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ちゃんと音楽がある
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パタンとドアが閉まると、公平は小さくため息をついてから芽衣を振り返る。
「ごめんね。聖のやつ、口が悪くてさ」
「いえ、私の方こそ申し訳ありません。気分を害するようなことを言ってしまって」
「そんなことないよ。でも、そうだな。よかったら少し話をしてもいい?」
「あ、はい」
芽衣の向かいの椅子に座りながら、公平は佐賀教授の言葉を思い出していた。
(先生は今回の聖との合わせが、彼女が変わるきっかけになればとおっしゃっていた。彼女はちょっと内気な性格で、コンクールの受賞歴もそれほどではないと。それって、つまり……?)
言葉を選びながら、公平はゆっくりと口を開く。
「芽衣ちゃんは、何歳からピアノをやってるの?始めたきっかけは?」
「3歳で始めました。母が自宅でピアノ教室を開いていたので、自然と弾き始めた感じです」
「そうなんだ。途中で辞めたくなったりしなかったの?」
「そうですね、辞めようと思ったことはありません」
「へえ。じゃあピアノが本当に好きなんだね」
そう言うと芽衣は少し首を傾げた。
「好き、なんでしょうか?」
「ん?どういうこと?」
「はい。私はただ、母に出された課題を練習して、それが弾けると嬉しくて。その繰り返しでここまで来た気がします」
「それって、ピアノが好きだからじゃないの?嫌いなら音大に入ってまで続けようとは思わないでしょ?」
うーん……、と芽衣は考え込む。
「そう言われればそうですけど。でも私、周りの友達からも変わってるって言われていて……」
「どういうところが?」
「基礎練習が1番好きなんです。曲を弾くよりも。スケールとか何時間でもやってます」
ええ?!と公平は目を見開く。
「そ、それは確かに変わってるね。俺なんか、スケール弾きながら居眠りしたことあるよ」
「そうなんですか?すごい技ですね」
「いや、褒めるところじゃないから。でも、そっか。だからあんなにも超絶技巧を弾きこなせるんだね。途方もないくらいの基礎の積み重ねの上に、あの凄まじいテクニックが載っかってるんだろうな」
納得したように公平は何度も頷いた。
「いいえ。私なんかより、如月さんの方がはるかにすごいです」
そう言うと芽衣は、急に思い出したかのように目を輝かせる。
「如月さんのあのボーイング、天性のものですよね。弓を返してるのにそれが全く音に表れないんですもの。頭のてっぺんから足のつま先まで、ピンって糸が張ったみたいに芯が通った美しい姿勢で。手首の柔らかさとか、肩の使い方も、弓が弦にピターっと吸いつくみたい。それでいて、左手のフィンガリングもお見事!もう1ミリも狂いがない感じ。人工フラジオレットにビブラートかかってたり、そう!ダウンボウのスタッカートも!余りに鮮やかでびっくりしました」
人が変わったように興奮して話す芽衣に、公平は目をしばたたかせる。
「演奏しながらよく見てるね。それにピアニストなのに、ヴァイオリンのことにも随分詳しいし」
「頼まれて色んな人のヴァイオリンの伴奏をしているうちに、色々気づくようになってしまって……。そんな中で、当たり前なんですけど、如月さんはずば抜けてます。私、如月さんの伴奏をさせていただくのが嬉しくて幸せで」
そう言って芽衣はうっとりと両手を組んだ。
「その言葉、聖に直接言ってあげてよ。きっと喜ぶから」
途端にシュルシュルと芽衣の身体がしぼんでいく。
「そんな、私なんかが如月さんにそんなこと言えません」
「どうして?」
「どうしてって……。お前に何が分かる?って思われるに決まってますから。私なんかが如月さんの演奏について何かを言うなんて、恐れ多くて」
公平は小さくため息をついた。
「それ、これからは禁句ね」
え?と芽衣が顔を上げる。
「それって?」
「私なんかってセリフ」
「でも……」
「でも、も禁止」
「でも、あっ!うっ……」
言葉に詰まる芽衣に、公平は、あはは!と笑う。
「さてと。このあとも少し時間ある?そろそろホールでオケのリハが始まる。よかったら聴いていかない?」
「えっ!そんな、よろしいのでしょうか?部外者の私なんかが、あっ!うう……」
「ははっ!よろしいですとも。ほら、行こう」
公平は立ち上がり、芽衣を促して練習室を出た。
二人でホールに向かいながら、公平が芽衣に公演のチラシを渡す。
「今日のリハはこれなんだ」
「わあ、映画音楽?素敵ですね」
「ああ。休日の午後のコンサートだから、家族連れや若い人達にも聴きやすい選曲にしたんだ」
「どれも有名な曲ですね。私もこの日、聴きに行きます。チケットまだ販売してますか?」
「それがあっという間に完売。君と聖の動画のおかげでね」
ええー?!と芽衣は眉をハの字に下げる。
「残念……」
「あはは!君の演奏が良かったばかりにね」
「いえ、如月さんの演奏のおかげです。完売、おめでとうございます」
「ありがとう。リハ、じっくり聴いていってね」
「はい!」
ホールの重い扉を開けると、ちょうどチューニングをしているところだった。
聖が立ち上がり、オーボエからAアーの音をもらって弦楽器に音程を伝えている。
公平は舞台から少し離れた列の中央に、芽衣と並んで座った。
「じゃあ、曲順でいってみよう」
マエストロが指揮棒を構えると、団員全員が一気に集中するのが分かった。
パーン!と華やかな音で曲が始まる。
(わあ、スターウォーズ!)
金管楽器の突き抜けるような明るい音と、弦楽器のキラキラと輝くような音色に、芽衣のボルテージは一瞬で上がった。
思わず口元に手をやって身を乗り出す。
子どものようにワクワクした様子の芽衣に、公平は思わずクスッと笑みをもらした。
「ミッション・インポッシブル」
「パイレーツ・オブ・カリビアン」
かっこ良さ全開の曲のあとには
「風と共に去りぬ」
「ひまわり」
「シェルブールの雨傘」
「ニューシネマ・パラダイス」
など、しっとりとしたナンバーで聴かせる。
次はどんな曲だろうと芽衣が舞台を見つめる中、聖がおもむろに立ち上がり、マエストロとアイコンタクトを取った。
聴こえてきたオーケストラの前奏に、芽衣はハッと息を呑む。
「シンドラーのリスト」
そのソロを、聖が弾くーー
そう分かった途端、芽衣は思わずギュッと拳を握りしめ、一音も聴き逃すまいと目を凝らした。
ゆっくりと楽器を構えた聖が、スッと弓を弾いた瞬間、芽衣は心臓を鷲掴みされたような気がした。
悲しく、切なく、やるせなく、そして美しい。
聖の音は芽衣の心に様々な感情を呼び起こし、胸を震わせ、迫りくる。
もはや堪え切れなくなった芽衣の目から、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちた。
その涙を拭うこともせず、芽衣はただひたすら聖の音を胸一杯に感じて唇を噛みしめる。
頭の中に言葉は何も出て来ない。
ただ感情がうねるように込み上げてきて全身が震え、胸がはち切れそうになる。
やがて聖の音は、天に登るかのように美しく高く響いて空気に溶け込んだ。
ふっ、と静寂が戻ってくると、芽衣は目を潤ませたまま立ち上がり、大きな拍手を送る。
だが、自分一人だけの拍手の音に、しまった!と我に返り、慌てて手を止めた。
舞台上の団員達の視線を一斉に浴びて、芽衣は勢い良く頭を下げる。
「あの、大変失礼いたしました」
大事なリハーサルの流れを止めてしまったと青ざめていると、聖が頬を緩めて芽衣に微笑むのが分かった。
(え……)
視線がぶつかって戸惑う芽衣に、聖は優雅にお辞儀をする。
そして顔を上げると、穏やかな表情で芽衣に小さく頷いてみせた。
◇
「高瀬さん、貴重なリハーサルを見学させてくださって、本当にありがとうございました」
ホールを出ると、芽衣は改めて公平に礼を言う。
「どういたしまして。楽しんでもらえた?」
「はい、それはもう」
「あはは!楽しんだっていうよりは、号泣してたって感じだけど」
「う……、お恥ずかしい」
芽衣は思わず両手で頬を押さえる。
「時間あるなら、もう少しここにいたら?」
「いえ、大学に戻って練習しますので」
「そう。でも気をつけてね。ものすごく目が腫れてて真っ赤だから」
「あ、はい。なるべく下を向いて歩きます」
小さくなる芽衣に、公平はまたしてもクスッと笑みをこぼした。
「それでは、ここで失礼いたします。高瀬さん、今日もお世話になりありがとうございました。如月さんにもよろしくお伝えください」
「うん、分かった。また動画撮影の日を連絡するね」
「はい、お待ちしています。それでは」
お辞儀をしてから踵を返す芽衣を、公平は思わず呼び止めた。
「あ、芽衣ちゃん」
「はい、なんでしょうか?」
「君、ちゃんと音楽が好きだよ」
思わぬ公平の言葉に、芽衣は「は?」と固まる。
「安心して。君の中にはちゃんと音楽がある。感動する心も、溢れ出る涙も、人一倍ある。君は必ずいいピアニストになるよ」
じゃあね!と手を挙げてホールへと戻る公平を、芽衣はポカンとしたまま見送っていた。
◇
「お疲れ、聖。芽衣ちゃん帰ったよ」
リハーサルが終わり、ザワザワと皆が舞台から引き揚げていく中、公平は聖に声をかけた。
「彼女、お前の演奏にいたく感激してた」
「知ってる。ドン引きするくらい泣いてたのが見えた」
だろうな、と公平は苦笑いする。
「聖、彼女はさ。口ではああ言ってたけど、ちゃんと自分の中に表現したいものも、奏でたい音楽も持ってる。俺はそう思うよ」
「いきなり何だよ」
そう言ってから、聖は視線をそらして考え込んだ。
「じゃあ、あの子はなんであんなことを言ったんだ?好きな作曲家もやりたい曲もない。俺の伴奏ピアニストも、いつでもクビにしてくれ、なんて。音楽家として、食らいついていこうって気概がまるで感じられない。あんな考え方でこの先やっていけるほど、音楽の世界は甘くないはずだろ?」
「そうだけど。自覚はなくてそう言ってるだけだと俺は思う」
聖はふてくされたまま口をつぐむ。
「まあ、ゆっくりやっていこうよ。彼女がお前の伴奏ピアニストとして申し分ないことは確かだろ?」
「……今のところはな」
「そういう言い方するなって。俺はずっとお前の演奏を聴いてきたし、学生時代は伴奏もやってたからよく分かる。彼女の伴奏で弾くお前は、間違いなく生き生きしてる。一人で弾く時より何倍もな」
ポンと聖の肩に手を置くと、公平は歩き出す。
「じゃ、また撮影スケジュール決まったら知らせるよ」
「ああ」
聖はその場に佇んで公平の背中を見送った。
「ごめんね。聖のやつ、口が悪くてさ」
「いえ、私の方こそ申し訳ありません。気分を害するようなことを言ってしまって」
「そんなことないよ。でも、そうだな。よかったら少し話をしてもいい?」
「あ、はい」
芽衣の向かいの椅子に座りながら、公平は佐賀教授の言葉を思い出していた。
(先生は今回の聖との合わせが、彼女が変わるきっかけになればとおっしゃっていた。彼女はちょっと内気な性格で、コンクールの受賞歴もそれほどではないと。それって、つまり……?)
言葉を選びながら、公平はゆっくりと口を開く。
「芽衣ちゃんは、何歳からピアノをやってるの?始めたきっかけは?」
「3歳で始めました。母が自宅でピアノ教室を開いていたので、自然と弾き始めた感じです」
「そうなんだ。途中で辞めたくなったりしなかったの?」
「そうですね、辞めようと思ったことはありません」
「へえ。じゃあピアノが本当に好きなんだね」
そう言うと芽衣は少し首を傾げた。
「好き、なんでしょうか?」
「ん?どういうこと?」
「はい。私はただ、母に出された課題を練習して、それが弾けると嬉しくて。その繰り返しでここまで来た気がします」
「それって、ピアノが好きだからじゃないの?嫌いなら音大に入ってまで続けようとは思わないでしょ?」
うーん……、と芽衣は考え込む。
「そう言われればそうですけど。でも私、周りの友達からも変わってるって言われていて……」
「どういうところが?」
「基礎練習が1番好きなんです。曲を弾くよりも。スケールとか何時間でもやってます」
ええ?!と公平は目を見開く。
「そ、それは確かに変わってるね。俺なんか、スケール弾きながら居眠りしたことあるよ」
「そうなんですか?すごい技ですね」
「いや、褒めるところじゃないから。でも、そっか。だからあんなにも超絶技巧を弾きこなせるんだね。途方もないくらいの基礎の積み重ねの上に、あの凄まじいテクニックが載っかってるんだろうな」
納得したように公平は何度も頷いた。
「いいえ。私なんかより、如月さんの方がはるかにすごいです」
そう言うと芽衣は、急に思い出したかのように目を輝かせる。
「如月さんのあのボーイング、天性のものですよね。弓を返してるのにそれが全く音に表れないんですもの。頭のてっぺんから足のつま先まで、ピンって糸が張ったみたいに芯が通った美しい姿勢で。手首の柔らかさとか、肩の使い方も、弓が弦にピターっと吸いつくみたい。それでいて、左手のフィンガリングもお見事!もう1ミリも狂いがない感じ。人工フラジオレットにビブラートかかってたり、そう!ダウンボウのスタッカートも!余りに鮮やかでびっくりしました」
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「演奏しながらよく見てるね。それにピアニストなのに、ヴァイオリンのことにも随分詳しいし」
「頼まれて色んな人のヴァイオリンの伴奏をしているうちに、色々気づくようになってしまって……。そんな中で、当たり前なんですけど、如月さんはずば抜けてます。私、如月さんの伴奏をさせていただくのが嬉しくて幸せで」
そう言って芽衣はうっとりと両手を組んだ。
「その言葉、聖に直接言ってあげてよ。きっと喜ぶから」
途端にシュルシュルと芽衣の身体がしぼんでいく。
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「どうして?」
「どうしてって……。お前に何が分かる?って思われるに決まってますから。私なんかが如月さんの演奏について何かを言うなんて、恐れ多くて」
公平は小さくため息をついた。
「それ、これからは禁句ね」
え?と芽衣が顔を上げる。
「それって?」
「私なんかってセリフ」
「でも……」
「でも、も禁止」
「でも、あっ!うっ……」
言葉に詰まる芽衣に、公平は、あはは!と笑う。
「さてと。このあとも少し時間ある?そろそろホールでオケのリハが始まる。よかったら聴いていかない?」
「えっ!そんな、よろしいのでしょうか?部外者の私なんかが、あっ!うう……」
「ははっ!よろしいですとも。ほら、行こう」
公平は立ち上がり、芽衣を促して練習室を出た。
二人でホールに向かいながら、公平が芽衣に公演のチラシを渡す。
「今日のリハはこれなんだ」
「わあ、映画音楽?素敵ですね」
「ああ。休日の午後のコンサートだから、家族連れや若い人達にも聴きやすい選曲にしたんだ」
「どれも有名な曲ですね。私もこの日、聴きに行きます。チケットまだ販売してますか?」
「それがあっという間に完売。君と聖の動画のおかげでね」
ええー?!と芽衣は眉をハの字に下げる。
「残念……」
「あはは!君の演奏が良かったばかりにね」
「いえ、如月さんの演奏のおかげです。完売、おめでとうございます」
「ありがとう。リハ、じっくり聴いていってね」
「はい!」
ホールの重い扉を開けると、ちょうどチューニングをしているところだった。
聖が立ち上がり、オーボエからAアーの音をもらって弦楽器に音程を伝えている。
公平は舞台から少し離れた列の中央に、芽衣と並んで座った。
「じゃあ、曲順でいってみよう」
マエストロが指揮棒を構えると、団員全員が一気に集中するのが分かった。
パーン!と華やかな音で曲が始まる。
(わあ、スターウォーズ!)
金管楽器の突き抜けるような明るい音と、弦楽器のキラキラと輝くような音色に、芽衣のボルテージは一瞬で上がった。
思わず口元に手をやって身を乗り出す。
子どものようにワクワクした様子の芽衣に、公平は思わずクスッと笑みをもらした。
「ミッション・インポッシブル」
「パイレーツ・オブ・カリビアン」
かっこ良さ全開の曲のあとには
「風と共に去りぬ」
「ひまわり」
「シェルブールの雨傘」
「ニューシネマ・パラダイス」
など、しっとりとしたナンバーで聴かせる。
次はどんな曲だろうと芽衣が舞台を見つめる中、聖がおもむろに立ち上がり、マエストロとアイコンタクトを取った。
聴こえてきたオーケストラの前奏に、芽衣はハッと息を呑む。
「シンドラーのリスト」
そのソロを、聖が弾くーー
そう分かった途端、芽衣は思わずギュッと拳を握りしめ、一音も聴き逃すまいと目を凝らした。
ゆっくりと楽器を構えた聖が、スッと弓を弾いた瞬間、芽衣は心臓を鷲掴みされたような気がした。
悲しく、切なく、やるせなく、そして美しい。
聖の音は芽衣の心に様々な感情を呼び起こし、胸を震わせ、迫りくる。
もはや堪え切れなくなった芽衣の目から、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちた。
その涙を拭うこともせず、芽衣はただひたすら聖の音を胸一杯に感じて唇を噛みしめる。
頭の中に言葉は何も出て来ない。
ただ感情がうねるように込み上げてきて全身が震え、胸がはち切れそうになる。
やがて聖の音は、天に登るかのように美しく高く響いて空気に溶け込んだ。
ふっ、と静寂が戻ってくると、芽衣は目を潤ませたまま立ち上がり、大きな拍手を送る。
だが、自分一人だけの拍手の音に、しまった!と我に返り、慌てて手を止めた。
舞台上の団員達の視線を一斉に浴びて、芽衣は勢い良く頭を下げる。
「あの、大変失礼いたしました」
大事なリハーサルの流れを止めてしまったと青ざめていると、聖が頬を緩めて芽衣に微笑むのが分かった。
(え……)
視線がぶつかって戸惑う芽衣に、聖は優雅にお辞儀をする。
そして顔を上げると、穏やかな表情で芽衣に小さく頷いてみせた。
◇
「高瀬さん、貴重なリハーサルを見学させてくださって、本当にありがとうございました」
ホールを出ると、芽衣は改めて公平に礼を言う。
「どういたしまして。楽しんでもらえた?」
「はい、それはもう」
「あはは!楽しんだっていうよりは、号泣してたって感じだけど」
「う……、お恥ずかしい」
芽衣は思わず両手で頬を押さえる。
「時間あるなら、もう少しここにいたら?」
「いえ、大学に戻って練習しますので」
「そう。でも気をつけてね。ものすごく目が腫れてて真っ赤だから」
「あ、はい。なるべく下を向いて歩きます」
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「それでは、ここで失礼いたします。高瀬さん、今日もお世話になりありがとうございました。如月さんにもよろしくお伝えください」
「うん、分かった。また動画撮影の日を連絡するね」
「はい、お待ちしています。それでは」
お辞儀をしてから踵を返す芽衣を、公平は思わず呼び止めた。
「あ、芽衣ちゃん」
「はい、なんでしょうか?」
「君、ちゃんと音楽が好きだよ」
思わぬ公平の言葉に、芽衣は「は?」と固まる。
「安心して。君の中にはちゃんと音楽がある。感動する心も、溢れ出る涙も、人一倍ある。君は必ずいいピアニストになるよ」
じゃあね!と手を挙げてホールへと戻る公平を、芽衣はポカンとしたまま見送っていた。
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リハーサルが終わり、ザワザワと皆が舞台から引き揚げていく中、公平は聖に声をかけた。
「彼女、お前の演奏にいたく感激してた」
「知ってる。ドン引きするくらい泣いてたのが見えた」
だろうな、と公平は苦笑いする。
「聖、彼女はさ。口ではああ言ってたけど、ちゃんと自分の中に表現したいものも、奏でたい音楽も持ってる。俺はそう思うよ」
「いきなり何だよ」
そう言ってから、聖は視線をそらして考え込んだ。
「じゃあ、あの子はなんであんなことを言ったんだ?好きな作曲家もやりたい曲もない。俺の伴奏ピアニストも、いつでもクビにしてくれ、なんて。音楽家として、食らいついていこうって気概がまるで感じられない。あんな考え方でこの先やっていけるほど、音楽の世界は甘くないはずだろ?」
「そうだけど。自覚はなくてそう言ってるだけだと俺は思う」
聖はふてくされたまま口をつぐむ。
「まあ、ゆっくりやっていこうよ。彼女がお前の伴奏ピアニストとして申し分ないことは確かだろ?」
「……今のところはな」
「そういう言い方するなって。俺はずっとお前の演奏を聴いてきたし、学生時代は伴奏もやってたからよく分かる。彼女の伴奏で弾くお前は、間違いなく生き生きしてる。一人で弾く時より何倍もな」
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