になり、運ばれて来た夕食に、またしても美月は目を輝かせる。

和室の卓上には、所狭しと小鉢やお椀、小鍋立てが並べられた。

「雨宮さん。私などがこんな贅沢なお食事を、本当にいただいてもよろしいのでしょうか?」
「逆に食べてくれないと困る。ほら、召し上がれ」
「はい、謹んでいただきます」

美月は手を合わせると、浴衣のたもとを押さえながら料理に箸をつける。

刺し身や山菜の天ぷら、湯豆腐に茶碗蒸し、お吸い物に和え物や酢の物……

1品ずつ、じっくりと味わった。

「どれも本当に美味しいです」
「そうだな。俺もこんな時間は久しぶりだ。いいもんだな」
「雨宮さん、忙しくて旅行も行けないのですか?」
「いや、時間は作れるけど一人では行く気にならないだけだ。つき合ってくれてありがとう」

すると美月は箸を置き、これでもかと手を振って否定する。

「とんでもない! 私の方こそ、雨宮さんには感謝してもしきれません。このご恩は一生かけてお返しします。雨宮さんには足を向けて寝られません」
「ある意味そっちの方が怖いから、さらっと受け流して」
「そんな、源泉かけ流しみたいなことは……」
「ははは! よほどの温泉好きだな」

優吾も楽しそうに笑い、食事を終えると浴衣を手に立ち上がった。

「さてと。俺も露天風呂に入って来ようかな」
「ええ、どうぞごゆっくり」

優吾がウッドデッキに向かうと、スタッフが食事の片付けと布団敷きを済ませる。

「それでは、おやすみなさいませ」
「はい、ありがとうございました」

部屋に一人になると、美月はお茶を飲みながら館内の案内に目を通した。

(イベントやワークショップもあるのね。色浴衣のレンタルや、花火も! 楽しそう。日本庭園も見事だわ。ここには2泊する予定だから、明日は朝から1日中楽しめるわね)

こんなに楽しんでいいものかと思いつつ、わくわくする気持ちは抑えきれなかった。



「ふう、いいお湯だった」
「お帰りなさい」

和室に戻って来た優吾に何気なく声をかけた美月は、次の瞬間真っ赤になって視線を落とす。

浴衣を着て、濡れた髪を無造作に下ろした優吾は、大人の男の色気が溢れ出ていた。

「あ、えっと、ピールをお持ちしますね」

そそくさと立ち上がって冷蔵庫に行く。

よく冷えた缶ビールとグラスを取り出し、おつまみのナッツを小皿に入れてからテーブルに並べた。

「どうぞ」
「ありがとう」

跪坐|《きざ》をして優吾のグラスにピールを注ぐと、今度は優吾がビールを手にした。

「君もどうぞ」
「では、少しだけ」

美月はうつむいたまま、注がれるビールに目をやる。

二人で乾杯すると、赤くなった頬をごまかすようにゴクゴクとビールを飲んだ。

「そんなに一気に飲んで大丈夫か?」
「はい、大丈夫です」
「案外イケる口なんだな」

そう言って優吾は、再び美月のグラスにビールを注ぐ。

またしてもゴクゴクと飲み干した美月は、その後見事に酔っ払った。



「それでねー、みしょらに言われたんです。あっ、みしょらって言うのは、妹なんですけど」
「存じてますが、美空ちゃんではないかな?」
「そうです。そのみしょらがねー、百人いっちゅの絵札を持って『みてみてー、お姉ちゃんがいっぱい!』って言うの。酷くないですかー?」

優吾は思わず、ぶっと吹き出す。

「お姉ちゃん、生まれる時代を間違えたよねー。平安時代ならモテたのにーって。ええ、そうでしゅとも。令和のわたくしは、まるでモテましぇんとも!」

高らかにそう言うと、美月はグラスをぐいっと傾けた。

「もうその辺にしておけ」

優吾がグラスを取り上げようと手を伸ばすと、美月は「だめ!」と身をよじる。

「あげないもんねーだ!」
「……それ、いつの時代の口ぶり?」
「へーあんでしゅ!」
「なんか平成にそういうギャグがあったような……」
「へーあんでしゅ!ってば」
「はいはい。ほら、そろそろ寝るぞ」

優吾が立ち上がって腕を取ると、美月はキッと鋭い目つきで優吾を見上げた。

「わたくし、女の操は守りましゅ!」
「は?」

ポカンとしてから、優吾は慌てて声を張る。

「当たり前だろ。なにを勘違いしている? 俺はここで寝るから、君は隣の部屋で寝なさい」
「歯磨きするまで寝られまてん!」
「分かったよ! じゃあ、ほら、おいで」

優吾は美月を立たせると、洗面所に連れて行く。

歯ブラシを握らせると、美月は真剣に歯を磨き始めた。

「はい、お水」

コップを受け取り、ガラガラとうがいをする美月にタオルを差し出すと、やってとばかりに顔を上げて見つめてきた。

「幼稚園児かよ、まったく」

ゴシゴシと口元を拭うと、手を引いて洋室に連れて行く。

「ほら、布団かけるぞ」
「はい、おやすみなしゃい」
「おやすみ」

にこっと無邪気に笑う美月に一瞬ドキリとしてから、優吾は明かりを消して部屋を出た。
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