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静かな語らい
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翌朝。
優吾はアメリカとのオンラインミーティングを終えると、美月の作った朝食を食べてからスーツに着替えた。
「今日はクライアントとの打ち合わせのあと、オフィスにも顔出してくる。俺のことは気にせず、自由に過ごしてて。これが合鍵」
「ありがとうございます。あの、マンションの敷地内をお散歩してもいいですか?」
「ん? ああ、もちろん。図書室もあるしカフェあるから、のんびりしたらいい」
「ありがとうございます。行ってらっしゃいませ」
「行ってくる」
髪型を綺麗に整えた優吾は、キリッとした表情で玄関を出て行った。
「さてと。お掃除やとお洗濯、食事の下ごしらえもしなくちゃ」
美月は張り切って腕まくりすると、リビングの大きな窓を開けて家事を始める。
ひと通り終えると昼食は簡単なもので済ませて、SNSをチェックしてみた。
だがアカウントを持っていないし、使い方もよく分からない。
「どういう記事になのかしら。ほんとに噂になってるのかな?」
館長に見せてもらった不鮮明な1枚の写真。
それだけでこんなにも大きな騒動になるのが、未だに信じられない。
美月は様子をうかがいがてら、館長に電話してみることにした。
「もしもし、館長。風間です」
『あっ、風間さん! 大丈夫?』
「はい、私は大丈夫です。すみません、館長。そちらはまだ大変な状況でしょうか?」
『それがね、マスコミも来るようになったからさすがに手に負えなくて、近くの交番に相談してみたんだ。そしたら見回りに来てくれてね。施設にご用がなければお帰りくださいって声かけてくれて、マスコミも追っかけの女の子も引き揚げていったよ』
警察にまで!?と美月は驚いたが、館長は、結果として落ち着いたから良かったよと笑う。
「すみません、館長。お手数おかけしました。予定通り、4日後には出勤しますね」
『無理しなくていいからね。また様子が変わったら連絡するよ』
「はい、ありがとうございます。桑原さんにも、くれぐれもよろしくお伝えください」
そう言って電話を切った。
◇
一方、クライアント訪問を終えてオフィスに向かった優吾は、待ち構えていた光太郎にガシッと肩を組まれた。
「お待ちしてましたよー、色男さん。あちらのお席へどうぞー」
オフィスはフリーアドレス制の為、席は常に自由だ。
光太郎は壁際の空いているエリアに優吾を連れて行った。
「で? どういうことなんだ?」
「どうもこうもない。噂になって追い回されてる彼女を助けただけだ。そっちこそ、まだ学生の美空ちゃんになにやってる?」
「おいおい、俺達のピュアな恋に難癖つける気かよ?」
「ちゃんと本気なのか? 遊びじゃないだろうな?」
「もちろん。そのセリフ、そっくりそのままお返ししますよ」
「俺は、別に……」
口ごもると、光太郎は頭の後ろで両手を組んで誰にともなく呟く。
「いやー、人助けって響きはいいけど、やってることはなかなかじゃないですかねー? 君が好きだから放っておけないんだ、って言った方が男らしいと思いますけどー?」
「好きでもない相手に好きだと言う方がどうかしている。それにどう思われようが、俺はあの時、困ってる彼女を放っておけなかった。それだけだ」
仏頂面で答える優吾に、光太郎は手をほどいて身を乗り出した。
「じゃあたとえ相手が誰であっても、同じように部屋に泊めたか?」
「それは……。彼女は数回見かけただけだったが、人柄がいいのは分かったし、本当に困っている様子だったから」
「ふうん。まあ、つきちゃんもそれを受け入れたってことは、よほど困ってたんだろうな。そらちゃんも心配してたし、確かに大変な状況だとは思う。知ってるか? テレビのワイドショーでも取り上げられてんだぜ」
えっ!と優吾は驚いて目を見開く。
「まさか、そこまで?」
「ああ。今もお昼の番組でやってるかも」
そう言うと光太郎は、スマートフォンを取り出して操作し始めた。
「あ、ほら。これ」
音量を上げると進行役のアナウンサーが「続いてはこちら。今なにかと噂の、若手イケメンピアニストの話題です」とカメラ目線で話している。
VTRに切り替わり、友利 健二がステージでピアノを弾いているシーンが映し出された。
ナレーションが「海外でのコンクール入賞後、凱旋公演も大盛況。熱い期待に応えて全国ツアーを回り始めた友利 健二。ファンの人達の声は?」と映像にかぶせる。
終演後のホールでマイクを向けられて、女の子達が興奮気味に話していた。
「もう貴公子みたいです! 雰囲気にやられました」
「かっこいいし、ピアノは上手いし、うっとり」
「なんか女の人と噂になってますけどー、芸能人でもない普通の人ですよね? 私は信じません! 彼に釣り合わないもん」
「そうそう。彼の恋人はピアノだけです!」
あはは!と女の子達は明るく笑い飛ばしている。
優吾は思わず視線をそらした。
「よりによってこんな時に全国ツアーか。友利 健二はしばらくは公の場に出続ける。噂はなかなか収まらないかもな」
光太郎の言葉に、優吾は拳をギュッと握りしめた。
「優吾、つきちゃんの様子は? こんなテレビやSNSで傷ついてないといいけど」
「うちではテレビはつけていないし、彼女はSNSもやっていない。多分、なにも耳には入ってないはずだ」
「そうか、それならいいけど。ちゃんと守ってやれよ」
「分かってる」
優吾はしっかりと頷いてみせた。
◇
夜になり、帰宅した優吾を美月は玄関で出迎えた。
「お帰りなさい、お疲れ様でした」
「ただいま。なにか変わったことは?」
「いいえ、なにも。昼過ぎにマンションを散策して来ました。図書室がとても素敵で、たくさん本があるので、読みふけってしまいました」
「そうか、それなら良かった」
「すぐに夕食にしますね」
美月がキッチンに戻ると、優吾は着替えを済ませてからダイニングテーブルに着く。
「今夜は夏野菜のスープカレーにしてみました。マンションの1階にある輸入品のスーパーを覗いたら、香辛料の種類が豊富だったので作りたくなってしまって」
「ということは、スパイスから作ったのか?」
「はい。辛さはお好みで変えますので、試食していただけますか?」
そう言って美月は、小皿にルーをよそって差し出した。
「いい香りだな。いただきます」
ひと口食べて、優吾は目を見開く。
「うまい」
「本当に?」
「ああ。インド料理店みたいな本格的な味だ」
「良かったです。ではすぐ用意しますね」
「大盛りで頼む」
「ふふっ、はい。かしこまりました」
野菜たっぷりでスパイスが効いたスープカレーを、優吾はあっという間に食べ終えた。
「美味しかった。うちでこんなに本格的な食事をするなんて、初めてだ」
「そんなに? カレーなんて、典型的な家庭料理なのに」
「俺にはなによりのご馳走だ。ありがとう」
「いいえ。食後のコーヒーを淹れますね」
ソファで肩を並べてコーヒーを飲みながら、美月はやおら優吾に尋ねる。
「雨宮さん、SNSでは今あの噂はどうなってますか? 私、アカウントもないのでよく分からなくて」
「ああ、そうだな……。まだしばらくは用心した方がいい。友利 健二は全国ツアー中で、なにかと注目を浴びているから。君とのことがどうとかではなくてね」
「そうですよね。彼は人気のピアニストで、純粋にそれだけで大きな話題になりますものね」
美月はそう言うと、コーヒーをひと口飲んでから窓の外を見た。
ブラインドやカーテンを必要としない、海に面した高層階。
おぼろげに月明かりが射し込む中、いつの間に雨が振り始めていた。
サーッとかすかな雨音に耳を傾けながら、美月は心が穏やかになるのを感じた。
二人でいても、静かなこの時間が心地良い。
やがて美月は、窓を濡らす雨粒を見つめながら口を開いた。
「今、仕事を離れてみてしみじみ思うんです。私はあの場所で、皆さんに元気をもらってたんだなって」
優吾はじっと、そんな美月の横顔を見つめる。
「毎日たくさんの人が『美月ちゃん、こんにちは』って挨拶してくれて、他愛もない話をして……。それってすごくありがたいことだったのですね。私にとっては職場ですけど、笑顔と優しさにあふれた、明るい世界。改めて私は、あの場所が好きです」
「そうか……」
なんだか気恥ずかしくなり、美月は今度は優吾に話を振った。
「雨宮さんは、どんなお仕事を?」
「ん? そうだな。クライアントに寄り添って経営戦略を打ち出すコンサルティング会社なんだけど、考え方は本社のアメリカのロジックなんだ。実は官公庁絡みの案件も結構ある」
「そうなのですか?」
区の公共施設に勤める美月にとっては、初耳だった。
「ああ。官公庁は立場上、特定企業に肩入れできないだろう? それに国民全員に関わる制度なんかは、失敗したときの責任が重い。うちは外資だから国内の企業とのしがらみもないし、海外の制度を作った時の事例もデータとして多く持っているから」
「そうなのですね。私の職場は、ありがたいことに利用者さんから人気で、逆に予約が取りづらいのが難点だと言われています」
「そうなのか。それだけ必要とされる成功例だな。なにか特別に仕掛けたり、取り組んだりしたの?」
「こちらから意図してではなく、利用者さんのリクエストに応える形で、お祭りや発表会や、季節のイベントを企画しています。地域の情報をお便りにしたり、使わなくなったものの交換会とかも」
「へえ、興味深いな。一度見に行ってもいいか?」
「はい、もちろん!」
パッと笑顔になった美月に目を細めてから、優吾は真剣に口を開く。
「必ず無事に君を戻すから。もう少しの辛抱だ」
「雨宮さん……。ありがとうございます」
美月が思わず涙ぐむと、優吾は美月の頭にポンと手を置いて優しく笑った。
◇
優吾がアメリカとのオンラインミーティングの準備を始めると、美月は淹れ直したコーヒーカップを差し出しながら声をかけた。
「雨宮さん、寝室を使ってください。ミーティングが終わってもそのままそこで」
「え? じゃあ君はどこで寝るの?」
「私はソファを使わせていただきます」
「そんな、気にしなくていい。ベッドを使って」
「ですが雨宮さんはお仕事もされていて、お疲れなのに……」
すると優吾は手を止めて、なにやら考え込んだ。
「それなら、もっと寝心地のいいところに行かないか?」
……はい?と美月は首をひねる。
「久しぶりにのんびりしたい。夏休みを分散して取るように会社から言われてるんだ。明日から2泊、温泉にでも行こうか」
「え、ええ!?」
「おっと、ミーティングが始まる。先にお風呂に入って寝てて。宿は俺が決めてもいいか?」
「は、い? えっ、あの……」
その時パソコンから『Hey! Yugo』と声がして、美月は慌てて飛びすさる。
「Hi!」と返事をして話し始めた優吾は、チラリと美月を見て「おやすみ」とささやいた。
『What was that?』と聞かれて「Just talking to myself」と涼しげに答える優吾に、美月の頬は真っ赤になった。
優吾はアメリカとのオンラインミーティングを終えると、美月の作った朝食を食べてからスーツに着替えた。
「今日はクライアントとの打ち合わせのあと、オフィスにも顔出してくる。俺のことは気にせず、自由に過ごしてて。これが合鍵」
「ありがとうございます。あの、マンションの敷地内をお散歩してもいいですか?」
「ん? ああ、もちろん。図書室もあるしカフェあるから、のんびりしたらいい」
「ありがとうございます。行ってらっしゃいませ」
「行ってくる」
髪型を綺麗に整えた優吾は、キリッとした表情で玄関を出て行った。
「さてと。お掃除やとお洗濯、食事の下ごしらえもしなくちゃ」
美月は張り切って腕まくりすると、リビングの大きな窓を開けて家事を始める。
ひと通り終えると昼食は簡単なもので済ませて、SNSをチェックしてみた。
だがアカウントを持っていないし、使い方もよく分からない。
「どういう記事になのかしら。ほんとに噂になってるのかな?」
館長に見せてもらった不鮮明な1枚の写真。
それだけでこんなにも大きな騒動になるのが、未だに信じられない。
美月は様子をうかがいがてら、館長に電話してみることにした。
「もしもし、館長。風間です」
『あっ、風間さん! 大丈夫?』
「はい、私は大丈夫です。すみません、館長。そちらはまだ大変な状況でしょうか?」
『それがね、マスコミも来るようになったからさすがに手に負えなくて、近くの交番に相談してみたんだ。そしたら見回りに来てくれてね。施設にご用がなければお帰りくださいって声かけてくれて、マスコミも追っかけの女の子も引き揚げていったよ』
警察にまで!?と美月は驚いたが、館長は、結果として落ち着いたから良かったよと笑う。
「すみません、館長。お手数おかけしました。予定通り、4日後には出勤しますね」
『無理しなくていいからね。また様子が変わったら連絡するよ』
「はい、ありがとうございます。桑原さんにも、くれぐれもよろしくお伝えください」
そう言って電話を切った。
◇
一方、クライアント訪問を終えてオフィスに向かった優吾は、待ち構えていた光太郎にガシッと肩を組まれた。
「お待ちしてましたよー、色男さん。あちらのお席へどうぞー」
オフィスはフリーアドレス制の為、席は常に自由だ。
光太郎は壁際の空いているエリアに優吾を連れて行った。
「で? どういうことなんだ?」
「どうもこうもない。噂になって追い回されてる彼女を助けただけだ。そっちこそ、まだ学生の美空ちゃんになにやってる?」
「おいおい、俺達のピュアな恋に難癖つける気かよ?」
「ちゃんと本気なのか? 遊びじゃないだろうな?」
「もちろん。そのセリフ、そっくりそのままお返ししますよ」
「俺は、別に……」
口ごもると、光太郎は頭の後ろで両手を組んで誰にともなく呟く。
「いやー、人助けって響きはいいけど、やってることはなかなかじゃないですかねー? 君が好きだから放っておけないんだ、って言った方が男らしいと思いますけどー?」
「好きでもない相手に好きだと言う方がどうかしている。それにどう思われようが、俺はあの時、困ってる彼女を放っておけなかった。それだけだ」
仏頂面で答える優吾に、光太郎は手をほどいて身を乗り出した。
「じゃあたとえ相手が誰であっても、同じように部屋に泊めたか?」
「それは……。彼女は数回見かけただけだったが、人柄がいいのは分かったし、本当に困っている様子だったから」
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えっ!と優吾は驚いて目を見開く。
「まさか、そこまで?」
「ああ。今もお昼の番組でやってるかも」
そう言うと光太郎は、スマートフォンを取り出して操作し始めた。
「あ、ほら。これ」
音量を上げると進行役のアナウンサーが「続いてはこちら。今なにかと噂の、若手イケメンピアニストの話題です」とカメラ目線で話している。
VTRに切り替わり、友利 健二がステージでピアノを弾いているシーンが映し出された。
ナレーションが「海外でのコンクール入賞後、凱旋公演も大盛況。熱い期待に応えて全国ツアーを回り始めた友利 健二。ファンの人達の声は?」と映像にかぶせる。
終演後のホールでマイクを向けられて、女の子達が興奮気味に話していた。
「もう貴公子みたいです! 雰囲気にやられました」
「かっこいいし、ピアノは上手いし、うっとり」
「なんか女の人と噂になってますけどー、芸能人でもない普通の人ですよね? 私は信じません! 彼に釣り合わないもん」
「そうそう。彼の恋人はピアノだけです!」
あはは!と女の子達は明るく笑い飛ばしている。
優吾は思わず視線をそらした。
「よりによってこんな時に全国ツアーか。友利 健二はしばらくは公の場に出続ける。噂はなかなか収まらないかもな」
光太郎の言葉に、優吾は拳をギュッと握りしめた。
「優吾、つきちゃんの様子は? こんなテレビやSNSで傷ついてないといいけど」
「うちではテレビはつけていないし、彼女はSNSもやっていない。多分、なにも耳には入ってないはずだ」
「そうか、それならいいけど。ちゃんと守ってやれよ」
「分かってる」
優吾はしっかりと頷いてみせた。
◇
夜になり、帰宅した優吾を美月は玄関で出迎えた。
「お帰りなさい、お疲れ様でした」
「ただいま。なにか変わったことは?」
「いいえ、なにも。昼過ぎにマンションを散策して来ました。図書室がとても素敵で、たくさん本があるので、読みふけってしまいました」
「そうか、それなら良かった」
「すぐに夕食にしますね」
美月がキッチンに戻ると、優吾は着替えを済ませてからダイニングテーブルに着く。
「今夜は夏野菜のスープカレーにしてみました。マンションの1階にある輸入品のスーパーを覗いたら、香辛料の種類が豊富だったので作りたくなってしまって」
「ということは、スパイスから作ったのか?」
「はい。辛さはお好みで変えますので、試食していただけますか?」
そう言って美月は、小皿にルーをよそって差し出した。
「いい香りだな。いただきます」
ひと口食べて、優吾は目を見開く。
「うまい」
「本当に?」
「ああ。インド料理店みたいな本格的な味だ」
「良かったです。ではすぐ用意しますね」
「大盛りで頼む」
「ふふっ、はい。かしこまりました」
野菜たっぷりでスパイスが効いたスープカレーを、優吾はあっという間に食べ終えた。
「美味しかった。うちでこんなに本格的な食事をするなんて、初めてだ」
「そんなに? カレーなんて、典型的な家庭料理なのに」
「俺にはなによりのご馳走だ。ありがとう」
「いいえ。食後のコーヒーを淹れますね」
ソファで肩を並べてコーヒーを飲みながら、美月はやおら優吾に尋ねる。
「雨宮さん、SNSでは今あの噂はどうなってますか? 私、アカウントもないのでよく分からなくて」
「ああ、そうだな……。まだしばらくは用心した方がいい。友利 健二は全国ツアー中で、なにかと注目を浴びているから。君とのことがどうとかではなくてね」
「そうですよね。彼は人気のピアニストで、純粋にそれだけで大きな話題になりますものね」
美月はそう言うと、コーヒーをひと口飲んでから窓の外を見た。
ブラインドやカーテンを必要としない、海に面した高層階。
おぼろげに月明かりが射し込む中、いつの間に雨が振り始めていた。
サーッとかすかな雨音に耳を傾けながら、美月は心が穏やかになるのを感じた。
二人でいても、静かなこの時間が心地良い。
やがて美月は、窓を濡らす雨粒を見つめながら口を開いた。
「今、仕事を離れてみてしみじみ思うんです。私はあの場所で、皆さんに元気をもらってたんだなって」
優吾はじっと、そんな美月の横顔を見つめる。
「毎日たくさんの人が『美月ちゃん、こんにちは』って挨拶してくれて、他愛もない話をして……。それってすごくありがたいことだったのですね。私にとっては職場ですけど、笑顔と優しさにあふれた、明るい世界。改めて私は、あの場所が好きです」
「そうか……」
なんだか気恥ずかしくなり、美月は今度は優吾に話を振った。
「雨宮さんは、どんなお仕事を?」
「ん? そうだな。クライアントに寄り添って経営戦略を打ち出すコンサルティング会社なんだけど、考え方は本社のアメリカのロジックなんだ。実は官公庁絡みの案件も結構ある」
「そうなのですか?」
区の公共施設に勤める美月にとっては、初耳だった。
「ああ。官公庁は立場上、特定企業に肩入れできないだろう? それに国民全員に関わる制度なんかは、失敗したときの責任が重い。うちは外資だから国内の企業とのしがらみもないし、海外の制度を作った時の事例もデータとして多く持っているから」
「そうなのですね。私の職場は、ありがたいことに利用者さんから人気で、逆に予約が取りづらいのが難点だと言われています」
「そうなのか。それだけ必要とされる成功例だな。なにか特別に仕掛けたり、取り組んだりしたの?」
「こちらから意図してではなく、利用者さんのリクエストに応える形で、お祭りや発表会や、季節のイベントを企画しています。地域の情報をお便りにしたり、使わなくなったものの交換会とかも」
「へえ、興味深いな。一度見に行ってもいいか?」
「はい、もちろん!」
パッと笑顔になった美月に目を細めてから、優吾は真剣に口を開く。
「必ず無事に君を戻すから。もう少しの辛抱だ」
「雨宮さん……。ありがとうございます」
美月が思わず涙ぐむと、優吾は美月の頭にポンと手を置いて優しく笑った。
◇
優吾がアメリカとのオンラインミーティングの準備を始めると、美月は淹れ直したコーヒーカップを差し出しながら声をかけた。
「雨宮さん、寝室を使ってください。ミーティングが終わってもそのままそこで」
「え? じゃあ君はどこで寝るの?」
「私はソファを使わせていただきます」
「そんな、気にしなくていい。ベッドを使って」
「ですが雨宮さんはお仕事もされていて、お疲れなのに……」
すると優吾は手を止めて、なにやら考え込んだ。
「それなら、もっと寝心地のいいところに行かないか?」
……はい?と美月は首をひねる。
「久しぶりにのんびりしたい。夏休みを分散して取るように会社から言われてるんだ。明日から2泊、温泉にでも行こうか」
「え、ええ!?」
「おっと、ミーティングが始まる。先にお風呂に入って寝てて。宿は俺が決めてもいいか?」
「は、い? えっ、あの……」
その時パソコンから『Hey! Yugo』と声がして、美月は慌てて飛びすさる。
「Hi!」と返事をして話し始めた優吾は、チラリと美月を見て「おやすみ」とささやいた。
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