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第1話:さようなら、私の愛した世界(そして、こんにちは極貧生活)
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「おばあちゃん、おばあちゃん……!」
「曾おばあちゃん、死んじゃいやだよう!」
ああ、うるさいわねえ。少し静かにしておくれよ。今、とっても良い気分なんだからさ。
私は重たい瞼をうっすらと開けた。視界が白く霞んでいるけれど、ベッドの周りを大勢の人間が囲んでいるのが分かる。
私の子供たち。そのまた子供である孫たち。さらにその子供の曾孫たち。 みんな、泣きそうな顔をして私を見下ろしている。まったく、しょうがない子たちだねえ。
「……みんな、そんな顔をするんじゃないよ。私は、十分に生きたんだから」
しわがれた声でそう言うと、長男のアルフレッドが私の手を握りしめた。もう還暦を過ぎて髭も真っ白だっていうのに、子供みたいに顔をくしゃくしゃにして泣いている。
「母さん……! あなたは、この国の聖女だ。もっと生きて、我々を導いてくれなくては……!」
「聖女なんて、大層なもんじゃないさ。ただ、ちょっとばかり癒やしの力が強かっただけの話だよ」
そう、私はこの異世界で「聖女」なんて呼ばれていた。 トラックに跳ねられて、気がついたらこの世界にいて、訳も分からず使えた回復魔法で怪我人を治していたら、いつの間にか国一番の英雄と結婚して、子供を五人も産んで、孫は二十人以上。曾孫に至ってはもう数えるのも面倒くさい。
戦争も病気も乗り越えて、気付けば八十八歳。米寿だよ、米寿。 我ながら、上出来な人生だったじゃないか。
ふわり、と体が軽くなる感覚があった。 ああ、お迎えが来たようだね。
「……みんな、仲良くやるんだよ。遺産喧嘩なんてしたら、化けて出てやるからね」
最後に精一杯の憎まれ口を叩いて、私はゆっくりと目を閉じた。 意識が遠のいていく。 ああ、神様。こんな孤児の小娘に、素晴らしい第二の人生をくれてありがとう。今度こそ、天国でゆっくり休ませておくれ――。
***
……寒い。
なんだろう、この底冷えする感覚は。天国っていうのは、もっとこう、ポカポカして花畑が広がっているような場所じゃないのかい?
それに、なんだかカビ臭い。 最後に嗅いだのは、部屋に飾られた高級なユリの花の香りだったはずなのに。これは、湿った布団と、埃と、安っぽい洗剤が混じったような、懐かしいけれど二度と嗅ぎたくなかった匂いだ。
「……うぅん」
私は思わず唸り声を上げて、身じろぎした。 体が痛い。高級な羽毛布団の柔らかさはない。背中に当たるのは、せんべいのように硬くて薄い敷布団の感触だ。
私は意を決して、目を開けた。
「…………は?」
目の前に広がっていたのは、見覚えがありすぎる天井だった。 雨漏りのシミが地図みたいに広がっている、薄汚れたクリーム色の天井。
体を起こす。ギシッと錆びついたベッドのスプリングが悲鳴を上げた。 見回すまでもない。ここは、私が十四歳まで育った、日本の片田舎にある貧乏孤児院「ひまわり園」の大部屋だ。
「嘘でしょ……」
自分の声が、若い。しわがれていない、鈴を転がしたような少女の声。 慌てて自分の手を見る。 昨日まで見慣れていた、血管が浮き出てシミだらけの、木の枝のような老婆の手じゃない。 小さくて、少し荒れているけれど、瑞々しい張りのある子供の手だ。
まさか。いや、まさか。
私は布団から飛び起きると、部屋の隅にある姿見の前まで走った。冷たい板張りの床が足の裏に突き刺さる。
鏡の中にいたのは、黒髪のボブカットに、栄養が足りていなさそうな細い体をした、十四歳の少女――小金沢(こがねざわ)ヒナの姿だった。
「……戻って、きた?」
記憶が急速に巻き戻る。 八十八年分の異世界での記憶と、それ以前の十四年間の日本の記憶が、頭の中でごちゃ混ぜになる。
そうだ。私は学校帰りに、居眠り運転のトラックに突っ込まれたんだった。 で、死んだと思ったら異世界にいて、そこで一生を終えて……。
「つまり、何かい? あの八十八年の人生は、全部夢だったって言うのかい!?」
鏡の中の美少女が、老婆のような口調で叫ぶ。 冗談じゃないよ! あの苦労も、栄光も、愛しい家族との日々も、全部走馬灯みたいなものだったってこと!?
いや、違う。私の魂には、はっきりと刻まれている。 子供たちを産んだ時の痛みも、夫を看取った時の悲しみも、孫を抱いた時の温かさも。あれが夢だなんて、そんな馬鹿な話があるもんか。
だとしたら、これは一体どういうことなんだ。 異世界で寿命を迎えた魂が、時空を超えて、死ぬ直前の自分の体に戻ってきたとでもいうのか。
「……今、何年だい?」
部屋の壁にかかっている、古ぼけた日めくりカレンダーを見る。 【202X年 10月4日】
私がトラックに跳ねられた日だ。 時間まで戻っている。どうやら、異世界で過ごした八十八年は、こちらの世界では一秒も経過していなかったらしい。
「……ふざけるんじゃないよ、神様!」
私は思わず天を仰いで怒鳴った。 隣のベッドで寝ていた年下の女の子が、寝ぼけ眼で「んぅ……ヒナお姉ちゃん、うるさい……」とむにゃむにゃ言っている。ごめんよ、リコちゃん。
私は頭を抱えてしゃがみ込んだ。 状況は理解した。私は戻ってきたのだ。この、夢も希望もない、どん底の貧乏生活に。
「やだよぉ……もう嫌だよぉ……」
八十八歳(精神年齢)にして、私は泣きそうになった。 また、あの日々が始まるのか。 薄い塩味しかしないスープと、パサパサのコッペパン。継ぎはぎだらけの服。冬は凍えるように寒く、夏は蒸し風呂のようなこの部屋。 学校に行けば「孤児院の子」というレッテルを貼られ、同情と蔑みの視線に晒される。
異世界では、あんなに豊かだったのに。 毎食、肉や魚が並び、冬は暖炉でポカポカ、夏は魔法で冷やした果物を食べていた。 国民からは敬われ、お金に困ったことなんて一度もなかった。
それが、一夜にして(私の体感では)、ド貧乏な孤児に逆戻りだ。 こんな理不尽な話があるかい。これなら、あのまま天国に行かせてくれた方がよっぽど幸せだったよ。
「……お腹空いた」
腹の虫が、現実を突きつけるように盛大に鳴った。 昨日の夕飯は、具がほとんどないカレーシチューだったっけ。育ち盛りの体には、まったく足りていない。
私はよろよろと立ち上がり、自分の棚を探った。 隠しておいた、いつぞやの給食の残りの乾パンが出てきた。湿気ていて硬いが、背に腹は代えられない。 ガリガリとかじりながら、私はこれからの人生について考えた。
(落ち着け、ヒナ。あんたは伊達に八十八年も生きてきたわけじゃないだろう?)
酸いも甘いも噛み分けた、おばあちゃんの知恵を総動員するんだ。 嘆いていても腹は膨れない。現実は変わらない。
私は今、十四歳。人生をやり直すには、十分すぎるほど若い。 前世(?)では、孤児院を出た後も苦労の連続だった。学歴もない、後ろ盾もない小娘が、まともな職に就けるはずもなく、ブラックなバイトを掛け持ちして、体を壊して……。
(同じ轍は踏まないよ。絶対にね)
乾パンを飲み込み、私は強く決意した。 もう二度と、惨めな思いはしない。金がないことの辛さ、悲惨さは、骨の髄まで知っている。 そして、金があれば大抵の不幸は回避できることも、異世界での経験で知っている。
「金だ。金さえあれば……」
私は鏡の中の自分を睨みつけた。 顔だけは良い。これは親に感謝しなきゃならないね。黙っていれば、深窓の令嬢に見えなくもない。 この顔を使って、金持ちの男でも捕まえるか? ……いや、駄目だ。他人に依存する人生は不安定すぎる。それに、私の精神年齢は八十八歳だぞ? 同年代のガキんちょなんて、孫にしか見えない。四十代、五十代のおじさんだって、私からすれば「若造」だ。恋愛感情なんて、期待するだけ無駄だろう。
自力で稼ぐしかない。 でも、どうやって? 中学生ができるバイトなんて限られているし、そもそも校則で禁止されている。
(……ん?)
その時、体の中に、奇妙な感覚があることに気づいた。 腹の底あたりに、熱い塊のようなものが渦巻いている。これは……魔力?
まさか。この世界には魔法なんて存在しないはずだ。 でも、この感覚は、異世界で毎日感じていたものと同じだ。
私は恐る恐る、意識を集中させてみた。 対象は、そうだな。窓辺に置いてある、枯れかけた小さな鉢植えの花。あれは確か、誰かが拾ってきた名もなき雑草だったか。
(――【活性化(アクティベート)】)
心の中で、小さく詠唱する。 すると、私の体から温かい光の粒が溢れ出し、枯れかけた花へと吸い込まれていった。
次の瞬間。 茶色く萎れていた葉が、みるみるうちに鮮やかな緑色を取り戻した。茎は太くなり、しな垂れていた蕾が、パンッと音を立てて弾け、黄色い小さな花を咲かせたのだ。
「……嘘」
私は自分の両手を見つめた。 使えた。魔法が。この、科学万能の現代日本で。
しかも、今の魔法の威力。異世界にいた時よりも、格段に上がっていなかったかい? あの程度の枯れ草なら、少し元気になるくらいが関の山だったはずなのに。まるで時間を巻き戻したかのように、完全に生き返らせてしまった。
(もしかして、精神年齢と一緒に、魔力も引き継いできたのかい?)
魔力と、長年の経験で培った超絶技巧の魔法制御能力が、この十四歳の体に宿っているとしたら……?
私の心臓が、ドクンと大きく跳ねた。 絶望の淵にいた私の脳内に、とんでもない可能性が閃いた。
この世界には、魔法なんてものは存在しない。 医者も匙を投げるような難病、最新科学でも解明できない現象、原因不明の体調不良……そんなものは山ほどある。
もし、私がこっそりと回復魔法や補助魔法を使って、それらを解決してやったら? 例えば、金持ちの政治家の持病を治してやるとか。 トップアスリートの怪我を、一瞬で完治させてやるとか。 疲れ切った企業の社長に、活力がみなぎるバフをかけてやるとか。
「……ふふっ」
笑いがこみ上げてきた。さっきまでの絶望的な気分が、嘘のように晴れていく。
これ、いけるんじゃないか? いや、いける。絶対に稼げる。
私は聖女と呼ばれていたけれど、決して清廉潔白なだけの女じゃなかった。 国の上層部と渡り合い、自分たちの立場を守るために、時には汚い手も使ったし、強かな交渉もしてきた。 金の大切さも、権力の使い方も、私は熟知している。
「神様、前言撤回だよ。あんた、粋なことをしてくれるじゃないか」
私はニヤリと笑った。鏡の中の美少女が、ひどく悪辣な笑みを浮かべている。 これは、最高の「老後の資金稼ぎ」のチャンスだ。
異世界では「聖女」という立場上、あまり派手な金儲けはできなかった。 寄付を募ったり、治療院を経営したりはしていたけれど、基本的には清貧を求められたからね。
でも、ここは違う。現代日本だ。資本主義社会だ。 稼ぐことが正義。金を持っている奴が偉い。
「決めたよ。私はこの世界で、もう一度大往生してやる」
それも、前回以上に豪華で、贅沢で、何の憂いもない最高の老後(スローライフ)を送るために。 この最強の魔法を使って、日本の金を根こそぎ毟り取ってやる。
ただし、バレたらお仕舞いだ。 魔法なんてものが公になれば、国やら怪しい組織やらにモルモットにされるのがオチだろう。 だから、絶対に正体は隠す。 私はあくまで、普通の、ちょっと貧乏で可愛い女子中学生を演じ切る。
その上で、裏でコソコソと、がっぽりと稼ぐのだ。
「……くっくっく。面白くなってきたじゃないか」
お腹の虫が、賛同するようにまたグウと鳴った。 まずは、まともな朝飯を食うところから始めようかね。
私は孤児院のボロいジャージに着替えると、新たな野望を胸に、食堂へと向かった。 足取りは、八十八歳の老婆とは思えないほど、軽く弾んでいた。
「曾おばあちゃん、死んじゃいやだよう!」
ああ、うるさいわねえ。少し静かにしておくれよ。今、とっても良い気分なんだからさ。
私は重たい瞼をうっすらと開けた。視界が白く霞んでいるけれど、ベッドの周りを大勢の人間が囲んでいるのが分かる。
私の子供たち。そのまた子供である孫たち。さらにその子供の曾孫たち。 みんな、泣きそうな顔をして私を見下ろしている。まったく、しょうがない子たちだねえ。
「……みんな、そんな顔をするんじゃないよ。私は、十分に生きたんだから」
しわがれた声でそう言うと、長男のアルフレッドが私の手を握りしめた。もう還暦を過ぎて髭も真っ白だっていうのに、子供みたいに顔をくしゃくしゃにして泣いている。
「母さん……! あなたは、この国の聖女だ。もっと生きて、我々を導いてくれなくては……!」
「聖女なんて、大層なもんじゃないさ。ただ、ちょっとばかり癒やしの力が強かっただけの話だよ」
そう、私はこの異世界で「聖女」なんて呼ばれていた。 トラックに跳ねられて、気がついたらこの世界にいて、訳も分からず使えた回復魔法で怪我人を治していたら、いつの間にか国一番の英雄と結婚して、子供を五人も産んで、孫は二十人以上。曾孫に至ってはもう数えるのも面倒くさい。
戦争も病気も乗り越えて、気付けば八十八歳。米寿だよ、米寿。 我ながら、上出来な人生だったじゃないか。
ふわり、と体が軽くなる感覚があった。 ああ、お迎えが来たようだね。
「……みんな、仲良くやるんだよ。遺産喧嘩なんてしたら、化けて出てやるからね」
最後に精一杯の憎まれ口を叩いて、私はゆっくりと目を閉じた。 意識が遠のいていく。 ああ、神様。こんな孤児の小娘に、素晴らしい第二の人生をくれてありがとう。今度こそ、天国でゆっくり休ませておくれ――。
***
……寒い。
なんだろう、この底冷えする感覚は。天国っていうのは、もっとこう、ポカポカして花畑が広がっているような場所じゃないのかい?
それに、なんだかカビ臭い。 最後に嗅いだのは、部屋に飾られた高級なユリの花の香りだったはずなのに。これは、湿った布団と、埃と、安っぽい洗剤が混じったような、懐かしいけれど二度と嗅ぎたくなかった匂いだ。
「……うぅん」
私は思わず唸り声を上げて、身じろぎした。 体が痛い。高級な羽毛布団の柔らかさはない。背中に当たるのは、せんべいのように硬くて薄い敷布団の感触だ。
私は意を決して、目を開けた。
「…………は?」
目の前に広がっていたのは、見覚えがありすぎる天井だった。 雨漏りのシミが地図みたいに広がっている、薄汚れたクリーム色の天井。
体を起こす。ギシッと錆びついたベッドのスプリングが悲鳴を上げた。 見回すまでもない。ここは、私が十四歳まで育った、日本の片田舎にある貧乏孤児院「ひまわり園」の大部屋だ。
「嘘でしょ……」
自分の声が、若い。しわがれていない、鈴を転がしたような少女の声。 慌てて自分の手を見る。 昨日まで見慣れていた、血管が浮き出てシミだらけの、木の枝のような老婆の手じゃない。 小さくて、少し荒れているけれど、瑞々しい張りのある子供の手だ。
まさか。いや、まさか。
私は布団から飛び起きると、部屋の隅にある姿見の前まで走った。冷たい板張りの床が足の裏に突き刺さる。
鏡の中にいたのは、黒髪のボブカットに、栄養が足りていなさそうな細い体をした、十四歳の少女――小金沢(こがねざわ)ヒナの姿だった。
「……戻って、きた?」
記憶が急速に巻き戻る。 八十八年分の異世界での記憶と、それ以前の十四年間の日本の記憶が、頭の中でごちゃ混ぜになる。
そうだ。私は学校帰りに、居眠り運転のトラックに突っ込まれたんだった。 で、死んだと思ったら異世界にいて、そこで一生を終えて……。
「つまり、何かい? あの八十八年の人生は、全部夢だったって言うのかい!?」
鏡の中の美少女が、老婆のような口調で叫ぶ。 冗談じゃないよ! あの苦労も、栄光も、愛しい家族との日々も、全部走馬灯みたいなものだったってこと!?
いや、違う。私の魂には、はっきりと刻まれている。 子供たちを産んだ時の痛みも、夫を看取った時の悲しみも、孫を抱いた時の温かさも。あれが夢だなんて、そんな馬鹿な話があるもんか。
だとしたら、これは一体どういうことなんだ。 異世界で寿命を迎えた魂が、時空を超えて、死ぬ直前の自分の体に戻ってきたとでもいうのか。
「……今、何年だい?」
部屋の壁にかかっている、古ぼけた日めくりカレンダーを見る。 【202X年 10月4日】
私がトラックに跳ねられた日だ。 時間まで戻っている。どうやら、異世界で過ごした八十八年は、こちらの世界では一秒も経過していなかったらしい。
「……ふざけるんじゃないよ、神様!」
私は思わず天を仰いで怒鳴った。 隣のベッドで寝ていた年下の女の子が、寝ぼけ眼で「んぅ……ヒナお姉ちゃん、うるさい……」とむにゃむにゃ言っている。ごめんよ、リコちゃん。
私は頭を抱えてしゃがみ込んだ。 状況は理解した。私は戻ってきたのだ。この、夢も希望もない、どん底の貧乏生活に。
「やだよぉ……もう嫌だよぉ……」
八十八歳(精神年齢)にして、私は泣きそうになった。 また、あの日々が始まるのか。 薄い塩味しかしないスープと、パサパサのコッペパン。継ぎはぎだらけの服。冬は凍えるように寒く、夏は蒸し風呂のようなこの部屋。 学校に行けば「孤児院の子」というレッテルを貼られ、同情と蔑みの視線に晒される。
異世界では、あんなに豊かだったのに。 毎食、肉や魚が並び、冬は暖炉でポカポカ、夏は魔法で冷やした果物を食べていた。 国民からは敬われ、お金に困ったことなんて一度もなかった。
それが、一夜にして(私の体感では)、ド貧乏な孤児に逆戻りだ。 こんな理不尽な話があるかい。これなら、あのまま天国に行かせてくれた方がよっぽど幸せだったよ。
「……お腹空いた」
腹の虫が、現実を突きつけるように盛大に鳴った。 昨日の夕飯は、具がほとんどないカレーシチューだったっけ。育ち盛りの体には、まったく足りていない。
私はよろよろと立ち上がり、自分の棚を探った。 隠しておいた、いつぞやの給食の残りの乾パンが出てきた。湿気ていて硬いが、背に腹は代えられない。 ガリガリとかじりながら、私はこれからの人生について考えた。
(落ち着け、ヒナ。あんたは伊達に八十八年も生きてきたわけじゃないだろう?)
酸いも甘いも噛み分けた、おばあちゃんの知恵を総動員するんだ。 嘆いていても腹は膨れない。現実は変わらない。
私は今、十四歳。人生をやり直すには、十分すぎるほど若い。 前世(?)では、孤児院を出た後も苦労の連続だった。学歴もない、後ろ盾もない小娘が、まともな職に就けるはずもなく、ブラックなバイトを掛け持ちして、体を壊して……。
(同じ轍は踏まないよ。絶対にね)
乾パンを飲み込み、私は強く決意した。 もう二度と、惨めな思いはしない。金がないことの辛さ、悲惨さは、骨の髄まで知っている。 そして、金があれば大抵の不幸は回避できることも、異世界での経験で知っている。
「金だ。金さえあれば……」
私は鏡の中の自分を睨みつけた。 顔だけは良い。これは親に感謝しなきゃならないね。黙っていれば、深窓の令嬢に見えなくもない。 この顔を使って、金持ちの男でも捕まえるか? ……いや、駄目だ。他人に依存する人生は不安定すぎる。それに、私の精神年齢は八十八歳だぞ? 同年代のガキんちょなんて、孫にしか見えない。四十代、五十代のおじさんだって、私からすれば「若造」だ。恋愛感情なんて、期待するだけ無駄だろう。
自力で稼ぐしかない。 でも、どうやって? 中学生ができるバイトなんて限られているし、そもそも校則で禁止されている。
(……ん?)
その時、体の中に、奇妙な感覚があることに気づいた。 腹の底あたりに、熱い塊のようなものが渦巻いている。これは……魔力?
まさか。この世界には魔法なんて存在しないはずだ。 でも、この感覚は、異世界で毎日感じていたものと同じだ。
私は恐る恐る、意識を集中させてみた。 対象は、そうだな。窓辺に置いてある、枯れかけた小さな鉢植えの花。あれは確か、誰かが拾ってきた名もなき雑草だったか。
(――【活性化(アクティベート)】)
心の中で、小さく詠唱する。 すると、私の体から温かい光の粒が溢れ出し、枯れかけた花へと吸い込まれていった。
次の瞬間。 茶色く萎れていた葉が、みるみるうちに鮮やかな緑色を取り戻した。茎は太くなり、しな垂れていた蕾が、パンッと音を立てて弾け、黄色い小さな花を咲かせたのだ。
「……嘘」
私は自分の両手を見つめた。 使えた。魔法が。この、科学万能の現代日本で。
しかも、今の魔法の威力。異世界にいた時よりも、格段に上がっていなかったかい? あの程度の枯れ草なら、少し元気になるくらいが関の山だったはずなのに。まるで時間を巻き戻したかのように、完全に生き返らせてしまった。
(もしかして、精神年齢と一緒に、魔力も引き継いできたのかい?)
魔力と、長年の経験で培った超絶技巧の魔法制御能力が、この十四歳の体に宿っているとしたら……?
私の心臓が、ドクンと大きく跳ねた。 絶望の淵にいた私の脳内に、とんでもない可能性が閃いた。
この世界には、魔法なんてものは存在しない。 医者も匙を投げるような難病、最新科学でも解明できない現象、原因不明の体調不良……そんなものは山ほどある。
もし、私がこっそりと回復魔法や補助魔法を使って、それらを解決してやったら? 例えば、金持ちの政治家の持病を治してやるとか。 トップアスリートの怪我を、一瞬で完治させてやるとか。 疲れ切った企業の社長に、活力がみなぎるバフをかけてやるとか。
「……ふふっ」
笑いがこみ上げてきた。さっきまでの絶望的な気分が、嘘のように晴れていく。
これ、いけるんじゃないか? いや、いける。絶対に稼げる。
私は聖女と呼ばれていたけれど、決して清廉潔白なだけの女じゃなかった。 国の上層部と渡り合い、自分たちの立場を守るために、時には汚い手も使ったし、強かな交渉もしてきた。 金の大切さも、権力の使い方も、私は熟知している。
「神様、前言撤回だよ。あんた、粋なことをしてくれるじゃないか」
私はニヤリと笑った。鏡の中の美少女が、ひどく悪辣な笑みを浮かべている。 これは、最高の「老後の資金稼ぎ」のチャンスだ。
異世界では「聖女」という立場上、あまり派手な金儲けはできなかった。 寄付を募ったり、治療院を経営したりはしていたけれど、基本的には清貧を求められたからね。
でも、ここは違う。現代日本だ。資本主義社会だ。 稼ぐことが正義。金を持っている奴が偉い。
「決めたよ。私はこの世界で、もう一度大往生してやる」
それも、前回以上に豪華で、贅沢で、何の憂いもない最高の老後(スローライフ)を送るために。 この最強の魔法を使って、日本の金を根こそぎ毟り取ってやる。
ただし、バレたらお仕舞いだ。 魔法なんてものが公になれば、国やら怪しい組織やらにモルモットにされるのがオチだろう。 だから、絶対に正体は隠す。 私はあくまで、普通の、ちょっと貧乏で可愛い女子中学生を演じ切る。
その上で、裏でコソコソと、がっぽりと稼ぐのだ。
「……くっくっく。面白くなってきたじゃないか」
お腹の虫が、賛同するようにまたグウと鳴った。 まずは、まともな朝飯を食うところから始めようかね。
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